夜から朝になる前に
『月』の暦1065年
天候:晴れ 9月1日
22時10分
場所――メルカトル大砂海、ギルドベースキャンプ近くの砂丘。
「・・・・・・!・・・・・・ルビィ!大丈夫かっ!?」
轟々、と炎の燃える音がした。
眼を開くとそこには星空と――それを覆い隠すように広がった黒雲が目に入った。
(いや・・・・・・違う)
あれは炎だ、炎だった――と漠然と思い出したところで、ルビィは自分の身体が誰かに引きずられているのを感じた。
背中に感じる感触は砂で、リングメイルを脱いでアンダーウェアだけになった身体に擦れてざらざらと音を立てている。
首を巡らせてぼやけた視界で辺りを見回すと、泣きそうな顔のフリードとアリカが視界の中に飛び込んできた。
「フリードさん!目を開けましたよ!生きてる、生きてるよ!!」
「ルビィ・・・・・・大丈夫かい!?」
右上からアリカ、左上からフリードに叫ぶように呼びかけられて頭ががんがんする。
どうやら地面に寝転がったまま引きずられているようだとルビィはあたりをつけた。
何回か咳き込んで――どうやら煙を吸ったらしい。
ルビィはしゃがれた声で二人に答えた。
「・・・・・・ああ、大丈夫だ。生きてるのが不思議だが」
「ユノさんが君を突き飛ばしたんだよ!“アレ”が君に直撃する前に!!」
アレってなんだと、思いながらルビィは上体を起こし、ふらつきながらなんとか立ち上がる。
メルカトル大砂海は一面の火の海になっていた。
ベースキャンプの残骸とおぼしき資材の破片があちらこちらに散らばり、それが燃えている。
それだけでなく、霞む視界の遠くには巨大な窪地――先刻まではなかった無残な虚が狼煙のように煙をあげて夜の空を焦がしつくしている。
それは先ほどまでルビィとユノがいた場所だった筈だ。
(ああ、確か・・・・・・突然後ろからあいつに呼ばれて――)
痛む頭を抑えながらルビィは先刻までの数瞬を思い出す。
身体の中央に穴を開けたアレンダールの死神に剣を振り下ろそうとしたその時、背後から呼ばれた。
声は誰のものかわかっている。
勇者だ、ユノ・ユビキタス。
ユノは突然ルビィに走り寄ると、制止する暇もなくルビィを両手で突き飛ばし――辺り一面は炎に包まれた。
いや、炎だけではなかった。
確か何か巨大なものが風を切って落ちてくる音と、地面に激突する音がした。
それから大きな閃光がルビィの網膜を焼き、辺り一面が暗闇になった。
暗闇になったあとのことは憶えていない。
ただ漠然と――誰か、多分死んでしまった誰かと話していたことだけは憶えていた。
「あいつは、どうした」
「あいつって?」
「勇者だ、あいつは・・・・・・どうしたんだ?」
フリードが沈痛な面持ちで顔を伏せる。
その横ではアリカが今にも泣きそうな顔で唇を戦慄かせていた。
その表情に、ひどく嫌な予感がルビィの全身に走る。
「まさか・・・・・・」
痛む身体を押さえながら虚の側まで近寄ろうとする。
だが未だに燃え盛る炎と熱波がそれ以上ルビィを進ませなかった。
まるで地獄の釜だ。
勇者は、ユノはルビィを突き飛ばしたあとどうした?
もしかして、あのまま――
「・・・・・・今、スコルピオが下に降りて救助に向かっている。何か炎の加護のような呪文を唱えていたけど・・・・・・」
「炎避けの魔法か、だが、こんな高熱では――」
険しい面持ちでフリードがルビィの側に立つ。
フリードもまた爆発に巻き込まれたのか顔や鎧は煤にまみれ、額から血を流していた。
「もしかしてスコルピオは私も?」
「そうだよ、ルビィ。僕たちにはあの中に入れる術はない。焼け死んでしまうよ」
くそっ、とルビィは吐き捨てて痛む頭を乱暴に掻き毟る。
訳が分からなかった。
どうしてこうも立て続けに危機がやってくる?
ドンテカの魔族襲撃にはじまり砂海でのモンスター襲撃、魔族の奇襲、そして今。
まるで全て計画されていて、自分達はその罠の真っ只中に嵌ってしまったかのようだった。
「・・・・・・とにかく状況を整理したい。まず、フリード。いったい私たちに何があった?」
ルビィは落ちつかなげに虚の淵をいったりきたりしながら横のフリードに問いかける。
答えはすぐに返ってきた――だが、その回答は新しい混乱を生むだけだ。
「正直なところボクにも何が起こったのか――ただ言えるのは、ルビィ、あれが見えるかい?」
「あれ?」
フリードが真上の空を指差す。
指の先には一見黒々とした雲とそれより薄明るい夜空が広がるばかりだ。
ルビィは目を細め、フリードの指差すものの正体を見極めようとする。
自慢ではないがルビィは視力はかなりいい方だ。広大な領地の中心部にあるアンテローズの館の屋根から隣の領の山々に棲む鹿や熊までよく見える。
だからルビィはそれほど苦労することなく、フリードの指す何かの姿を詳細を目に捉えた。
(なんだ、あれは・・・・・・鳥、なのか?)
夜空の暗闇の中、地上の炎に照らされて灰色の影が浮かんでいる。
遠く離れた地上からでもうすぼんやりシルエットが確認できる限り、それはかなりの巨体を持っているようだった。
そのシルエットは鳥によく似ていて、また、磔にされた人のようにも見えた。
アーモンド型の胴体に、その脇から取ってつけたような直線的な翼。その翼から生える謎の風車のようなもの。
尾翼にあたる部分からは直線的な両翼をそのまま小さくしたような翼が生え、その姿は鰭の生えた巨大な魚のようにも見えた。
首のようなものはなく頭もない。これが磔にされた人のように見えた正体だろう。
「フリード」
「見えたかい?ルビィ。あれが君達を攻撃したんだ」
「ああ――フリード、おまえはあれをどう見る?あんな大きさの鳥はいないし、ワイバーンには似ても似つかない」
と、すればあとは龍ということになるが、とルビィは呟いたが、それはあまりしっくりとくる答えではなかった。
龍族――人間が最初の王国を築く遥か昔からこの世界に住む誇り高き隣人は、決して野蛮な生物ではない。
高い知能を持ち人語を解し、過去の英雄譚では知恵や武具を授けたり、冒険の最後の試練として立ちはだかるときもある。
姿も決して誰もが思いつくような「蝙蝠の翼を持ったトカゲ」ではなく、蛇のような姿をしているものもいるし、苔むした巨岩のような姿をしているものもいる。
あのような――直線の翼を持ち、頭のない魚のような姿をした龍がいたとしても不思議はない。
だが、龍族は基本的に人間の善き隣人だ。
かつての旧ランバルディアとエルムトの衝突で起こった動乱期には人の殺気に興奮した若い龍が地上を焼き払い、村々を襲うこともあった。
しかしエルムトがランバルディアとひとまずの休戦を結び、さらに賢者ルグナーソスの弟子であり娘――女王アリーシャテルヤが若き龍の長“若鷹のフレスヴェルク”と婚姻を結び家族となったことから龍族はなんの理由もなしに人間を襲うことはなくなった筈だ。
もし今それが起こっているならば龍族の夜警――人間には詳しく明かされていないが龍族は何者からか空を護り続けている。が既にその龍を焼き払っている筈だ。
だがそんな気配はなく、今もあれは我がもの顔で空を飛んでいる。
「あれは龍ではありませんよ、ルビィさん」
「アリカ――」
涙で顔を濡らしたアリカが二人の間に入ってくる。
その顔は悲痛そのものだ。
当たり前だろう。自分の友人が今まさにこの地獄の釜の中に取り残されているのだから。
だがそれでも泣き崩れることなく気丈に、アリカは自分が見たものの推測をルビィとフリードに話した。
「あれは生きてるものではありません。なにかのからくり仕掛けみたいなものだと思います」
「何故そう言い切れる――ああ、インフラビジョン、なのか?」
見つめ返したアリカの瞳は金色に輝きながら縦長に窄まり、今も空に浮かぶ「あれ」の熱を見つめているのがわかった。
「はい……あの鳥には生きてるものなら持っている筈の温度がありません。冷血に喩えられるワイバーンでも少し感じるのに、あれにはなんにも――死者と同じくらいの温度しか視えないんです」
あれがブレスを放ったときには少し熱を感じましたけど、と自信なさげにアリカは付けたし、会話を終える。
ルビィとフリードはそれを聞き、難しげに腕を組んで考え込んだ。
温度がない、つまり体温がないとすれば龍である可能性も消える。
アリカのいうように冷血――これはトカゲと同じ生態をもつが故だ。に喩えられるワイバーンや龍にも感じにくいが体温はある筈だ。
血が流れ、心臓が動いているのだから。
特にワイバーンよりも大きな体躯をもつ龍の熱は大きい筈だ。
アリカの感じた熱というのも今この砂海を覆っている炎を放ったときのものだろう。
持続して感じられない限り、それは体温とは呼べない。
アリカは、温度を見れる眼を持つリザードマンの混血のアリカはないと判断した。
そうすればアリカとフリードの知識ではもう皆目検討がつかない。
あと考えられるのは魔法や魔術を使ったからくり仕掛け――つまりはマジックアイテムや人間の遥か先の技術を持つドワーフのアーティファクトということになるが遥か天空を飛び地上を焼き払い、龍族の眼から逃れられる創造物など見たことも聞いたこともない。
もしそんなものが開発されていたとしたら――もっと大きな騒ぎになっていて、王都警護の任にあるルビィも知っている筈なのだから。
「……とにかく敵の正体がわからず、その敵が未だ私たちの上にいる以上ここで考えこんでいる暇はないな。離脱しよう」
「しかし――」
ルビィの言葉にフリードが顔を歪める。悲しみと苦悩に彩られた顔だ。
言いたいことは痛いほどわかる。
だが今ここでユノとスコルピオを待っている内に自分たちが攻撃され、死んでしまったらこの砂海での出来事を知るものは誰もいなくなってしまうのだ。
「言いたいことは分かる。だが、今は行動しなければ。フリード、ランドドラゴンは生きて――」
「ルビィさん!足元――!!!」
出し抜けにアリカが驚愕しながらルビィの足元、虚の淵を指さす。
突然の声に驚いて足元に眼をやったルビィは自分の目を疑った。
そこに見えたのは淵に必死にしがみつく指先と――典型的な大陸人のこげ茶色の頭だったからだ。
スコルピオ、と呆然とフリードが叫び、屈んだ。
その声にスコルピオ、顔のところどころを煤で汚し、体中に火傷を負った少年が顔をあげる。
彼の背中には見慣れた白髪の頭部を持つ少女が背負われていた。
「やあ、フリード、それにアンテローズとアリカ嬢――みんなお揃いでなによりです」
「喋るな!無駄な力を使うな!待ってろ、今引っ張り上げてやる!!!」
慌てながら叫び、フリードとルビィがスコルピオを虚から引っ張りあげる。
炎の手がスコルピオのブーツの底を焼いていた。早く引き上げなければ危険な状態だ。
「くそっ、重い――アリカ、おまえも手伝ってくれ!」
「はい!はい!スコルピオさん、ありがとう――!!」
ユノを炎の中から救ってくれたスコルピオに感謝しながら、アリカが加勢する。
騎士のルビィとフリード、そしてリザードマンの身体能力を持つアリカが加わり、二人分の人間の体に加えて鎧やその他装身具を身に着けたスコルピオとユノの身体が少しづつ虚から引き上げられる。
そして完全にスコルピオは虚から脱出し、息も絶え絶えの様子で砂の大地の上に横たわった。
ユノもまたごろりと大地に身体を投げ出される――全身火傷だらけで、意識を失っているようだった。
「よくやったぞ、蠍男!ひ弱な魔法使いだと思っていたがなかなか根性がある――よし、アリカ。楽にしてやれ」
「それじゃトドメを刺すみたいですよ、ルビィさん!」
二人が生きていたことにテンションをあげたルビィは、上空を未だ旋回する影を警戒しながらもランドドラゴンを探して走り出す。
フリードは治療をはじめたアリカの横で周囲を警戒しながらルビィの帰還を待つことにした。
その内、ベースキャンプの外れに逃げて生き残っていたランドドラゴンを引き連れてルビィが戻ってくる。
簡単な治療を済ませたアリカとマナ切れでユノと同じように眠りにおちたスコルピオをランドドラゴンの背中に乗せ、ルビィとフリードはメルカトル大砂海の闇の中に消えていった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
時間は少しさかのぼる。
それは上空に何者かの視線――いや、気配を感じたユノがルビィを突き飛ばし、強力な火砲のようなもので吹き飛ばされた後の話だ。
爆発の衝撃でしたたかに大地に打ち付けられ、頭を打ったユノは意識を闇に飛ばそうとしていた。
明滅する視界の中で自分の反対側に吹き飛び、しかし火砲の直撃を避けて生きているルビィに安堵し、意識を失う寸前の出来事だ。
何者かが――いつからそこにいたかわからなかったが、倒れたユノに話しかけたのだ。
「よう、災難だなぁ力の勇者どの――コンナに可愛らしい力の勇者は初めてみたね、そう思わねェか?オーディン?」
「ふざけている場合かロキ、すぐに始めるぞ」
ユノは呻きながら二人――姿は見えなかったが声から二人組みの男だとすぐにわかった。から距離をとろうとした。
そのときの混乱したユノにはその二人組みは貴族が放った「いつもの」刺客で、今こそを好機としてどこかからやってきたとしか思えなかったからだ。
すぐに立って武器を構えなければ!
相手の姿は見えず、今の自分は剣も握れないくらい傷ついているのは頭の片隅でわかっていたが、ユノはそうしなければいけないと強く思った。
今ここで殺されるわけにはいかないからだ。ようやく決意を固めて動き出したというのに。
だがそんな様子など気に留めることなく、二人組みの男達はユノのすぐ側に屈みこみ、顔を覗きながら何事か話しているようだった。
「アンタも大概だねェ、オーディン。こんなに傷ついてぼろぼろの女の子を道具のように扱うってか?流石は戦争の神様だね」
「私とてそこまで冷血ではない――だが時間の猶予はないのだ。この騒動は“上”にも知れ渡ったようだ。今にもドンナーの眼がこちらを捉えるかも知れんのだ。」
「はいはい、わかったよ――炎除けだけでもかけさせてくれよ、俺らが入ってる内にこの子が死んじまったら元も子もねェよ」
片方の了解の声を待たず、軽薄な調子の男の声が何事か呪文を呟く。
聞いたことはない――魔術とも魔法とも違う詠唱がユノの耳元で囁かれ、暖かい何かが自分の身体を包み込むのをユノは感じた。
(これは……勇者の加護?)
自分の周りだけを護るように広がった無色透明の力に、ユノは直感的にそう思った。
非常に似ているのだ。自分がドンナーから受け取った“力の加護”と“におい”が。
それに先ほどの詠唱も加護の力ある言葉に似ている。
だとすればこの声の主たちの正体は貴族の刺客でも魔族でも、人間ですらなく――
“我は戦死者の父なり、我は真実を量る神なり、我は戦士の目を晦ます者なり、我は勝利の決定者なり――”
朗々と、高くもなく低くもない老人の声で力ある言葉がユノの中に注ぎ込まれる。
やめろ、とユノは心の中で叫ぼうとした。
だがそれは出来ない――いつかの夢のようにその声は優しく暖かで、抗することなど出来そうもなかった。
言葉はさらに紡がれる。
“我、幾多の真名をもって理を捻じ曲げん。開け、そして聞け、我が娘よ!我が従者よ!その扉をあけよ!”
それは命令だった。決して抵抗出来ない絶対的な言葉だった。
ユノは全ての抵抗をやめ、ただ身体を投げ出すままになった。
明滅する視界には二つの光球が浮かび、今にもユノの胸に――その奥底に入りもうとしていた。
“開け!ラーズグリースよ!そして聞け――我は汝を愛すものなり!!”
光が爆発的に広がる。
それに対してユノの意識は急速に闇に落ちつつあった。
必死で眠気に抗していた瞼が閉じ、視界が外界から遮断される。
その瞬間――ユノは確かに1人の老人と1人の男の姿を見ていた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「……っ!!!」
意識の覚醒と同時に、ユノが選んだのは戦闘体勢への移行だった。
仰向けで床――らしき場所に投げ出されていた身体を下半身を大きく振って両足で立ち上がり、徒手空拳の構えを取る。
それは意識するまでもなく自然と空手の型となった。
右足は大きく前に出し、軸足となる左足に腰の捻りを緩やかに加えながら膝を曲げて体重を乗せる。
後屈立ち、と呼ばれる守備に優れる型のひとつだ。
上半身の軸をわずかに左足のある後方へと寄せながら右腕は胸の下に引き寄せ、手のひらを上に向けている。
左手はゆるく肘を曲げながら前へと突き出され、攻撃を受け止めるため手は指を揃えて外側へと向いている。
ユノはその体勢を取りながら暫らく待った。目は正面に、耳は自分を取り巻く周囲の環境に澄ましながら敵の攻撃を待ち続けた。
その体勢をずいぶんと長く――自分が“ユノ・ユビキタス”の姿ではなく“向月ゆの”に変わっているのを認識するのには十分な時間とり続けた。
だが攻撃はこない。
ユノはゆっくりと構えをときながら、それでも周囲を警戒しながら状況を探る。
(これは……)
ユノがまず確認したのは自分の身体だった。
異世界の住人となった“ユノ・ユビキタス”に比べて幾許か視界が低い。
感覚からいって恐らく「こちら」に来る前の、中学に通っていたときの自分だろうか。
顔を下げて見下ろせば服装はなんのプリントもないフード付きのパーカーと学校指定の制服のスカートで、その下には運動用のスパッツを履いている。
むき出しになった足には頑丈なエンジニアブーツを履いていて、靴下――恐らく黒の学校指定の黒い靴下から伝わる感触で靴底の部分に鉄板を仕込んでいるのがわかった。
両手には黒の手袋を嵌めていて、拳の部分に不自然な膨らみがある。
それは金属の感触で、非合法な物品を扱ういかがわしい店で買ったナックルダスターだとわかった。
見なくてもわかる――熱の通ったむらのある表面に「LOVE and HATE」と彫りこまれた無骨な一品だった筈だ。
ユノは震える手でパーカーから下がるフードを持ち上げると黒い頭髪を隠すように被る。
これで、この格好で自分は――
動揺するまい、と大きく息を吐くとフードはそのまま自分が倒れていた空間を観察する。
その場所はユノの私見では博物館だと思った。
深い茶と黒のストライプの床に、植物のオーナメントが刻まれた上品な柱と壁。
低くも高くもない天井には光量の少ない黄色味のあるランプが備え付けられていて、ユノのいる部屋の中央と展示品のあるディスプレイを仄暗く照らしている。
天井から続く壁の上には劇場でよく見るような赤い緞帳が、部屋をぐるりと囲い込むように垂れ下がっている。
扉はひとつで、両開き。その上の壁には「非常口」と味気のない文字で書かれ、その横に扉から外へと逃げ込むピクトグラムが光を放っていた。
「……わけがわからない」
とくべつ危険性を感じなかったユノは意味不明な状況を毒づきながら自分の正面にあるディスプレイへと近づいていった。
ディスプレイは壁を長方形に切り取ったようになっていて硝子らしきものは嵌っていない。
ただ床から独立するように段差になっていて、その部分にだけ緞帳と同じ程度の色彩の赤い絨毯が敷き詰められていた。
展示品の説明をするキャプション――出来れば今の状況を説明して欲しかったが。はなく、ただ3つの展示品だけが照明に照らされてユノを見つめ返していた。
その展示品には眼があった。
眼があり、人間のように見えた。
展示品のかわりに立ち尽くしたそれは――自分だった。
「……」
ユノは沈黙しながら――言葉を出すほどの余裕がないまま、茫洋と立つ自分たちを観察した。
3人の格好は三者三様で、しかしこれまでの自分の足跡と思える姿をしているのがわかった。
曰く、学校指定のブレザーにスカートの向月ゆの……まだ召還されることなく、普通の中学生をしていた頃の自分自身。
曰く、今の自分と同じ姿の――夜な夜な家を抜け出して不良や暴走族相手に空手で自警紛いのことをしていた“豪前町のフーデット・ガール”だった自分自身。
曰く、こちらに勇者として召還され、冒険の末に騎士殺しの罪を犯した現在の自分“ユノ・ユビキタス”
それらがガラス玉のように無機質な瞳で、自分を見返していた。
異様な状況にユノは悪寒を感じ、後じさりながら呟く。
「一体……なんだっていうの?」
『答えが、知りたいかい?』
「っ!誰だっ!!!」
突然掛けられた声にユノは劇的に反応し、拳を振りかぶりながら振り返った。
そこには部屋の暗闇が広がるばかりで、何の姿も見えない。
しかし――ユノにはそこに何かが潜んでいるのを感じ取っていた。
『答えを知りたいのなら……コッチに来な、お嬢さん』
キィ、と小さな金属音と共に、非常口と書かれた両開きの扉の片方が開く。
そこからは光が漏れてどこか外へと通じているのがわかった。
ユノはしばらく構えをとったまま沈黙し、声の主の言うとおりにその扉をくぐっていった。
扉の先は大きな通路になっていた。
博物館か、それともホテルのように清潔で、無味乾燥とした空気があたりに漂っている。
白いつるつるとした床にはユノが目覚めた部屋に敷かれていたものと同様の赤い絨毯が敷かれ、道筋を作るように通路の先へと繋がっていた。
ユノは一見してわかる罠がないことを確認すると、それでも警戒しながらゆっくりと絨毯に沿って歩き出す。
ユノが目覚めた部屋はこの通路の一番突き当たりの部屋のようで、片側には窓のないただの壁があり、片方にしか通路は繋がっていなかった。
他にもユノが目覚めたのと同様の部屋があるのか、同じデザインの扉が等間隔に並び、誰かに開かれるのを待っているように見えた。
「……」
ユノは好奇心に逆らえず、手近な扉のひとつに手を掛けてその中を覗き込む。
その中は異様な空間だった。
無数の鎖が部屋の天井から壁へと張り巡らされ、その鎖から無数の武器が鈴なりの果実のようにぶら下がっている。
剣、銃、斧、槍、剣、ナイフ、銃、弓、盾、篭手、警棒、鉄パイプ………
形も、時代も違う無数の凶器が雑多に吊り下げられ、カチャカチャと耳障りな金属音を立てて揺れている。
ユノにはそれら全てに見覚えがあった。
あれは――ぜんぶ自分が使ったことのある武器だ。
ユノは異様な悪寒が抑えきれず、呻きながら乱暴に扉を閉じる。
そして踵を返すと足早に通路を歩き出す。
もうどの扉も開く気にはなれなかった。
通路を足早に歩くユノにどこからか声が掛けられる。
『寄り道しちゃいけないぜ、お嬢さん……その方が身のタメだ」
一瞬ユノは立ち止まるがまた歩き出す。
この声の主はどこか別の場所から声をかけていると感じたからだ。
恐らく、自分の頭の中に。
『悪趣味な場所だと思うだろ。誰だって嫌だよな?自分の全てが展示された博物館なんてさ』
その声の主はユノの考えが読み取れるようだった。
ユノが頭に浮かべた考えに対して反吐が出るほど律儀に答えを返してくれる。
『でもな、誰の頭ン中にだってそんな場所があるのさ。あんたが特別なわけじゃない』
そんなわけがない、これは“あんた達”が作った幻覚だ――そう叫ぼうとしたが、ユノには出来なかった。
もし、この得たいの知れない空間がユノの推測した貴族たちの刺客だとしたら。
彼らはどうやって勇者であり、一切の毒が効かないユノに幻を見せたのか?
彼らはどうやって「こちら」に来る前のユノの来歴を知り、そのビジョンを生み出したのか?
説明できないことが多すぎて、ユノは黙って声のする方向へ歩くしかなかった。
『おまえが歩いてるそこはな、俺たちの間では歓喜の間と呼んでいるんだ』
通路の先にあった扉が風もないのに開く。
ユノは足早にそこを通り抜け、また同じような通路を歩き始める。
『その場所にはそいつが感じた喜びの記憶が押込められている。初めてパパにキスした記憶、運動会のかけっこで一位になった記憶、テストで100点満点をとった記憶、憎いあんにゃろうを殴り倒してやった記憶……いわば、良い思い出ってやつだなァ』
歩くというより半ば走り気味になっているユノの横の扉が開く。
その中では雨が降りしきる街の裏通りで、ユノがチンピラを殴り飛ばして笑っていた。
“豪前町のフーデット・ガール”だ。
(これが、楽しい記憶……?)
もうひとつ、別の扉がユノに記憶を見せつけるため、開く。
その中にいるのはやはり自分だ。
場所はどこかの――「こちら」の戦場で逃げ遅れた兵士を魔族の一撃から救っているユノ自身だ。
その顔には命を救えたという安堵の表情はない。
ただ、一点――戦うのが楽しいということがありありと顔に刻まれていた。
『おまえの歓喜は、戦いの記憶で一杯だな?そんなに、暴力を振るうことが楽しかったってか?』
(戦うことが、楽しい記憶……)
通路の先にある扉が一斉に開き、ユノに記憶を見せ付けてくる。
その中にいるのは、全部戦っていて――微笑んでいる自分自身だ。
『ああ、気を悪くするなよ?勇者としてはそれが正しい適正なんだぜ?力の勇者としては、だけどな』
ユノは無数に記憶を見せてくる扉の群れを通り抜け、通路の終着点にたどり着く。
そこが終着点だとわかったのはエレベーターが自分を待ち受けるように扉を開いていたからだ。
ユノはその中に入り、壁に背中を押し付けて荒い息を吐く。
エレベーターには階数表示がない。ただ上へと昇っていくのみだ。
ユノは手袋の下で拳を握り締め、ただ扉が開くのを待ち続ける。
『ようこそ、ユノ・ユビキタス。そして向月ゆの――あんたと俺は間違いなく初対面さ』
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
エレベーターを昇った先は、大きなホールになっていた。
エレベーターの入り口から続く赤い絨毯に大きな階段。見たこともない花と植物で飾られた柱。
天井には豪奢に作られたシャンデリアが室内を優しく照らしていた。
そのホールの中央に二人の男が椅子に座って待っていた。
片方は杖をついた痩身の老人、片方は羽帽子と外套のひょろながい男。
この夢を見る前に――傷ついたユノを見下ろしていた2人だ。
「何者なの」
ユノは拳を握り締め、いつでも攻撃の態勢に移れるように全身を漲らせながら2人に問いかける。
それに答えたのは羽帽子を被った男だった。
「そう警戒してくれるなよ、ユノ・ユビキタス。俺たちはあんたの味方だぜ?当面ってことではなく、永久のな」
「……それなら自己紹介が必要だと思わない?」
おどけた素振りで手を振る男を尖った声で制し、ユノは再度問い掛ける。
「何者だ」
おおッ、と冗談のようなオーバーリアクションで羽帽子の男は飛び退り、椅子から飛び上がって老人の背に隠れる。
老人は実に嫌そうな表情を隠すことなく、立ち上がってため息を吐いた。
苦労人そうだな、と内心で冷静なユノが笑う。
「……私の仲間が主に多大な失言をしたようだな――まず名乗ろう、彼は――」
「おっと!待て、スタァップッ!!その強い瞳が気に入った。自分で名乗るぜ」
ずば、とでも擬音が出そうな音と共に羽帽子の男が老人の背から飛び上がり、ユノの眼前に着地する。
ふわり、と完全に重力を無視した形で降り立ち、羽帽子を取って男はユノにお辞儀をして名乗りをあげた。
「お初にお眼にかかる。俺の名はロキ――トリックスター、終える者なんて大層な名前で呼ばれてるが俺はこの二つ名ってのが嫌いだ。だがどうしても――あそこにおわす百の名前を持つエゲつない戦争の神殿とあわせるってんなら俺にも名乗る名前がある」
よく喋る男だ、とユノは呆れて少しだけ警戒を下げる。
それ以上にこのロキと名乗る男に指差された老人――百の名前を持つエゲつない戦争の神殿の呆れ果てるにも限度があるというような表情がユノの戦意を削いでしまった。
「題してその名も“最高に献身カワイイ乙女の中の超乙女スーパーシギュンちゃんの夫”!!!これに尽きるね?おまえもそう思うだろ?」
「……長過ぎない?」
「嫌だね!こればかりはビタ一文も負けられないねっ!!」
まぁ、なんでもいいや、とユノは息を吐き、真剣な面持ちを取り戻してロキと老人を見やる。
正しくは目の前でシギュン――恐らくロキの愛妻の名前へ愛を囁き続けているロキを無視し、老人を見ている。
その視線の意味を察したのか、億劫そうに立ち上がり、老人はユノへと名乗りをあげる。
「……今更少しの失言もないな。私の名はオーディン。その男の言うとおり百の名前を持つ神である」
そこまで名乗り、少し思い直したようにオーディンが片目しかない眼光を窄める。
まるで鷹のように精悍な瞳だった。
「ヴェラチュール、グリムニル、スヴィパル……この中で主に思い当たる名はあるかね」
「名前に?」
ユノは頬に手をあてて出された名前を反芻する。
ヴェラチュール、グリムニル、スヴィパル……と言葉に出して思い返そうとした時、ユノの頭の中で何かが弾ける。
まるで何かが堰を切ったようだった。
「聞いたことがある……もしかしてあなたは、ずっと私の夢の中に出てきた人?」
「……そうだ!その通り、私は主が危機に陥るたび、夢の中に現れて助言を与えていた者だ」
「その時はそんな格好していなかった筈だけど」
「私には姿形の意味がない。名前と同じで百の姿を持っているからね」
そうか記憶していたか、とどこか嬉しそうに首を上下に何度も振り、どこか安堵したようにオーディンは椅子に戻る。
それに合わせたのかしゅたっ、とでも擬音のしそうな音と共にロキも椅子に座り、ユノもいつの間にか現れていた椅子へと座るように促される。
警戒する気にもなれなかった。
この世界は夢の世界だ。
なにが起こっても不思議はないのだろう。
「まずは何から話すべきなのか……まず語るは、この大陸と君たち勇者のことからだな」
椅子に座ったオーディンは尖った杖の先を弄りながら、そう前置きをして語りをはじめた。
それはユノにとって壮大で非現実的な――神話のような話だった。
かつて、アスガルドという国があった。
そこは永遠と不変を約束された神々が暮らす国で、異民族との諍いは多かったものの概ね皆、穏やかに、素朴に、荒々しく暮らしていた。
だがその安寧の中に、巫女の予言という形で破滅の訪れが齎された。
それはラグナロク、神々の黄昏、全神族の死滅を終わりとする巨人族との闘争だった。
その報せに神々は混乱し、怯え、如何したら自らの破滅を回避出来るのか苦悩する日々となった。
予言は絶対的なものだった。避けようのない運命だった。
だが、1人の神は諦めず、ある計画を神々に発案した。
“我々に破滅の未来が約束されているのなら――破滅の未来がない者達をここに招き、共に戦おう”
その提案に賛同した神々は破滅の運命を受けていない者達――人間たちの中からそれを探しだすことにした。
だが、それはうまくいかなかった。
アスガルドの下にある人間たちはどれも神ひとりよりも遥かに脆弱で、とても神と巨人の戦争などについてこれるような強さではなかったからだ。
そこで神は考え、その人間たちを己と並び立てるほど強くすることを選び、実行に乗り出した。
それがこの大陸……人間たちの間では未だ名前も知られていないが、ヴァルハラと呼ばれる世界のはじまりだった。
「ヴァルハラ……そんな名前だったのね」
ユノはぽつりと呟き、オーディンの顔を見る。
その顔には苦渋の表情が満ち溢れ、まるで罪人の告解を聞いているかのようだった。
神々によって創造されたヴァルハラは戦いに満ち溢れた世界だった。
空気の中の塵の一粒から水中の一液まで闘争の気配が満ち溢れ、常に戦乱の気配が日常のように其処にある世界だった。
人々はそこで戦い、心身ともに強くなり、神に並び立つほど強くあれと求められた。
戦いを円滑に進めるため、神々は人々を二つに分け、永劫ともいえる期間、争わせることに決めた。
かたや、ドンナーと呼ばれる神に選ばれた人間。
かたや、ミズガルズオルムと呼ばれる神に仕える人間。
この大陸、ヴァルハラでかつて巻き起こった戦乱の神話“ウォー・エイジ”はそのようにして幕開けを迎えた。
「だが、ウォーエイジによる人間の強化は神々が期待するほど効果をあげなかった」
オーディンは杖を弄びながら険しい顔でそう述懐する。
「当然のことだ。敵は人ではなく巨人。神ですら死の危険は避けられぬ強大な自然の象徴だ……人間同士を争わせたところでそこで出来るのは人の中の英雄でしかなかった」
ユノは感情を抑えたままオーディンを見返し、視線で話を続けるように催促する。
話の内容は――ユノにとって許されざる事が二つも三つもあるものだったが、今は話を聞かなければならないと思ったからだ。
ユノに促され、神話は続く。
自分の案が期待するほど効果をあげなかったその神は焦りを憶え、他の神々に意見を求めた。
どうすれば人間は強く出来るか?どうすれば神に並び立つほどの力を持ち、巨人を打倒する力を持った人間が生まれるのか?
自分の死の運命に翻弄されたままの神々の大半は口を閉ざしたままだったが――ある1人の神、アスガルドの中でも最強と名高い神が声をあげた。
“親父殿、人と人同士で争わせるのが駄目ならば――巨人を模した怪物と戦わせればいいんじゃないか”
神々の会議場の中、そう発言したのは――他ならぬオーディンの息子にしてヴァルハラの一柱、ドンナーだった。
彼の考えはこうだった。
“人と人が争って人の英雄が出来るのならば――人間と巨人が戦えば、巨人を打ち倒すほどの英雄が生まれるかもしれない”
そのドンナーの考えに対して、他の神々は恭順の意を示しオーディンに変わってヴァルハラの管理は彼に任されることとなった。
彼はまず初めにミドガルズオルムとその民の敗走という形でウォー・エイジを強引に打ち切った。
そして勝ち残ったドンナーの民には平穏と知恵を与え、文明を――護るべきものを作らせた。
一方、負けたミドガルズオルムの民には巨人を模した肉体を与え――魔王という仕掛けを施した。
魔王、200年の周期の中で産み出され、海中へと封じ込められ復讐のみを糧に生きるミドガルズオルムの民を率いる者。
ドンナーの号令の元――形を変えた“ウォー・エイジ”の火蓋が切られることとなった。
「……それで?」
ユノは深く眼を閉じたまま――静かに話を促す。
「それで、何が起こったの?」
魔王に率いられたミドガルズオルムの民は、ひどく強靭な怪物として地上を圧倒した。
人間の数倍の強固さを持つ肉体に、昆虫のように統率された闘争本能。
それらを併せ持つミドガルズオルムの民に、200年の安寧により平穏の味を憶えてしまったドンナーの民は対抗のしようがなかった。
思わぬ力の不均衡にドンナーの補佐となったオーディンは焦り、ある方策を持ってドンナーの民を生かすことを選んだ。
その方策とはヴァルキリー――戦場の導き手にして、半神半人たる神の乙女を地上に降ろし、人々を護り率いて戦わせることにした。
ヴァルキリーの登場によって人間と魔族のパワーバランスは均衡を取り戻し、ヴァルハラの計画は継続された。
「ヴァルキリー……」
ユノはその単語にどこか懐かしいものを感じ、口に出して反芻した。
どこで聞いたのだろうか?いつ聞いたのだろうか?
なんとも得たいの知れない不安感を抱えたまま、ユノは視線を鋭くしてオーディンを睨みつけた。
「それで?その後に何が起こるっていうの?予言――だかなんだか知らないけど、益体もない懸念に何百年も人間をつき合わせて、それから何をしたっていうの?」
「まぁ、そうカッカするなよ、力の勇者――少しだけ俺から補足説明させてくれ」
オーディンがユノの詰問に答えるより早くロキが声をあげ、気楽そうに頭の上で手を組んだまま話を続ける。
「ヴァルキリーは勇者の選別者であり、神に仕える戦士だ。生まれた時から神――まぁ、オーディンから特別な異能を授かり巨人や怪物と戦う役目を持っていたわけだ。」
「それで?」
「何かに似てると思わないか?力の勇者……そう、今のおまえみたいな勇者に似ていると」
確かに勇者とヴァルキリーは似ている。
人々を護り戦うこともそうだし、神から力を授けられている点もそっくりだ。
だが似ているのはその部分だけで、両者は同じとはいえない。
ユノや、ケンヤやナオキは――どんな生い立ちであれ現代で普通に生きていた人間だし、昔の勇者だってそうだった筈だ。
それに力を授かる先だって違う。
ヴァルキリーは目の前の老人――オーディンから力を授かった存在で、勇者はドンナーから力を与えられた人間だ。
ユノはフェロー島の奥地にある“加護の地”で力を授かったときに目を眩むような閃光の中で神、ドンナーの姿を見たがその姿はこんな罪の意識に押しつぶされそうな老人ではなく自信と自尊に満ちた美丈夫の大男だった。
その姿はまさに神といわれる威容に満ち足りていて、本当に神がそこにいるんだ、と戦慄したのを憶えていた。
目の前のオーディンの言うとおり百の姿のうちの偽装かも知れないが――ユノの勘はその偽装を否定している。
勘が確証になりうるか、といわれたら反論出来ないが、ユノはこれまでも自分を救ってきた勘を信じることにした。
「似てるだけだわ、わたしが力を貰ったのはドンナーで、オーディンじゃない」
「そう言うと思ったよ。俺もそれは否定しない。確かに勇者に力を与えるのはドンナーで、オーディンじゃない。だが……」
ロキはにやり、と羽飾りの付いた帽子の下で微笑みユノの瞳を見た。
その瞳はまるで面白い玩具を眺める子供のようで無邪気だが底が知れない。
ユノは警戒に身体をそれとなく漲らせながら荒げることなく言葉を待つ。
「何が言いたいの?」
ロキは笑いながら、ユノをゆっくりとした動作で指差す。
イミテーションの指輪がシャンデリアの照明に輝き、ぬらりとした光を放つ。
「だが……おまえのその凶暴性、ドンナーから授かったものかい?」
「――何?」
「言い方を変えようか、戦いを「楽しい」と感じるおまえのその性質は、本当に「こちら」に来てから発現したものか?」
それは――ユノはロキの問いかけに反論しようとして、言葉を濁らせた。
ユノは戦うのが楽しい。それは自分の中にある確かな性質のひとつで、ユノ自身も否定しない自分の異常性だ。
その異常性に気づいたのは「こちら」に来てから戦いに身を投じるようになってからだ。
剣や牙が己の頭を掠めると、それを回避出来たことに心が沸き立つ。
逆に自分が振った剣や拳が敵の身体を切り裂くと痺れるような快感が身体のどこかから全身に広がる。
特に敵が必死で仕掛けた罠や策謀を力任せに吹き飛ばしたときはたまらない。
その快感のせいでみんなや部下になったエインヘリャルたちに気味悪げに見られることだって幾度かあった。
だがそれは、そんな異常性は戦争の中で麻痺した感情が歪んでいったもので、「こちら」に来た時の自分は、まだ「こちら」に来る前の自分は――
(違う)
ユノの頭のどこかで、かちりと何かが外れる音がした。
その音と共に、様々な記憶がユノの思考の中に流れ込んでくる。
その光景は異世界の戦場の風景ではなくビルが林立し車が黒煙を吐き出しながら行きかう現代で、ユノの故郷の風景だ。
ユノはビルの根元、どこかの裏路地にある広場で数人の男たちを叩きのめしている。
その足元には学生服姿の少年が蹲っていて、目の前の戦い――いや、フード姿の少女の一方的な蹂躙を目を見開いて見届けている。
記憶の中のユノは男たちの持つ鉄パイプやバタフライナイフを拳で叩き落とし、正確なカウンターで意識を刈り取っていく。
その表情には酷薄な笑みが浮かんでいる。
戦うのが楽しい――異常な感情がありありとそこに張り付いている。
(違う!)
「こちら」に来る前の自分は――“豪前町のフーデット・ガール”だった「向月ゆの」は今の自分とは違う。
戦うのが楽しい、そんな感情を持って戦っていたわけじゃない。
あれは正当な復讐のための戦いだった。
どこかの倉庫に拉致され、足の腱を切られて3日間犯された上に殺されてしまった1人の少女のための戦い。
自分はその戦いに参加したメンバーの1人だった。
まるでアメリカン・コミックのヒーローのように。
両親を殺されたブルース・ウェインが蝙蝠のコスチュームでゴッサムシティの異常者と戦ったように。
「自分に正直になれよ、力の勇者――おまえは「こちら」に来る前から戦うのが楽しくてしょうがなかったんだ」
「ちが――」
突然部屋が大地震に見舞われたように揺れた。
かたかた、と部屋の調度が揺れ、天井のシャンデリアがカチカチと音を立てて明滅した。
その揺れは声を伴っていた。
この部屋ではない。
下の――エレベーターに乗った「歓喜の間」よりも低い、この建物の地下。
ユノはこの建物の構造など知りようがないのに、何故かそれがわかっていた。
「――ロキ、彼女が目覚めようとしている。もう時間はあまりないぞ」
「物語のお約束だね。主人公が重要な秘密を知ろうとしたときに横槍が入る――無駄な引き伸ばしだと思うぜ」
部屋は揺れているのに、ロキとオーディンは平然と座ったままそこにいた。
ユノは部屋の揺れに耐え切れず椅子から転げ落ちて、なんとかしがみつきながら違う、違うと必死に首を振っていた。
そのユノの横にロキは危なげなく近寄り、ユノの耳元に唇を寄せて囁いた。
「時間が来ちまったようだ。手短にいうが、俺たちは今からおまえの力の一部を解放する」
その言葉と共に、ユノの身体に異様な感覚が流れ込んでくる。
それは“力の加護”
ユノが封印された最後の能力の感覚だ。
だがそれだけではなかった。
異様な感覚は立て続けにユノの中に流れ込み、ふたつ、みっつと未知の能力が様々な情報と共に授けられる。
だがそれは与えられたものではない。
ユノ自身が持ち合わせた――ドンナーに授けられたものとは違う生来の能力。
戸惑うユノの心を読んだように、ロキは尖った笑みを見せて呟く。
「それはラーズグリースが持ち合わせたヴァルキリーの力だ。現実世界の――今おまえとその仲間の頭上にいる爆撃機を破壊するのに役立つ筈だ」
「ば、爆撃機?ラーズ、グリース?」
「魔王の召還した器物と、主の中におるヴァルキリーの名だ。ロキ、ここから出るぞ。もう時間がない」
オーディンの声には焦りがある。
ロキはへいへい、と未だに床に伏せたユノから離れようとし、思い直したように近づいて言葉をかける。
その声は優しく、どこか罪悪感に満ちている。
「気にすることはないぜ。どちらにせよおまえは気づいちまうんだよ。この世界が嘘っぱちだってことに、おまえ自身の過去が嘘で満ち溢れていることに」
待って、それはどういう意味だ。
そう言おうとしたがユノは言葉を喋れない。
部屋の中はいつの間にか光で満ち溢れ、飲まれていく。
その光の先にロキとオーディンは踵を返して消え、どこかへと去っていく。
ユノはそれを追うように手を伸ばして――意識を失った。
久しぶりの更新です。
難しい局面に入ってきました。
ユノは頭上を飛ぶAC-130を倒せるのか?
仲間たちはどのように立ち回りそれを援護していくのか?
チヒロは何故こちらに召還され、魔王となったのか?
ユノは何者なのか?
世界が嘘っぱちとはどういう意味なのか?
それ以前にこの物語はエタることなく続けられるのか?
乞うご期待。