Ⅴ
『月』の暦1065年
天候:曇り 9月1日
20時10分
夜、砂海には真実の海が現れる――その言葉は砂海の恩恵を唯一受ける村、ドンテカで聞いた言葉だ。
本当の意味はもう知りようがない。村は数日前にわずかな生き残りを残して消えてしまったのだから。
ただ、そう表現したくなる気持ちは理解できる。
「・・・・・・」
ユノは無数にある砂丘のひとつに座り、瞑想するように眼を閉じていた。
高く、細い笛の音のような風の音と、それに運ばれる砂の音だけが広大な砂の世界を支配している。
視覚を遮断し、暗闇の中で聞くそれは確かに海の音に似ている。
まるで、自分を取り囲む全てが海へと変わってしまったようだ。
懐かしい――そう感じるのは何故だろうか?
ユノの心は安堵に包まれていた。
身体の感覚が曖昧になる。
五感が――視覚が、味覚が、聴覚が、触覚が、嗅覚が、瞼の外に広がる海に溶けて消えそうになる。
まるで大きな腕の中に抱きかかえられながら、眠りに落ちていくようだ。
母親の体温。それに包まれて感じる安心。
(この感覚をこの世界のひとに言ったら、何て思うんでしょうね)
この世界の人間は海を畏れ続けている。
それは歴史を知っていれば当たり前のことだ。
海、死の世界。海、危険なモンスターの潜む場所。海、天敵たる“魔族”が地上奪還を狙い潜伏する敵地。
それを「好き」だと言えば、ましてや「母親に包まれたような安心感がある」と言えばどうなるのだろう。
“魔族”と生きようとする信奉者だと思われるだろうか?
戦争で正気を失った狂人だと思われるだろうか?
(それとも――魔族だ、なんていわれちゃうのかな)
くす、と皮肉げに笑いながら瞼をあける。
感覚の中にあった“海”がたちまち霧散し、現実に対応すべく意識が戻っていく。
ここは砂の海だ。
昼には灼熱の太陽が、夜には厳寒な風が吹きつける、死の世界。
海なんてどこにもありはしない。
しばらく、幻想が――音だけの海が現実に一掃される余韻に浸ったあと、ユノは息を吐く。
「なーにしてるんですか、ユノさん!」
静かな夜の静寂が、わずかに乱れる。
ユノが振り向くと、そこには相変わらずコートの上にエプロンを着たアリカが立っていた。
雲の切れ目からかすかにのぞく蒼ざめた月に照らされて、アリカの金色の瞳は本物の黄金のように輝いている。
禍々しい魔族の黄色ではない。暖かく、柔らかな光の金色。
「アリカ」
ユノは頬を緩めると、柔らかな声で呼びかけた。
「はい」
アリカはなんの意図もなく、先生に得意な問題を当てられた生徒のように、はつらつと返事をする。
ふんわりとした亜麻色の髪が風に揺らされている。
きれいだ、とユノは世辞ではなく思う――きれいな、清純な、清潔な白。そんな印象を抱く。
己の絵の具で染めたような乱暴な白とは大違いだ。
「もー、ちょっと眼を離した隙にどっかいっちゃうんですもん。団体行動を乱すと先生に怒られちゃいますよっ」
「私は放浪癖なのよ、アリカ」
「ふふふ、ユノさんはそうですよね、いつもあっちへふらふらこっちへふらふら。野良猫みたいですね」
アリカはユノの横にスカートを抑えながら座り、ユノの白髪をいじる。
ユノはやめてよ、とアリカを少し睨むがそれ以上のことはしない。させるがままだ。
「ちょっとニャー、って言ってみてくださいよ、ユノさん。ユノさん本当に猫っぽいから面白いかも」
「絶対嫌」
えー、言ってくださいよー、とユノの顎を撫でようとするアリカの手を阻止する。
するとアリカはいたずらっ子のような笑みを浮かべながらもう片方の手でユノの顎を撫でようとする。
「えいっ」
「やめてよ」
伸ばされるアリカの手を阻止する。
「そりゃっ」
「怒るよ」
空いた片方の手でしつこくユノの顎を撫でようとする。
「とうっ」
「・・・・・・」
ユノは何も言わず、アリカの両手を握り、ゆっくりと正しい位置を教えるようにアリカの膝に乗せる。
アリカもそれ以上はユノに触ろうとせず、おとなしくユノと同じように砂海の空を眺める。
「・・・・・・」
柔らかな沈黙が2人の間に満ちる。
人は沈黙すればその空白を埋めようと話題を探すものだが、ユノとアリカはその限りではない。
アリカは外向的で喋るのが好きだが、話題がないときは必要以上に言葉を重ねようとしない。
それは無理に言葉を交わそうとせずとも人は親しくなれるし、穏やかに時を過ごせると信じているからだ。
対してユノは必要なことしか喋らない。
多く言葉を重ねたり、好感を得ようと言葉を飾ると却って悪い結果になることを知っているからだ。
恋人というには淡白で、友達と呼ぶには近すぎる。
家族――ユノとアリカの関係はそう呼ぶのがふさわしかった。
「ねえ」
ぽつり、とユノは空を見上げたまま呟く。
「なんですか、ユノさん」
「みんなのこと、どう思う?」
みんな――それを指すものはいつもの「みんな」ではなく、王都から連れ立った騎士と魔法使いのことだろうとアリカはあたりをつけた。
ユノには違う「みんな」が存在している。
過去に戦いを共にした勇者、それを指すときもユノは「みんな」と表現する。
「良い人たちだと思いますよ・・・・・・あの蠍のタトゥーの人、スコルピオさんには少し吃驚しましたけどね。ルビィさんも強くて頼もしいし、フリードさんも愉快で強い人ですね」
にこにこと笑うアリカにユノは暖かな一瞥を投げ掛け、その視線を砂の海に落とす。
「そう、よかった」
しばらく沈黙が落ちる。
「ねえ」
次に会話を切り出したのはアリカだった。先程の繰り返しのように視線は空に向いている。
「何」
「ルビィさんは、誰の肉親だったんですか」
「・・・・・・」
ごう、と風が強く2人の間を通り抜ける。
普段は動かないポンチョが風にはためき、裏側に隠された武器がカラカラと音を立てる。
「はじめて会ったときにね、わかりましたよ。ユノを見る視線、態度、言葉・・・・・・そのどれにも「誰か」がいるんです。愛しているけど居ない人、いなくなっちゃった人。まるでユノがその人とルビィさんを隔てた壁みたいに・・・・・・怒ってます」
長い、詩的な一人芝居のような台詞を一息に終え、アリカはユノの言葉を待つ。
それを受けて喋りだす役者――ユノの言葉は限りなく平坦で、静かだった。
「アリカは、それを知ってどうするの?」
「どうもしませんよ・・・・・・ただ、ルビィさんも、フリードさんも、スコルピオさんも、そしてユノも知っている。私だけ、私だけ何も知らない。そんな状況が嫌なんです」
「知らないままのほうがいい。そうは考えないの」
「思いません」
即答だった。
アリカは空を見上げるのをやめ、ユノを見る。その視線は優しく暖かい金色の瞳ではなく、暗闇で爛々と輝くリザードマンの眼だ。
戦いに生き、戦いに死ぬ孤高の種族リザードマン。その生き方を厭いながらも、アリカにはその血が確かに流れている。
アリカはユノの白い横顔を見つめたまま言った。
「ユノ、私を何も知らないお嬢さんみたいに扱わないで――あなたは騎士じゃないし私はお姫様じゃない。共に戦い、生き抜く仲間・・・・・・今は守られるばかりかも知れないけど、私はそうなると決めてここにいる。あなたと一緒に暮していたときから、そう決めていたんです。」
それに私はユノより年上なんですよ?とアリカは鼻息を荒くして言う。
それを見てユノは苦笑した。とても年上には見えなかったのだ。
「わかったよ、アリカ・・・・・・でも」
「わかってますよ、ユノ。約束は約束。」
そんな会話を経て、ユノは話した。
ルビィ・ギムレット・アンテローズとその姉の話を。
それは大きく省略された物語だった。無駄な飾りのない、シンプルな寓話。
ユノの主観でもルビィの主観でもない、まるで古い逸話を諳んじてるような有様だった。
“――昔々、王都に戦いの家と呼ばれる家があり、そこに優しい姉とちょっとそそっかしいけど正義に燃える妹がおりました”
“妹は優しく、強い姉が大好きでした。姉は戦いの家の人々が知らないことを知り、妹にはそれがとても輝いてみえました”
“姉もまた、いつも自分の後ろをついて回る妹が好きでした。戦い以外のことに精を出し、馬鹿にされる自分を好いてくれるのは妹だけでした”
“そんな姉にある転機が訪れます。それは海から来た邪悪な魔王、それを倒しにいく勇者たちの一団についていくことを命ぜられたのです”
“姉はあまり乗り気ではありませんでした。ですがいつも軟弱者と謗られる自分を痛ましく思っていた妹に、少し良いところを見せようと、姉はその旅についていくことにしました”
“旅立ちの朝、妹は泣いていました。姉と離れ離れになるのが嫌なのでしょう。そんな妹の頭を姉は優しく撫で、行ってきますと手を振り旅出ちました”
“それでも妹は泣き止みませんでした。姉と離れ離れになるのが嫌なのでしょう。だから戦いの家の人々は、まるでこれまでのことがなかったかのように姉のことを誇り、讃えました。遂に戦いに赴いた姉を誇りに思って笑って欲しくて、姉のような騎士になって欲しくて”
“ですが妹が泣いていたのはそんな理由ではありませんでした。妹は姉の心の内を知っていたのです。自分の為に戦いに行ったのだと知っていたのです”
“妹は自分を責めました。自分がいたから、自分が心のどこかで戦いに赴く姉を望んでいたから、姉はそれに応えてしまったのだと。
“そして妹は思ったのです。私は強くなる。そして姉のところに行くのだと・・・・・・それを目標に、妹は立派な騎士になるために勉強をしました”
寓話がそこで止まる。
語り手が息継ぎをしたのだ。
「でも妹は姉のところに行けなかったのね」
たった一人の観客――アリカが静かに言った。
「そう・・・・・・ルビィが騎士学校を終える前に戦争は終わり、ダイナは私が殺した」
その言葉には後悔の念はない。事実を事実として述べる事務的な述懐だった。
「どうして、殺してしまったの?」
「それが、正しいと思ったからよ――アリカ、アリカは“村”の話を覚えてる?」
アリカは頷き、肯定の意を返した。
今でもユノが夢に見てしまう占領された西部に作られた“魔族の村”の話。
その“村”で起きた出来事こそが、目の前の壊れた友人を作る理由になったのだとアリカは知っていた。
そしてそれは同時に――今のユノとアリカが知り合う切欠にもなっているのだ。
「あの村でね、エインヘリャル達は3通りの行動をとったの」
ユノの瞳が歪む。村の様子を思い返しているようだった。
「ひとつめは、義務で魔族を殺しはじめた騎士たち。命令だから、目的だから、敵だから、いままでもそうしてきたように、戦いを仕掛けた。もうそこには兵士なんていなかったのにね」
誰もおかしいと思わなかったのかな、とユノは呟き、次の「ひと通り」を語る。
「ふたつめは、殺したいから殺した騎士たち。一番シンプルでわかりやすかった……でも、気持ちは理解できたよ。魔族にみんな殺されてしまったし、魔族は強いからね――“弱い魔族”なんていたら、ああなるのも理解できたよ」
でも、許せなかった。とユノは酷薄な表情で笑った。
その顔を黙って見つめるアリカにはその表情が痛ましいものに見えてしょうがなかった。
そっとユノの肩に手を置く。
それに気づかないように、ユノは最後の「ひと通り」を語った。
「そして最後は――どちらにもなれなかった騎士たち。自分たちの目的は理解できているし、あの“村”がどんなものなのかわかっていたけど、結局選べなかった。だから、時間切れになって、選ばされた」
「それが、ルビィさんのお姉さんだったのですね」
アリカの呟きに、ユノは首を横に振った。
「違うよ。ルビィのお姉さんは、ダイナは迷わなかった。私が“騎士殺し”になってからすぐに、ダイナは私の前に立ち塞がった。すぐにダイナがどんな立場になったのか分かったよ。ダイナの剣にも、鎧にも新しい青い血はついていなかったからね」
ああ、これじゃあ4通りか、とユノはおかしそうに笑う。
「でもあの時の私にはそんなモノ関係なかった。騎士達の後ろには魔族の子供がいた。死んだ母親に縋りついて、泣いていた。人間の子供と――これまで見てきた子供たちと違いなんてわからなかった・・・・・・それを殺そうとする騎士達を理解出来なかったし、私を止めようとするダイナが邪魔でしょうがなかった」
だから、殺した。とユノは膝の下で虚ろにそう呟き、それきり何も喋らなくなった。
アリカは幻視する。
青い返り血を浴び、逃げ惑う騎士と、傷ついた魔族たち。騎士を追い立て、魔族を助けるために剣を振るう勇者。
その混乱の中を、たった一人でなんとかしようと奔走する――孤独なダイナ・ギムレット・アンテローズ。
(可哀相な人)
アリカは眼を伏せ、そう思う。
ユノの話の中のような、ふた通りの“加害者”にもなれず、残るひと通りの“被害者”にもなれず、そして目の前の誰にも理解出来ない――少なくともこの世界の人間ならば誰も選ばない選択をした勇者にもなれず、その場で取れるべき“最善の行い”を選択してしまった彼女。
彼女はどんな思いで死んでいったのだろう。
ふた通りの“加害者”ならば、正しい行いをした筈の自分を殺す勇者を恨み、責めて死んでいくことが出来ただろう。
自分は悪くない、正しい行いをした。と、他人を呪い死んでいくことができただろう。
そこに未練はあれど、自責の念などなかっただろう。
ひと通りの“被害者”たちも哀れだと言えるだろう。
目の前の状況に戸惑い、どうするべきか悩むうちに殺されたのだから。
でも、同じだ。自分に理不尽な死を与えた人間を呪い、未練の中で死んでいけた。
だから、最後に残る彼女よりもまだ楽だ。
アリカは声に出さず笑う。
自分の思考はあまりにも極端で、傲慢過ぎる。
ただ話を聞いただけの外部者にしか過ぎないのに、ただの妄想で彼らの優劣を決めようとしている。
しかし、思考は止まらない。
最後に残った彼女は哀れだ。
優しいから、逃げ惑う騎士を守ることを選択し、聡明だから、その時のユノの気持ちを理解でき、公平だから、どちらにも肩入れすることが出来ず、勇敢だから、逃避することを選べなかった。
彼女は誰も恨めなかっただろう。騎士も、その“村”の魔族も、勇者も。
もしくは全てを恨んで逝ったのだろうか。
義務と感情に忠実に、戦いもせず逃げ惑うだけの魔族を嬲り、虐殺した騎士たちを。
自分の種族と人間の立場を軽視して、戦場にほど近い森に居を構えた迂闊で自業自得な魔族たちを。
誰にも理解出来ない思考で、溢れる感情に身を任せて、誰にも“理解させぬまま”一番最悪な方法で自分の考えを押し通した勇者を。
そして――それらの全てに属せず、全てと敵対することになってしまった哀れな自分自身を。
「――――――」
気がつけば、横にいたユノが立ち上がっていた。
輝く満天の星空も見ず、かといっていつもの自分の内側に篭るように俯きもせず、ただただ無感動に視線を先に固定している。
その右手には“ニザヴェリルの魔術銃”が握られていた。
篭手に包まれた左手には手品のように四本のスローイングダガーが挟み込まれている。
だが、それに気づかずアリカは問いかける。
ユノにとって打ち切りとなった話題の問いを。
「ねえ、ユノ――ユノはどうしてルビィを」
「アリカ、今はその話は終わり」
ざ、とユノがアリカを守るように立ちはだかる。
その対象は何も存在しない――少なくともアリカにはそう見えていた砂海だ。
その姿に戸惑いを覚え、アリカの“口調”が戻る。
「え?あの、ユノさん?どうしたの?一体何が――――」
「アリカ、黙って・・・・・・やっぱり来たか」
ずおお、と不気味な鳴動が周囲に響き渡る。
アリカのリザードマンの感覚が、不幸にも正しく事態を認識させてしまった。
(囲まれてるっ!?)
ざわ、と肌が沸き立つのを感じる。
まるで嘲る笑みのような不気味な鳴動が、ユノとアリカを中心とする円状に取り巻いている。
遠くを見ればぽつぽつと、船の灯りのような黄色い光が二つに並んで蠢いている。
それは双眸だ。視線だ。
「黄色い光――ま、ぞく!!!」
「耳を塞いで伏せて」
ユノがポンチョをはためかせながら――その端から、カラカラと耳障りな金属音を立てる武器が見えた。
右手に構えた魔術銃を振りぬいた。
次の瞬間、恐ろしい爆音と共に周囲が昼夜の如く明るくなる。
それだけだとまるで花火のようだが、そこには華やかさも優しさもない。
暴力的な光、それを目的とした閃光魔術円筒。
しゃりん、と煙と共に吐き出された空円筒が、耳を塞ぎ伏せたアリカの眼前に落ちる。
頭上からユノの声が聞こえた。
「効果がない――対光装備のエリート兵か・・・・・・上等じゃない」
黄色い光が恐ろしい速さでこちらに迫ってくる。
(ああ――)
その悪夢のような光景を前に、次の円筒を装填する友人を見てアリカはただ震えていた。
『月』の暦1065年
天候:曇り 9月1日
20時15分
メルカトル大砂海中間中継地点『ギルドベースキャンプ』
第16番陣地
ぱちぱち――と焚き火が爆ぜる音が緩やかに時間を支配している。
スコルピオは周囲を警戒しながらも穏やかな休息を楽しんでいた。
親子のような身長さの騎士2人、ルビィとフリードは1つの丸太を椅子に座りながら砂海の地図を広げ、何かを話し合っている。
と言っても、その実は不機嫌そうに――時々痛む頭を抑えながら押し黙ったルビィにフリードが懸命に話しかけている様子だ。
フリードは砂海の地図を広げ、ここが「馬」だの、ここが「ドラゴン」だのと指を指しながら告げ、何故そこが「馬」なのか「ドラゴン」なのかという具にもつかない逸話――神話を語っている。
単語の断片から砂漠に住む遊砂民族に古く伝わる神話の類だろうとスコルピオはあたりをつけた。
若い自由騎士――フリードの語り口はなかなか軽妙で、又聞きでも面白そうだとスコルピオは感じたが、如何せん聞かせる相手が悪い。
「――と、まぁその神様の亡骸から3匹の犬が生まれ、元気に駆け回っている図ってのがこの“犬”なんだよ。面白いでしょ?」
「・・・・・・・・・・・・?」
「ん?面白くなかった?それじゃあ・・・・・・あ!じゃあ次はこの“山羊”の話をしよう!こいつはね、わかると思うけどシアールフィとロスクヴァに関係のある話でね・・・・・・」
「いや、さっきからなんの話を・・・・・・好きにしてくれ」
スコルピオを除く唯一の聞き役。ルビィは「頭大丈夫かコイツ」と言いたげな表情で得意げに語るフリードを見ている。
確かにそんな表情をしたくなるのも分かる。神話というのは往々にして支離滅裂で突拍子のないものの集合体だ。
牛の舐めた岩から最初の人間が生まれ、神の亡骸から世界が作り出され、炎の国から飛んできた火花が太陽と月になる。
そんな突拍子もない出来事がなんの説明も、なんの理由もなく当然のように進行し、その物語の登場人物たちは何も奇妙に感じず、あるがままに物語を進行させていく。
それを摩訶不思議で面白いと捉えるか、混沌としていて整合性がないと捉えるか――聞き手の心次第だ
少なくとも未だに痛む傷を抱え、何かを思いつめるようにして押し黙るルビィには前者のような捉え方は出来まい。
頭が一杯なのだろう。
モンスターに殺されかけ、さらに仇敵に助けられるという出来事を前にして。
(まぁ、僕に関係のある話じゃないか)
無関心にスコルピオは足を投げ出し、古ぼけた蔵書を読み返す。
その周囲にはまるで墓標のように積み上げられた無数の本の山がある。
全てスコルピオが普段から持ち歩く蔵書だ。
スコルピオは、否、多くの魔法使いは何もないときは自分の蔵書を読み返す。
その行為はおおよそ戦士が次に来るべき戦いに備えて剣を手入れすることと同じだ。
魔法は使用すれば必ず“忘却”する。
それの発生を遅らせるのは実に地道な呪文の暗記と暗唱だ。
その行為を怠ればどんな惨劇が待ち受けているか――想像することは実に容易だ。
(それにしても、やっぱり憶えていなかったなぁ)
スコルピオは本の内容を熟読しながらも、心の中でそう呟く。
ぱちぱちとはじける焚き火がスコルピオの横顔を照らす。
その眼には普段の胡散臭い密偵の色はなく、年相応の少年らしい表情が見てとれた。
(まぁ、無理もないか。僕も随分変わってしまったからな)
スコルピオはユノ・ユビキタス、いや、昔は“向月ゆの”と名乗っていたか――に大きな借りがある。
借り、と言っても彼女自身は憶えていないだろう。
彼女はあの戦場で多くの人を救っているし、他の勇者もその限りでない。
だがそのことを自覚しつつも憶えていて欲しかったと思う心が微かに心の隅にあった。
他の人間はモンスターや魔族に命を奪われそうになって助けられただけだが、スコルピオの場合は違う。
スコルピオはユノに自分の全てを救われた。
それが“命”とどう違うのだ。と、ユノとスコルピオの話を知る者は笑うが、スコルピオは本気でそう思っている。
本気でそうだと思っているからこそ、スコルピオはこれまでやってこれた。
全て、彼女を――これからユノ・ユビキタスを襲いくるあらゆる惨劇から彼女を守るために。
(ユノ、僕はあなたを助けるためにこれまで色々やってきたが・・・・・・あなたは褒めてくれるかな、それとも気味悪がるかな)
スコルピオはぼんやりと、ユノとそれを追っていったアリカが去った方を見つめ、胸中で呟く。
スコルピオはユノがランバルディアと“契約”を結んで以来、影から彼女を見守り続けた。
ランバルディアの貴族は彼女を国から追放するように仕向けようと様々な陰謀を仕掛けた――スコルピオはあらゆる手段でその策謀を妨害した。
間接的な手がうまくいかないなら、と暗殺者を送りこむ者もいた――彼女が自分で斃した者以外は全て自分が殺めた。
彼女は時々“証拠隠滅”をしないことがあった。単に面倒くさかったのか、それともそれが思いつかないほど精神の均衡を崩していたのか――そんな時はスコルピオが変わりに“騎士や貴族の亡骸”を処理した。幸いにも彼女が派遣される場所には人肉の味を覚えた野犬や、凶暴なモンスターや、無念を残して死んだ魂を仲間にするアンデットに事欠かなかったから仕事は楽に済んだ。
家が燃やされることもあった――その実は自分が彼女の留守中に仕掛けられた爆弾を魔法で誘爆させた結果だ。
本人を殺す以外で恨みを晴らせないなら、と彼女に似た少女たちを拷問する下種がいた――その情報が彼女に伝わる前に速やかに抹殺してやった。彼女にはこれ以上傷ついて欲しくなかったからだ。
彼女にハーフリザードの友人が出来た――彼女自身は人間の誰よりも強いがその友人は弱い。だからスコルピオは監視任務に志願し、文字通り彼女とその友人を“見守り”続けた。
彼女の心は自分には救えないが、彼女――アリカ・マイルズなら救うことが出来ると確信したからだ。
そして彼女は西に向かうことを決意し、もう一度魔族と対峙する冒険に旅立った――そしてスコルピオは彼女の前に現れ、同行することに決めた。
王命など嘘だ。本当はこれまでと同じように遠くから彼女を監視するだけだった。
だがそれでは――これから起きるであろう“惨劇”から彼女を救ってやれない。
スコルピオはこれまで彼女の守備部隊だった。
しかし、同時に彼女の影につき纏い続ける不気味な亡霊でもあった。
夜毎に彼女の夢に現れ続けるエインヘリャルの亡霊――それと同質のものだ。
亡霊では駄目だ。亡霊は所詮暗闇を這いずり回る幻影に過ぎない。
それでは彼女を救うことなど出来ない。
だから――スコルピオは亡霊から人間になった。
彼女を側で守り続ける為に、これから起こりうる惨劇に助言を与える為に。
(ふふふ・・・・・・ユノ、あなたにとって今の僕は信頼出来ない、得体の知れない存在だろうね――でも、安心してくれ。今は僕はこんな風だが)
僕は間違いなく君の味方だ――スコルピオのその呟きは誰にも聞こえなかった。
ぱち、とひと際大きな音を立ててくべられた薪が爆ぜる。
焚き火の火は気がつかないうちに小さくなって、最後の命を振り絞るように炭と化した同胞の亡骸の下で燃えている。
だがその抵抗は無意味だ。
抵抗は、努力は報われない。
命は尽きる。
現象はいつか停止する。
花は色褪せていく。
薪木は炭になり灰になり終いに芥になる。
(馬鹿め、たかが焚き火になにを考えているのだ)
そう自嘲気味に笑うルビィの気分はこの上なく最悪だった。
どれくらい悪いかというと――目の前でそろそろ火種が尽きそうな焚き火に感情移入してしまうくらいだ。
何を感傷的になっている。と己を批判するが気力が戻ってこない。
不貞寝できればいいのだが定期的に痛む頭と、隣にいる幼馴染――フリードがなかなかそうさせてくれない。
ルビィは隣で未だに――誰が頼んだわけでもないのに益体もない話を語り続けているフリードを見やる。
なにか別のことに興味を向けることで気を紛らわせようとしていれてくれるらしいが、正直話の内容がルビィには不可解過ぎて逆に煩わしかった。
「――で、結局その女神は恋人を連れ帰ることが出来なくて、涙を流して悲嘆にくれたそうなんだ。そのとき流した涙からこの猫が生まれて・・・・・・どうしたんだいルビィ?ボクの顔に何かついてるかい?」
(意味がわからん・・・・・・なんでそこで猫になる?)
ルビィの視線に気づいてフリードが人の良さそうな笑みを浮かべる。
髭が薄く彫りの深い“ランバルディア優良青年”の模範のような顔。
ルビィにとっては見慣れたその顔は数少ない同性の友人や部下からは「ハンサム」に見えるらしい。
そんなフリードを常日頃から付き従えるルビィは大層“幸せ”らしいが――ルビィは15年の人生の中で一度もそれらしい感情を抱いた記憶はなかった。
(逆に鬱陶しくなるな・・・・・・特に今みたいな気分の時ならば)
ルビィはふー、と鼻で息を吐くと、フリードの顔を見るのをやめ焚き火の方を見る。
焚き火は未だ自分の運命に抵抗し続けている。
益体のない話といったが、フリードが何故先程からそんな話を自分にし続けているか――それくらいは分かる。
自分でも分かるがユノと共に帰ってきた自分は情けないほど落胆し、憔悴していた。
“痛い?死ぬほど痛い?その痛みに感謝することね・・・・・・痛いのは死んでいない証拠だもの”
“くだらない、思い悩むだけ無駄だわ。そんなこと”
“あなたの目的は、一番の目的は・・・・・・魔族を倒すなんてことだったの?”
“今、あなたがどうしようもない弱音を吐こうとしている私は――あなたの姉、ダイナ・ギムレット・アンテローズを”
「・・・・・・っ」
それを言われた当初、怒りで頭が沸騰した。
だが、ユノの背中から降り、痛む体と頭を引き摺って歩くうちに、すぐにルビィはその言葉の真意に気づいた。
それは冷静な頭で考えればすぐに分かることだった――いつもの自分ならば。
ルビィは自分が直情な人間だと自負している。感情で動きやすい、口の悪いイスラなどからは“猪”と呼ばれることもあった。
だがただ単純に頭に血がのぼり易いだけの猪武者ならば、とてもじゃないが悪事を働く輩を追い詰める“守護騎士”
その部隊の長になれる筈がない。
なにせ相手は知能のないモンスターではなく、人間の――この世界でもっとも知恵の回る生き物だ。
知恵が回るということは悪事を隠蔽する策を練ることが出来る。
目撃者が出ないように犠牲者を裏路地に連れ込む、引き込み役の情婦や下衆を用意して獲物を誘い込む。
言葉を操って本人が知らない内に悪事の片棒を担がさせる。神の名を出して哀れな平民から金品を騙し取る。
そんな出来事とは――守護騎士となってから幾らでも対峙する機会があった。
国家転覆を図る政治集団の蜂起を未然に阻止したこともある。
もっともそれはルビィ一人の力ではなく、愛すべき“問題児騎士団”とフリードの助力のお陰ではあるが・・・・・・。
(だが今の私は駄目だ・・・・・・怒りが、あいつが私を鈍らせる)
それは他人が聞けば言い訳にしか聞こえないだろう。
だがルビィの中では深刻な真実だ。
勇者ユノ・ユビキタス――自分の姉を殺した憎き仇敵。
幾ら頭の中で冷静になれと告げても、気づいたときには感情のままに動いている。
昼のユノの言葉がもし全くの他人から放たれた言葉だったなら、ルビィはすぐに気づけただろう。
それがモンスターに打ち据えられ、心とプライドが打ち砕かれた自分に対する厳しくも正しい言葉だっただろうと。
(駄目だな、こんな事を考えていては・・・・・・ウジウジとしていて私らしくない)
かぶりを振り、隣でこちらを見るフリードに視線を向ける。
「・・・・・・どこか痛むのかい、ルビィ?」
心配そうにフリードが尋ねてくる。
その顔は少なくともルビィには純粋に自分のことを心配してくれるように見える。
・・・・・・なんだかむず痒い気分になる。
よし、とルビィは重い気分を振り払うように首を振り、きっ、と音でも立てそうな勢いで前を見据えた。
その視線の先に居るのはフリードだ。
黒い鎧を身に纏った、ルビィの右腕にしてまだ弱いルビィの守護者。
自分は守られている――そう自覚しなければ、ことは進まない。
「・・・・・・もう大丈夫だ。心配をかけるな、フリード」
「本当に大丈夫?君に何かあったりすれば・・・・・・」
「大丈夫だ、フリード。もう二度とあんなヘマはしない」
その言葉を聞き、フリードは複雑そうに顔を歪める。
目の前の愛しい幼友達が立ち直りの兆候を見せて嬉しい反面、また今回のように死の危険に突っ込むのではないかと不安なのだ。
そんな不安に気づかずルビィはキッ、と音でも立てそうな勢いで顔をあげる。
ふわ、と舞い上がった赤い前髪が小さなおでこの上に着地する。
その下にあるのは決然と、何かを振り払った女騎士の顔だ。
それはいつもの頼もしく無鉄砲なルビィ・ギムレット・アンテローズに見える。
しかし、フリードには彼女が無理をしているように感じていた。
「勇者はどこへいった?」
「ああ、確かさっきまで――」
教えるべきではないと思いながらもフリードは焚き火の向こう側を指差し、その向こう側で横たわりながら本を読むスコルピオを見た。
「スコルピオと何か話をしていて、それから向こうの丘の方へ登っていったけど・・・・・・今はアリカさんも一緒じゃないかな」
「・・・・・・邪魔することになってしまうか?」
「それは君がユノさんに何をするのかによると思うけど・・・・・・」
そう返すフリードにルビィは少しだけ考え込むそぶりを見せ、冗談など一片のかけらもなく言い切る。
「それならば邪魔をすることになってしまうな」
「・・・・・・えー」
口を開けて呆れるフリードを置いてけぼりにしてルビィは腰の双剣を抜き放つ。
そしてそのままサーカスの曲芸師のようにびゅんびゅんと剣を手の中で回転させ、また元の後ろ腰の鞘に戻す。
ルビィお得意の“ファイティングポーズ”だ。
今なぜそれをユノ本人の前ではなく、フリードの前でやったのか不明だが、その姿は傍目から見ても――例えば遠く離れた小高い砂丘から望遠鏡で見ていたとしても、やる気満々といった風情だ。
フリードは眉をさらに寄せながら、大股で歩くルビィに追従する。
やはりその後姿はいつもより弱弱しい。フリードにはそう感じられてならなかった。
「今日はやめておきなよルビィ。君もまだ回復したばかりなんだし、ユノさんには助けてもらったばかりだし・・・・・・」
「勘違いするな、私はあいつと話すだけだ。」
「駄目だって、君の場合いつもそう言っても口じゃなくてそのうち剣で語り合うことになるだろ?騎士学校の時のあの騒動、ボクはまだ忘れてないよ!」
あの騒動とは騎士学校でルビィが引き起こした“連続騎士決闘事件”のことだ。
はじめはただルビィが先輩騎士に先達の話を聞きにいっただけなのだが、何があったのか知らないが訓練生同士の決闘がご法度な学校で前代未聞の大決闘大会が開かれることになってしまった事件だ。
怒り心頭の上級生数人対傲岸不遜に腕を組むルビィ。
その場に立会いとして駆り出されたフリードは生きた心地がしなかった。
“貴様には身体で憶えさせてやる”
“フン、私よりも弱い貴様らから何を学べというのだ?掛かってこい口だけの騎士殿”
・・・・・・未だにその事件の記憶でフリードは魘されることある。
「とにかく駄目だ、やめよう。ルビィ、君は強くなることに急ぎすぎてる」フリードは首を振りながら強い口調でそう言う「今の君には休養と考える時間が必要だ。確かに焦る気持ちはわかるよ、ボクにもルビィにも時間がないんだからね」
フリードのいう時間とは、魔族と独力で戦える知識と力を身につける時間という意味だ。ルビィは騎士学校で魔術師が作ったダミーの魔法生物との実戦訓練を含めた対魔族戦訓を。フリードは実際の戦場で幾らかの低級魔族の軍勢と戦った経験がある。
だがその程度の経験ではこれから遭遇しうる魔族と戦うには到底満足といえない。
魔族と戦う上でもっとも厄介なのが恐怖心――これはフリードも経験しているが、魔族はそこにいるだけで人間に恐怖を喚起させる。
ウサギが誰に教えられなくとも生まれたその時からコヨーテやオオカミに怯え逃げるように、人には原始的な部分から呪いのように魔族への恐怖が刻まれている。
現実、フリードも初めて魔族と遭遇した時は心の底から震えるような恐怖を憶え、身体が石のように硬直してしまった。
マスケット銃の照準は震える手のせいで照準が合わず、同じように腰のサーベルも鞘から抜けない。
なんとか戦列を組んで集団になり、エインヘリャルの指揮で辛くも勝利することが出来た。
集団であるという安心感と、エインヘリャルの能力――魔族の恐怖を和らげる力があった故の勝利だ。
だが今回はそうもいかない。自分たちは西部の新アリストピアに辿り着くまではたった5人でしかないし、エインヘリャルもいない。
勇者はいるが、彼女の力の大半は封じられたままで――そして彼女自身も決して正常ではない。
だがそれでも勇者とはこの世界の人々の精神的支柱であり、魔族と戦うエキスパートなのだ
だからルビィがユノを頼りたくなる気持ちもわかるし、頼りきりにならないように自分だけで戦えるように術を学ぼうとするのもわかる。
でも今の目の前少女は急ぎすぎだ。
人間の肉体や精神はそう容易に癒されることはない。
脆くなっているところをもう一度同じことが起きれば――ルビィは崩壊するだろう。
「それがわかっているなら邪魔をしないでくれ、フリード」
ルビィは複雑な表情で顔をしかめた。
「今日のことで分かった。私がこの団の中で一番弱く、脆い。ドンテカでだってそうだ。結局は私が激したせいでおまえを要らぬ危険にあわせてしまった」
それは一番はじめに“兵士”と対峙したことを言っているのだろう。
フリードの鎧には一目では分からないが今でも幾つか湾曲した傷がある。触手に押し潰されそうになったときの傷だ。
「そんなこと・・・・・・」
フリードは喋ろうとするがルビィが手で制した。
焚き火の横で横たわっていたスコルピオが上体を上げるのが視界の端に映る。
「とにかく、私が強くならなければ足を引っ張ることになる。その為には少しでも多く勇者の教えを受けなければならないんだ。」
ルビィのサファイアの瞳が飢えた獣のように輝いている。
休むことも止まることも拒否する――危険な瞳だ。
そこでフリードはあることを思い出し、後悔に頭を抱えたくなる。
(ああ、ちくしょう――イスラ様が言っていたのはこういう意味か!)
ランバルディア前哨基地で独り言のように呟いていたあの言葉。
あいつを持って言ってくれるなよ、向月、ゆの・・・・・・それは彼女と共にあるルビィの危うさを予期しての言葉だったのだ。
ユノと共にいるルビィは彼女の強さ――勇者としての能力以外の卓越した戦闘技術とあらゆる魔族と対峙して生き残ったその知識を学ぼうと躍起になるだろう。
しかしそれは修羅の道だ。常人では辿り着けない領域の話だ。
もちろん、フリードはルビィを常人であると思ったことは一度もない。
天性ともいえる戦士としての才能。最少年で守護騎士隊長となったその実力。感情のまま振舞うこともままあるが、犯罪者の捜査や情報収集で見られる冷静かつ大胆な判断力。そしてそれらを常に磨こうと鍛錬し続けるひたむきさ。
だが――「そこ」からユノの、勇者の領域へ辿りつこうとするには、代償が必要になる。
フリードはユノの瞳を思い出す。無感動で、人形のような――しかし強烈な意思を感じさせる月色の瞳。
あれは「払ってしまった」人間の瞳だ。
強くなるために、誰かを救うために、不可能な目標を達成するために・・・・・・自分の中にある大切な何かを打ち捨てた人間の瞳だ。
戦場ではたくさんそんな瞳を見た。そして終戦後に守護騎士として犯罪捜査をする中でも見た。
人の姿でありながら、人でなくなってしまった――人でなしの瞳。
出来ることなら、ルビィには・・・・・・森の中で出会った優しい少女にそんな瞳になって欲しくなかった。
(しかしボクに何が出来る?何をやればルビィの進む道を守ってあげれるんだ?)
言葉を失くしたフリードに、どこか気まずげな表情の一瞥を残してルビィは去っていこうとする。
その姿は今のフリードには得たいの知れない闇の中に自ら進んでいこうとするように見える。
「ルビィ――――」
「その場を動かないで下さい、アンテローズ。」
その声は真横から聞こえた。
小さくなった火を背にして、黒い外套――スコルピオが立っている。
そんな表現をしたのは火の光がスコルピオの顔を影にしているからだ。
だが不思議とその黒い双眸がルビィに向いているのがフリードにはわかった。
「何だ一体・・・・・・貴様まで私の邪魔をするのか?」
ルビィが振り返り、危険な光を瞳に宿していらただしげな声音でそう答える。
それに返すスコルピオの声は不気味なまでに静かで、いつもより低かった。
「お2人とも、状況が見えていないんですか」首の動きでスコルピオがフリードの方を一瞥したのがわかった。「冷静さを失いすぎです。いいから、周りの音をよく聞いて御覧なさい・・・・・・もう“幻視”がいらない距離まで近づいてきている」
フリードは慌てて、身構える。
見ればルビィも同様に首を振って左右を見回している。
静かだった砂海が――ざわざわと音を立てている。
それは風の音やそれに運ばれる砂の音ではない。複数の生物の蠢きと、荒い息遣い。
膝立ちになって、ピストルのホルスターに手を伸ばしたフリードに近い暗闇ではカチカチ、と耳障りな金属音が聞こえてきた。
この音は知っている――戦時中に嫌になるほど聞いた。
「モンスター・・・・・・」
そう呟いたのはフリードか、それともルビィか。
「そうです。どうやら大群のようですね――この窪地になったキャンプの上を包囲している。アンテローズがもしそのまま登っていたなら大群に突っ込んでいたところでしょうね」
その言葉に怒り半分、恥ずかしさ半分といった表情でルビィが声を震わす。
「気づいているなら何故言わない!」
スコルピオの声はいっそ涼しげだ。
「先程のお2人に僕の言葉が届いていたでしょーかね」
「・・・・・・・・・・・・」
その言葉にはルビィもフリードを気まずげに黙りこむしかない。
「まぁ、いいでしょう――早く気づいたにせよ我々に取れる方策はない。ユビキタスがこちらに戻ってこないところを見ると、彼女も同様に何らかの襲撃を受けているでしょう」
恐らくあっちが本命だろうな、とフリードは他人事のようにそう思う。
「ルビィ、今はこの話はお預けにしよう」
「・・・・・・わかった」
フリード、ルビィ、スコルピオの3人はお互いに背を向ける形で固まる。
フリードは革製のホルスターからピストルを抜き出し、片腕を台座に砂海の暗闇に向けてその銃口を向ける。
装弾は回転シリンダーに6発。ホルスターの外側のループに12発。腰の後ろに付けたアモパックに48発。
ホルスターの反対側には肉厚なロングソードが鞘に収まったまま自分の出番を今か今かと待ち構えている。
「アンテローズ、指示をお願いします。私がどうあなた方をサポートすればいいか、指示を下さい。」
黒い外套とマフラーをはためかせるスコルピオはまるで亡霊のようだった。
エーテル樹で作られた短い杖を正面に向け、その反対側の手には身体に引き寄せるように逆手でナイフを構えている。
腰を落とし、足を軽く開いた姿勢。教範的な“実践型”魔法使いの戦闘姿勢だ。
「なぜ私に?」
ルビィは色々な感情がない交ぜになった顔のまま、スコルピオのその声に答える。
その立ち姿はいつもと変わらず、理想的なシンプルさだ。後ろ越しに交差するように重ねた剣帯からすらりとショーテルを抜き放ち、片われを上に、かたわれを逆手に。攻守を素早く切り替えられるアンテローズ家相伝の構えを取る。
雲の合間から覗く月がショーテルの刀身を蒼く染めている。
「呆けないで下さい。アンテローズ」
スコルピオは、ふふふ、と怪しげに笑う。
「そんなこと、あなたが我々3人の隊長だからに決まっているからでしょう。ドンテカであなたが見せた判断力や果敢さは僕にも、そして恐らくヴァイセンにもないものです。」
驚いたようにルビィがスコルピオを振り返る。
「たかだか一度や二度、死に掛けたり失敗した位で落ち込んでいてどうするのです。そんなことでは、到底ユノ・ユビキタスに敵いませんよ?」そしていたずらっ子のように笑う「さぁ、仕事をしましょうよ。アンテローズの赤薔薇」
しばらくの沈黙のあと、笑みを含んでフリードの横でルビィが答える。
「・・・・・・馬鹿め、貴様などに言われなくても、わかってる」
そのやりとりを聞いてフリードは自分を殴りたくなる。
ああ、そうかそんなに簡単なことだったのか。
ルビィの道を守る?自分はなんと傲慢なことを考えていたのだろう。そしてなんと無駄なことを。
彼女の選択は無謀であるが、決して間違っていない。
それならば、ただ一言。フリードはこう言えばよかったのだ。
「ルビィ、信頼しているからね」
「・・・・・・馬鹿め、わかってる」
ざあっ、と音を立ててキャンプを囲む丘の上に気配が現れる。
それはひとつではなく複数。間違いなく3人よりその数は多い。
「――来るぞ」その声はルビィだ。
があ、と獣の雄叫びが合図になった。
砂の丘を蹴散らして、闇の中からモンスター達が襲い掛かってくる。
闇の中では禍々しい光しか見えなかったその姿がようやく見て取れる。
単眼を血走らせたサイクロプス、そして昼間に襲撃してきたスカベンジャーだ。
サイクロプスは刃の欠けた斧を持っている。
「あの目玉は私が引き受ける――フリード、援護を。スコルピオは犬を近づけさせるな」
「了解」
「承知しました」
肉薄したサイクロプスに向かって、ルビィが猫のように飛び掛る。
その素早さに斧を持ったサイクロプスは反応出来ない。
フリードの眼には、空中でルビィがぐるりと回転するのがかろうじて見えた。
「はあああああああっ!!!」
裂帛の気合と共に、ルビィの双剣が電光のように振るわれる。
その姿はまるで小さな竜巻だ。
おぞましい叫びと共に、サイクロプスが顔を抑えてうめく。
空中で回転しながら放った刃の軌跡が、サイクロプスの眼球を一閃したのだ。
「――――」
ルビィが着地するのを確認すると、フリードは膝立ちの体勢まま、片目を瞑って、ピストルの引き金を引く。
乾いた銃声が夜の静寂に反響する。
頭部に駄目押しの一撃を喰らったサイクロプスは脳漿を果実のようにぶちまけて倒れる。
視界の端ではスコルピオが杖の上に火球を作っているのが見えた。
「さあ」
ルビィが立ち上がり、次のサイクロプスに笑いながら剣を振るう。
「戦闘開始だ!!」