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ゲーム  作者: 神藤聡
8/8

デート

 横浜駅のみなとみらい線の入り口の前で、私は一人おろおろと彼を探した。約束の時間はとうに過ぎていて、横浜駅に着いたという連絡があってから、もう5分以上が経過していた。

 

 みなとみらい線の開通に伴って、横浜駅はその年の2月に改修工事が終わったばかりだった。私はみなとみらい線の入り口が、今自分が立っている中央通路にしかないと思っていたのだが、実は工事によって新しく出来た北口と南口にも、みなとみらい線の入り口が存在していたらしい。私はそれをずいぶん後になってから知った。

 

 「みなとみらい線の入り口でしょ?いないよー」

 

 程なく電話がかかってきて、出るなり彼はとぼけた声で言った。私は携帯電話を耳に当てたまま、人ごみの中央通路を行ったり来たりして、30メートルほど離れた二つの入り口をうろうろした。彼の姿はどこにも見当たらない。いったい彼はどこの「みなとみらい線の入り口」にいるんだろう。


 「わかった。階段を下りて、改札をくぐったところまで来て」


 私は諦めて、改札まで降りることにした。改札のあるフロアに降りれば、同じ場所にたどり着くはずだ。電話を持ったまま自分も階段を降り、改札の前まで来た。ここからなら、もし彼が向こう側の改札から入ってきたとしてもそれを見つけることができるだろう。


 「改札の中に崎陽軒があるでしょ?」


幸いにも横浜駅構内では地下でも電波が届くようだ。


 「崎陽軒?あー、あったあった」

 

私はようやく、改札の向こうから歩いてくる彼を見つけることができた。同時に彼も私に気づいたようだった。私は慌てて持っていたパスネットを改札に通した。


 「おはよう」


 見慣れない格好をしたキタガワが朝の挨拶をした。私も、「おはよう」と言った。すでに約束の十時を15分ほど回っていた。

 

 「で、船に乗るんじゃなかったの?」


彼がホームへと降りる階段に向かって歩きながらそう言った。私は、あっ、と言って彼を見た。昨日の夜、電話をしながら二人で立てた計画は、しょっぱなから崩れている。


 昨夜、英一との話が終わって、私は自宅に戻ってきてからキタガワに電話をかけた。帰る途中にメールや電話で連絡することもできたが、落ち着いて話がしたかったので、自宅に戻ってから電話することにしたのだ。

 短い呼び出し音の後、すぐに電話はつながった。「もしもし」と私が言うと、「もしもし、大丈夫?」と彼は妙に切羽詰った声を出した。なかなか連絡が来ないから、もしかして刺されたのかと思ったよ、と彼は言って、このノーテンキな人でも心配したりするのか、と私はちょっと意外に思った。

 それから、英一は逆上したりしなかったこと、最後は笑顔でサヨナラと言えたことなんかを話した。キタガワは、彼はオレが思ってたよりもオトナだったんだね、と言って笑った。それから、久しぶりに日曜日が暇になったよ、と私が言うと、じゃあどこか出かけようか、とキタガワが言った。私はすっかり嬉しくなって、デートだね、とキタガワに言った。そうだね、とキタガワも言った。一瞬、別れ話をした次の日に違う男とデートをするのはどうなんだろう、とも思ったが、しかし私にとってはキタガワは大事な友人の1人であり、断る理由もなかった。というよりも、今キタガワに会いたいと思っている自分の気持ちを抑える方がおかしいような気がした。


 その電話で、私たちはみなとみらいに行くことにして、横浜駅で待ち合わせてシーバスに乗ろうという話をしたのだ。


 「すっかり忘れてた」


私が正直に言うと、えー?と言って彼は笑った。


 「船、乗りたかったなー」

 「だってどこにいるかぜんぜんわからないんだもん」


 私がそういうと、まーいいか、と彼は言った。その方がおもしろいね、と彼は言い、また笑った。ついさっきまで、キタガワと会えないかも、と自分が相当焦っていたことを思い出した私は、とても可笑しくなってくすくす笑った。すると、いつも飲みに行くときのように少し前を歩いていた彼が、突然振り向いて右手を差し出した。

 差し伸べられた手に、反射的に出した私の左手が触れると、彼はぐっとその手を引っ張り、

 

 「はぐれると困るからね」

 

と、前を向いて歩き出しながら言った。私は少し、というよりだいぶ驚いて、すぐに手のひらに汗をかいた。私の手がとても湿っていることに気づいていただろうが、それでもキタガワは手を離さなかった。並んで歩くと、彼の背がいつもより少し高いことに気がついた。さりげなく足元を見ると、いつもスーツのときにはいている革靴ではなくて、かかとの高い年季の入ったごついブーツを履いていた。そのブーツはとても使い込まれていて、今日のためにわざわざ用意したというわけでもなさそうだった。確かにキタガワはあまり身長が高い方ではなかったが、それについて少しは気にしているんだろうか、と私は思った。

 私たちがホームに到着すると同時に、音もなくすべりこむように紫色の車両が入ってきた。階段のそばの入り口で人ごみを避けながら、降りる人の列が途切れるのを待つと、私たちは新しい匂いのする車両に乗り込んだ。祭日のみなとみらい線は、横浜駅を過ぎても座れないほどに混雑していて、その大半がカップルや友人同士で遊びに来たと思われる若者だった。


 それまで私たちは平日以外に会ったことがなかったので、私はその日初めてキタガワがスーツ以外の格好をしているのを見た。いつもとまったく雰囲気の違う彼と、いつもよりずっと近い彼との距離に、私は異常なほど緊張し、つないでいる手のひらがどんどん汗ばんでいく。

 

 「元町・中華街駅で降りるの?」

 

 ドアの上にある路線図を眺めながら彼は私に聞いた。キタガワは、みなとみらい線には乗ったことがないと言った。そういえば電話でも、横浜にはほとんど行ったことがないと行っていた。英一が関内に住んでいたため、このあたりの地理は把握していたが、みなとみらい線の元町・中華街駅では降りたことがなかったので、中華街へまっすぐにたどり着けるかどうか、私はこっそり心配していた。

 

 「きっと元町・中華街駅で降りる人はみんな中華街へ行くから、ついていけばわかるよね」

 

 彼はまたもノー天気にそう言って、私はそのとき、彼がそうとう楽天的な性格であることを思い知り、またも可笑しくなって笑った。

 

 「それもそうだね」

 

 彼はもう隣にいるのだから、計画が崩れようが、道に迷おうが、それも含めてデートなのだ。

 

 何事も計画的に進まないと怒り出す英一とだったらこうは行かないだろうな、と私はその日初めて英一のことを思い出した。それと同時に、昨日別れ話をしたばかりだったのに、そんなことはもうすっかり忘れて、私はキタガワと初めてのデートをとても楽しんでいる自分に気づいた。罪悪感がないと言ったら嘘になったが、そのとき私は不思議とリラックスしていた。もう何年も、こんなに楽しい気持ちで男性とデートをしていなかった、と思った。



 昨日、別れ話のときに英一は私に、他に好きな人ができたのか、と聞いた。私は、違うよ、と言って、ずっと別れたいと思っていたから、と言った。キタガワのことは特に話さなかった。キタガワに対して自分がどう思っているのか、まだ量りかねていたのだ。好きな人、とは少し違う気がした。恋だとか愛だとか、そういうのとは違う次元にいる人だと思った。ではどういう存在なのかと、それを英一にわざわざ説明する義務も無いという気もした。キタガワは英一とは違う次元にいて、だから英一に代わる人ではないのだ。


 「それならよかった」


と英一は安堵したように言った。何が良かったんだろう、と私はぼんやり思った。二股とか、オレ許せないから、と英一は言い、知ってる、と私はあいまいに笑った。



 考えごとをしながらキタガワについて歩いていたら、すでに中華街の正門をくぐっていたようだ。あたりはゴマ団子と肉まんの香りで満ちていた。お昼ご飯の時間まで、まだだいぶ時間があったので、私たちはのんびりその日ランチを食べる店を探すことにした。


 彼は歩きながら、中華街には小さいころに来たことがある、と言った。横浜に住んでいる叔父に会いに来て、連れて行ってもらったそうだ。そういえば私も小さいころ、家族でたまに中華街に来たことがある、と言った。

 

 「確かこのあたりに『東園』ってお店があってね」


と私が言うと、彼は、嬉々としてその店を探そうと言った。その店はメイン通りに面しているので、すぐに見つけることができた。あった!と言って彼ははしゃいだ。

 幼い頃のキタガワと、それよりもっと幼い3つ年下の私が、遠い昔に中華街ですれ違っていたとしたら、それはそれでドラマだなぁ、と私は思った。ただ現実では、もし本当にすれ違っていたとしてもそれを確認する手段がないのだ。


 適当に入った店で食事をして中華街を出ると、私たちは山下公園に向かった。どこも観光客らしき人群れでいっぱいだったが、私たちは特に気にせずに歩いた。氷川丸の前で、観光客と思わしきおばさんに声をかけ、写真を撮ってもらった。キタガワが知らない相手でも臆せずに話しかけたので、私は少し驚いて、案外頼もしいんだな、と思ったりした。

 山下公園の中をのんびり歩いたり、ベンチに座って休んだりして公園を出ると、赤レンガ倉庫を通って、ランドマークタワーへ歩いた。そのときすでにけっこうな距離を歩いていたので、ブーツだった私は、足の痛みを我慢しながら歩いていた。でも、どんなに痛くても、まだこうして並んで歩いていたかったのだ。夕暮れにはまだ少し早いが、展望台で休みつつ、あわよくば夕日が見れればいいと思った。


 歩きながら私たちは、本当にくだらないことばかり話した。すれ違ったカップルの女性のスカートが短すぎるとか、キタガワのいきつけの歯医者の先生は素足に革靴を履くとか、うちの家族が全員、それぞれの通う会社や学校で「ハギ」と呼ばれていることとか。いつも飲み屋で話してるような、どうでもいいことばかりだ。

 ずっと笑っていたので、足だけでなく腹筋も筋肉痛になりそうだと私は言った。キタガワは、オレはあごも筋肉痛になりそうだよと言ってまた笑った。


 ふと、もう目の前がランドマークタワーというところで、カバンの中の携帯電話が振動しているのに気づいた。休日の昼間に電話をかけてくるといえば、両親くらいのものだったが、取り出した携帯のディスプレイに表示された番号を見て、私は動けなくなった。そこには英一の名前と番号がでかでかと表示されていた。

 振動し続ける携帯電話を握り締めたまま、私はその場に立ち尽くした。昨日、何か言いたそうにしていた英一の顔を思い出し、何か言い残したんだろうか、と私は一瞬パニックに陥った。私が立ち止まったので、キタガワが、どうかした?と聞いた。

 

 「英一から電話が・・・・どうしよう」

 

 私はおろおろしながらそう言って、鳴り続ける電話に出ようかどうしようか、また、いったい何の用があるのかと考えた。不思議そうに私を見つめていたキタガワが、

 

 「彼のためを思うなら、出ない方がいいと思うよ」

 

 携帯の振動がようやく止まり、着信履歴を見ると、その少し前にも一度かかってきていた。そのとき私は気づかなかったのだ。2回もかけてくるのであれば、何か用事があるのかもしれない。

 

 「何の用だろう・・・」

 

 私はつぶやいて、途方に暮れた。かけなおすべきか、このまま無視してしまうか。忘れ物は、全て捨てていい、と言ったはずだった。今まで忘れたことに気づかないようなものだから、残っていたとしても大したものじゃない。それ以外に用があるとしたら、いったいなんだろう。


 「大した用じゃないと思う」

 

キタガワは妙に確信した口調で、そう言った。

 

 「ちょっと淋しくなっただけだと思うよ」


 彼がなぜそんな風に言い切れるのかわからなかったが、もしそうなんだとしたら、かけ直す必要もない、と私は思った。実際もう話をすることなんか何もなかったし、話をしたところで私の気持ちも何も変わらないのだ。

 よし、と言って携帯を閉じると、元のようにカバンに放り込み、ランドマークタワーの入り口へ向かって私はまた歩き出した。

 歩きながら、休日だというのに自宅で一人ゲームをする英一を想像して、少し胸が痛んだ。



 ランドマークタワー展望台の西向きのベンチを占領し、私たちはもう一時間以上もそこで話していた。私たちの後ろをたくさんの人が通っていったが、ベンチは窓の方を向いていたので、人の視線はまったく気にならなかった。

 私たちはずっと恋の話をしていた。いつも飲み屋で話しているような、ごくぶっちゃけた話だ。なぜ彼と話しているのが楽しいのか、その理由が少しわかってきた気がした。彼と話しているときは、私は自分の気持ちにとても正直になれた。多少かっこ悪いことも、あるいは人道に外れているようなことだとしても、キタガワには言うことができた。もしかしたらそれは、もともと彼が私にとってそれほど重要な存在じゃなかったとき、別に嫌われても良いと思っていたときに話した、さまざまな本音の上で培われた関係の成せるものなのかもしれなかった。だからつまり、たぶん彼もそうであるに違いなかった。

 

 「昔付き合ってた子からね、無言電話がかかってきたことがあるんだよ」


 私はびっくりして、どうして無言なのに犯人が本当に元彼女だったってわかったの?と聞いた。

 

 「うん、他にその番号を知ってるのって親くらいだったし、親は無言電話なんかかけないでしょ」

 「電話を取ると無言なの?」

 「ううん、取るとすぐ切れる。それが毎日かかってきてさ」

 

 半年付き合ったその彼女は、キタガワの方から別れを切り出したそうだ。彼は正直に彼女の嫌いなところやダメなところを全部吐き出して、それで別れたと言った。それにしたって、と私は思った。それにしたってそれじゃまるで復讐だ。実は元彼女じゃないんじゃないか、と私は思いたかったが、きっとタイミング的にも状況的にも、元彼女と考える方が自然なんだろう。彼女はキタガワにいったい何を伝えたかったんだろう?

 

 「オレね、ずっと恋愛ってゲームだったんだよね」

 

 キタガワはためらいなくそう言った。常識的な、一般的女性が聞いたら引いてしまうようなその言葉は、私の心に直接届いた。すごく理解できる、と私は思って、何度も大きくうなづいた。

 

 「どうやったらエッチできるかっていうゲームなんだよ。だからオレ、半年以上女性と付き合ったことがないんだ」


 私は、とっくにゲームオーバーになってた自分と英一の関係について思った。英一はよく、浮気も二股も許せないと私に言った。それはルール違反だと。それは私には、オレを傷つけるヤツは許さない、と彼が言っているように聞こえていた。

 英一にとってもそれはゲームだっただろう。だから、ゲームのルールを守らないのは許せない、と彼は言ったのだ。


 「ゲームだからさ、基準が勝ち負けなんだよね」


 一年半もお互いを縛り付けていたのに、それはずっとゲームだった。私はずっと、自分が都合の良い女であることを認めたくなかったし、それはきっと英一も同じだったのだろう。

 私は、本当はもっと、不純なもので良いのかも知れない、と思った。恋だの愛だのと、メディアや他人を通して創り上げてきた価値観は、どうしたって生じる矛盾や消せない欲望を美化したがった。そもそも私の気持ちは私のものなのに、誰かが決めた枠の中にはめ込もうとするからおかしくなるのだ。

 この感情の浮き沈みに、筋を通したり、ルールを設けることのほうがずっと不自然なんだ、と私は思った。それはもっと自由で、ごく個人的で、不可解なもので良かったのだ。

 

 心の中がぶわっと広がった気がして、私は泣きそうになった。改めて、ずいぶん無駄な時間を過ごした、と思った。そして、その無駄な時間を過ごして良かった、とも。


 展望台の中は、観光客がひっきりなしに行ったりきたりしていたが、人の声も足音も視線も、私はなぜかまったく気にならなかった。ガラスの箱に2人きりで閉じ込められているかのようで、そこは今までに感じたことがないくらいに居心地が良く、とても良い夢を見ているみたいだと思った。そこは今まで出会った誰と一緒にいるよりも心地よい空間だった。

 

 赤くなり始めた太陽が、少しずつ地平線にかかる分厚い雲に近づいていった。その真っ赤な球体が見えなくなってしまうまで、私たちはただ黙ってそれを見つめていた。それはゆっくりと時間をかけて雲に吸い込まれていった。球がすっかり見えなくなって、まばたきをすると、夕日のオレンジ色の反対色である青い球体が、残像となってまぶたの裏側に浮かんでいた。

 

 「青いね」

 

 キタガワが目を閉じてそう言ったので、私も目を閉じて、本当だ、とつぶやいた。目をつぶったまま、私の汗ばんだ右手を、キタガワがぎゅっと強く握った。私もキタガワの左手をぎゅっと握り返した。青い球体は、いつまでもいつまでもまぶたの裏側から消えなかった。手を伸ばして触ったら、冷たそうだな、と私は思った。

 そのとき確かに私は何も考えていなかった。ゲームの世界から、すっかり現実に戻ってきたのだった。キタガワと私は、そのときから現実を生きているのだ。



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