ゲームオーバー
週末、私はいつものように英一がテレビゲームをする画面を、英一の隣でぼんやりと眺めていた。いつ言おうか、私は一人悩んでいたのだ。
単純に思ったまま伝えれば良かったのに、英一がどんな反応をするのかということばかり気になって、いったいどんなふうに切り出せばいいのか、私はさっぱりわからなくなっていた。英一はいつものように、このゲーム終わったら夕飯の買い物に行こう、と言った。そして、何食べるか、と言って笑った。何がいいかな、などと言いながら、私たちは財布だけ持って近所のスーパーに出かけた。
そして、結局今までどおりの週末を過ごした私は、日曜の夜に自宅に帰ってきた。自宅に帰ってくると、私は自己嫌悪でいっぱいになって、ベッドの上でごろんと横になった。来週も再来週も、また英一の部屋で過ごすのだろう。そのままうとうとと眠ってしまいそうになったので、私はシャワーを浴びようとユニットバスに向かう。繰り返すことは、いつだって簡単でラクなのだ。油断すると、私はすぐに流される。
そして月曜日の夜、意を決して、私は一人携帯電話の液晶画面を見つめていた。この通話ボタンを押せば、すぐに英一につながる。
ディスプレイには、英一の番号が表示されていた。仕事から帰ってきて、まだそんなに時間も経ってないが、英一ももう自宅に戻っているはずだった。
用意したたくさんの言葉たちが、頭の中をぐるぐると回った。電話、という手段は卑怯かもしれない、と私は思った。でも、週末ずっと一緒にいたのに、私は結局何も言えないままだったのだ。目の前で笑っている英一に別れ話をしたときのことを、私は何度も想像した。頭の中で、何度もシミュレーションをした。想像の中で、英一は、怒ったときの睨むような強い視線を私に向けた。その目を正面に見据えて、私は自分の思ったとおりの言葉を話せる自信がなかった。
ただ、この電話だけで話が済むとは思えなかった。しかしそれなら何度でも話をすればいい、と思った。どうせ今まで無駄な時間を過ごしてきたのだから、急いで別れなければいけないということもなかった。
通話ボタンを押すと、2回のコールですぐに英一は出た。いつもの甘えた声に、私はさっそくひるんで、用意していた言葉を飲み込んだ。
「あの、、、」
「どうした?何かあった?」
英一は、普段は夜遅い時間にしか電話をしないはずの私が、割と早い時間にかけてきたということが意外だったようだ。
「えっと」
私は、とにかく何か言わなければ、と思った。その日、以前別れ話をしたときのように、高ぶる感情に任せて勢いで別れ話をするのとは違った。私はある意味でとても冷静だった。その冷静な頭で、私たちが別れなければいけないということを、その理由を、うまく説明してくれる言葉を、必死に探していた。しかし考えれば考えるほど、何も伝わらないような気がするのだった。
私は観念して、ただ別れたいと言った。最初、英一は私が少し悲観的になってそう言っているだけだと思ったようだ。私が一時的に少し情緒的になって、ヒステリーを起こしているだけだろうという判断だ。つまり彼は、とりあえずなぐさめるという方法をとった。
「そんなこと言うなよ」
と英一は悲しげな声を出してみせて、それでも私が黙っていると、別れたくない、と言った。
「大丈夫だから。何も問題ない」
と彼は言い、私は、何が大丈夫なんだろう、と思った。彼は、週末はまた来るんだろ?と話を変えようとした。私は少し彼に同情した。
「もう、会わない。会いに行かないよ」
私は、静かにそう言った。それで彼は、ようやくコトが飲み込めたようだった。私は泣いていなかったし、勤めて冷静にそう言ったのだ。彼は、怒ったように、嫌だ、と言い、それきり黙ってしまった。
私は、ゆっくりとたしなめるように説明した。ずっと別れようと思っていたこと。よりを戻したように見えても、私の気持ちはとっくに英一から離れていたこと。そして、英一の気持ちが自分にないということを、とうにわかっていたということ。
英一は最初は何か相槌を打っていたが、そのうち黙ってしまった。ひととおり話し終わって私が黙っていると、突然電話が切れた。私は、あぁやっぱり、と思って、こらえていた涙をぬぐった。彼は逃げてしまったのだ。たぶん、彼は私を二度と許さないだろう。私はその日、もう一度彼に電話をする気にはなれなかった。
涙はあとからあとから流れて、仰向けでベッドに倒れこんだ私のこめかみを濡らした。嗚咽は出ずに、ただ涙を流していた。
10分もそうしていただろうか。今日、英一から折り返しの電話が来ることはないだろう、と私は思った。ティッシュを一枚取ろうと体を起こして、ふと思いついて再度携帯電話を手に取った。電話帳の「友人」フォルダから彼の番号を探し、通話ボタンを押した。
しかし彼はなかなか出なかった。ぷるるる、という電子音はいつまで待ってもやまずに、あきらめかけて切ろうとしたとき、ようやく、はい、と言うキタガワの声が聞こえた。私は、なるべく涙声にならないように、平静を装って、今電話して大丈夫かと聞いた。
「ごめん、あとでかけなおす」
彼がそれだけ言って、電話は切れた。私は携帯を放り投げると、またベッドに倒れこんだ。それから、長いため息を一つついた。
英一に、自分の気持ちをうまく伝えられなかったことをキタガワに話せば、彼は呆れた顔をするだろうか。私は、キタガワに電話したことを少しだけ後悔し、また、すぐに電話が切れて良かった、と思った。そもそも、メールや電話の回数が増えたからと言って、私とキタガワの心の距離がどのくらい近づいたと言えるのだろうか。私はいったいなぜキタガワに電話なんかしたんだろう。
そのとき私は、自分にとってキタガワという人が、友人の域を越えてかなり重要な存在になっていることに、うすうす気付いていた。それでも、自分にとって大きな存在であると同時に、キタガワにとっての自分がどんな存在なのか、私にはさっぱりわからなかった。ただ、どちらにしても今は、とにかく英一ときちんと話をしなければ、何も前に進まないのだ。
いったん止めていた涙がまた出てきて、私は自分がキタガワに慰めてもらおうとしていたことに気づいた。それはとても恥ずかしいことだと思い、さらにみじめな気持ちになった。
そのとき、聞き慣れた着信メロディが、部屋の隅のほうに転がっていた携帯電話から聴こえてきた。その音は、私が電話に出なくとも、英一からであることを知らせていた。突然切れた電話に私がかけ直さなかったので、英一の方で業を煮やしたに違いない、と私は思った。
「はい」
私はさっきよりも緊張し、通話ボタンを押すのを一瞬躊躇した。私の言葉に、英一が何を感じ、どんな言葉にして私に返すのか、まったく想像がつかなかった。しかし床に座りなおすと、観念してその電話を取った。ちょうど斜め前にあった全身を写す鏡に、体を硬くして座っている自分の姿が写った。鏡に映った女は、ひどい顔をしている。
「もしもし」
英一は、いつもよりも少し低い声で静かに言った。怒ったときの声だ、と私は思った。
「少し考えたんだけど」
「うん」
「週末、空いてるだろ?」
「・・・うん」
「こういうことは、会って話したほうがいいと思って」
英一が静かにそう言って、私の心臓はしめつけられたように苦しくなった。一瞬、予定があると言えば良かった、とさえ考えた。逃げ出したいのは、むしろ私の方だ。
「そう・・・だね」
「電話だけで、はいサヨナラ、とかオレ嫌だから」
「・・・うん」
本当は、できれば会いたくない、と私は思った。それは、ただ怖かったのだろう。私は一刻も早くこの電話を切りたい、と思った。英一の低い声が、何よりの恐怖だった。英一はあきらかに私を非難している。
私たちは、土曜日の夕方に関内で会う約束をして、電話を切った。
私は、会って何を話さなければいけないのかもわからなかった。電話で自分が話したこと以上の言葉を、英一に伝えられる自信がなかった。私はすっかり逃げ出したい気持ちになっていたが、しかし私が行かなければ、英一はいつでもこの家に来ることができるのだ。どちらにしても、一度も会って話をせずに「はいサヨナラ」というわけには行かないだろう。英一がそれを望まない限りは。
私はもうすっかり力が抜けて、放心したように床に座り込んでいた。
それから一時間近くたって、また携帯の着信音が鳴った。今度はキタガワからだった。
「ごめん、髪染めてたんだ」
電話に出るなり、彼はまったく悪びれずにそう言った。私は、なんてタイミングの悪い、と言いそうになった。あまりの間の悪さに、すっかり涙が止まっていた。
「で、なんかあったの?」
「えっと・・・いや、さっきね。英一と電話で別れ話したの」
「あぁ、それでちょっと涙声だったんだ」
彼は妙に納得したように言った。バレてたんだと思って、私は少し恥ずかしくなった。
「でも話の途中で切られちゃったんだ」
「会って言わないとダメだと思うよ」
彼は当然のように言った。
「うん、いったん切られたんだけど、またかかってきて週末に会うことになったよ」
「そう、それはよかったね」
私はすっかりほっとしていた。ついさっきまであんなに恐怖していたのに、今ならきちんと会って話すことができるような気さえした。
「ハギさんの声が泣いてたみたいだったからさぁ、なんで泣いてんのかなぁ、オレ何かしたかなぁ、って髪染めながら一生懸命考えたんだけど、ぜんぜんわかんなくてさー」
別れ話をした、と私が言ったばかりなのに、彼はまったくノー天気にそう言って、私はついさっきまでのシリアスな英一との会話を思い出した。同時に、風呂場で髪を染めているキタガワを想像して、その二つのかけ離れた出来事が異なる場所でまったく同時刻に行われていたという事実が、妙に可笑しくなった。私が、英一にうまく伝えられずに悩んでいる間も、英一の怒った様子に恐怖している間も、彼は暢気に自分の髪の色の染まり具合について、試行錯誤していたのに違いないのだ。彼の短く刈り込んだ茶色の頭は、そうやって作られていたのだ。
私が笑い出すと、つられたのかキタガワも笑っていた。自分が何ヶ月もかけて悩んでいたことは、実はすごくすごくちっぽけだった、と私は思った。私は、自分で思っているよりもずっと、ちっぽけな取るに足らない人間だったのだ。私はすっかり楽しくなって、金髪になったキタガワの短い髪を想像した。
私は、英一にちゃんと話をしよう、と思った。ちゃんと会って話をしなければいけない。私は、本当はそれを望んでいるのだ。もう怖がったり、逃げたりしてはいけない。
「髪染めてる間にね、オレずっとハギさんのこと考えてたよ」
キタガワは、ごく自然にそう言った。へっ?と私がおかしな声を出すと、
「最近よくハギさんのこと考えるんだ」
とさらに彼はさっぱりとそう言い、私はすっかり言葉を失った。
土曜日の京浜東北線の中で、私はキタガワにメールをした。19時に英一の部屋に着くことになっていた。夕方の社内はそこそこ込んでいて、私はドアの脇に寄りかかって、窓の外の夕焼けを眺めていた。もうまもなくあたりは夕闇に包まれるだろう。キタガワから、『気をつけてね』という内容の返事が来た。
もしかしたら殴られるかもしれないし、刺されるかもしれないよ、と彼は昨日電話でそう言った。まさか、と私は言ったが、もちろん、100%ありえない、と言い切れるわけではない。でも、ちゃんと話せばわかってくれるはずだと思った。キタガワにとって英一は見知らぬ男だが、私にとっては曲がりなりにも1年と数ヶ月を共に過ごした人なのだ。怖くても、正直に伝えなければいけないと思った。そうでなければ、英一も私も終われない。
南口の改札を出ると、西の方に向かって通い慣れた道を歩いた。この道を歩くのも最後だ、と思うと感慨深かった。ゆっくりと足を運び、五分も歩くと、最終決戦の舞台はもう目の前だ。
英一との話は、思ったよりもスムーズに終わった。
電話での私の言葉を、彼はきちんと受け止めてくれたようだった。本当のことを言えば、私はもっと、罵ったり蔑んだり、彼が怒りに任せてひどい言葉を発するのではないか、と思っていた。元彼との別れ話のときのように。その延長で、殴るとか刺すとかいうこともありえないことはないと思っていた。しかしそういう言葉は一つもなく、彼はいたって紳士的に、私たちの今の関係が、もう今日で終わるものとして、部屋に少し残っていた荷物や、今後の二人の関係について話した。結局私は、最後まで彼のことをあまり理解できていなかったんだな、と思った。
あるいはもしかしたら、彼自身、もう二人の関係が元に戻ることはないということを、なんとなく感じ取っていたのかもしれない。理解し合えないなりに、なるべく優しくしようと努めていた彼の、それまでの行動を思い出して、私は少し切なくなったが、部屋に残っていた少しの荷物をまとめると、後は捨てて、と言い、さっさと玄関に向かった。
扉を開けて振り向くと、英一はまだ何か言いたそうにしていたが、
「じゃあ、元気で」
と私が言うと、
「あぁ、がんばれよ」
と無理に作ったような笑顔で言った。かっこつけたのか、あるいは気を使ったのか、やっぱり量りかねたが、とりあえず手を振って扉を閉めた。
私はエレベーターで1階に降りると、1時間前に歩いてきた道を、また駅に向かって歩き出した。途中で私は振り返ると、マンションの最上階の窓を見上げた。彼が住んでいた11階の窓から、この道がよく見えることを私は知っていた。彼の部屋の窓は、カーテンが閉まったままだった。何秒かそうして見上げていたが、意味もなく笑って、私はまた歩き出した。もう涙は出なかった。
もう二度とこの道を歩くこともないだろう。