表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ゲーム  作者: 神藤聡
3/8

 その日私は定時であがる予定でいた。チャイムが鳴る十分前、私は今日の分の作業が終わって、残りの数分をのんびりとニュースサイトを眺めて過ごしていたのだが、ふとカバンの中に入れていた携帯電話が振動する音が聞こえた。仲の良い後輩からのメールだった。

 

 『ハギさん、今日ヒマー?』

 

 彼が送ってくるメールはいつもすごく手短だ。その気軽さは嫌いではない。しかし自分の周辺がごたごたしていたこともあってか、私はここしばらく彼の存在をすっかり忘れていたことを思い出した。そういえばしばらく顔を見ていない。

 

 『ヒマですよ』

 

 手短なメールなら、こちらも気を使わずに手短に送ることができる。実は女の子同士がやり取りするような、顔文字つきの長文メールは、私はあまり好きではないのだ。それはおそらく、同年代とのコミュニケーション能力が鍛えられるべき思春期時代を、男ばかりの環境で過ごしたせいに他ならない。学生時代の環境が、さまざまな面において私からある意味での「女性らしさ」を奪った。

 まぁ、メールに関して言えば文面を考えるのがただ面倒なだけで、できれば要件だけですませたいというのが本音なのだが。最近では男でも面倒なメールを送ってくる輩がいる。


 『飲みに行こうよー。定時であがる人?』

 

 すぐに返事が来た。彼のメールは短い分、レスポンスも早い。


 彼とは、一年に一度くらいの頻度で飲みに行こうと誘いが来て、行き当たりばったりに飲み屋に入り、大して酒も飲まずにひたすらお互いの恋愛事情について語り合う、というつかず離れずの関係をもう三年も続けている。もともとは私が2年目のときに、彼が新人として私が所属する部署に配属されたときからの付き合いだが、実際の年齢は彼のほうがずいぶん年上だというのもあってか、彼は最初、私に対してずいぶん馴れ馴れしい態度を取った。いや、馴れ馴れしいのは相手が私ということに限らないようなので、単に彼の性格なんだろうとは思う。

 しかし私もまだ2年目だったから、あまり先輩後輩ということは意識せず、タメ口も話しやすい、くらいにしか思っていなかったりした。だいたい2人で飲みに行っても、彼は自分の話しかしないのだ。私はもともとあまり自分の話をするのが得意ではないから、彼のようなタイプは扱いやすかった、というのもある。


 だいちゃんから、夜電話する旨のメールが来ていたが、そろそろ私は面倒になって、どうでもいいメールは返事をしないことがあった。だいちゃんに対して誠実である必要はなくなっていた。どちらにしても友達としての関係はすでに失っているのだ。少々の罪悪感に私は目を瞑った。

 私は定時に仕事をあがって、本社の1階で後輩が降りてくるのを待った。


 2時間後。

 牛角は思いの外混んでいて、私たちは入り口近くのカウンター席に座っていた。酔っ払いばかりの店内は、「ワタミ」ほどではないにしてもそれなりに騒がしく、みな酒を楽しんでいるように見えた。私は2杯目のスプモーニをなるべくゆっくり飲んでいて、キタガワはビールを1杯とカシスオレンジを2杯、飲み終わったところだった。

 

 「それって都合の良い女ってことじゃん」

 

 一通り自分の近況について説明すると、キタガワは話も終わらないうちにそう言った。私は多少むっとして、そうかもね、とあいまいに答えた。

 

 「彼はたぶんハギさんのことちっとも好きじゃないと思うよ」

 

 キタガワは、まるで英一と話したことがあるみたいに、さらにそう断言した。あまりはっきりとそう言ったので、この人と英一が実は知り合いなんじゃないかとさえ思えた。それもかなり親密な仲の。私は少しイライラした。何も知らないくせに、と私は心の中で強く思った。よっぽど、それを口にしようかと思ったくらいだ。何も知らないくせに。

 もちろん、キタガワが私たちの関係をよく知っているわけがなかった。英一は以前私たちと職場を同じくしていたが、キタガワと英一が仕事上で関わることはありえなかったし、一度見たことがあるくらいなら有り得たが、言葉を交わす機会はなかったはずだ。それに、それまでキタガワが自分の話をすることはしょっちゅうあったかもしれないが、私が自分の話をすることはあまりなかったし、話しても、私は表面的なことしか言わなかった。私の話から、英一という人物像を作り上げるのは、かなり高度な技術を要するような気がする。

 つまり私は、自分と彼との関係についてその程度の仲だと思っていたのだ。私が「まっとう」であるために努力したことも、いまだに英一が毎晩きちんと電話をくれることも、私が英一を失うことをどんなに恐れていたかも、彼は知らない。

 

 「オレ、彼の気持ちわかるよ」

 「どうして」


 気づくと、追い詰められていた。あまりに腹が立っている自分に気づいて、戸惑ったのだ。


 「彼を傷つけたくないとかいって、自分が悪者になるのが嫌なんでしょ?それは彼も同じだから、気づいてると思うよ。ちゃんと別れてあげなよ」

 

 怒りのあまり涙が出ることは、ままあると思う。ありえない話じゃない。ただ、この涙が100%怒りによるものなのかというと、それもまた少し違うという気がした。

 私は、後輩の隣でおしぼりを握り締めて泣いていた。なんだこれは、と、自分に対して思った。ただ、悲しくなった。泣きながらいろんなことを考えたような気がしたが、悲しみはブラックホールみたいにそれらをすべて吸い込んで、気が付いたらぼんやりして何も考えていなかった。うまく言葉にならない感情が突然襲ってきて、抗う暇もなく気が付いたら涙が出ていたという感じだ。

 冷静になってみると、彼の言っていることは至極まともだった。まともすぎて、少し的を外しているのかもしれない。一般論としての正論というものは、おうおうにして個々人の事情を無視した上で成り立っている。それでも、私は彼の言葉に悲しくなった。私は少し疲れていたのかもしれない。

 おしぼりで目頭を押さえる私を見て、後輩は初めて私が泣いているのに気づいた。私の顔を覗き込むと、彼はさも驚いたように

 

 「泣いてる!」


と言った。私が泣くようなことを、彼は言ったつもりはなかったんだろう。よほど驚いたのか、それきり黙ってしまった。この人は女性を泣かせたことがないんだろうか、と私は思い、そんなことはないだろう、と思い直した。私は少し恥ずかしくなって、彼の次の言葉を待ったが、彼は何か考え込んでいるようにも見えた。

 好きでもない男の前で泣いたことなんてなかったので、ふいに自分の状況と後輩の対応が可笑しくなってきて、私は泣きながらくくくっと笑った。なんだこれは、とまた思った。少し酔っているのかもしれない。

 隣で泣いている女性に対して、この男はどんな言葉をかけるのだろう。それに少し興味がわいた。怒りはとっくに私の中から消えてなくなっていて、まるで最初から怒ってなんかいなかったかのように、私は心から可笑しくなった。私はもうしばらく後輩の言葉を待っていたが、やがてまた笑いがこみ上げてくる。笑いながら、さっきまであんなに怒っていた自分が、今こんなに可笑しくなっていることが心底不思議だった。おそらく、涙を流すと言う行為によって悲しみが発散されたのだ、と私は思った。

 私が笑ったのを見て、彼は


 「今度は笑ってる!」


とまた驚いたように言い、そして自分も笑い始めた。しかし笑っているキタガワを見ていると、また腹が立ってきた。彼は心底おもしろそうに笑った。私は、またイライラしている自分にすぐに気づいた。そのイライラは、気づくと同時に自己嫌悪に変わった。私は苦笑いをしながら、やれやれ、と思った。この人と話していると、ジェットコースターみたいに感情が上がったり下がったりする。自分のペースを乱される。たぶんもともとは苦手なタイプなのだ。

 キタガワは笑いが収まると、急に真面目な顔をして言った。


 「でも、好きでもないのに付き合ってるなんておかしいよ。それは間違ってる」


 私が泣いたにも関わらず、彼が何事もなかったように同じ話を続けようとしたので、私は、うん、とうなづきながら思わずまた笑った。無神経な男だ。彼は謝りもしないし慰めたりもしなかった。私は、彼に相談した自分が間違っていた、と思った。少なくとも今夜、私が期待するような言葉を、キタガワの口から聞くことはないだろう。むしろ、それで良かったのかもしれない。

 しょうがないな、と私は思った。自分が間違えたんだから、それはしょうがない。


 「ハギさんでも泣いたりするんだねぇ」

 

 彼がまたノーテンキにそう言ったので、鬼の目にも涙って言うしね、と私は嫌味をこめて冗談を言った。それから、追い詰められてもまだ嫌味を言う往生際の悪い自分にまた可笑しくなった。



 22時をまわったころ、私たちは牛角を出た。彼は自宅が遠いので、飲みに行ってもいつも割と早く切り上げる。それは私にとって安心する要素の一つだった。それは単に彼の都合だったのだろうが、日付が変わるころには寝てしまう、私にとっても都合が良かった。

 22時半の東横線は、それなりに混雑していた。電車の中でつり革につかまりながら、私は今日感じた怒りや可笑しさについて思い出していた。彼と次にまた会うのは、とうぶん先のことだろう、と私は思った。もともと1年に1度会うかどうかくらいの仲だったのだ。今日のことをすっかり忘れたころにようやく、また誘いが来るんだろう。

 しかし涙を流したからか、どこかすがすがしいような感覚があった。そして、英一と別れ話をしてから、初めて人前で泣いた、ということに私は気づいた。むしろ、人前で泣くなんて十年ぶりだ。だいちゃんが会いに来てくれたときも、同期が飲み会を開いてくれたときも泣かなかったのに、どうして一年に一度会うかどうかもわからないような後輩の前で涙が出たんだろう?

 私は後輩のことを、一番仲が良いわけでもなく、恋心があるわけでもない、ある程度距離のある相手だと思っていたから、自分が後輩に対して心を開いたかどうかなんて考えもしなかった。ただ少し疲れていたんだろうと思った。

 白楽駅に到着すると雨の匂いがしたので、私は急いで自宅へ向かう坂道を駆け下りた。


 次の日、私はめずらしく自分からだいちゃんに電話した。だいちゃんは、私がメールを無視したことを怒っていた。返事くらいしろよ、と彼は言い、私は、やれやれ、と思った。彼が怒る理由をまったく理解できなかったし、あるいは怒られる筋合いはないという気もしたのだが、それでも私はとりあえず謝り、友達と会っていたら夜遅くなっちゃって、と簡単な言い訳をした。

 それから、"英一とよりを戻したからあなたとは付き合えない"という旨をだいちゃんに伝えた。極力申し訳なさそうに、そうすべきだと思ってそう言った。実際のところ、完全によりを戻したわけではなかったが、英一との関係がどうあれ、彼と付き合う気にはどうしてもなれなかった。英一の名前を出したのは、その方が話が早いと思ったからだ。

 だいちゃんは傷ついたような声で、「それは残念だ」と言い、それから、彼から連絡が来ることはなくなった。私の夜の時間は少し手持ち無沙汰になり、ランチ仲間が一人減った。ユウジは一部始終を知っていて、だいちゃんがランチにあまり参加しなくなったことについて、気にするな、と私に言ってくれた。鈍感なモッチが、最近だいちゃんの姿を見ない、と時々言い、私は少し後ろめたくなったが、その度にユウジがさりげなく、最近忙しいみたいよ、とごまかしてくれた。私は、また話ができるといいんだけど、と思い、それから、もうちょっと早くこうすれば良かったかな、とも思った。

 しかし、少し肩の荷が降りたような気はした。



 その週末は、英一が私の部屋に遊びに来た。いったん別れてから、英一は本当に優しくなった。イベントはあまり好きではないと昔言っていたのに、クリスマスプレゼントを買いに行くと言い出したり、仕事が終わった後に電話をかけてきたりした。しかしどちらかというと、私にとってはそういうことはどうでもよかった。彼は私を失わないようにそうしているということが私にはわかっていたし、そういう努力がいつまでも続くわけじゃないというのは、経験的に重々承知していた。


 これはゲームなのだ。

 自分が、彼のそういう努力によって、彼に再度好意を持つことができるような、そういう女だったら良かったのに、と思った。高価なクリスマスプレゼントやマメな電話に、自分は幸せなのだと勘違いできる女だったら良かったのに。

 しかしじゃあ自分にとって幸せとは一体なんなのか、あるいはそれまでどんなことで幸せだと感じていたのか、私はすっかり思い出せなくなっていた。

 

 五分も待つと、スーツ姿の英一が階段を降りてきた。彼は私のかさの中に入ると、少し笑って言った。


 「会いたかった」


 私は返事の代わりに笑顔を返した。


 いつものように、駅から続く500mほどの坂を下り、自宅に一番近いコンビニで2人分の弁当を買うと、それを私の部屋で食べた。英一はベッドに座ってミックスフライ弁当を食べ、私は床に座ってカツ丼を食べた。食べ終わってゴミを片付けると、二人でテレビゲームをしたりテレビを見たりして、日付が変わるころには狭いベッドにもぐった。シングルサイズのそのベッドは2人で眠るには狭かったが、私も英一も寝相が良い方だったので、それほど苦にならなかった。私たちはテレビゲームの結果についてひとしきり議論したあと、おやすみのキスをした。彼もあまり自分の話をする方じゃなかったから、二人でいるときの会話というのは、決して多い方ではなかったと思う。目を閉じたまま、おやすみと言って彼はすぐに寝息を立て始めた。

 私はなかなか寝付けずに、英一を横目で見ながら、お泊り会みたい、とふと思った。小学生のとき、年に何回か、女友達の家に遊びに行って泊まることができたのだが、私たちはそれをお泊り会と呼んだ。もちろんお互いの両親の許可が必要だが、昼間にしか会えない友人とパジャマ姿で夜のプライベートな時間を過ごすというのは、より親密な感じがしてどきどきしたものだ。

 しかし英一と私は2人ともそれなりに大人で、しかも英一は男で私は女だ。私たちはもちろんプラトニックな関係というわけではなかったが、毎日のように求め合うほど若くもなく、ただ並んで眠るだけのこともよくあった。

 私は、英一もまた女だったら良かったのに、と意味のないことを考えていた。

 お泊り会をした女友達とは、何回かの転校の末、もう連絡を取らなくなっている。今ごろはもう就職先を見つけて働いているだろう。私は彼女がスーツを着て働く姿を想像してみた。当時メガネをかけていた彼女は、最後に会ったときもやっぱりメガネをかけていたが、スーツ姿にそのメガネは良く似合うだろうと思った。


 それから私はふと、英一も寂しいんだな、ということに気づいた。慰め合う関係、というのはきっとこういうのを言うんだろう、と思い、それはそれでアリかな、という気もした。いつまでもそれが続くということはありえないが、時期が来るまでは現状を維持していても許されるような気がした。

 ふつふつと湧き上がる空しさには気づかないふりをしつつ、私は日々をこなした。

 結局は私も英一も、誰も変わっていないということは知っていたが、そんなものかもしれないとも思っていた。日常は所詮同じことの繰り返しで、楽しいとか苦しいとか、そうあることじゃない、とどこか割り切っていた。変わったのは私とだいちゃんとの距離くらいのものだ。ただそれも、日々が過ぎれば私にとって取るに足らないことだった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ