Ⅶ
『月』の暦1065年
天候:晴れ 9月1日
21時15分――この時間を記述する言葉も、意味もない。
場所――メルカトル大砂海、ギルドベースキャンプ近くの砂丘。
空に浮かぶ月が、砂海の夜を照らしている。
その光は柔らかく、温度のない優しさを秘めて地上のものを全て平等に蒼く染めている。
動物にも植物にも。
有機物にも無機物にも。
生きているものにも、死んでいるものにも。
人間にも、そうでないものにも。
本物にも、偽物にも。
冷酷に。
蒼い血が河となり、多くの異形が倒れ伏した砂丘の上に、2つの影が密やかに佇んでいた。
その姿は亡霊のように捉えどころがなく、現実のものではないかのようだった。
片方は長身の痩躯を衣で包み、穂先の尖った棒を杖に、地上を照らす月を見上げている。
もう片方は羽飾りのついた帽子にゆったりとした黒の外套を身に付け、その下に着たシャツの――悪趣味なタッチで描かれた骸骨のラミネート・プリントが月の光を受けて安っぽく輝いている。
外套から伸びた手はじゃらじゃらと一目で贋物だとわかるような輝きのアクセサリで飾られており、落ち着きなくこの世にそぐわない器物――メガフォンを手でもてあそんでいる。
「――ナァ、おい。変に荒んだ詩なんて詠んでないでコッチの話聞いてくれませんかネー、ジイさん」
はぁ、とその言葉に彼――杖を持った影の主は片目を動かして声の主を視界に入れ、溜息を吐いて答えた。
「思考を読むのは禁じたはずだぞ」
「思考を読んだワケじゃねぇよ、俺はただ文章を――おっと、駄目だな、世界観を壊しちまうとこだった」
げはは、と粗野を通り越して下品に笑うとその声の主は死んでいるもの――勇者ユノが先刻作り出したばかりの魔族の亡骸に腰を降ろす。
その動きはまるで椅子にでも腰を下ろすかのように躊躇いがなく、彼は不快感を顕わにする。
「やはり君を計画に引き込むのは些か浅はかだったかと後悔してしまうな」
「そういうなよ、ジイさん。俺、凄く役に立つんだぜ?少なくともあいつにビビッて従ってるヤツらよかマシだぜ、マジで」
陽気に弁解する声に嘆かわしい、と“彼”は嘆息する。
「そんなことはわかりきっているとも。不愉快ではあるが――君がいなければそもそも計画の前提が成り立たないのだからな」
「だろ?だからこれからは俺にもっと感謝するこったなジイさん」
「それ以上その軽口を止めぬと後悔することになると、君に幾度めかの忠告をしておくよ」
調子よく笑うその声に彼は苛ただしげに再度嘆息し、声の主から完全に意識を背けると、彼は蒼く輝く月から勇者ユノ――この蒼い血河を作り出した少女が去った方向へとその隻眼を向けて、物思いを募らせる。
これでいいのだろうか、これで己の過ちから訪れ、この大陸――ヴァルハラを蝕む災厄を防げるのだろうか。
彼は考え続ける。
今のところ彼の立てた計画は――彼の恐ろしい息子には看過されず、微々たるものであるが前進している。
しかし先行きは非常に暗く、ほんの少しの歪みが彼の努力をすぐに無為なものにしてしまう危険性に満ちていた。
彼はここ数年ですっかり多くなった溜息をまたひとつ吐くと、心中で自嘲する。
(かつては全知全能と呼ばれていたこの私がこの様とはな・・・・・・今のこの有様はその報い、か)
彼は暗い考えを振り払うようにかぶりを振り、魔族の亡骸に腰を下ろした影に向き直った。
今の彼に出来る事は少なく、計画の全体においては些細な働きかけでしかない。
だがそれでも行わなければこの大陸だけでなく、全てが終わってしまうのだ。
確定された終末の中で、橋の先から訪れる黄昏に呑まれて。
だからこそ、やるしかないのだ。
無駄だと考える前に為すべきことをして、全ては彼女の心に委ねるしかないのだ。
異世界より連れてこられた少女、向月ゆのに。
あらゆる暴力を暴力で打倒する力の勇者に。
この世界の醜悪を見て、それでも心を失わなかった向月ゆのに。
そして人間にも魔族にも「優しくない」彼女の残骸、ユノ・ユビキタスに。
彼の視線を受けて立ち上がった声の主はにやり、と口角をあげて笑い。勢いをつけて立ち上がる。
から、と軽い音を立ててジーンズのポケットから垂れ下がったストラップが揺れる。
口を大きく開けて下を出し、相手を小馬鹿にするようなオオカミのストラップだ。
声の主はぱん、と拍手するように音を立てて手を合わせると、わざとらしいほど大きな声で明るく彼に言う。
「さて!それじゃあ偉大なる全知全能の今はすっかり落ちぶれた世界の守護者どの!いつもどおり我々がやるべきことをやりに行きましょうや」
「今回は君も共に彼女に話をしてくれ。その方が善いこともあるだろう」
「おお素晴らしいね!あー、それで?一体いつ彼女の中に忍び込む予定で?やっぱり女のコのご機嫌とりにはプレゼントが有効だからな、それまでに用意してくるつもりなんだが?」
げらげらと笑いながら喧しい声で話す声の主に、彼は反応を見せず努めて事務的な口調で答えた。
「・・・・・・およそ1時間後だ、ドンナーの見張りに見つかるなよ、ロキ――」
「それだけあればケイブリスの宝飾店にだって行けるな、それじゃあ彼女の夢の中で、オーディン――」
にやり、と人の悪い笑みを浮かべた外套に現代風の姿の男、ロキ。
隻眼に杖を持った長身痩躯のローブ姿の初老の男、オーディン。
彼らはその言葉を別れの挨拶にすると、それぞれ別方向へと歩き出し――同時に溶けるように消え去った。
蒼い月だけが、その2人の姿を見ていた。
この世界、この大陸――このヴァルハラ(戦死者の館)で。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
……全てを白日の元に晒すような、強い月明かりの下、一人の勇者と一人の魔族が相対していた。
(いや、違うかな?)
勇者――かつてはそんな名前で呼ばれていた少女、ユノが笑う。
その笑みは歳相応のものではなく、見る者に荒んだ印象を与える暗い笑みだ。
(一人はかつて勇者と呼ばれていたバケモノで、一人は魔族と呼ばれているバケモノ)
こっちのほうが、正しいかもね、とユノはくすくすと笑い声をあげると、既に臨戦体制の襲撃者の首魁の姿を月色の瞳に映した。
ユノはざ、ざ、とブーツの靴底で砂丘の斜面を踏み固めながら、おどけるように笑う。
そして相手の姿がはっきりと見える距離まで近づくと、笑みを含めたまま静かに話しかけた。
「8本の腕に6本の剣と2つの盾――魔王のかつての近衛さん、ですかね?」
相手を挑発するために――わざと小馬鹿にしたような口調のユノに魔族が答える。
『左様、かつては国王様の近衛頭であった』
「・・・・・・それが今では魔物使いの将ですか」
何か大きなミスでもしでかしたんですか、と人間に話しかけるようにユノは嗤う。
しかし魔族は挑発には乗らないようだった。
『しかし其の地位などもはや只の屑芥よ、我は死者、戦を求める只の死者なり――』
大仰にそう語り、6本の剣を構える異形の魔族に、ユノはおかしくなって笑う。
そう、戦場で出会う魔族はとことん“こんな”ヤツらばかりだった。
まるで漫画や小説の中から抜け出してきた戦士かサムライのようで。
戦うときには実に堂々と名乗りを上げ、そして死ぬときにはなんとも潔く散っていくのだ。
戦うためだけに生み出された存在。
ファンタジー世界の住人。
召喚から4年。立場が勇者から大罪人に変わり――多くの人々の複雑な感情に晒されてきたユノにとって、彼らのような“わかり易いヤツら”は実に好ましいものとして映っていた。
向けられるものは、真っ直ぐな方がいい。
好意も、嫌悪も、悪意も、嫌疑も、殺意も、切っ先も、ピストルも――全て隠さず、正々堂々と突きつけられた方が余計なことをしなくて済む。
その点で、ユノは魔族が好きだ。
いま行なっている、もしくは行なってきたことが“正”か“邪”なのかなんて、考えなくて済むからだ。
あの雨の日と違って――
「死者なら――死んでいてもらわないと困るわね」
その言葉が戦いの合図だった。
ユノは、ポンチョを跳ね除けて――まるで西部劇のガンマンの決闘のように、腰のベルトから垂れ下がった剣帯から直剣を抜き出す。
その動作を見て、8本腕の魔族は黙ったまま――表情は兜とコイフに阻まれて見えなかったが、大きな黄色い瞳が一際大きく輝くのが見て取れた。
それはようやく待ち望んだものに逢えた者の瞳だ。
人間らしく――決して人間ではない魔族が嬉しそうに野太い嬌声をあげる。
『来い、勇者よ!!儂に死に場所を!ふさわしい死に場所を与えろォッ!!!』
異型の構え――6本の剣を上半身を覆い隠すように構えた魔族に、ユノは助走をつけて飛び掛かる。
蹴立てられた砂が月光を受けて煌めく。
ユノは空中で大きく身体を漲らせ、弓の弦を振り絞るように、剣を持った右腕を大きく引く。
それはユノの全体重と“加護の力”を最大限に剣の刃に乗せた必殺の刺突を生み出す構え。
一点突破――1本の剣の強力な一撃で6本の剣と盾を打ち砕く。
それを魔族が6本の大剣を大きく振り、まるで見得を切るかの如く大地を踏みしめて大仰に受けの構えを取る。
(まずは第1のステップ――)
ユノはにやり、と口元だけで笑みを浮かべ、剣と剣が触れ合うぎりぎりの距離で――それまで唱えていた“世界の停止”を発動させる。
声高々と唱える必要はない。
力ある言葉はあくまでも許可証だ。
世界の眼を晦ます、いかさまの許可証。
いかさまの許可証に、正規な手続きなど存在しない。
月明かりが急速にその力を失い、あたりは暗闇に包まれる。
冷たい砂の海も、ユノを中心に瀑布のように広がった闇に飲み込まれて消える。
その闇の中で――ユノは今まさにユノの斬撃を受け止めようと、剣を構える魔族の鼻先に顔を近づけると「ばーか」と声に出さず呟いて、笑う。
6歩の間に存在するユノだけが動ける世界。
その中で、ユノは彫像のように固まった魔族が構える剣の先を踏み越えて、跳ぶ。
「あなたの自殺に付き合ってるほど、こっちは暇じゃないの――」
『ッ!?貴様ッ!!!』
時間が権力を取り戻し、それに遅れて音が早回しで世界に復帰する。
ユノは時間が戻るなり背後の魔族は無視して緩い勾配になった砂海を疾走する。
8本腕の魔族はユノが背後に抜けたことを聡く悟り、素早く振り返ってユノとの距離を詰めようとする。
ユノの向かう先は魔族の背後――予想通り倒れ伏しているルビィと、その横で自失したように膝をついているフリードだ。
ピストルが砂の上に埋もれている。戦意喪失したのだろう。
(死んでないだけ及第点――スコルピオは・・・・・・あそこか)
ユノは走りながらコテージを盾に、今まさにソーサラーとの孤独な魔法合戦を繰り広げている少年魔法使いの姿を確認し、心の中でほんの少しだけエールを送る。
スコルピオを助けるのはまだ先だ。
それよりも2人――倒れ伏したルビィとフリードを戦いに復帰させるのが先だ。
背後の8本腕の魔族と単独で戦うこと自体は、ユノにとってはそれほど苦なことではない。
楽勝とまではいかないだろうが、現時点の自身の弱体化を鑑みても負けるような相手ではない。
しかし――ユノは可能ならば、3人と一緒にこの魔族を倒したかった。
それは何故か。
(それは、自分たちが魔族を倒せるって、そう思ってほしいんだよ――)
錯覚でもいい。卑怯で悪辣な手段を幾らでも使っていい。
ただ魔族を前にして立ち竦んで怯えて何も出来なくなってしまうような、大陸の大多数の人間になって欲しくなかった。
魔族の気配だけで怯え、武器を放り出して頭を抱えてうずくまるような兵士と同じになって欲しくなかった。
そうなってしまっては仲間ではなく只のお荷物だ。
お荷物は捨てる。捨てざる負えない。
それがユノの見てきた事実であり、学んできた教訓だ。
だから。
だから“たかが”一度や二度、魔族に叩き潰されたからって、寝たり落ち込んでいてもらっては困るのだ。
『貴様ァ!戦士に背中を見せるとはどういう了見だァァァ!!!!』
背後から突き出されるグレートソードの斬撃を走りながら避け、ユノはポンチョからあるものを取り出し、振り向きながら投げる。
『ヌゥッ!?』
ざああ――と細かな金属がぶつかる音を立てながら投網が空中で開きながら魔族の身体に激突する。
それはリーンベルネの王城でルビィと決闘したときに使った鉄鎖の投網だ。
先端の四方に重りの鉄球をつけたそれは重力に従ってその顎を閉じ、大きく剣を振った魔族の動きを阻害する。
剣闘士の投網――“契約”の冒険者時代に魔族の信奉者を捕縛するのに使っていた愛用の一品だ。
『笑止――この程度のなんの術も施しておらぬ鎖で儂の足が止まるとでも――』
ユノは足を止めて――ルビィとフリードはもう目前まで近づいていた。振り返るともう一度声に出さず「ばーか」と魔族に向けて言う。
魔族はその豪力で剣を振るい、鎖を叩き斬らんとしている。
それは正しい判断だろう。
目の細かい網状の鎖は金属の重量を保持したまま絡まりあい、さらに剣や槍など柄の長いものに容赦なく絡みつく。
特に8本腕の魔族はその腕全てに剣だの盾だの武装している。
それに絡みついたひとつひとつを解こうとすれば戦いの場では致命的な時間が過ぎてしまうだろう。
それならばその驚異的な豪腕を振るって一気に振り払うのが正しい選択肢といえるだろう。
(その鎖が、本当に何も細工してない鎖だったらの話、だけどね――)
勢いよく振り回された鎖――それに結び付られた大量の爆弾がその振動で目を醒まし、発動する。
かきん、かきん、と金属的な発動音と共に刻まれたソーサル・ロウを輝かせるその様は、いっそ綺麗に見える。
ユノは躊躇いなく砂海に飛び込むように身体を投げ出し、その宙空で呟く。
「第2のステップ、おまえの眼は盲目だ――」
巨大な爆発――様々な妖術が入り混じった混沌の爆発が砂海の大気を震わせる。
赤い閃光、極彩色の雲、連続的な空気の破裂、黒い稲妻の発生――無数の妖術が無秩序に作動する。
まるで聞き分けのない子供が癇癪を起こしてオモチャ箱を引っくり返したような有様だ。
ユノは容赦なく吹き付ける爆風にわずかに頭を下げて破片や砂塵を避けると、その威力に充分な時間を稼げそうだ当たりをつけて半ば倒れこむように伏せた身体を起こす。
ぱらぱらぱら・・・・・・と未だに続く爆発に巻き上げられた砂塵を白髪の頭からはたき落とし、ユノは倒れたルビィとフリードの側に歩いていく。
「どう?その不死身馬鹿娘は生き返りそう?アリカ」
「不死身なら生き返るんじゃないですかね、ユノさん」
そう尋ねられ――早くもルビィを自身の膝に寝かせ、身体の具合を調べていたアリカが困ったように笑う。
アリカはユノの立てた計画通りにこの場にいた。
砂丘から魔族の真正面に行ったユノを囮に、リザードマンの身体能力を如何なく発揮して大きくベースキャンプを迂回。
ユノが魔族を引きつけている間にインフラビジョンでルビィとフリードの2人の無事を確認したアリカは、魔族がユノに近づくのにタイミングを併せて走り、倒れ伏したルビィと戦意喪失したフリードの元に近づき、今に至る。
ユノもその横にしゃがむと、脇に手を入れて上体を起こさせ、サーコートとリングメイルを手早く脱がせる。
「この子は本当に運がいいわね。眼に見える外傷は打ち傷で、出血もないし骨の心配も大丈夫みたいね」
「ええ、本当に生きてくれて良かったです――本当に」
アリカは目尻を緩ませて心底安心したように息を吐くと、わたしの出番ですね、とばかりに張り切った調子で懐から杖を取り出し、ヒーリングを開始する。
なぞるようにアリカの指が空中に文字を描く。金色に輝く光の線。振るわれ、文字らしき記号が完成するごとに溶けるように消えていく。
全ての規定されたルーンを描き終え、世界がアリカに奇跡を使用する権利を与える。
「“ロスクヴァの治癒”」
アリカの呟きを合図に、翳したアリカの手の平に光が満ちる。
その光は暖かな金色で、よく見れば世界に発現したルーン文字が重なり集まった塊だ。
手の中に集まった光がルビィの身体へと移っていき、水のように皮膚に浸透し身体の内側から傷を癒していく。
暖かい光に照らされたアリカの顔は清楚で人の命を救うことに真剣な――聖婦と例えられるヒーラーの姿そのものだ。
ユノはアリカの肩を叩き任せるわ、と告げるとルビィの横で未だに呆然自失したように座るフリードに向き直る。
アリカがルビィを介抱するなら、自分はフリードだ。
「フリード、大丈夫――」
そこまで言いかけてユノはこれはいけない、と胸中で嘆息を漏らす。
目の前の騎士の心は完全にどこか遠くへ行ってしまっていた。
ルビィが自身の目の前で魔族に叩き潰されたことが大きなショックになったようだった。
ユノは正気を確かめるように目の前にしゃがみ、幾度か眼前で手を振ったが反応がない。
目を覗きこめばそこにはなにも映っていない――虚ろな色がそこにあるばかりだ。
反応を観察するため手を握ると、その手は小刻みに震えている。
ユノは眉根をよせ、しばし思案する。
(悠長なことはしてられないか――)
ユノはフリードの震える手から両手を離すと、立ち上がり拳を握る。
本来ならこのように自失してしまった人間は出来る限り戦いから離すべきだった。
戦いから離し、しばし休息を与えて心の均衡を取り戻す――余裕があるのならそうするべきだ。
だが状況はそれを許すほど優しくはなく、ユノはひとつの方法でフリードを現実に呼び戻すことにする。
「ごめんね?」
「―――っ!!?」
ユノは拳を握り、フリードの横面を殴る。
手加減はもちろんしている――それでも運が悪ければ痣が残る程度の威力が否応なしにフリードの顔面に叩き込まれる。
フリードは突然の予期せぬ衝撃に砂海に倒れこみながら頬に手を当て、目を白黒にしている。
無防備な青年の瞳――それは今までユノがフリードに漠然と抱いてきた“頼れる兵士”のイメージとはかけ離れたものだった。
ちくり、と暫く感じていなかった罪悪感が胸の中で動く。
だがそれを今さら気に病むほど、今のユノは優しく出来ていない。
ユノは呆然としているフリードの回復を待たぬままその肩を握って立たせると、静かに噛んで含めるような――それでいて強い口調でフリードの瞳を見ながら言葉を吐く。
今まで――勇者として戦意を失った兵士にするのと同じように。
「フリード、フリードリヒ・ヴァイセン――あなたは、魔族が怖いのね」
「――――ユノ、さん」
呆然とこちらを見ていたフリードの目に光が戻る。
正気は戻った。だが、まだ十分ではない
フリードははっ、と目を見開くと、その視線をアリカの治癒を受けるルビィに向け、そしてその顔を伏せる。
その顔は悔しさと、自分の愛する少女を守れなかった後悔に満ちている。
(フリード、フリードリヒ・ヴァイセン――ルビィの従者にして、ルビィの守護者)
ユノはその様子を見て、王宮で――ルビィの経歴と一緒に見たフリードの人物評を思い出す。
“フリードリヒ・ヴァイセン。自由騎士――その地位は人魔戦争時における前線での活躍に起因する。性格は公正明大でそつがなく、人をたてる副官に向いた人格。実質その通りに気性の激しいルビィ・ギムレットアンテローズを幼少の頃から補佐し、 時には彼女の窮地を救う行動を行った過去がある。人格・戦闘能力とも問題はないが、ルビィ・ギムレット・アンテローズを第一に優先して行動するきらいがある”
その人物評の通り、これまで見たフリードは確かにルビィを優先して行動してきた。
その行動の意味は――恋愛などした経験がないユノにだってわかる。
(人の心に踏み入るような真似は嫌いだけど――)
ユノは息を吸い、静かに――これまでそうしてきたように「勇者」としてフリードに語りかける。
「魔族が怖いのに――よくあの化け物と戦ってくれたわね、フリード」
「――ボクは・・・・・」
「何も言わなくていいわ。フリード――よく頑張って戦ってくれた、でも」
ユノはフリードの眼前から立ち上がり、フリードからルビィがよく見えるようにその場を退く。
そして眼だけは合わせたまま、ゆっくりとルビィを指差してフリードに語りを続ける。
「膝を折って、砂粒の数を数えている暇はないわ。そうしているうちに奴らはあなたの一番大切な人を嬲り、そして、ばらばらに引き裂くでしょう」
「・・・・・・!」
「あなたになら、わかるでしょう?あの戦場にいたあなたなら」
フリードの眼が見開く。
「今回は運が良かっただけ――次は私は間にあわないかもしれないし、次はアリカが直せないほどの負傷をルビィは負うかもしれない・・・・・・そんなのは、嫌でしょう?」
そこで言葉を切り、足元の砂から黒いピストルを拾い上げる。
さらさら、とユノの握った拳から砂が零れ落ちる。
眼を見開き――身体の震えを止めたフリードに確認するように言葉を繰り返す。
「嫌、でしょう?」
「・・・・・・・・・・・・嫌、だ」
うわ言のような言葉が、フリードの口から漏れた。
フリードの眼に光が戻る。
それはユノの待ち望んだ――ルビィの傍らに立つ自由騎士の瞳だ。
「それなら――立って一緒に戦って頂戴。一緒に戦って、お互いの目的を果たしましょう」
「目的・・・・・・」
「そう、あなたがしたいと願うこと。しなければいけないと、心の中で誓ったこと――魔族と戦うなんてそんな“過程”は考えなくていい。最初に見えた目的だけ見据えていれば・・・・・・恐れることなんか何もない、私はそう思うわ」
それはユノにとっても同じことだ。
ユノは長い間、自分が犯した罪から逃避するように何も考えず、唯々諾々と日常を過ごしてきた。
迷惑をかけた仲間に謝るわけでもなく、殺してしまった騎士たちの遺族たちに向き合うわけでもなく、ただただ自分の世界に閉じこもって戦い続けるばかりだった。
本当なら、仲間たちに会って色々話すべきだった。本当なら、あの村で何が会ってどうしてあんなことをしたのか刃を向けてくる貴族たちに話すべきだった。
そうしていれば――別の未来があったかもしれないのに。
(馬鹿ね、私は)
ユノは自嘲する。
自分がぐずっているうちに仲間達はどこかへ消え去り、貴族たちとは修復不可能なまでに関係が壊れてしまった。
未来を自分の手で閉ざしてしまった。
でも、だからこそ。
まだ取れる選択肢があるなら進むべきなのだ。その過程にどんなことが待ち受けていても、まだある希望にかけて進むしかないのだ。
どれだけ眼の前の先行きが暗く、傷ついて身体が壊れたとしても――心臓が動いている限り。
フリードは手を伸ばし、ユノの手からピストルを取り返す。
「ありがとうユノさん、ボクは・・・・・・怖がっている暇などないんだ!」
フリードが完全に立ち直る。
その顔は汚れ、生傷でひどい有様だったが眼の色はさきほどと比べると別人のようだ。
ユノは満足げに――心の中で言葉で人を操る嫌悪感を抱えながら励ますようにフリードの肩を叩く。
「ありがとうフリード――さて、それじゃあ立ち直ってもらったそうそう悪いけど仕事をお願いするわ」
「はいっ、なんでしょうユノさん?」
言葉に強い調子を含めて返事をするフリードにすぐには答えず、アリカに治癒されているルビィを見やる。
アリカの治癒は効果的に働いたようで、苦しげではあるがルビィも意識を取り戻しつつあった。
それを確認すると、ユノは小さく頷いてキャンプの方角を指差してフリードに告げる。
「スコルピオの救援に向かって頂戴。あいつは今ソーサラーと戦っているようだけど、苦戦しているわ」
「わかりましたユノさん――ソーサラーはどうします?」
フリードの言葉にユノはしばし考える。
その問いは「ソーサラーを生かして捕らえるか」という類の質問だろう。
かつての人魔戦争では敵の補給地点や砦などの情報を得る為に捕虜を取ることもあった。
もっとも捕虜といっても相手は人間の敵――確実に拷問の末に処刑をした。
「必要ないわ、フリード。奴らの大将は自分自身を死人だと言った・・・・・・尋問するだけ無駄だと思うわ」
「っ・・・・・・わかりました」
(・・・・・・?)
ユノの返答に、一瞬詰まり言葉を返したフリードに心の中で疑問符をあげる。
じっと――眼の前で心配そうにルビィを見つめるフリードに気づかれない程度にユノはフリードを凝視する。
フリードが言葉に詰まった瞬間に浮かべた表情がユノには引っかかるもだったからだ。
その表情はユノにとって馴染み深いものだからだ。
(秘密を――もしくは“可能な”ことを隠す表情)
ユノの返答を聞き、フリードがその表情を浮かべた意味は――?
(フリードは拷問をすることが出来る・・・・・・或るいは魔族から情報を聞き出す技能を持っている?)
フリードの経歴を考えても彼が拷問に長けているとは思えないが・・・・・・
そこまで考えて、ユノは軽く頭を振って考えを霧散させる。
今優先すべきことではない。
「それじゃあフリード、スコルピオを助けたら私たちに合流して――あまり無理をしないように」
「わかりました。ユノさん、ルビィを――」
「わかってる。必ず守るわ」
銃を構えて走っていくフリードを見送り、ユノは意識を取り戻したルビィへと歩いていった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「・・・・・・遅かったな、勇者」
ルビィは全身にまだ残る痛みに耐えて、正面に立つユノに苦しげな吐息を吐いた。
「そうね、謝るわルビィ」
飄々としたその答えにルビィはふっ、と笑い、差し出された手を受け取る。
無理をしないでください、と優しげに声をかけてくるアリカに頷きを返し、ルビィはユノの手を借りて立ち上がる。
ぼやける視界には走り去るフリードと遠く――アレンダールの死神が立っていた場所に、断続的に爆発を起こしながら立ち込める煙の塊がある。
状況は意識を手放していていたルビィには完全に把握することは出来なかったが――目の前の勇者が何かしたのだろうとルビィは何かを聞くことをやめた。
そしてどちらが先に動いたわけでなく、同時にユノとルビィの二人は煙の方へと歩いていく。
「どう?ルビィ、まだ戦える?」
ユノがルビィに聞く。
その言葉はあくまでも確認で優しさはない。
視線もそれを反映したように少しづつ帳を薄くしていく煙へと向いたままで、ルビィの方を見ていなかった。
「聞くまでもないだろう勇者。私は戦う。戦って――おまえへたどり着く」
「それでいいの?その選択肢に、後悔はないの?」
ルビィの硬質な言葉にユノの声に笑みが混じる。
「たとえこれから戦うことになる魔族を倒したとしても、私には届かないかも知れないわよ?」
「やってみなければわからないだろう」
「心ざし半ばで――死ぬことになるかも知れないわよ?あなたも、フリードも一緒に」
「死んだら、冥界の女王に魂を売り渡してでも蘇ってやる」
「人間を――やめることになるかも知れないわ」
ユノの言葉に、ルビィは一瞬沈黙する。
人間を、人であることをやめること。
全てのこれまで築いてきた倫理や道徳を捨てて、ただただ戦うための修羅へと成り果てること。
そこには救いなどない。
きっとその結末も、ろくでもないものとなるのだろう。
今、横を歩く――勇者ユノ・ユビキタスのように。
「そんなことは、知らん」
ルビィの答えに、ユノはわずかに眼を見開く。
その視線に、ルビィはしてやったりと尖った笑みを浮かべた。
「そんな先のこと、私が知るわけがない」
ルビィのその答えに、ぷっ、とユノは吹き出して、笑った。
上出来な洒落を聞いたように、ユノは無邪気な少女のように笑った。
そして笑いを引っ込めて、それでも嬉しそうにルビィを見据えて言った。
「馬鹿ね、馬鹿だわ――想像してた以上に」
「・・・・・・」
「本当に私が憎いのね、ダイナを殺した私が」
濛々と立ち込める原色の煙が、風に吹き飛ばされて、ユノとルビィの間を通り抜けていく。
二人の先に見えるのは大きな異形の影だ。
肩膝を付き、6本の剣と一対の盾を翼のように広げた禍々しいシルエット。
その瞳に苛烈な黄色い光が宿っているのを見て、ユノは口を笑みの形に歪めた。
ルビィもまたユノのように楽しそうではなかったが――気を引き締めるように形のいい唇を引き結ぶ。
「ルビィ、そういえば教えておかなきゃいけないことがあったわ」
「口数が多いな勇者」
「気を悪くしないで頂戴――教えてあげるわ、魔族との戦い方」
「今更か」
憮然と、だが俄然食いついてきたルビィにユノはふっ、と笑みを零す。
「実のところね。ルビィ、あなたに手ほどきを――魔族と戦う術を教えて欲しいと頼まれたとき、正直私は迷ったの」
「・・・・・・何故だ」
胡乱な視線をユノと、今まさに立ち上がりつつ魔族へと交互に向けながらルビィが尋ねる。
ルビィはもう既に双剣を抜き、いつでも戦いへ移行できるよう体勢を整えているが、ユノは剣すら抜かないまま薄い笑みを浮かべながらしゃべり続けている。
「その理由はね、ルビィ、あなたはすでに完成された剣士だからよ」
ルビィは強力な剣士だ。
類稀なる才能を持って戦士の家アンテローズ家に生まれ、修練を重ねて剣士になり、確固な意思で誓いを受けて騎士になった。
その能力は確かなもので――リーンベルネの王城で戦ったときには内心その技巧に舌を巻いたほどだ。
粗雑なようで実に精巧な体捌きによる回避と、正確に敵の急所を突く剣の鋭さ。
姉のダイナのような“剣の暴風”と讃えられるほどの破壊力はないものの、ルビィの腕前は普通の人間では到達しえない域に達している。
「だからね、ルビィ、あなたがわたしと幾ら剣の打ち合いをしたところで――得られるものなんて殆どないのよ」
完成しているものに付け足すことは蛇足にしか過ぎないのだから、とユノは言葉を付け足す。
「だから私があなたに教えられることは――魔族と向き合う姿勢。その一点しかないの」
「姿勢?」
ルビィが聞き返す。
「そう姿勢よ。どうすれば奴らの前で身が竦まなくて良くなるか、どうすれば奴らを恐れないで戦えるか・・・・・・」
「・・・・・・気の持ちようか」
ユノがルビィから数拍遅れて剣帯から剣を抜き出す。
ぎらり、と刀身が月の光を物騒に映して輝く。
「そうよ、気の持ちよう。つまり――」
「それならば、不要だ」
そう答えるルビィに、ユノは片眉を上げる。
ユノの視界に写ったルビィの眼は何かを悟った――不遜な光を讃えている。
「魔族と戦うなんてそんな“過程”は考えなくていい。最初に見えた目的だけ見据えてればいい・・・・・・それが、答えだろう」
「あら、聞いていたのね」
「ああ、それならば――もう、私には間に合っている」
ユノはにやりと笑い、首を巡らせて魔族の方に注視する。
原色の煙はもうほとんど残っていない。
ようやく――アレンダールの死神とご対面だ。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「――ごめんなさいね、お待たせして」
轟々、と音を立てて流れる原色の煙の中、ユノは口元だけで笑いながら魔族へと声をかけた。
『・・・・・・』
アレンダールの死神は何も答えない。
ただ愚直に――感情を感じさせない動きで、大地を二つの足で踏みしめ剣と盾を持つ8本の腕を翼のように大きく広げている。
まるで機械か、何も考えない死者のようだ。
ぼろぼろになった鎧がその雰囲気を助長させていた。
その背後では馬が死んでいた。爆発に巻き込まれたのだろう。
黒々とした艶やかな胴体から蒼い地を流し、そのままどろどろと汚泥のように溶けている。
普通の馬ではなく――おそらく下級魔族の擬態だったのだろう。
(あれだけの爆発を受けて、立ちあがるか――!)
ユノの横で双剣を構えながら、ルビィは胸中で呻いた。
一見、爆発の中から姿を現した魔族は満身創痍に見えた。
幾多の衝撃と熱で鎧はへこみ、ちぎれてほとんどその姿を残さず防具としての機能ももうないだろう。
その鎧の切れ端から見える肉体――ぶよぶよとした気味の悪い色の皮膚には眼を覆いたくなるような裂傷や火傷の痕が見え、体中から蒼い血を垂れ流している。
だがその傷に苦しむ様子もなく、寧ろルビィが相対していた時よりもずっと力が漲っているように見えた。
アレンダールの死神の顔を覆っていたヘルムと魚鱗造りのコイフも鎧と同様に損壊し、その素顔を月明かりの中に晒していた。
“アレンダールの死神”そう呼ばれた魔族の素顔は――蛸だった。
否、その表現は正しくないだろう。
顔の造作は人間そのものであり、遠め見れば立派な髭を生やした老軍人の顔だ。
だがその顔を形作る部品は蛸の物だ。
鋭い相貌を形作るものは横長の瞳孔を持った蛸の眼であり、その皮膚は軟体質な蛸そのもの。
鼻に当たる部分は存在せず、そのかわりに付け足したように髭を思わせる蛸の触手が口元を覆っている。
頭髪はない。禿頭のようだった。
「こちらの用事も果たしたことだし、あなたの自殺に協力してあげるわ」
ユノは一歩前に踏み出し、構えを取る。
剣はだらりと下げたまま身体の後ろに回し、“グラーベルの鉄篭手”で覆った左手を前に。
わずかに足を開き、上体を屈める。
傍目にはただ立っているだけにしか見えない、無形の構え。
「でも申し訳ないけどね、少しだけ条件を変えさせてもらうわ」
『・・・・・・』
「あなたは勇者に倒されたい。勇者に倒されることで魔族としての役割を果たしたい――そうでしょう?」
アレンダールの死神が翼のように広げた剣を一斉に構える。
6本の剣が切っ先を大地から天空へと向きを変え、眼前に立つユノの方を向いた。
竦むようなプレッシャーが剣先から放たれる。
しかしユノは微動だにせず、平然としたまま言葉を続けた。
「もし私が何も気負うことなく気楽で、一人でここにいたならあなたに付き合ってられるんだけどね、生憎と私はこの子を育てなくちゃならなくてね」
ユノはルビィを指差す。
一瞬それにルビィが眉を顰めるが気にせず魔族の隙をつこうと意識を戻した。
「だから私とこの子があなたと戦う。戦って、あなたを殺す――殺すのはルビィ、私はそのお守りってわけ」
『・・・・・・』
アレンダールの死神は言葉を持たないかのように沈黙したままだ。
だがその切っ先の半数――3本のグレートソードの刃がルビィの方を向く。
それに続くように一対の盾を持つ手が魔族の頭上で広げられた。
盾の向く先にいるのはユノと、そしてルビィだ。
「・・・・・・不満がないようで嬉しいわ、さて、それじゃあ」
ユノの身体が沈む。足の下の砂が踏み潰される。
足のばねに力を溜め、爆発的な突進を生み出す姿勢。
「死ね」
どう、風が引きちぎれる音を響かせながらユノが跳躍する。
弓を引くように右手の剣を引き、左手は捕らえるように前方に広げられる。
一転突破の突撃――それが今度は騙しなしで魔族に喰らいつく。
がきん、と鋭い衝突音がユノとアレンダールの死神の間で炸裂する。
ユノの剣を3本の剣が受け止めた音だ。
お返しのように盾を持った手が振り下ろされ、その縁がユノの頭部目掛けて叩きつけられる。
「シィっ!」
ユノはそれをこともなげに左手で打ち払うと、暴風のように力任せに剣を振り回す。
アレンダールの死神はその矢継ぎ早の連撃に対処するため足を止めざる負えなくなった。
まるでインファイター同士のボクサーの試合のようだ。
どちらも一切の保身を考えていない、引くことすらしない。
力と力の純粋なぶつかりあい。
そこに割り込めるレフェリーはどこにもいない。
当たり前だ、これは試合ではなく“闘い”なのだから。
「ルビィ!前方は私が引き付ける!あなたは背後に回って!」
「・・・・・・応っ!!」
あまりにも暴力的な力のぶつかりあいに圧倒されていたルビィが、ユノの声で動きだす。
暴風のような剣戟を繰り出すユノの横を大きく回り、ルビィは魔族の背後へと回り込もうとする。
だがそれはそう簡単には成功しない。
「うわっ!」
アレンダールの死神の腕は伸縮自在なのか、離れて魔族の背後に回りこもうとしたルビィに剣と盾が鋭い槍のように突き刺さる。
ルビィは走り、跳びながら頭上から串刺しにせんと叩きつけられる剣先を避ける。
どす、と勢い余って砂海に突き刺さった剣が砂埃を撒き散らした――当たればひとたまりもない威力だ。
(先ほどのはほんの児戯――これが奴の真の力ということかっ!)
ルビィは冷や汗をかきながら横殴りに叩きつけられた盾をぎりぎりで回避する。
背後に回り込もうと動くルビィへの追撃はそれだけでなく、休む暇を与えぬまま斬撃と刺突が雨あられ――時には真横や背後から喰らい付く刃が縦横無尽に乱舞する。
だがルビィはそれを跳び、回り、転がってなんとか避けていく。
本人は必死を通り越して今にも死にそうな形相だがその回避は見事なもので、3本の剣の猛追をルビィはなんとか潜り抜けることに成功した。
ルビィは背後から足を狙って繰り出された斬撃を避け、アレンダールの死神の背後へと辿り着く。
(背後を取った!)
4本の腕を伸ばし、残る4本をユノとの攻勢に取られている魔族の背後は無防備そのものだった。
ルビィは口元に垂れてきた汗をぺろりと舐め、雄たけびを上げながらアレンダールの死神の背へと疾駆する。
その動きを察知したのかルビィを逃した4本の腕が頭上で元の長さに縮もうとしているのが見えた。
その早さは動植物の成長を早回ししたように滑らかで早いが――なんの障害もないルビィの速さには追いつけない。
「もらったぁぁぁ!」
ルビィは跳躍し、アレンダールの死神の背へと一気に距離を詰める。
そしてその勢いを殺さぬまま剣を前へと突き出し、さらに中空で上体を大きく振って逆手の剣を無防備な背へと突き立てる。
アレンダールの死神は正面のユノの剣戟に動けず、回避をとれない。
「!!」
ずぶり、と筋肉を破り、肉を貫く感触が剣を通じてルビィの手に確かに伝わる。
蒼い血が噴出す。
アレンダールの死神は苦痛に呻き、それでもユノとの剣戟を続けたまま怒りの炎を点してルビィを睨みつけた。
身が竦みそうになる。
だがルビィはその視線に汗を浮かべて笑みで返し、さらに剣を背中へと突き立てる。
どすっ、どすっ、どすっ、と双剣が振り下ろされるたびに蒼い血が噴出し、ルビィの顔を蒼く染める。
ルビィの攻撃を受けた背中は無残な有様で、軟体質の皮膚から夥しい出血をしていた。
『調子に乗りおって・・・・・・勇者でないものがッッ!!!!!』
アレンダールの死神は半身を――骨がないかのようにルビィの方へと身体を向け、ユノの相手をしていた4本の腕をルビィへと差し向ける。
まるで鋏のように2本の剣を頭上から振り下ろし、さらに時間差で上と正面から剣と盾が振り下ろされる。
「勇者じゃなくて悪かったな!だが私は――貴様を倒せる者だぞッ!!」
ルビィはその攻撃を稲妻のような反射で回避し、嬉々として叫ぶ。
身体が軽い、とルビィは感じていた。
恐れず、なんの後悔も不安も持たずにいればこんなに身体が軽いなんて――知らなかった。
「貴様など、もう怖くないぞ!!!」
正面の剣を回避し――さらに背後から戻した4本の腕の攻撃をさらに捌かれ、アレンダールの死神は焦った。
『なんだ!?なんだというのだ貴様はッ!!さっきまでそんな動きは――出来なかった筈だぞ!!!!』
「それが彼女の、ルビィの本当の実力よ・・・・・・魔族さん」
『!?』
アレンダールの死神は驚愕し――首だけを背後へ回す。
そこにいるのは勇者だ。ユノ・ユビキタス。
力の勇者、悪しき神ドンナーの力を授けられた者。
ユノはゆっくりと口元を歪ませ、笑う。
「人間は魔族に恐怖する――それはこの世界の法則の一部で、種族の個体数で劣るあなたたちへの神からのご加護」
ユノには既にアレンダールの死神の“黄色く光るもの”が見えていた。
と、いうより最初から見当はついていたのだ。
ユノは戦場でこのアレンダールの死神と同じ形態の魔族を相手にしている。
ビフレスト――西部とそれ以外を隔てる国境の街で戦ったのだ。
「ルビィはそれを乗り越えた――ルビィは突然強くなったわけじゃない。乗り越えて、もともとの自分で戦えたのよ」
8本の腕におもいおもいの凶器を携えた、近衛と呼ばれる魔族の戦士。
そのどれもが人間の騎士を模したような姿で戦場を馬で駆け巡り恐怖と殺戮を撒き散らしていた。
そいつらはこれまで相手にしてきたどの魔族よりも手強い相手だったがエレノアの援護を受けたユノによって全て斃された。
そのときのやり方も今と同じだ。
エレノアが正確無比な狙撃で足を止め、ユノが背後から攻撃する。
背中から攻撃を受けた魔族はどれだけ身体が損壊しても決して死ななかった。
近衛は他の魔族と違い“黄色く光るもの”を壊さない限り死なない。
だがユノの、ルビィの攻撃は決して無駄なものではないのだ。
「その結果がコレよ――人間を、甘く見過ぎたわね」
近衛の“黄色く光るもの”は胴体の中心にある。
それは普段は強靭な皮膚と筋肉、骨その他臓器に囲まれて姿が見えることはない。
だがひと度、身体を突き破りかねないダメージを受けると身体の中を独立し、自由に動き回る。
攻撃を受けない場所へ――ダメージが届かない身体の方へ。
ユノの眼にははっきりと見えている。
軟体質の皮膚を透かして――鼓動を繰り返している“黄色く光るもの”が。
「おめでとう、魔族さん・・・・・・あなたの希望は成就されました」
しゃりん、とかろやかな音を立ててユノの手の内から魔術円筒が転がる。
それは剣を収め、かわりに握られた“ニザヴェリルの魔術銃”の中へと吸い込まれる。
ぶん、と唸りを上げて装填孔が閉められ、銃口が天の月を指す。
そしてゆっくりと――蒼い光をにぶく反射しながら銃口が降りてくる。
無防備に晒したアレンダールの死神の背、そこに見える“黄色く光るもの”へ
ちょうどエレノアがビフレストの街でそうしたように。
「死んじまえ」
どかん――と空気が破裂し、アレンダールの死神が絶叫する。
背後から放たれた円筒は“加速”の魔術を受けて銃身から放たれアレンダールの死神へと突き刺さった。
皮膚は鋭く磨かれた円筒の先端によって食い破られ、魔族の身体へと侵入し、炸裂する。
ぐらり、とアレンダールの死神が膝をおり、ルビィの方へ向けて倒れ掛かってくる。
今まさに切りかからんとしていたルビィは慌ててその身体を避けた。
巨木が倒れたような大きな音を響かせアレンダールの死神は倒れこむ。
「し、死んだのか・・・・・・?」
ルビィは剣を収めぬまま倒れこんだアレンダールの死神を覗き込む。
ユノも同じように魔族の身体を覗き込み、冷淡に言う。
「まだね」
「え?」
「死人だとかいうクセにしぶといわね――撃たれる瞬間に“黄色く光るもの”を動かしたみたい」
アレンダールの死神の胴体に大きな穴が空いている。
そこから覗く傷跡はグロテスクで、血に慣れたルビィが見ても吐き気を催すような光景だ。
だがユノの言葉通り胴体の中心からわずかにずれて半壊した“黄色く光るもの”がその姿を覗かせている。
それを認めユノは肯き、顔に小さな笑みを浮かべてルビィに言う。
「あなたが止めをさしなさいルビィ――この勝利はあなたのものだわ」
「だが・・・・・・」
「構わない、どうせ誰が手にかけたって何も変わりはしないわ」
逡巡を見せたルビィはユノの言葉に肯き、緊張気味に剣を頭上へと翳す。
ユノはフリードとスコルピオは大丈夫かな、と呟き、既にその場を立ち去ろうとしていた。
『・・・フ、フフフ』
アレンダールの死神が息も絶え絶えに笑う。
身体からは夥しい蒼い血が流れ、あたりに小さな河を作ろうとしていた。
その水面にはルビィたちの頭上の空が映し出されている。
雲に隠れながら佇む月とベルベットの空。
そして――月に浮かぶ鳥のようなシルエットを。
アレンダールの死神は、それを見ていた。
(勇者よ・・・・・・我が愛しき勇者よ、精々注意することだ。此度の国王は――――)
立ち去ろうとしていたユノが何かを感じて振り返り空へと視線を写す。
それに少し遅く、離れたところから戦いを見守っていたアリカが大きく手を振りながらこちらへ走ってきていた。
「ユノ!ルビィさん!そこから離れて!!!何かが、大きな何かが空から――」
ぼっ、と鈍い音が“それ”の身体から突き出した砲身から放たれる。
それはユノたちの遥か頭上から4つの首を揃えて、正確に獲物の姿を捉えていた。
暗がりの中で魔王が笑っている。その前に浮かぶモノクロの画面には無機質な字で「TAGET LOCK」と浮かんでいた。
(貴様の世界の、人間だ――)
恐ろしい規模の爆発が、砂海の水面を蹴立てる。
火薬庫が爆発したような熱と光が黒々とした煙を伴って炸裂し、巨大な砂の雲を形成する。
それは先ほどまでユノたちが居た場所――ちょうどそこに立っていた場所。
膨大な熱と煙の中で、今度こそアレンダールの死神は息を引き取った。