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吹き荒め!桃色旋風!

人物表

しゅじんこー 風邪っぴき


アリス・イン・ワンダーランド

魔術要素皆無魔術師 治療中 出番なし


ナオさん

暴力系猫耳少女 仕事に忙殺 出番なし


アイさん

脳内お花畑メイド 寄生主 かろうじて


小次郎

ナメクジ猫 寄生中 仲間が増えました


 ある日、私の身体を異変が襲った。身体が火照り、絶え間なく咳が飛び出し、壊れた蛇口の如く鼻水が溢れる異変である。

 私に襲いかかる脅威に追い打ちを掛けるかのようにアイさんは夜空さんから受け取った七色に輝く精力剤を床にぶちまけ、何かせねばという強迫概念に背中を押されたナオさんはアリスをぶちのめして我が部屋の窓を粉砕する。血みどろになったアリスは救護班に運ばれていった。そして風通しのよくなった部屋の中に興奮した不思議生命体が飯だ遊べだと駆けずり回る。

 まさに天災が襲いかかっているともいえるという状況を、私は荒い息を吐きながら虚ろな目で見つめていた。脳内は誰かがサンバを踊っているが如き頭痛が襲う。

 そんな彼らを追い出し、がちがちと音高く歯を鳴らしつつも同居者の食事を用意しながら私は一つの仮説を立てた。

 桃色旋風説である。

 思えば灰色のあの部屋からこちらへと来てから、私の生活はどこかおかしかった。少々造形はおかしいものの、出会う何もが何かを期待するかの視線で私を見つめ、挙句の果てには「あなたの伴侶になりたいワ」等とのたまうものまで出てきた。大多数がホモサピエンスでは無いという点に目をつむれば、なんというモテモテ具合!

 聞くところによると人生においてモテ期というものは三回来るという。内貴重な二回を乳児期、幼少期と破竹の勢いで消費した私としては、今が最後のモテ期なのかもしれない。

 暗黒の学生時代を過ごした身としては、アバンチュール漂う未来の何と輝かしい事か!即ちこの体調不良は、生まれてこの方味わった事のないモテ期から溢れ出た桃色旋風が、灰色の我が身体を蝕んでいるのである。溢れ出た桃色成分は鼻水や咳となって体外へと放出され、放出しきれない桃色成分はサンバを踊りながら頭痛を引き起こしているのである。

 ならば私は胸を張って受け入れよう!

 いざ!嬉し恥ずかし桃色生活!


「…風邪ですね」


 先ほどまで私を診察していた、眼鏡を掛けた優男が聴診器を外しながらそう告げた。


「風邪…ですか?」

「風邪ですね」

「…桃色旋風では無く?」

「はい?」


 優男が私の発言に首をかしげる傍らで、助手らしき女性が噴き出している。何だアイツは、蛇みたいな顔しやがって。ナメクジ猫投げつけるぞ。

 つまるところ、私の身体を襲った異変は桃色旋風などではなくただの風邪らしい。始まりもしなかった未来地図が音もなく粉砕する事を確認する。実につまらん。風情の欠片もありやしない。

 その後は食事がどうとか、普段の睡眠時間がどうとかのお決まりになった会話が始まる。いくら普段から不健康極まりない生活をしている私とはいえ、お医者さんの前では模範的かつ健康な患者を演じるものである。少々笑顔が引きつった様な気がするが、体調不良という事で納得してくれるだろう。

 それにしてもこの優男、私の周囲に居る連中と同じ様な目をしている。お人形やその主と同じ印象を与えるのは、血の通った人間として如何なものかと。

 淡々と薬は食後に飲めとかの半分くらいは無視する話を聞き流していたら、優男の視線が何かに気づいたように移動した。そろそろ作り笑いが限界に近づいて来ていたので、実にありがたい。

 蛇女の視線を横目で受け流しながら優男の視線を追うと、ベッド脇の棚に置いてあった箱と目が合った。透き通った表面は何の素材で出来ているのか全く持って謎である。


「これがどうかしましたか?」

「あ、いえ…余りにも綺麗だったものでして」


 熱心に見つめている様なので見やすいように手元に持ってくると、優男は照れたように頭を掻いた。実に演技めいた動きで、人間味が薄くなる。もしや、妖怪ではあるまいな。隣にいる助手は蛇みたいだし。

 ぼけーっとありえない思考を漂わせていたら、「手に取ってみても?」と聞いて来たので、無言で渡す。優男は興味深そうにくるくると箱を回転させながら眺めている。何が楽しいのか、口元には笑みが浮かんでおり、おもちゃを手に入れた幼稚園児みたいだ。


「中身は何が?」

「開けたことが無いので私にもわからないんです」

「開けてみても?」

「どうぞどうぞ」


 微妙に片言になりつつある優男へ適当に対応しながら、窓を眺める。視界の外では試行錯誤している気配がするが、箱が開くことはなさそうだ。私としては、中身への興味なんて欠片もないので大変どうでもよろしい。そもそも、箱が透明で向こう側が見えるのだから中身は空であると思うのが普通であろう。

 早く帰ってくれないかな、この人。

 ガラスの代わりに貼られた板の向こうでは、どんな景色が広がっているのだろう。



□ □ □ □



 私が病状に伏している事を好機と見たのか、マイルームには様々な物が送り付けられた。各種お菓子類に謎の薬品、本におもちゃはまだいいとして、果物ナイフにワインと人形、涎でべとべとになった俺の股間にチャッカマンやらヒトデ等の海産物となるともはや意味が解らぬ。その多種多様な不審物は天を目指すが如く積み上げられ、いずれはベッドもろとも私を飲みこむことであろう。

 しかし如何なる状況でも同居人はわふわふぬーんと自重せず、食事だ散歩だと騒ぎ、いざ反応がないと見るや私を山に見立てた登山活動を開始する。気力を振り絞って虚ろな目で対応していたら、ついには彼の者たちが化け物に見える始末である。

 そして止めを刺すが如く、ベッドからは血の香りが漂い始めた。恐らくアリスの流血事件にて飛び散った血液がヘッドに染み込み、私が横になると漂い始めるのだろう。

 もちろんその様な状況で私の病が快方へ向かうべくもなく、ただの風邪だというのにそこらの病人以上に死にそうな風貌となった。

 鉄の香りがするベッドに横になっていると何時のとも知れない記憶が甦る時がある。

 私は風邪など引いた事が無いと豪語する程の健康体であるが、実は小さき頃に一度だけ酷い風邪を引いた事がある。大人たちがバタバタと部屋を出たり入ったりし、意識はぷかぷかと波にもてあそばれるが如く夢と現実を行き来していた。

 そんな中でふと目を覚ますと、誰もいないはずの部屋に女性らしき存在が立っているではないか。当時は「ついに死神のお迎えか?」と子供ながら警戒していたが、今になって考えるに紅白の死神とは余りにもお目出度すぎる。そんな格好で死を司っているのは神様も少々冗談が過ぎるだろう。大方の予想の通り、そいつは死神でもなんでもなく魔法使いだと言ってくすりと笑った。思えばあの時が私の人生においての分岐点で有ったのだろう。物心つかない子供に人生の分岐を迫るとは性質が悪い。

 一人暗い部屋で、無邪気にも遊ぶことを強請っていた懐かしき思い出。何時になく苦笑しながらも了承してくれたっけか。

 あの頃は良かった等とセンチな気分に浸りながら、記憶の糸を手繰りよせつつ当時の遊びに必要だった物を探る。

 確か…本が一冊とたくさんの素敵なもの。

 ごそごそと積み上げられた不審物を漁っていると、本はすぐに見つかった。視界がぼやけてタイトルがよく読めないが、不思議の国がどうのこうのと書いてある。これから私が作るのも不思議な世界なのだから、フシギ同士で相乗効果が望めるかもしれない。

 素敵なものは瓶に詰まった金平糖に飴玉、チョコレートなんかの駄菓子、そして真ん丸カステラを使用することにした。甘きものは良い物ぞ。

 それら雑多なものをベッドにぶちまけると、本を片手にベッドに腰掛ける。今この場は薄暗い部屋の中ではなく、そよ風が吹き星空が降り注ぐ草原である。ふんわり香るのはまるでお菓子の様。

 両手を広げると心なしか風が吹いているかのような感覚がしてくる。耳を澄ませばちりりんと風鈴の澄んだ音も聞こえてくる。私の奇行を疑問に思ったのか、ナメクジ猫がぬーんと鳴き、犬蜘蛛がわふぅ?と惚けた声を出した。

 あまり奇行をしていても体調が悪化するだけなので、苦笑をしながら片手の本を開くと、ページが勝手にめくられていく。一枚ずつめくられていたページはやがて誰かが速読をするかの如き速度でめくられていき、ピタッと止まった。

 開かれた箇所は薄暗くて読めないが、指でなぞると記号の様な文字が明るく光り始める。光りを放つ文字はやがて宙へと舞い、ベッドの上のお菓子へ吸い込まれる。宙に浮いていた文字を吸収したお菓子は文字の代わりを果たすかのように真っ暗な天井に漂い始める。

 お菓子だった物はまるで星空の如く淡く輝いている。実際の星空と違うのは、星は駄菓子、月は真ん丸カステラであり、代用品だらけの甘い星空という事か。

 足元で何かが蠢いていたので視線を降ろすと、ナメクジ猫と犬蜘蛛が私を私を見つめていた。安心させるべく頭を撫でると短く鳴く。

 星を一つ指差してから犬蜘蛛の方へと向けると、砂糖菓子はまるで流れ星の如く犬蜘蛛の前へと落ちた。最初は警戒する様に嗅いで居たが、害は無いと判断した様でガリガリと星屑を口にする。

 ナメクジ猫も私の膝の上に登ってぬーんと鳴くので、適当に見繕ったイチゴ味を食べさせる。

 舐めるのではなくガリガリと齧る音がするのに苦笑していると、近くでくすくすと笑っていた死神モドキがお月様を手にして食べ始めた。星空のメインとも言えるお月様を口にするとはなんと羨ましい事か。一瞬だけ新月となった星空であったが、すぐさま代わりの月が代用品となって輝き始める。偽物だらけの世界では、何が欠けても異常が発生してしまうからだ。

 私も何か口にしようと、漂っている駄菓子の中から一つ選ぶと口に入れた。高級品なのか、良い物なのか、違いなんぞ全く判らないが、茶色くて甘いそれは口の中で溶けて無くなる。

 自由奔放に星屑たちを手にしては口へ運び、口へ運ばれれば他の星屑が代わりに輝き始める。

 やがて食べ疲れたのでぼけーっと星空を眺めていたら、私の部屋のドアが激しく叩かれた。突然の襲来に光り輝いていた星達は床へと墜落し、甘い香りと掃除の手間を周囲にまき散らす。

 まるでドラムか何かと間違っているのでは無いかと心配になるほど叩かれているマイルームのドアは、過酷な環境に悲鳴を上げるかのようにギシギシと鳴り響く。いったい誰なのか脳細胞が高速で回転を始めようとするが、早々に熱暴走を巻き起こした。

 ふらふらとおぼつかない足取りでドアを開くと、招き猫の様な格好で固まっている女性と目があった。狐のお面の乗った銀色の髪に藍色の金魚がちりばめられた和服、そして屋内だというのに赤いコートを羽織っている。上げていないもう片方の手には麦で出来た大人のジュースが掴まれている。これらの特徴から判断するに、夜空さんだろう。顔を紅潮させているのは私に会えて嬉しい等と言った理由ではなく、エチルアルコールの作用だと思われる。意識すれば特有の香りも漂ってくる辺り、既に出来上がった後の様だ。


「あ、起こした?」 


 虚ろな目でじろじろと見られて何を思ったのか、夜空さんはおずおずと切り出した。今起きたばかりとの旨を伝えると、いくらか表情が和らぐ。


「何かありましたか?」

「別に何もないけど…」


 夜空さんはどうにも煮え切らない様子でぷつぷつ呟くとビールを口に運ぶ。何もない人はお酒に溺れながら他人の部屋を襲撃しないという世界の真理が解ってないご様子。


「まぁ、とりあえず入りましょうか」


 一先ず部屋の真ん前で飲んだくれと立ち話をするのは大変危険なので、お部屋に招き入れる事にしよう。私が早々にベッドへと向かい始めると、足元でパキパキと何かを踏み砕く様な音がする。

 夜空さんは勝手知ったる他人の部屋とばかりに電気を付けた。今まで電気が付いていなかったことに驚く。

 かくして、我が部屋の惨状が明白となった。カステラ、クッキーなどの焼き菓子は床でバラバラとなり、金平糖は踏み砕かれて砂糖に、チョコレートに至っては溶け始めている。既に三秒ルールが適用されない事は誰が見ても明らかであった。それら落下した駄菓子だった物たちを、ナメクジ猫と犬蜘蛛がまるで掃除機の様に口へと放り込んでいる。お腹を壊しやしないかと心配になるが、止めても聞くまい。


「お菓子の家でも崩壊したの?」

「ええまぁ…似たようなものです」


 ふわふわとした様子の問いかけに何とか答える。思わず頭を抱えたくなったが、それより先に頭がふらふらとして実に危ない。早急にいつ倒れても問題ない状態へと持っていく必要があるだろう。

 意識を手放そうと暗躍を始める頭で何とかふかふかのベッドへと辿り着くと、夜空さんは口元に手を当ててじっと床を眺めているご様子。その姿を眺めながら遠ざかり掛けた意識に手を掛けていると、ふいにしゃがみ込んで床に落ちている飴玉を拾い上げた。赤色の玉は包装されている様で口にする分には問題ないだろう。缶ビールを床へと置くと、彼女は何かに急かされるかのように包装を破く。アルコールの摂取しすぎで脳が糖分を欲しているのかもしれない。その様な事態があるのかは知らないが。

 「あっ…」という小さい声が聞こえた。どうやら上手く飴玉を取り出せなかった様で、夜空さんから零れた飴が私の方へコロコロと転がってくる。そうかそうか、私に食べられたいのか、愛いやつめ。

 ベッドに座ったまま腕だけ伸ばして飴玉をつまむと、ぞくりと背筋を悪寒が走った。顔が上げられない。顔をあげた瞬間、私の前に居た者が何か別の存在になっている予感がする。無意識に手が武器を求めてベッドの上を探し始めるが、何も見つからなくて小さく舌打ちする。くすりとアイツが笑う声がした。


「…はぁ」


 誰かのため息が一つ聞こえると、悪寒が収まった。恐る恐る顔を上げると、夜空さんが綺麗な笑顔で片手を差し出している。私は今までこれほど綺麗に作られた笑顔を見たことが無い。


「ごめんなさい、拾ってくれたのよね」

「あー…そうですね」


 一応了承したものの、一度床に落ちた食物を人に渡すのは如何なものだろうか。こう、衛生的にばっちくないだろうか。私が思考していると、夜空さんの頭がゆっくりと傾く。

 こ、怖い…。何処で地雷を踏みぬいたのか全く分からないが、大層お怒りの様子。何とかして怒りを鎮めてもらわないと駄菓子の二の舞となる可能性すらある。この後何かあったとして、その動機が飴玉を差し出さなかった等という子供でも無さそうな理由では誰も浮かばれない。それは余りにも理不尽すぎる。

 熱暴走を訴える脳を全力で稼働させて居たら、堪えがたい頭痛が襲いかかって来て思わず頭を抱える。その際に足元に未開封の飴玉がある事を視界の端で捉えた。私の脳内に電流走る。名付けて飴玉UFOキャッチャー作戦!頭痛も走った。

 ちらっと夜空さんの様子を伺ったが、笑顔のままで首を傾けたまま微動だにしていない。マネキンか何かと言われても納得できるほどの出来だが、見るものに狂気と恐怖を与えるのでは誰も購入意欲が湧かないのではなかろうか。誰か助けて!

 倒れ込む振りをして飴玉を拾い上げ、素早く包装紙を破く。そのまま身体を起こしながら中身を夜空さんの手へと載せた。UFOキャッチャー作戦は無事完了である。高速で頭を上下した結果、私の意識が臨界点を軽く突破し、ベッドへと倒れ込んだ。


「ん…?」


 ガンガンとタップダンスの如く頭痛が響く中、夜空さんが手元を不思議そうに見ているのに気付く。どういうことだ、きちんと飴玉は渡したはず。忘れてもらっては困る。

 少しの間思いに耽っていたようだが、思い出し笑いをするかのごとく笑みをこぼすと飴玉を口へと含んだ。やっと安心して目を閉じる。


「ところで知ってる?ファーストキスってレモン味らしいよ」


 真っ暗な視界で頭痛が落ち着くのを待っていると、夜空さんが年頃の乙女の如き不思議な事をのたまった。何か彼女の感性の琴線に振れるような事態でも起きたのだろうか。ちらっと表情を眺めてみても、嬉しそうにコロコロと飴を転がすように頬を膨らませたり凹ませたりしているだけで何もわからない。

 そういえば何やら掌がべとべととする。ちらっと手元を覗き見ると、赤い飴を握りしめていた。何となく口に含むが、当然レモンなどではなくイチゴの味がする。

 コロコロと無言で飴をなめていると、少しだけ頭痛が収まったような気がした。



□ □ □ □



 体調もよくなってきたので身体を起こすと、夜空さんはビール片手に見舞い品を漁り始めた。やがてヨーグルトを模した駄菓子を見つけた様で嬉々として私の寝ているベッドに座る。


「何しに来たんですか?」

「んんー?」


 病人の部屋でくつろぐ姿に対して我慢で出来ずに声を掛けると、当の本人は木べらを咥えたまま首をかしげた。そのまま何を思ったのか私に同じ駄菓子を手渡してくる。私は貰えるものは困るもの以外なら何でも貰う信念なので、ありがたく貰うと木べらを突っ込んでじゃりじゃりと舐めとる。懐かしい味である。


「もしかしてですが、駄菓子を食べにわざわざ来たのでしょうか?」

「来ちゃダメなの?」

「お帰りはあちらです」

「私だって自分の担当してる患者が寝込んでいたら見舞いにくらい来るさ!」

「お見舞いありがとうございます。お帰りはあちらです」

「冷たすぎる!」

「そもそも夜空さん医者じゃないですよね?」

「…ソンナコトナイヨ?」


 夜空さんは私から視線を逸らしたが、帰ってくれる気配を見せない。こちとら今すぐにでも眠りたいのに居座る気満々である。もしかして私を虐めて楽しんでいるんだろうか。

 眠りたいならさっさと眠ればいいと私の中の悪魔が囁くが、いくら押しかけて来たとはいえ私を訪ねてきた客を無視して眠るような事は出来ない。ココは迅速かつ確実に夜空さんの欲求を解消し、嗜好の夢の国へと旅立つしかあるまい。仕方ないさと自分に言い聞かせてから思索を始める。部屋に来た時の様子、最近訪れた誰かさん、パズルを埋める様に夜空さんがここまで来た経緯を考える。足りない部分は想像で補うしかあるまい。むしろ足りない部分しかない。

 フル稼働させている脳細胞は熱を発し、脳内でタップダンスをしているが如き頭痛が私を襲う。お花畑が見えてきて面識のない爺婆が手を振り始めそうだ。


「喧嘩でもしましたか?」

「うぇ?」


 軽く探りを入れてみるとピクっと反応した。どうやら的を射てしまったようで、早々にお引き取りしていただきたい身としては気分が沈んでいく。まるで局所的台風が通過した後の如く駄菓子が散らばっている部屋で沈んだ顔をする二人。生産性が欠片もないといえる。


「何があったかは知りませんが、お酒に溺れるほど悩んでいるなら話してみませんか?」


 夜空さんの心のドアをノックしていたら寒気を感じたので、ベッドによじ登ってきたナメクジ猫を捕獲して布団の中に押し込む。簡易的な湯たんぽである。


「浅学ながら助言が出来るかもしれませんし、話せば楽になる事もあるようですよ」


 「私にはわかりませんが」と一言付け加えていると、ナメクジ猫が不満そうに鳴くので頭を撫でた。その間にも夜空さんはグヌヌと悩んでいる。


「まぁ、あなたならいいかな。あのね…」


 心のノックが功を成したのかは不明だが、夜空さんが口を開いた。

 当然だが、私は夜空さんの相談事を聞く気なんて赤ちゃん指の爪先よりない。そもそも他人に聞かせるような相談事なんぞ、海よりも浅く空よりも低いに決まっている。死んだ魚の様な目を堪えながら「うんうん」と共感して時間を潰したところで、双方にとって得るものが無い。そもそもこういったも悩みはただ一つ、本質を見ないでいるから起こり得ているのだ。出来うる限り迂遠な方法で解決しようなどと思ってはいけない、伝聞では逃げると危険が倍になるそうだ。

 私だって鬼でも悪魔でもない。いくら経験が無いとはいえ、他人の甘酸っぱい初恋の味がしそうな相談事に耳を傾ける程度の寛容さは持ち合わせている。だがそれは体調が万全な状態の話であり、ただの風邪なのに死人と病人の境目を行ったり来たりしている時ではない。夜空さんが相談事と称して犬も食わない様な惚気話を繰り広げている間にも、私の脳内ではアツアツの薬缶を手にした愚か者がタップダンスを踊っているのである。アツアツの関係に嫉妬の炎が舞い上がり、私の頭を灼熱地獄が襲う。このままでは全世界が炎に包まれるであろう。未来を担う若者として、私は世界を救わなくてはならない。申し訳ないとは思うがわかってくれ、アホの子よ。


「ねぇ、ダイジョブ?」

「はい、聞いてましたよ。夜空さんがアホの子と些細なことにより喧嘩をし、双方引くに引けなくなり酒に溺れて私の部屋に来たっていう話ですよね?」

「ちょっとまって!君が何言ってるのかお姉さんわからない!アホの子って誰!?」

「…はて?」


 的確に夜空さんの相談事を説明したというのに、何か間違ったのだろうか。もしかすると少しばかりフライングしすぎたのかもしれない。

 話しかけるのは相談事が終わってからにしてもらいたいものだ。


「すみません、少しぼーっとしていました。何処まで話しましたか?」

「何処までも何も…私まだ『あのね…』しか言ってないのだけど」

「なるほど、ではかくかくしかじかという事で話を進めましょう」

「それって相談事じゃないよね?何も解決しないよね?」

「正直相談の内容なんてどうでもいいですし、聞いてほしいなら穴にでも話し掛ければいいじゃないですか」

「も、もっと建前とか立てて話して欲しいな」

「どうせアホの子に『グヘヘ…今日のお嬢ちゃんのパンツは何色カナ?』とか変態みたいなこと聞いたのでしょう。軽蔑します」

「ちょっと待って!君、熱は大丈夫なの?」



 夜空さんが慌てた様子で聞いてきた。なんと失礼な問いかけだろうか。まるで私が熱でおかしくなったとでも言いたいのだろうか。もうぷんぷんである。

 私は至って正常だ。少しばかり脳内でタップダンスとだるまストーブが全力稼働しているが、それくらいでおかしくなるほど貧弱ではない。

 私がぷんぷんと頬を膨らませたり萎ませたりしていると、夜空さんの手がスッと額に当てられた。ひんやりとした手が火照った皮膚に心地よく、目を閉じる。心なしか、ジュウーと肉の焼ける音と美味しそうな香りもしてくる。


「あっちぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!何コレ!なんであなた平気なの!?」


 しばしの間ひんやりとした手に溺れていたが、意味不明な言葉と共にひんやりは遠のいてしまった。仕方ないので布団からナメクジ猫を引きずり出すと、額にぺたりと貼り付ける。もふもふとした毛皮とは違い、腹部は熱さまシートの如きぺたぺたした身体で実に心地よい。しかし頭上から「ぬぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!」という不快な声が聞こえてくるのが少し残念だ。ナメクジ猫は熱さまシートが嫌いなのかもしれない。

 私がひんやかぺたぺたした生命の神秘に触れ、恍惚と不安とを絶え間なく行き来していると、夜空さんがナメクジ猫を奪い去った。彼女はナメクジ猫をギュッと胸に抱いている。まるで何かから守るかのようである。


「後で氷持ってきてあげるから止めなさい!」


 何故か怒られた。カルシウムが足りないのかもしれない。不承不承ながらも熱さまシートは諦める事としよう。


「そういえば、機嫌の悪い時には菓子折りを献上すると効果があるそうです。アリスが仕事から逃亡した際、不動明王となったナオさんに甘ーい菓子類を献上すると顕著な効果が見られます。夜空さんもこんなところでグダグダと腐ったモヤシのようにしていないで、菓子類でも掲げてアホの子に謝ったらいいと思います」

「え…いきなり何の話なの?」

「何って…喧嘩をしたからどうしたらいいかを聞きに来られたのでその話です。目的を忘れましたか?幸いにもココには大量に駄菓子があるのでそれを持っていくといいかと」

「…あなたって切り替えが早いって言われない?」

「気のせいですよ。何が原因で喧嘩したのかは知りませんが、さっさと謝って仲直りしてください。いい加減だるいので早く出てってください」

「…漏れてる!本音が漏れてる!」


 体調も限界が近づいてきたので一息でまくしたてると、夜空さんはごそごそと貢物品から菓子類を見繕い始める。むつかしい顔をしてあーでもないこうでもないと探しているが、これ以上首を突っ込むのは野暮というものだろう。


「もし自信が無いなら武蔵を連れてってください。場を和ませる程度には働くと思うので」

「ムサシ?」

「そこの多脚な犬です」


 身体を起こして犬蜘蛛を抱え上げると、「わふぅ?」と惚けた声を出した。「君が二人の仲を取り繕うんだよ」という思いを込めて夜空さんに渡す。交換でナメクジ猫が私の手元に返ってきたが、額に貼るよりも早くパジャマの中へと潜り込んでしまった。仕方ないので再び枕に頭を落とすと目を閉じる。タップダンスが除夜の鐘に変化した様だ。


「色々ありがとう…後で誰か看病に寄越すわ」


 何か言っている夜空さんに対して返事をする元気もなかったので、ひらひらと手だけで返事をする。やがて電気が消された事が瞼越しに確認できる。

 頭痛のせいで眠れる気がしないが、起きているよりはマシだろう。



□ □ □ □



 きゅるきゅるーと私のお腹が鳴いた。だるい身体を動かして栄養補給に出かけるか、ベッドの中で空腹による意識の消失という二択を天秤に掛けた結果である。私のお腹が鳴るたび、服の中へ潜りこんでいるナメクジ猫が「ぬーん」と鳴く。余りに鳴くのでだるまの如く丸くなってやるともぞもぞと蠢く。ふふふ、逃げれまい。

 私がものぐさであるからといって、だるまさんのポーズを取りながら緩やかな永眠への選択を取っているわけではない。いくらなんでもそこまで人生に悲観してはいない。ならば何故ベッドにてナメクジ猫を相手に空腹を紛らわしているか?答えは簡単だ。夜空さんが誰か看病に寄越すと言ったからである。私は全くそのような必要はないのだが、せっかく看病してくれるというのであれば厚意を無碍にしないのが大人というものであろう。

 いったいどのような人が来るのだろうか。この際贅沢は言わないが、出来る事なら看病してくれる人は私に斐甲斐しく世話してくれて、何だかふはふはとした頭が素敵なものでいっぱいな子がいい。抱き枕になってくれるサイズであるとなお良しだ。決してマッチョな変態であったり、脳内にピンクの妖精さんが住んでいるのではないかと邪推するほど色欲に囚われていたり、焦りの余りに他人を殴り飛ばすような輩ではない事を祈る。

 空腹と期待を膨らませながら今か今かとまだ見ぬ看護人を待ち望んでいたら、トントンと控えめなノックの音が聞こえた。ドンドンではない。トントンである。私の体調を労わるかのような控えめなノック音に感動すら覚える。

 拘束していたナメクジ猫を解放すると、擦れた声で出る旨を伝えながらドアを開けた。


「おはようございます、旦那様。お加減は如何でしょうか?」


 そっとドアを閉めて天井を睨んだ。この世に神はいない。

 そもそも少し考えれば判る事であった。そしてアリスは頭部の裂傷により治療中、ナオさんはいつもの如く仕事に忙殺されている。他に私の看病を申し出るほど仲の良いお方が居るとは思えない。そしてアイさんは夜空さんの身内である。少し考えたら頭痛が酷くなった。

 何も見なかったことにしてベッドにて丸くなろう。猫は炬燵で丸くなるが、私はベッドの中で丸くなるのだ。


「旦那様?旦那様?」


 私の奇行をどう捉えたのか、アイさんの控えめなノックと呼びかけが続く。ココで強行突入という選択肢を取らない所が彼女の愛すべき点である。そして私が付け込む点でもある。私が自主的に空けない限り我が平穏は保たれるであろう。


「旦那様、お食事をお持ちしましたが如何なさいますか?」

「よく来てくれましたね」


 心からの笑顔でドアを開けると、アイさんは不満顔である。先ほどは気にもしなかったが、近くには配膳用のワゴンが置いてあり、ワゴン内には銀トレーやら土鍋やらが見える。念願の食糧が入っているに違いない。

 不満そうなアイさんをどうぞどうぞと招き入れると、涎やら駄菓子やらがまき散らされている床の惨状に少し硬直した。私に片づける元気はないのでやってくれると大変嬉しい。しかしアイさんは何も見なかったかのようにニッコリと微笑むと深々とお辞儀をした。


「改めまして、旦那様のお世話をさせて頂きますアイです。不束者ですが、今後ともよろしくお願いします」

「これはこれはご丁寧に」


 互いにぺこりとお辞儀をする。よくわからないが礼儀は大切というものなのだろうか。そして床の片づけをしてくれないだろうか。

 私が色々な事を申し出るよりも早く、アイさんはてきぱきと食事の用意を始める。移動できるテーブルを組み立ててくれた所から予想するに、私の立ち位置はベッドの様だ。もそもそとベッドへと移動している間に、土鍋やお漬物、デザートらしきリンゴなどが準備されていった。

 食事の準備もでき、待望の土鍋の蓋を開けるともわもわと白い湯気と美味しそうな匂いが部屋に広がる。中身は雑炊の様だ。ベッドにしみこんだ血の香りとまき散らされた駄菓子の甘い香り、そして雑炊から発せられる美味しそうな香りが混ざり合い、私の食欲が紐無しバンジーを開始する。


「美味しそうですね。アイさんが作ってくれたんですか?」

「…え?は、はい!もちろんアイが丹精込めて作らせていただきました」

「なるほどー」


 私と視線を合わせないようにしながらそそくさと雑炊の上に三つ葉を散らせるアイさん。おそらく食堂のババ…お姉さんが作ってくれたのだろう。

 不慣れな手つきで三つ葉の飾りつけを終えると、アイさんは小さい椅子を取り出して向かい合わせに座り、レンゲを手にした。手渡してくれるのかと思ったらそのまま雑炊を掬う。味見か毒見でもするのだろうか。


「それでは失礼しまして、あーん」

「あーん」


 素直に口を開けるとレンゲが放り込まれる。もはや手慣れたものだ。それにしても皆さん私に餌付けしたがるのは何故なのだろうか。もしや何か儀式的な意味合いが?

 もぐもぐと雑炊を咀嚼しながらあーんに対する関係性を考えるが、頭が痛くなるだけで何も浮かばない。かといって二口目を口にしようにも、レンゲを手にしているアイさんは何かむつかしい顔で天井を睨んでいるのでそうもいかない。やはりこのバカップルがしそうな恥ずかしい行為に何らかの意味があるのだろうか。私たちはバカップルどころかカップルですらないので、単に羞恥心に耐えているだけなのかもしれない。


「アイさん?」

「…っは!し、失礼しました!で、ではまた…あーん」

「あーん」


 雑炊が最後の一口となった時、私のお腹が不穏に蠢きだした。私のお腹は蠢かないので、正確には私のお腹の辺りに潜んでいた生物だ。雑炊の香りに食欲が刺激されたのだろう。


「さ、最後の一口ですよ旦那様。あ、あーん…」

「ぬーーん」


 ナメクジ猫が鳴くと、私に餌付けをしようとしていたアイさんが高速で後ろに跳んだ。そのまま蜘蛛の如く部屋の角に張り付くとずりずりと天井付近へ登っていく。人型がしていい動きではない。

 しかし私の目は捉えていた。アイさんの持っていたレンゲが宙を舞っているという事実を。このままではレンゲは地に落ち、中の雑炊は涎と駄菓子でべとべとの床て無残な姿を晒す事になるだろう。そんな事させるものか!私はタイミングを見計らうと、レンゲを受け取るべく身体を乗り出すと手を強く伸ばした。

 数秒後、べちゃっという敗北を告げる事が部屋に響く。


「守れなかった…」

「い、いいいまの何ですか!?」

「どうしました?」


 届かなかった手を見つめながらアイさんに問いかける。雑炊やレンゲが如何なる姿になったかを確認する勇気は私には無い。


「い、今!規格外生物の鳴き声が!」

「規格外生物…?」


 はて、そんなのがこの部屋にいただろうか。天井角にへばりついている人の形をした存在なら確認できるが、まさか己自身の事を規格外生物と呼ぶことはしないだろう。私は極めて常識的な一般人なので論外だ。では何のことだろうか

 あのまま角に住み着かれても困るので「むむむ…」と知恵を捻っていると、もそもそとナメクジ猫がパジャマの襟から顔を出した。こやつが襟から顔を出すせいで私のパジャマの首回りはビロンビロンに伸びている。


「ひっ!」

「おやぁ?」


 ナメクジ猫が顔を出すと、アイさんが小さく悲鳴をあげた。ナメクジ猫はきょろきょろと部屋の中を見渡していたが、角にへばりついたアイさんを見つけると嬉しそうに鳴く。どうやらすっかり懐いた様だ。


「それ!それ!」

「安心してください、大人しい子なので別に噛んだりはしませんよ」

「か、噛まないですけど!そ、そういう問題では!」

「なるほど…」


 どうやらアイさんとコイツには何か確執があるらしい。以前寄生されたところまでしか見ていないが、あの後に何かあったのかもしれない。ともかくあの場所に居られると困るので何とかせねばなるまい。

 少し考えた結果、テーブルに置いてあった食物で釣る事とした。


「リンゴとお菓子どっちがいい?」


 選択肢を示すと、ナメクジ猫はリンゴの方にゆっくりと伸びる。早速見舞い物品の果物ナイフで八等分にする。そのまま皮を細工すればウサギさんの完成だ。この程度、慣れたものである。

 シャリシャリとウサギさんを作成してお皿に載せると、ナメクジ猫が服の中から出てウサギさんに覆いかぶさった。暫くするとシャクシャクとウサギさんが咀嚼されている音が聞こえる。

 幸いアイさんも角から降りてきたようだ。リンゴを食べていると思われるナメクジ猫を警戒する様に突いている。


「ソレ、どうやって食べているのですか?」

「さぁ…あまり考えないようにしてます」

「ふむ…」


 気になって仕方ない様子で突いていたのでナメクジ猫を持ち上げると、お皿も一緒にくっついてきた。なかなかガードが堅い。ナメクジ猫はゆっくりとこちらを見てくる。


「…剥がしてみますね」


 意を決したようにアイさんがお皿の縁に手を掛ける。その間もお皿からはシャクシャクとウサギさんが食べられている音が聞こえている。


「…」


 お皿を剥がしたアイさんが不意に無言となった。ウサギさんが咀嚼されている音はその間も続いている。彼女は無言でお皿を元に戻すと、何処か遠いところを見つめた。


「…今夜眠れるといいのですが」

「…」


 彼女が何を見たのかを私は追究しないし、今後ナメクジ猫が食べる光景を確認しようとはしないだろう。そう思わせるほど、アイさんの言葉には後悔の念が漂っていた。

 シャクシャクという音は未だに続いている。



□ □ □ □



 満腹となったナメクジ猫がベッドの中へ眠りに入ると、片づけが始まった。私もお腹が膨れたので片づけを手伝おうとするが、何故かアイさんに止められる。結局手持無沙汰のまま片づけられる様を眺めるしかない。


「やっぱり手伝いましょうか?」

「いけません!」

「ですが、ただ見ているだけというのも悪いですし…手伝いますよ」


 私が食器に手を伸ばすと、アイさんがその手を取った。勢い余って乗り出された関係で顔が近くなる。


「アイはあなたに身も心も救われた身です。だからあなたに尽くす事がアイの全てなんです。お願いします、どうか私の存在理由を奪わないでください」


 私を見つめる彼女の眼球には私の知らない誰かが映っている。たぶんその誰かがアイさんの言う旦那様なのだろう。

 しかし真剣な表情で迫られている姿はまるでキスシーンか告白の様に見えなくもない。見えなくもないが…私にはどうしても彼女に伝えないといけないことがある。いや、何かとんでもない事を言われている様な気がするが、まぁ置いておこう。


「アイさん…これだけは言わせてもらってもいいですか?」

「はい!何でも申し付けてください!」

「鼻血が凄いことになってます」

「あら」


 アイさんはサッと何事もなかったかのようにティッシュ箱を手にすると、何枚か抜いて鼻に当てる。鼻から出てくる赤い液体は止めどなく溢れて数枚のティッシュでは止まる気配を見せない。

 ところで、赤黒く染まった私のパジャマはどうしたら良いのだろう。替えが何処かにあるのだろうか。ベッドから血の匂いがする現在、パジャマの一着や二着が血で汚れても大した変化はないとも言える。よし、放置しよう。


「ところでアイさん、一つお願いがあるんですが」

「何でしょうか?」

「散歩に連れて行って貰いたいんです」

「さ、散歩ですか!つ、つまりで、でぇとですね!?」


 ドクドクと溢れる鼻血が床を汚す。本当に誰か掃除してくれないだろうか。私がしないとダメなのだろうか。もう引き返せないのだろうか。


「まぁ…そういう見方もあるかもしれませんが…」

「断る理由がありません!」

「そうですか、それは良かった」


 ここ最近悩んでいた問題があっさり解決して思わず笑顔が出る。アイさんもよほど嬉しいのか、笑顔で鼻血を出している。世の中言ってみるものだ。


「それじゃお願いしてもいいでしょうか?」

「えっ?」


 早速ベッドの中で眠っていたナメクジ猫を取り出すと、アイさんが固まった。


「どうしましたか?」

「あの…旦那様と散歩では…?」

「私はこの通りベッドから動けない身ですから、代わりにこの子の散歩をお願いしたいのですが…もしかして無理を言いましたか?」

「と、とんでもありません!アイは誠心誠意尽くさせていただきます!」

「ありがとうございます。軽く外を見せる感じで良いですから」

「は、はい…」


 アイさんにナメクジ猫を手渡すと「ぬーん」と嬉しそうに鳴いた。散歩が待ちきれないのか、早くも怪しく蠢き始める。アイさんは緊張しているのか、硬い動きで散歩に繰り出していった。

 その姿を見届けてから、誰も居なくなった部屋の中で一先ず横になろうとベッドに寝転ぶ。電気を消していないので頭まで布団を被って対処する。目を閉じると、アイさんの言う旦那様とやらの顔がちらっと浮かんでは消えた。



□ □ □ □



 以前、師匠が風邪を引いた事がある。馬鹿は風邪を引かないという言が正しいとすれば、驚く事に師匠は馬鹿ではなかったのだ。

 師匠が風邪を引いたという事実は湖に石を投げ込みまくるが如く波紋を呼び、流れ流れて私の元にたどり着く。コレは誰もが自分は見舞いに行きたくはないが、誰か行かさないと後々面倒になるのでは?と邪推した結果である。

 なけなしの師匠の名誉のために断言するが、別に誰も見舞いに来なかったからと言って一悶着を起こすほど根性が曲がっている人ではない。ただ師匠は常に悠然とした態度で居るので、食料が無くなり餓死をする可能性はある。つまり結果的に面倒な事態になる。

 そういう人なのだ。

 さて、その見舞いの役が何故私に回ってきたのかという関係性は師匠が私の師匠である以上の説明はない。つまるところ、皆さん私が一番親しいのだと勘違いなさっていられるのだ。同じ研究会の所属であるという理由もあると思われる。

 本当は二人で見舞いに行く予定であったが、もう一人が「眠いから無理です」等とのたまって行方をくらましたので私一人で向かう事となった。出来るならば私も何処かに行きたい。単位も、試験も、就職もない夢のような秘境がこの世のどこかにはあるに違いない。そこへ行って毎日ぼけーっと都合のいい夢を眺めながら暮らしたい。

 スーパーで適当な食材を購入すると、一人学生寮に向かう。以前より学生寮とは常に麻雀や酒盛りが常日頃から行われている魔境であると聞いたが、私が着いた日は酒盛りも麻雀の音も聞こえてなかった。

 本当にココなのだろうか?私の中で疑惑が浮かぶ。皆さん私に嘘の情報を与えてからかっているのではないのだろうか?

 念のために郵便受けにて確認をしようかと思ったが、当然だが師匠とは書いてはいなかった。そもそも私は師匠の名前を知らない。しかし私が教えられた番号の部屋は真っ白であり、いよいよもって疑惑が綿菓子の様に膨らみ始める。

 せっかく来たのだから行くだけ言ってみようと自分に言い聞かせ、師匠の部屋らしき番号を訪れた。

 だがチャイムを鳴らしても反応が無い。さてさて…留守なのか、居留守なのか、両方か、一体どれだろうか。一応中に人の気配はする。


「家賃の催促なら帰ってくれ」


 押し入るべきかどうかを考えながらチャイムを連打していると、鼻声の師匠の返事が返ってきた。風邪というのは本当らしい。


「師匠、私です。風邪とのことでお見舞いに来ました」

「なんだ君か。開いてるから勝手に入ってきてくれ」

「失礼します。それと家賃はちゃんと払ってあげてください」

「そんな金は無い!」

「…」


 不思議だ、なぜこの人は追い出されないのだろう。

 疑問を抱きながら部屋の中に入ると、布団から身体を起こした師匠がひらひらと手を振った。心なしかその姿は痩せこけており、ただの風邪だというのに重病人の様に見える。それはともかくとして、調理せずに食べられる食材を冷蔵庫に入れておこう。


「食材を買ってきましたので台所借りてもいいでしょうか?」

「んむ」


 了承も得たので使われた形跡の無い台所へ向かうと、備え付けの冷蔵庫を開ける。中には何らかの野菜の葉らしきものが一欠片あるだけであった。


「何日食事を取っていないんですか?」

「んー…」


 私が聞くと師匠は指折り数えた。その指が五本を超えた辺りで「もういいです」と止める。不思議だ、これまでこの人はどの様にして生きてきたのだろう。


「もしかして作ってくれるのかい?」

「はい、餓死されると管理人さんに悪いので」

「いつもすまないねぇ…」

「…」

「判ってないな、こういう時は『それは言わない約束でしょ』って返すんだよ」

「…」

「病人に冷たい…私いじけちゃう…」


 勝手に盛り上がっている師匠は無視して台所に向かう。全く使われた形跡がないが、大丈夫なのだろうか。そもそもガスは通っているのか、ココは。接続が悪いのか、電灯がチカチカとしていて目に悪い。


「あ、作ってくれるならお粥以外で頼む」


 いじけながらもきっちり注文を付けてくる師匠。雑炊は平気らしいのでそちらに切り替える。

 材料を漁っていたら、アイツがお見舞いの品としてお漬物をくれた事を思い出す。雑炊だけでは何だし、漬物も一緒に付ければいいのではないだろうか。

 新聞紙で包装されたタッパーを取り出すと、表に『暗いところで開けてネ』という注意書きがしてあった。漬物の事は全くわからないが、漬ける時に光が入ると拙いのだろう。深く考えずにタッパーの蓋を外す。


「ピギャァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァ」


 可能な限りの速度で蓋を閉めた。何だ今のは。何故漬物が叫ぶのだ。そもそもコレは漬物なのか。


「なぁ、今何だか変な叫び声がしなかったか?」

「気のせいですよ」


 師匠に返事をすると、蓋に書かれていた注意書きが目に飛び込んできた。『暗いところで開けてネ』もしや漬ける時に光が入らない様にではなく、そのままの意味ではないのだろうか。おそらくそうだろう。

 台所の電気を消すと恐る恐る漬物の蓋を開けてみる。

 漬物らしき物体は魚の様な形をしており、足が二本生えていた。私がじっと観察すると、魚の眼球がぎょろぎょろと焦点なく動き、私と目があった。

 …何も見なかったことにして蓋を閉めるとゴミ箱に放り込む。私は何も見なかった。それでいいじゃないか。

 その後は何事もなく雑炊を作り終えると、師匠の元へと運ぶ。

 師匠の部屋は大量の本以外には目につくものが無さすぎると言える。唯一家具と呼べるものは床に敷いてある布団と、ちゃぶ台くらいであろう。本もなんとか猫の飼い方等という意味不明なものばかりである。

 師匠が組み立てたちゃぶ台に雑炊とお茶碗を二つ置き、食事が始まった。

 師匠は様々などうでもいい話をする。ナメクジの駆除法や河童と出会った時の対処法等である。残念ながら私の人生に役に立つ日は来ないだろう。


「君の人生に役に立つかはわからないが、私は役に立っているよ」


 師匠はそう言った。何の役に立っているのかは皆目見当もつかない。河童と遭遇したことでもあるのだろうか。

 師匠のどうでもいい無駄知識を聞いていると、風邪の話になった。


「私が思うにコレは風邪ではない」

「インフルエンザですか?病院に行ってください」

「それも違う。コレは桃色旋風という不治の病に違いない」

「全くの見当違いかと思います」

「まぁ話だけでも聞くといい。私が知るところ、人生にはモテ期というものが三回は訪れるらしい。だが私は未だモテ期というものを経験していない」

「はぁ…」

「つまりだ。この風邪に似た症状は未だかつて経験したことのないモテ期から来る桃色旋風に脅かされているという証明なのだよ。やがて黒髪の大和撫子が三つ指を付きながら列をなして我がもとにやって来るだろう」


 師匠が熱弁する間、私の脳内では土下座をした日本人形がスライドして迫りくる大変不気味な光景が繰り広げられている。


「その時に私はこういうのだ。整理券を発行するから待ってくれ」

「どうしましたか?熱で脳が溶けましたか?私の知る限り、師匠のお見舞いに来てくれる様な黒髪の大和撫子はいませんが」

「でも君は来てくれただろう?つまりはそういう事だよ」

「…愛の告白にしてはムードの欠片もないですね」

「確かに!」


 師匠は笑った。相変わらずよく笑う人だ。


「デザートにはプリンがありますが、どうしましょう」

「貰おう。私は貰えるものは何でも貰う信念で生きている」

「変なものは貰わないでくださいね」


 そう言って私も笑った



□ □ □ □



 気配がして目が覚めた。いつの間にか眠っていたらしい。掛け布団に薄く明かりが透けているのが見える。寝起きのせいか発熱のせいか思考がおぼろげであり、まるでよくなった気配がしない。


「んむむ…」


 小さく呻く。また懐かしい夢を見たものだ。アレは何時の事だろうか?ものすごく昔の出来事の様に思える。出来るならばもっと見ていたい様な気もしたが、こういう嬉し恥ずかしの回想は有限である。夢での回想も見る度に進み続け、いずれは現実に追いつくものである。

 部屋の中に気配があるという事はアイさんが散歩から帰ってきたのだろう。少しばかし伸びをしてからお礼を言わねば。

 「ふにゅぅ…」と会心の腑抜けた声を漏らしながらアイさんの方向へ視線を向けると、不思議な物体が立っていた。全身をナメクジ猫で覆われている人らしき何かである。ヒルで囲まれた輩はリーチマン、キノコであればマタンゴ、ではナメクジであり猫であるアレは何だろう。ナメ猫人?

 しばしの間見つめてみるが、件の存在は微動だにしない。そもそも生きているのだろうか。最後の力を振り絞って私の部屋にたどり着いたが、精根尽きてぽっくりしてしまったのだろうか。生死を確認せねばなるまい。急いで記憶から宇宙人に遭遇した際の対処法を探り出す。アレが宇宙人であるとは断言できないが、対話が出来ないのであれば宇宙人もUMAも変わりまい。


「…」


 無言で人差し指を差し出すと、ナメ猫人も人差し指を合わせてきた。今、異文化交流の道が開けた。


「小次郎?」


 ふざけたことをしていないで私の同居人の名前を呼んでみる。複数の「ぬーん」というお返事が帰ってきた。ナメクジ猫の世界では小次郎さんが多いのかもしれない。失念していた。


「…アイさん?」


 今度は散歩に出かけたはずのお方の名前を呼んでみたら、コレまた複数のお返事。「うむむ…」と唸る。早くも万策尽きてしまった。彼の者たちは代わる代わるに私の様子を見て、まるで品定めをされている気分だ。

 ひとまずあの群の中には何匹かの小次郎が存在し、その内の一匹が私と食住を共にしている小次郎であるという可能性は否定しがたい。つまり私にとって身近なナメクジ猫を確保する事がこの状況を打破するきっかけとなるであろう。その後にナメクジ猫に寄生されている誰かさんを救出せねば。

 小次郎とよく遊ぶ時に使っている猫じゃらしを取り出してパタパタと振ってみる。何匹かの猫が機敏な動作で身体を伸ばしてきたが、激流に揺られる木の葉の如く猫じゃらしは回避する。ナメクジ猫ってこんなに早く動けたのか…と若干の感動を覚えた。

 そんな猛攻の中で一匹だけ、ゆっくりとかつ確実に猫じゃらしに伸びていく奴が居た。あの獲物が逃げない事を知っている動きは間違いない、小次郎だ。やがて小次郎らしき猫は無事猫じゃらしを捕獲し、誇らしげに「ぬーん」と鳴いた。そして私に捕獲された。ナメ猫人に衝撃が走る。


「この方達はどちら様?」


 小次郎と目と目を合わせて話しかけてみたが、ナメクジ猫はナメクジ猫である。人語は介さない。ベッドに降ろすともそもそと私の膝の上に移動した。

 続いて寄生された誰かを助けねばなるまい。

 雑炊を食べたまま放置された土鍋にビールを注ぐと床に置く。このビールは夜空さんが持って来たまま置いて行ったものである。

 大人な麦ジュースに反応しかけている小次郎を撫でて宥めていると、誰かさんに寄生していたナメクジ猫たちがビールに釣られて降りていった。まさしくナメクジである。そして大量のナメクジに寄生されていたのは大方の予想通りアイさんであった。

 アイさんはいつになく疲れた表情であり、全身が何だかわからない液体でべとべとである。


「…助かりました」

「何が起きたんですか?」

「それが…」


 アイさんが言うには小次郎と一緒に裏手の森へ向かったところ、突然大量の飛行物体が襲来、付着して今の様な惨状となったらしい。そして気が付いたら私の部屋に立っており、こうして話をしていると。つまるところ何もわからないに等しい。


「彼らが言うには同志が人に飼われているのは気に食わないとのことです」

「言葉が分かるんですか?」

「ええ、まぁ…」

「そうですか」


 アイさんが哀しそうな表情をしたので深くは聞くまい。たぶん寄生されると意思の疎通ができるようになるとかそんな感じなのだろう。

 しかし気に食わないとはどういうことなのだろうか。虫の逆襲とかペットの逆襲みたいに反乱でも起こすのだろうか。私にアクション映画張りの動きは出来ないので、数分で制圧されるだろう。もしもそういう展開であるならば怪我をしない内に白旗を振ろう。


「それで私に何をしろと?」

「はい、自分たちもあんな風に喰っちゃ寝しながらナデナデされて暮らしたい。それが叶わないならば強硬手段に出ると…」

「なるほど」


 とんでもない怠け者だった。

 つまり彼らはこう要求しているのだ。自分たちもココで暮らさせろと。

 とんでもない、今でさえ色々な人が許可不許可問わずに押しかけてきているのだ。コレ以上不思議生命体が増えたら魔境への扉が開かれるであろう。


「お引き取り下さい」


 私が告げると一斉にナメクジ猫たちが抗議の声を挙げた。何を言っているのかは全く理解できないので反応のしようが無い。段々と熱で意識が朦朧とし始めてきた。

 かくして彼らの強硬手段とやらが始まった。ずりずりと機敏な動作で私の足元を占領すると、一匹がゆっくりと私の身体を登り始める。どの辺が強硬手段なのかわからないが、アイさんが心配そうに見守っている辺りろくなことではないのだろう。というか見てないで助けてください。

 まるで私の身体を山か何かと間違えているかのようにゆっくりと登り、私の額へと辿り着こうとしていた。

 数秒後、この世のものとは思えない悲鳴が私の部屋に響き渡った。


自分で言った締切が守れないでござるよ


あとがきに何だか制作秘話みたいな事書けばイイヨとか言われましたが、そんなもの無い

しいて言うならこの話書いてる時風邪引いてました

それといつも大体5割ほど書いた辺りで力尽きてます、つまり5割を越えた辺りからは死んだ魚の目で妥協しまくっています

極一部気に入らぬ部分がありますが修正できる気がしない


ところでこの話ついに主要人物が1話の半分にも満たなくなりましたが、これはいいんでしょうかね?

主要人物ってなんなんでしょうね?私にはわからないでござるな


そんなこんなの第15話

この連載はいつ終わるのか、無事完結できるのか、そもそもストーリーは進んでいるのか?何か大切なことを忘れたまま最終回を迎えるのではないのか?

それは私にもわからない


ではでは少しでも楽しんでいただけたら幸いです

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