カウンセル
だいちゃんから電話が来ることもなくなり、私は少し残業を多めにするようになっていた。もともとそれほど忙しい仕事ではなかったが、ノルマを早め早めに終わらせれば、もちろん評価も変わってくる。そして早めに終わった分、また別な仕事をもらえばいいのだ。それは「仕事」であるとともに「作業」でしかないが、私はそれなりに仕事が好きだ。
その日は、一時間ほど残業をして、19時過ぎには会社を出た。
「お先に失礼します」
OSをシャットダウンし、ノートパソコンを閉じると、席を立ち、まだ残っている数人のメンバに声をかけた。定時で帰ってしまうメンバもいれば、なんとなくダラダラ残業してしまう人もいる。仕事のやり方は人それぞれだ。
「おつかれさまです」
みな、パソコンから目を離さずにそう言い、私は彼らの後ろを通り過ぎてエレベーターホールに向かった。すでにエレベーターを待っている人の後ろに立ち、腕時計に目をやる。下りのエレベーターはなかなか来なかった。
エンジニアという仕事は割りと好きだったが、仕事なんていうものは、他に頑張ることがないときに頑張ればいい、くらいにしか思っていなかった。数人のチームを組んで、同じ目標に向かって物を作るために、それぞれの役割を決め、分担作業をするということ自体は面白かった。でもそれは、責任や自立を伴う「仕事」というよりは、学生が仲間と集まって何かするような、遊びの延長なのかもしれない。もともと出世欲とか、野心のようなものもあまりないから、自分が好きなだけ、納得するだけの仕事を日々こなすので、十分楽しくやれた。だいたい、人の上に立つのとか、ぜんぜん向いてないと我ながら思う。
その日、20時過ぎには自宅に戻ってきていた。部屋の電気とテレビのスイッチを入れ、上着を着たまま、オリジンで買ってきたおにぎりとお惣菜の袋を開けた。どのチャンネルもあまり面白そうな番組ではなかったので、私はパソコンのスイッチも入れた。おにぎりを食べ終わるとようやく上着を脱ぎ、お惣菜に箸をつけようとしたそのとき、携帯電話が着信を知らせるべく、カバンの中で振動し始めた。しばらく英一以外の人から電話が来るなんてことはなかったので、私はすっかり英一だと思ったが、ディスプレイにはキタガワの名前が表示されていた。
キタガワとは、牛角で私が涙を見せた日以来だった。
あれからすでに1ヶ月ほどたっていたが、しかし彼と再会するのはまた1年後とかだろうと思っていたので、私は何事かと思い、慌ててそのとき見ていたテレビの音を消した。
「はい、もしもし」
「もしもし、ハギさん?」
聞きなれない電話でのキタガワの声を聞いて、キタガワから電話が来たのは、実はその日が初めてだということに気づいた。飲みの誘いは基本的にメールだったし、会社で直接会って話すことはあっても、電話をする機会というのはあえて作らなければなかなかないものだ。私は少し緊張し、思わずベッドの上で座りなおした。だいちゃんのことがあったので、どちらかというと少し身構えたのだろう。
「どうしたの?めずらしい」
私が正直に驚いてみせると、キタガワはまるでそんなのはどうでもいいという風に
「そうだっけ?」
といつもの口調でとぼけた。実際、本当にどうでもよかったようで、彼の「恋愛相談」はその後すぐに始まった。いつも飲み屋で話すような内容だったので、私は安心して足を伸ばした。
「オレ今悩んでるんだよー」
今にもビールを注文しそうなノリだ。彼は愚痴っぽく話し始めた。
「オレのこと好きだっていう女がいるんだ」
「それは良かったじゃない」
私は思わず苦笑いした。ただの自慢話だったらすぐに電話を切っただろう。が、私はとりあえず最後まで話を聞くことにした。
話を要約するとつまりこうだ。
確かに彼は以前から、「好きでもない女」とスキーに行ったりデートをしたりしているという話をしていた。その女とは合コンで知り合って以来、何度か連絡が来たものだから、女友達の一人として、彼は誘いに応じてきたという。2人でスキーに行ったり、オフシーズンは旅行に出かけたりもしたらしい。そういえば前に会ったときはそんな話をしていたな、と私はキタガワが話し始めてだいぶ経ってから思い出した。他人の恋愛事情なんて、実はそれほど覚えているものじゃない。だいたいそこまでキタガワに思い入れがあるわけでもないし、恋話なんて基本的にその場限りの話題だからだ。
「別に断る理由もないしさ。もしかしたら好きになるかもしれないし」
彼は先月会った際には、言い訳っぽくそう言っていた。しかし、二人きりでデートらしきことをしているのだとしたら、それはつまり「付き合っている」ということだろう、と私は言った。しかし彼は頑として「付き合ってない」と言った。彼が言うには、別に自分が付き合おうと言ったわけでもないし、彼女から言われたわけでもないので、「付き合ってない」んだそうだ。また、別に意識して二人で会っているわけではなく、もともと合コンで知り合ったような相手だから、他に一緒に遊べるような友人もおらず、必然的に二人きりになるだけだ、とキタガワは言い訳した。
確かに恋人になる前段階として、何度かデートを重ねる、というのはよくある話だが、しかし前段階の状態だとしても、体の関係はあるのかと聞くと、ある、と言う。それはずるいんじゃないの、と私は言った。我ながら、「まっとう」なことを言っている。別にその女に同情するつもりも、キタガワを非難するつもりもなく、ただ単に正論を言ってみたというだけだったが。あくまで一般的な意見として。
そのときは私が泣き出したこともあってか、その話は曖昧なまま特に何か解決策を議論するわけでもなく終わったような気がする。この電話はどうやらその話の続きなのだが、しかしあれから1ヶ月も経って、なぜ今日私に電話をかけてきたのか、疑問を感じつつ私はキタガワの話を聞いた。
その日キタガワは、私に電話をする直前に、「好きでもない女」と電話で話していたらしい。その女は電話口で、私たちはいったいどういう関係なんだと彼を問い詰め、泣きだしたという。そういうことか、と私はおおよそ納得し、無理もないよ、と言った。無理もない。無償で体だけ提供するなんて、ムシが良すぎる。いや、たぶん体の問題だけではないのだが。
「もし、彼女が付き合って、って言ってきたらどうするの?ていうか、もう言われてるようなものだけど」
「うーん。今彼女いないしなぁ。それは困るね」
「普通は彼女がいる場合に困るんだけどね」
私は苦笑いした。彼は実際に今日、その「好きでもない女」に問い詰められて、ようやく事の面倒くささを実感したらしい。私は少し彼を軽蔑したが、しかしそもそも彼は私に「相談」をしているのだから、私が彼に物事の善悪を説いてもなんの意味もないのだ。彼はいわゆる世間的な善悪などとうにわかっていて、だからこそ相談してきているわけだ。そして私は彼を正面から非難できるほど「まっとう」に生きているかというと、間違いなくそうではなかった。
考えてみれば英一と私の関係だって、世間的に堂々と愛し合っていると言えるかというと、残念ながらそうではない、と思う。
「だいたい、中途半端な気持ちで、付き合うとかってオレできないよ。なんで女はそんなに付き合いたがるの?ていうかなんで今のままじゃダメなんだろ」
悪びれなく彼がそう言い、私はどちらかというとすっかり呆れた。そのセリフに対しては、いろんな角度からツッコむことができただろうが、逆に言えばツッコミどころが多すぎるのだ。
もともと、彼には、入社した当時から他に片思いをしている女性がいた。それは私は知っていたから、少し議論の視点を変えるべく、その片思いの相手についても聞いてみた。しかしそれは「断る理由」にはならないらしかった。確かにその片思いの相手は、どうもキタガワに気がないようで、彼は何度も告白しては断られていた。
3年間で3回告白した、と彼は私に言った。たまに二人で出かけたりもしていたし、ちょっとは気があるかと思ってたんだけど、全部フラれちゃった、んだそうだ。そういえばそれも、以前聞いたことがあったような気がする。
つまりその片思いの相手とキタガワの関係は、ほぼ今のキタガワと「好きでもない女」との関係みたいなものなのだが、しかしキタガワが、自分がされたのと同じことを他の女にしている、という認識はないようだ。往々にして、渦中の人間が事の本質に気づいていないことはよくあるが、どうやったら彼はそれに気づくことができるのだろう。
もしかしたら、キタガワの中に、片思いの彼女のことを諦めたいという気持ちもあるのかもしれない、と私は思った。しかしキタガワが「好きでもない」のなら、その女は失恋の踏み台にはなりえない。
私は、彼の悩みがまったく理解できないわけではなかった。
一方で、電話口で彼を問い詰めた「好きでもない女」の気持ちも、理解できた。自分の気持ちはきちんと伝えているし、体の関係もあるのに、付き合っているかどうかもよくわからないなんて、それは泣き出したくもなるだろう、と私は思った。そう思ってから、自分と英一の関係について考えた。よく考えてみれば、そう変わらないのかもしれない。無償で体だけ提供する関係。ただ私も英一も、「好きでもない」女とは違って、問い詰めたり泣き出したりはしないだけだ。じゃあどうして私も英一も、泣き出さないんだろう?
「ぶっちゃけ、付き合ってるかどうかなんて、オレどうでもいいんだよね」
キタガワが多少やけっぱちな感じでそう言ったので、やれやれ、と私は思った。
「あのさ、付き合うという契約があろうがなかろうが、やってることは同じだよ」
「そう、だから今のままでいいじゃん?なんでオレ泣かれたの?っていうかオレが泣かしたの?」
「普通に考えればそういうことになるねぇ」
私はまた、意味もなくイライラしていた。
「付き合ったとして、どうせすぐに別れるんだよ。だって好きになれないもん。オレ、それは嫌だなぁ」
キタガワは相変わらず悪びれなくそう言い、私は本当に腹が立ってきた。腹が立っている自分に気づいたが、今度はその怒りが収まることはなかった。
同時に、私は牛角で泣いたときのことを思い出していた。彼は臆せずに、私のやっていることは間違っていると言った。あのときの彼と、今電話で話している彼は本当に同一人物だろうか?私はにわかに信じられなくなった。自分の言ったことをそんなに簡単に忘れるものだろうか?私は何であのとき涙を流したんだろう。
「あのさ、この前私に、好きじゃないなら別れろ、って言ったのはキタガワだよ。あの言葉、そっくりそのまま返してあげるよ。」
私がそういうと、彼は急に黙ってしまった。思い出したのだろうか?言ってしまうと、思いの他すっきりした。少し言いすぎかな?とも思ったが、私は特に後悔はしなかった。そのあと2、3言やり取りをしたが、キタガワは最終的に、わかった、といってあっさりと電話を切った。
「やれやれ」
私は携帯をテーブルに置くと、声に出してそうつぶやき、ふと時計を見た。キタガワから電話がかかってきてから、1時間半以上が経っていた。思いのほか長話をしていたようだ。切っていたテレビの音量を元に戻すと、切ったばかりの電話がまた鳴り始め、今度は英一からだった。
「何度電話しても話中だったけど、誰と電話してたの?」
と彼は聞いた。私はまた少しうんざりして、後輩だよ、と正直に答えた。彼は納得したのかしてないのか、そうか、とだけ言った。
ふと、キタガワに言ったようなことを英一に言えたら、どんなにすっきりするだろうと思った。ただ私には、彼のように自分のことを棚に上げる勇気がなかった。
「自分が期待させるようなことしておいて、電話で泣かれて困ったんだってさ」
私は思い切って英一にキタガワの相談の内容を一部公開した。
「ひどい男だな」
私が茶化してそう言ったので、英一は少し笑って、私が想像した通りの言葉をはき捨てるように言った。まっとうな反応だ、と私は思った。
どうでも良い世間話をして、五分もすると、おやすみ、と言って彼は電話を切った。