ラーズグリース
眠い。
久方ぶりの覚醒の折に感じたのは、ひどい倦怠感だった。
目の前では数百年――いや、それよりも長いか、それとももっと先か。
実は1年も時間はたっていないのかもしれない。
何もない暗闇がどこか見えないところで渦をまきながら、自分を取り巻いている。
ずっとそうだ。
自分――まだ己を正確に「自分」と認識出来ているかすら定かではないが、自分が眠りに付いてからはずっとこの暗闇の中だ。
身体の感覚はとうの昔に失っている。
闇の中に身を委ねている内に同化してしまったのだ。
瞼も、鼻も、唇も、肩も、腕も、足も、腹も、全てどこかへ消えてしまった。
“なつかしい、声が、聞こえた”
そう独りごこちる。
平衡感覚を失って久しいが――自分が規定する「上」の方からしばらくの間、声が聞こえていた。
その声に惹かれて自分は目覚めたのだ。
懐かしい、遥か過去に毎日聞いていた……自分たちの父の声。
声は聞こえたが、それだけだった。
今こうして永遠のような闇の中に囚われている自分に、手を差し伸べてはくれなかった。
それでもいい。
声が聞こえたということは、父は自分を見つけつつあるのだから。
それだけで希望を失わずに済みそうだった。
“姉や、妹は、息災だろうか“
そう心の中で呟いた自分に自分で嗤う。
そんなわけがない。
自分たちはみんな一緒だ。
みんな一緒に地上へと下り、弱き人々を守るために戦った。
その為に人間へとその存在を落とさねばならなかった。
それでも別によかった。人々の役に立てるならば、それでよかった。
後悔はしていない。
自分たちは何年もこのヴァルハラに降りて、戦い続けた。
父から贈られた銀の鎧と銀の剣。それを使って何百年も何百年も戦って戦って、死んで、生き返って、戦って、死んで――
それを何百回と繰り返す内に、人々の中に消えていってしまった。
幾度にも渡る転生と憑依は、魂を傷つけ、最後はばらばらに散らすことになった。
散らした魂は人々自身が自分の身を自分で守れるよう、人々の魂へと定着した。
ひとりの姉は100の人間の魂となり、人々の心に勇気を根付かせた。
ひとりの妹は1000の人間の魂となり、魂の炎を燃やす薪となった。
自分を含め、12人いた姉妹はひとり残らずそんな風に人々の魂に宿り、どこかへ消え去っていった。
最後に残ったのは自分だけ。
……いや、それは正確じゃない。
姉妹は誰も真実には消えていない。
多くの魂へと憑依した結果、薄く広がり過ぎて意志を失ってしまった。
意志を失えば、自分を自分と規定出来ない。
それはもはや死んでしまったも同然。
もう姉妹の声を聞こえない。
“そして最後に、わたしが残った……”
恐らく、自分がこのヴァルハラに唯一残ったヴァルキリーだろう。
姉妹はもはや人々の魂の部品になり、力や意志となって消えてしまった。
自分を自分と規定出来るヴァルキリーは自分だけだろう。
明確に人格を持ち、人々を守る役割を持ったヴァルキリーは。
“でも、その目的は果たせない……私は失敗したのだから”
自分の頭上――完全な暗闇にも見える闇の帳から漏れる光を、ただ見据える。
それは今代の勇者として選ばれた少女、向月ゆのの心の庭。
最初に彼女の心を覗いた時、それは何かの間違いかと思った。
否、間違えたのだろう。
神が人々を自らの所有物として扱いを間違え――終わりのない戦禍を作り上げた。
ある1人のヴァルキリーが助けを求める声を力を求める声と間違え――遠い異なる世界へと力を届けた。
送り届けられた力は――1人の少女を戦士へと変えてしまった。
争いがない筈の時代がその戦士に活躍の場を用意するかのように争乱を創りあげ、少女が大いに力を振るう機会を与え続けた。
その結果が「向月ゆの」――そして「ユノ・ユビキタス」という存在だ。
彼女の心は歪んでいた。
しかし強かった。
世界を超えて魂の選別者たるヴァルキリーを引き寄せるほどの、強い魂の持ち主だった。
……今も自分を魂の奥底に縛りつけるほどに。
“ねぇ、つかれた?”
自分を取り巻く闇が、ぞわりと蠢いて語りかけてくる。
それは幼く悪気の無い、自制を知らない子供の声だ。
世界を包み込むほど大きく、膝の下にじっと座り込むほどの小柄な子供の闇。
“つかれたなら、かわってよ”
その声は自分がここに囚われて以来、ずっと側にあった。
自分が少しでも弱気をみせれば幼子の声で語りかけ、魂を代償に願いを叶えるクロス・ロードの悪魔のように。
“ねぇ、かわってよ、また、かわってよ、かわって、かわってください”
身体を失った筈なのに、四肢を引っ張られる感触がある。
無邪気な子供が人形を取り合うように、ぐいぐいと、遠慮なしに引っ張られる。
しかし子供の声の力は、四肢が引きちぎれんばかり強く自分を引き裂こうとする。
そうはならないように、必死で抵抗する。
“また、たたかいたいの、わたし、たたかいたいのよ、ねぇ、ねぇねぇねぇねぇ”
万力で引っ張られるような痛みに耐えながら、自分は祈る。
“ああ、偉大なる姉君よ、弱き妹をお助けください――ヘルヴォルよ、私の心をどうかお守り下さい。ミストよ、私の姿をかのものからお隠し下さい、スクルドよ、私にもう一度自らの責務を思い出させて下さい。そして偉大なる父、オーディーンよ――どうか私を早く、はやく見つけて下さい”
今は失われた姉の名を叫びながら必死で声の力に抵抗する。
そうしなければ――もはや自分の力だけでは耐えられそうになかったから。
たとえ無意味だとしても、そうしなければ自分が終わってしまうから!
“ねぇ、かわってよ。そこからどいてよ。わたし、たたかいたいの、それで、こんどこそ……”
そのとき、突如として闇の世界を音が包んだ。
何重にも重なり、響き、腹の底を震えさせるような――重い音だった。
それは汽笛に似ている。
港で客に呼びかける蒸気船の汽笛に似ている。
“――ああ”
音が繰り返し鳴り響く中、頭上の闇に裂け目が生まれる。
光が、闇の世界に光が差し込む。
ぎゃあ、と苦しげな悲鳴を上げて小柄な影が闇の中に逃げ込む。
引き裂かれる力から解放され、闇と同化していた身体が光に照らされる。
瞼の、鼻の、唇の、肩の、腕の、足の、腹の。
感覚が、感触が戻ってくる。
“感謝を、感謝を――父よ”
闇の中から、浮き上がるように自分の手足が形どられる。
半透明に、幽霊のようになったそれは少しづつ輪郭をはっきりさせながら実体をとる。
それと共に背中に生えた翼が点から線を結ぶように、自分の背中に戻ってくる。
それはヴァルキリーの翼。半人半神の証明。
ばさり、ばさり、と翼を動かし、以前と変わらぬように動くことを確かめると、きっ、と頭上を見上げる。
“私にもう一度、機会を与えて下さるのですね”
闇に出来た裂け目の先の淵に人影が立っている。
こちらに背を向けて俯いた少女の立像。
翼を広げると、長く留まっていた闇から抜け出して、その少女へと近づいていく。
少女は自分には気づかない。
白く染まった髪を俯かせ、肩を怒らせ震わせている。
太古の植物と雷の紋章の装飾が施された篭手に包まれた左手は固く握り締められ、大きな怒りか、我慢ならない不条理に耐えるようにしている。
彼女の見つめる先にはどこまでも白く広がる地平しか見えない。
否、カンバスのような白い空に歪な影がある。
頭のない人型を十字架に貼り付けたようなシルエット。
魔王によって生み出され――行く手を阻む偽造された怪物。
あれを取り除かなければ、先へは進めない。
“……わたしはラーズグリース、計画を打ち壊すもの”
蘇った手を優しく彼女の肩に置く。
力を注ぎ込む。
恐らく闇の中に生まれたこの裂け目は一時的なものだろう。
もうしばらくすれば裂け目は修復され彼女の心の闇――その中に潜むものは再び自分を拘束するだろう。
そうなれば、二度目はないかも知れない。
だからこそ、この千載一遇を逃す訳にはいかない。
声は聞こえないが、父もこれを望みとしているのだろう。
“そして最後に安息をもたらすもの”
注ぎこまれた力は次第に銀色の鎖という形に形成される。
それは生き物のように少女の左腕に巻きつき、自分と少女の間を繋ぎ止める。
この鎖の目的は束縛ではない――これは少女と自分との絆だ。
これがあれば自分はまた戻ってくることが出来る。
“勇者よ、わたしは再びあなたを祝福しましょう”
少女の姿が遠ざかる。
父が開いてくれた裂け目がもう修復されるようだ。
背後に広がる闇が自分の身体に手を伸ばし、四肢を拘束するのをはっきりと感じた。
その中に潜む小柄な影が怒り喚いているのも。
しかし絶望することはない。
自分たちは繋がれているのだから。
裂け目が締まり、もう一度精神の奈落に落ちようとこの鎖だけは打ち壊されることはない。
“そして共に、今度こそ……全てを救いましょう”
視界の中から向月ゆのの心の庭の光景が消える。
翼が闇の触手に絡めとられ、ひきちぎられる。
同じように他の身体の部位も闇に呑まれて再び消え去っていく。
しかし銀の鎖を握った左手だけは闇の侵食を逃れ、其処に在り続ける。
“それが、あなたを救う道なのだから……”