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ゲーム  作者: 神藤聡
1/8

負け犬

 タクシーは県道十二号線を西に向かって走っていた。


 私は後部座席でぼんやりと窓の外を見ながら、ときどき勝手に出てくる涙をぬぐった。タクシーの後部座席で涙をぬぐう若い女。韓流ドラマでこんなシーンがきっとどこかにあるんじゃないかと私は思った。とはいえ、実際に韓流ドラマをきちんと見たことはない。


 運転手は、私が泣いているのを知ってか知らずかときどき話しかけてきて、私は仕方ないので平静を装いつつ適当に相槌を打った。ときどき、バックミラー越しに運転手の視線を感じたが、私は頑なに窓の外を見続けた。絶対にしゃくりあげたりしなかったし、涙をぬぐうのも、疲れた目をこするみたいに目頭を押さえる程度にした。薄暗い車内で、それがどの程度効果があるのかはわからなかったが、見ず知らずの韓流ドライバーに泣き言を吐くことだけはしなくなかった。そうすれば余計に惨めな気持ちになることを知っていたのだ。

 本当はどちらかというと放っておいて欲しかったし、そうしてくれればほんの十五分程度の道のりをやり過ごすことくらい簡単だった。しかし私はどちらかというと八方美人の性分で、残念ながらこの人の良さそうな白髪のおじいさんを完全に無視する度胸すら持ち合わせていなかった。

 もしかしたら私がただ普通にしていれば、そう話しかけられることもなかったのかもしれない。しかし声を出せば濡れているし、眉間にしわを寄せるのをやめることもできない。何しろ涙は勝手に出てくるのだ。泣くのをやめられないことがなおさら悔しかった。


 彼は今年はずいぶん寒いとか、イチローがメジャーリーグでがんばってることとか、どちらかというとどうでもいいことばかり話した。私はすでに彼がわざとそうしていることに気づいていた。車内にはなんともいえない空気が満ちている。

 

 「今年の冬は寒いって言ってたからねぇ」


 そう言うと運転手はちらりと横目でバックミラーを見た。


 「おじょうちゃんも風邪には気をつけたほうがいいよぉ。オレの友達、風邪引いたーつって死んじゃったよ。まぁ歳が歳だったから、おじょうちゃんは死ぬこたぁないだろうけど、あれは甘く見ちゃあダメだねぇ。ダメだダメだ」

 

 彼は気を使ってくれているのだろう。私は、余計なお世話だと思った。しかしおせっかいだからと言って彼を非難しなければならないほど、被害者ぶるつもりもない。

 被害者、と私は思った。自分が被害者であるとは、少しも思いたくは無かった。その言葉は自分を惨めにするだけのような気がしたのだ。自業自得だと思っているほうがまだマシだ。

 しかし運転手にしてみればそんなふうに見えるんだろう。別れ際、ドア越しに手を振った英一の申し訳なさそうな顔。この白髪のドライバーは、英一から受け取った大きな荷物を、愛車のトランクに運び入れてくれた。状況から事情はすぐに察知できただろう。

 涙はまだ止まりそうになかった。


 窓の外はだいぶ暗くなっていて、どの車もヘッドライトを煌々と照らしながら反対車線を通り過ぎていった。あと十分もすれば、二週間ぶりの自宅に到着する。片側二車線の左車線は路註車が点々と道をふさいでいて、車線は一つしかないのと同じだった。それでも渋滞と言うほど混むのでもなく、空いているというほどでもなく、この3kmの道のりにちょうど十分くらいはかかるだろう。この通りは信号が多い。

 私は、早く家に着けばいいのに、と思った。その十分は、途方もなく長く感じた。



 英一と付き合い始めたのは、ちょうど1年くらい前のことだ。職場で知り合って、お互いそれぞれに彼氏(彼女)の存在があったが、先に英一がその彼女と別れた。そのあと私は当時の彼氏と別れることを決意した。どちらにしても、私と、その当時の彼氏とは、決してうまくいっておらず、いずれ別れるつもりでいたのだ。英一はきっかけを作ったに過ぎない。よくある話だ。


 付き合って半年くらいから、私と英一はほとんど同棲に近い生活をするようになった。私が自分の部屋に帰るのは、服を取りに来るとか掃除をするとか、用があるときだけになっていた。私は英一のために毎日食事を作ったり、英一の部屋を定期的に掃除したりした。別に頼まれたわけじゃない。英一が仕事で遅くなることが多かったので、暇な時間を持て余していただけなのだ。

 しばらくは、英一がそういう私に満足しているように見えた。私にとっても、それはとても「まっとう」な関係に思えた。結婚とか、あまり先のことは考えていなかったし、彼の部屋で長い時間を過ごすようになって、居候なりに何かできることをしようと思っただけなのだ。一度彼のお母さんが田舎から上京してきたときに会わせてもらったことがあったが、そのとき何か具体的な言葉を言われたわけではなかったし、私はなんとなく良い機会だったから会わせてくれたのだろう、くらいにしか考えなかったが、彼はもしかしたら意識していたのかもしれない。あるいはもしかしたら、勝手に掃除をしたり料理を作ったりする私の行動によって、まだ若い彼にプレッシャーを与えていたのかもしれない。そんなのは、今思えば、の話だ。当時の私は何も気づいちゃいないし、深く考えてもいない。

 だから私には、英一が突然別れを切り出したように見えた。


 「好きなのかどうかわからない」

 

 英一がそう言ったとき、私はすでに英一の部屋に存在していた自分の荷物をまとめ始めていた。英一が距離を置きたいというのだから、私はここにいてはいけない、と思い、でも、英一が止めてくれるのを期待していた。毎日を過ごすうちに少しずつ増えていった、大量の服や持ってきていたCDを、私はどんどん袋に詰めていった。英一はずっと、ただ黙って見ていた。英一は、何も言わなかった。私が、黙々と服や靴を詰め込んでいる間も、ただそれを見つめるだけだった。

 それで、ぼろぼろと涙が出て止まらなくなった。やっぱり向いていないんだろうか、と私は泣きながらぼんやりと思った。私は、「まっとう」には向いていないんだろうか。努力していると思っていたのだ。英一との関係を良好に保つために、努力したつもりでいた。

 私は、君を傷つけるまで別れない、と言った元彼の言葉を思い出していた。元彼を失うのはちっとも怖くなかったのに、英一を失うことは、自分でも信じられないくらいに怖かった。

 ハンムラビ法典、と私はふと思った。自分のしたことは必ず自分に返ってくる。宇宙の法則。



 私がここで、というと、タクシーは音も無く狭い住宅街の道路の脇に停車し、運転手はそそくさと外に出た。彼は私が財布から小銭を出している間、トランクから、ビニール袋二つと、布製のトートバッグ一つにまとめられた荷物を出して、マンションの入り口まで運んでくれた。私は開いたドアから外に出ると、お礼を言って料金を払った。


 「元気出しなよ。まだ若いんだから」

 

 ブレザーのスーツを着た、70近いと思われるそのドライバーは、そう言うと背中を丸めて車に乗り込んだ。私よりもずっと長い時間を生きている彼には、今日私の身に起こったことなんかよりもずっと辛いことがたくさんあったんだろうな、と私はふと思った。それらに比べたら、男にフラれることなんて屁でもないんじゃないかという気さえした。それなのに、このおじいさんはきっと、自分の孫娘に対しても、こんなふうに気を使うんだろう。

 私は、走り去るタクシーを見送り、大きな荷物を抱えると、それを4階の部屋の入り口まで運んだ。この古いマンションにはエレベーターがないので、私は階段を一往復半しなければいけなかった。

 誰もいない部屋に入るのは、少し怖い気がした。それから、これからは一人で生活しなければいけないことを考えて、少し憂鬱になった。もともとはちゃんと一人暮らしをしていたのに、一人という状況が恐ろしいような気がして、もしかしたら私はただ一人が怖いから英一と付き合っていたのかもしれないとさえ思った。

 本当はもっと前になんとなく気づいていたのだ。英一が私との関係に疑問を感じ始めていたことを。私もそんなに鈍感じゃない。ただ、その不穏な空気を持て余した。わかってはいても、どうしていいかわからなかった。私には英一の気持ちが痛いほどよくわかっていた。



 英一と付き合う前、つまり英一の存在によって別れることになった男とは、もともとあまりうまくいっていなかった。と先にも書いたが、それはたぶん私のほうに原因があった。たぶん、というか、かなり決定的に。男の方が実際どう思っていたか、詳しくはわからないが、少なくとも私はそう思っている。

 具体的に言うと、彼と付き合って別れるまでの3年半の間に、私は4人の男と浮気をした。ここでいう浮気と言うのは、交際相手以外の男性に体の関係を持つ、という意味での浮気だ。実は4人とも、彼と別れてちゃんと付き合おうと思うような男ではなかった。実際、一晩だけ、というのがほとんどだ。気の迷い、とか、一時的な感情とか、私がもっと正直な女なら、そんなふうに言い訳しただろう。ともかく、それはフラれるのにはじゅうぶんな要因だと思う。

 それでその事実は、4人目との関係の後、元彼も知ることになる。しかし彼はそれをすべて知った後も、私との関係を続けた。


 彼が私宛の電子メールを読むことによってその事実が発覚したとき、彼はもちろん私を非難したし、最低だと言った。もともとそれほど饒舌ではない男だったが、その日はそれまで彼が一度も口にしたこともないような汚い罵声を延々と私に差し向けた。それは確かに苦痛ではあったが、一通り吐いてしまえばいつか終わりが来ることがわかっていたので彼が言い終わるまで私はじっと待った。しかし普段温厚な彼の口から出たその言葉の汚さに、私はむしろ驚愕した。(あまりにひどい言葉なので、彼の名誉のため、ここにはあえて書かないことにする)

 私はただ謝った。圧倒されたのかもしれない。ただ、何を言っても意味がないと思ったので、言い訳らしい言い訳もしなかったと思う。そんな言葉を吐かせるくらいに、私は彼を傷つけたのだろうと思った。しかしその私のやり方は、彼にとっては、逆に納得のいかないものだったようだ。とってつけたような言い訳をしたり、自分の非を認めないような逆切れを起こしてくれたほうがまだマシだった、と後々、彼は言った。

 私はそのとき、間違いなく自分がフラれるのだろうと思っていた。なぜ自分がそういうことをしたのか、そのときは自分自身がよくわかっていなかった(あるいは自分自身ときちんと向き合うことを放棄していた)が、しかし常識的に考えて、自分は悪いことをしたという認識もあったし、罪悪感もきちんと持ち合わせていた。私は彼を傷つけたことをとても申し訳なく思い、責められても、それは当然だと感じた。嫌われた末にフラれるのを覚悟していた。だからこそずっと隠していたわけだが。

 ただ、もし4人目でバレなかったとしたら、5人目の存在があっただろうか?あったかもしれない。その可能性は今も否定できない。


 ともかく、彼が別れたくないと言ったとき、私はとても納得がいかなかった。


 彼は、今は、別れたくないと言った。君を傷つけたい、とそのとき彼は言った。僕が傷ついたのと同じくらい傷つけたい。傷つけるまでは別れない。目には目を、だ。ハンムラビ法典だ、と私は思った。自業自得だ。


 そのあと彼との関係は2年もの間続いた。いつまで付き合ったら、自分が彼に対して責任を果たすことができるのかについて、私はずっと悩んでいた。悩みながら付き合いを続けた。実を言うと、付き合う、という行為はとても簡単なことなのだ。定期的に会って、たまにセックスをして、たまに旅行に行けばいい。ただし、その間は必ず、楽しそうにしていること。セックス以外は、それなりに楽しむことができた。セックスはほとんど我慢するしかなかったが、以前のように浮気をする気にはならなかった。私はとても失望していたのだ。いろんなことに失望して、いろんなことに諦めを感じていた。

 そうしているうちに、彼が私を傷つけることができて、彼が納得できたら、別れることができるんじゃないかと私はのんきに思っていた。そうすることで、もしかしたら報われるのかもしれない、と思っていた。別れるために付き合っていたわけだ。


 私は最初から傷ついていた。彼に傷つけられたのではなく、自分自身によってすでに傷ついていたのだ。彼が私を、彼の手によって傷つけられるわけがなかった。



 そんな頃、英一と出会った。英一は、私とはだいぶ違った。私に彼氏がいることを知っていて、だから何もしてこなかった。お互いに好意を持っていることは明らかなのに、英一は私に触れようとしなかった。2人きりで食事に行っても口説いたりしなかったし、混雑した電車の中で密着しても、わざわざ体を離すようにした。意識してそうしている英一が、とても健全に思えた。まっとうな人だ、と私は思った。

 その「まっとう」が私は欲しくなった。自分は「まっとうじゃない」と思っていたから、英一の正しさみたいなものが、まぶしく見えた。それで、私は責任を果たさないまま、そのハンムラビ男と別れた。何しろ浮気されても別れないという男だったから、別れるのにはそれなりに苦労したが、私は時間をかけて彼と別れた。要するに私は彼と別れるのが面倒だったのだと思う。時間が掛かることが目に見えていたから、付き合っているほうがラクだったのだ。

 男は、友達としてときどき会ってくれるなら別れてもいい、というよくわからない条件を出してきて、私はとりあえずその条件を飲んだ。その条件に何の意味があるのか、私にはさっぱり理解できなかったが、とにかく別れることができるならなんでもよかった。もしかしたら彼は、友達としてでも私を傷つけたかったのだろうか?


 ともかくそれで、英一と付き合い始めた。付き合ってみたら、英一はやっぱり「まっとう」だった。常識的で、世間体を大事にした。私はなるべく彼の価値観や考え方みたいなものに合わせるように努力した。それで、自分も「まっとう」になれるんじゃないかと思った。もちろん浮気なんかしなかったが、英一はよく、浮気は絶対に許せない、と私に言った。過去のこととはいえ、自分が浮気をしたことがあるなんて、とても言えない空気がその言葉にはあった。



 1往復半の上り下りのあと、息を切らしながら1kの狭い部屋の鍵を開けると、急いで電気をつけた。それから、部屋がホコリくさいような気がして、とりあえず窓をあけた。もうこの時期に虫が入ってくることもないだろうが、念のため網戸は閉めた。

 それだけやると、上着を着たままベッドに倒れこみ、ふと思いついてカバンから携帯電話を取り出した。別れ際、念のため到着したら連絡するように、と英一は言った。その言葉に、まだ嫌われてはいないという希望を持つこともできなくは無かったが、しかしそれだけでその先の関係を期待できるほど子供なのでもなかった。悔しいので、「着いたよ」とだけ書いたシンプルなメールを送った。英一からは返事は無かった。

 私はまた悲しくなって、気を紛らわそうと携帯のメモリの「友人」フォルダを眺めた。日曜日の夜7時にそれほど忙しくしている友達はいないつもりだった。決心して、なるべく最近まで連絡を取っていた十人を選び出し、一括でメール送信した。なるべく落ち込んでいる雰囲気にならないよう、短い文面を打ち込んだ。

 五分、十分とそのままぼんやりしていると、ぞくぞくと返事が返ってきた。といっても、リアルタイムで返事が来たのは普段からメールのやり取りをしている男友達ばかりだ。

 もっとも、「最近まで連絡を取っていた十人」の中で女性といったら、もうすでに寿退社して名古屋に引っ越してしまった一人しかいない。男社会で生きてきた私にとって、友達といえば99%が男だった。こういうとき、実は男友達というのはあまり頼りにならないことを、私は知っていた。でもいないよりマシだ。そういえば英一には友達らしい友達がいなかったな、と私はふと思った。

 

 「ふられた」メールに対しての返事は相手によってさまざまだったが、やたらと長文で慰めてくれているものもあれば、熟考した上でなのか深く考えずになのか、シンプルに「元気出せよ」とだけのものもあった。

 

 『気にすんなよ。別れて良かったとオレは思う』


 『え〜〜!チョーびっくりしたよ

  大丈夫??元気出してね!

  また飲みに行こうよ!』

 

 メールの文面にはそれぞれの人となりが見えるようで、少し気が紛れた。涙はいつのまにか止まっていた。もともと、自分が悩んでいることや傷ついていることを友人に明かすというのはほとんどなかったが、何もしないよりはマシなんじゃないかと思ったのだ。少なくともメールを打っている間は、英一のことを考えずに済んだし、その行為によって、少なくとも自分が一人ではないと勘違いできた。そのくらい、私はダメージを受けていた。私はすぐに返事をくれた何人かに、またすぐメールを打つと、少し寒くなったので窓を閉めた。上着を脱いでエアコンのスイッチを入れた。古いエアコンは、大きな音を立てて動き始めた。テレビとパソコンのスイッチを入れて、これからの週末はいったい何をしようかと考えて、また憂鬱になった。テレビゲームだとか競馬だとか、英一の趣味に付き合うのが趣味、みたいな週末ばかりだった自分を、少し、いやだいぶ、惨めだと思った。

 

 突然、電話の着信を知らせるメロディが鳴った。私は一瞬英一かと期待して、ディスプレイに表示された友人の名前を見て少しがっかりした。一括送信したうちの一人からだった。だいちゃんは平日のランチをよく一緒に食べるメンバーの一人だった。通話ボタンを押して電話を取ると、


 「もしもし、大丈夫か?」


と彼は言った。それから、今から横浜まで来ると言い出した。


 「今から?」

 「うん。京浜東北線に乗ればいいんだろ?大森から何分くらいかかる?」

 「たぶん、15分くらいだと思うけど」

 「んじゃ30分以内に行くから。飯食ってないよな?おごってやるよ」


 本当のことを言えば、彼と平日の会社以外の場所で会ったこともなかったし、ましてや彼と二人きりで食事なんかしたこともない。私は少し面食らった。単に報告をしようと思っただけだったのに、想像もしなかったことが起こった、と私は思った。気安く誘いにのっていいんだろうか、と私はどちらかというと自分自身のやや軽率な性格を思った。相手は同僚だ。何か間違ったことになると後が面倒になる。

 が、もう男と二人で会うのに誰に気を使う身分でもない、ということに気づくと、どちらかというとやけっぱちな気分で、わかった、と答えた。少なくとも私はもう「まっとう」である必要はなくなったのだ。

 電話を切ると、さっき脱いだ上着をもう一度着て、念のため鏡で自分の顔をチェックし、つけたばかりのテレビとパソコンの電源を落とした。



 加藤大祐は、横浜駅構内の駅ビルの入り口で待っていた。3年前、入社当時には、色白でメガネをかけた、いかにも理系男子だったのに、気がついたら髪を短く切り、メガネもコンタクトになって、白い歯もさわやかな好青年に成長していた。きっと、入社当初からずっと付き合っているという彼女の影響なんだろう。もともと身長もそこそこだし、週末にやるというフットサルのおかげか、それなりに体格も良いから、そのスタイルは彼に良く似合っていた。その日彼はベージュのコットンセーターにジーンズという格好で、駅ビルの入り口手前の柱に寄りかかって立っていた。

 私が後ろから彼に近づき、ぽんぽん、と肩をたたくと、ちょっとおおげさなくらい彼は驚いた顔をした。


 「びっくりさせんなよ」

 「何言ってんの。呼び出したのはそっちだよ」


 日曜の20時とは言え、構内はそれなりに人が多い。私たちは地下街の方へ向かい、その中のレストランで食事することにした。彼はあまり横浜には来ない、といい、私が地下街に何件かレストランがあると提案した。それで、適当に歩いて見つけたイタリアンの店に入った。彼は普段よりもわざと明るく振舞っているように見えたが、おそらく気を使ってくれていたのだろう。


 「そういやハギと会社以外で会うの、ログハウス以来だな」


 私は、友人や知人の間では、主にハギと呼ばれていた。「やはぎ」という苗字だから、ただそれだけの理由だった。私のことを「くみ」という下の名前で呼ぶのは、今のところ両親と英一だけだ。そしてもう二度と英一に私の名前を呼ばれることはないだろう。

 私とだいちゃんを含む、同期の仲良しグループは毎年、会社が管理する保養所へ旅行に行った。ログハウスというのはその保養所のことだ。


 「そういえば、最近飲み会も減ったね」

 「そうだな。よし、来週にでも集まって、『ハギを励ます会』でもやるか。オレみんなに声かけるわ」

 「えー。普通の飲み会でいいよー。なんか恥ずかしいし」


 そんなふうに、私たちは当たり障りのない話をしていた。だいちゃんは格好つけてワインを注文し、私は、白じゃないと飲めないよ、とだいちゃんに釘を刺した。いつもと違う日曜日だった。私は少しの間、英一のことを思い出さずにいることができた。


 涙を流して水分が不足していたのか、ワインは染み込むように私の体の中を満たした。アルコールが猛スピードで体中の血管から血管へ流れていった。私の頬はすぐに赤くなり、私は加藤大祐に対し、たぶんいつもよりも少し気を許していたと思う。それまで彼とは毎日のように顔を合わせていたが、あくまで大勢の中の一人だった。しかしまったく気にも留めなかった存在の男と、二人きりで酒を飲んでいるという非日常的な状況が、私に多少の興奮をもたらした。あるいはそれはお酒の力によるものだったのかもしれない。どちらにせよ、もし今だいちゃんに誘われたら、一晩一緒に過ごすのさえ簡単に許してしまうだろうと思った。そしてそんなことを考えている自分は少し怖いと思った。やっぱり私は「まっとう」じゃない。

 そんな私の心配をよそに、だいちゃんは終電の時刻が近づくと、私をきちんと東横線の改札まで送り届けた。私は改札の中に入ってから、振り返ってベージュ色のセーターを着た彼に手を振った。Vネックのセーターの下には、何も着ていないように見えた。もしかしたらVネックの下着か何か着ていたのかもしれない。

 私は少しほっとして、そして、まっとうだ、と思った。


 「思ったより元気そうで良かったよ」


 だいちゃんは別れ際にそう言った。私は、今日という一日の最後に会うのが、英一じゃなくて良かった、と思った。



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