Ⅲ
『星』の暦1063年
天候:不定期な激しい風雨 6月8日
アリストピア南部スー渓谷――時間は2年と104日遡る。
「これが慣れ、ってやつなのかな、おまえどう思うよ」
深く唸るような、しかし年の若い少年の声が反響して響く。
渓谷の中腹にあった洞窟は暗く、中は入り組んでいて狭かった。しかし湿気はなく岩地は乾燥しているし、有毒なガスやモンスターが住み着いてもいない。疲れた身体と心を朝まで預けるのに、この洞窟はとびきりいい場所に違いなかった。
「おい無視すんなよ、だいたいおまえ、飯喰わねーのかよ、オレ喰っちまうぞアライス」
がなりたてるような少年の声に視線を、正しくは手元にある魔法書から目をそらして知識の賢者――アライスは深く溜め息を吐いた。
「五月蝿いですね。だいたいケンヤ、君が今食べてるそれはナオキ君の分でしょう。どれだけ食べる気ですか」
アライスの示した「それ」とは軍から支給された戦闘糧食だ。中身はアサスと呼ばれる米によく似た実を柔らかく煮て丸めた団子が3つにインベルのジャーキーが5本、固く湿気に強いビスケットが1袋といったところだ。
この1セットは戦場に身を置く全ての人間――徴兵された兵士にも王に命を捧げた騎士にも魔術師にも魔法使いにも平等にこれが配られている。地位も優劣も関係なく、人間であれば誰にでも配られる。
たとえ世界を救いに召還された勇者でも、それは同じことだ。
軽んじられているのではない――本当に余裕がないのだ、この世界の人間には。
「いいんだよ、こいつ」ケンヤは横にいる少年を肘でつつき「気分悪いからいらないとかぬかしやがるんだよ、なあ?」
いきなり話題を振られもうひとりの少年――神城ナオキは困り気味に笑う。
「え?あ、うん、そうそう」
「泣き寝入りしてはダメですよナオキ君。この手合いは弱いと見るとどこまでもつけあがってきますから」
「人を不良みたいにいうんじゃねーよ本中毒。眼鏡割んぞ」
そう言い合いながらも2人の言葉には険がない。お互いを理解し合い、背中を預けるのに慣れた関係特有の親しさがそこにはあった。
それを肌で感じ、ナオキはふっ、と顔に笑みを浮かべる。洞窟の中は外の雨嵐で凍えるように寒いが心は暖かかった。
「だいたいですねケンヤ、ぼくは前々から言いたかったが君には主語がない。突然慣れたか?と聞かれても何のことか意味がわからないですよ」
「それくらい汲み取れよ……ったく、これだから頭デッカチは」
「なんですと?」
「ま、まあまあ」いつものお決まりのように2人の間に割り込みながらナオキはケンヤに話しかける「あれだよ、えー、僕は慣れたよ。もう床が平坦で特別臭かったり危険じゃなかったらそれだけで寝れるし」
召還された直後の冒険は泣きそうだった。見慣れぬ世界に生まれてはじめての野宿。しかもそれは星空の下に森の中、といったロマンチックなものではなく得体の知れない生物の奇声や刺されると卵を植えつけられるような羽虫が飛び交うジャングルの中だ。“勇者の加護”を授かりにいった旅の一幕。もう3年も前の出来事だ。
それについて懐かしく思いを巡らせているとケンヤがへっ、と笑う。
「バカ、オレが聞きたいのはそんなんじゃねーよ」
その声はどこか乾きを含んでいるような気がして、ナオキはケンヤの顔を見た。
ケンヤは疲れきった、しかし顔には笑みを浮かべながら自分の手の平を見た。傷の多い、タコのある無骨な指先。
「今日もさ、随分殺ったよな」
「ケンヤ?」
ナオキはその言葉に戸惑う。
「……そうですね」
アライスは冷静に、中指で眼鏡を押し上げながら相槌を打った。洞窟の入り口付近に座ったアライスを、月明かりと滝のように落ちる雨が黒い影絵に変えていた。
「彼らもだいぶ疲弊してきましたね。昨日今日と倒してきた軍兵は質が落ちているように感じました。装備にしても錬度にしてもあきらかに2ヶ月前より悪くなってきている。我々が、人間が、ここまで戦況を押し返してくるとは想定していなかったのでしょうね」
「やっぱりおまえもそう思うか?奴ら、少しづつ弱ってきている。ビフレストを解放しにいったときみてぇな、こう、化け物中のバケモノみたいなヤツが出てくるのが少なくなってきてる」
「ええと」ナオキは2人の会話に少し遅れてつづく「近衛兵のことだよね?あのゆのちゃんとエレノアが倒してくれたやつ」
「それですね、近衛兵。情報によれば“レヴィアタン”と呼ばれる魔王近衛部隊の戦士のようですね。魔族の中でも特に戦闘に特化して生み出されたエリートですね」
「エリート?」ナオキはその言葉に疑問符をあげる「魔族でエリートって人間に近い姿をしてるんじゃないの?あいつらはとても人とは言えなかったけど……」
「それはあくまでも人間が不明瞭な情報を元に作成した憶測ですよ」アライスがナオキの方に視線を向けたのがわかった「広く周知されていることが、真実だと思わないほうがいい」
「確かに」
うん、とこれまでの戦いの出来事を頭蓋の天辺のあたりで思い浮かべながらナオキは頷く。
ナオキたちはこの世界に来てから、ずっと予想を裏切られるようなことばかりだった。ファンタジー世界は夢と冒険に満ち溢れていたか、否。レベルが低いうちは死ぬような出来事に遭わなかったか、否。ピンチになったときや誰かを助けないといけないときに奇跡は起きたか、否。この世界はいつでも、どうしようもなく公平かつ平等だった。人にも魔族にも肩入れなしの死ねば終わりなハードコアゲーム。
「そのことについて、これもぼくの「憶測」にしか過ぎないんですがね……」
アライスは少しだけ躊躇するように身をよじりながら喋った。
「言ってみろよ」
「うん」
「……魔族は人間が思っているほど、人から離れていないのかもしれない」
「人から?」
「ナオキ、魔族の生い立ちについては理解していますよね」
「ああ、うん」脳裏で知識を反芻する「昔、大きな戦争があった。それで勝ったほうは地上に繁栄した。そして負けた方は自分たちの神様と一緒に海に消えていった。」
「そう、片方が人間で、片方が今は“魔族”と呼ばれる存在です。地上人への復讐と地上への回帰を望む、人間の敵」
それが召還された当事のナオキたちにされた“魔族”の説明だ。
「しかし」アライスは影になったまま続ける。
「しかし、実際に彼らと戦い、その印象は正しかったですか?実際に刃を交えた彼らは、絶対的な人間の敵でしたか?」
「……」
ナオキはその言葉に考え込む。いや、常に“魔族”という存在をこの目で見てからナオキの頭にはその問い掛けがあった。ただ日々の目まぐるしい状況に対応する為に、脳みその書庫に放り込んで放置していたままだったのだ。
「確かに、人間の強大な敵であることにかわりはないでしょう。しかし一般的に囁かれるような、冷酷で血も涙もない異形の怪物であるとはぼくはどうしても考えられないのです」
稲光がアライスの横顔を照らす。その顔にはわずかに苦悩が表れていた。
「確かに、大きな隔たりがあるのは間違いない。しかし、何か、何らかの方法で、その溝を埋めていくことは出来ないのか」
搾り出すような言葉は最後は吐息にかわり、自嘲げな呟きにかわった。
「……何か、何らかの方法で、こんな言葉をぼくが口に出すとはね」
「アライス……」
ナオキは何も言えなくなった。
アライスは魔法使いの国エルムトにおいて最高の能力と知識を身に付けた最年少の賢者だ。
その知識は決して机の上だけのものではなく薬草の見分け方から大多数の敵を労少なく倒す方法など、冒険の役に立つ知識から相手を陥れる計略の類まで網羅している。ナオキたち6人の勇者が誰ひとり欠けることなく今まで戦えているのはアライスの頭脳に他ならない。
だからこそなのだろう――これまで冷静沈着にチームを支え続けてきた目の前の友人が悩み苦しんでいることにナオキは驚き、そしてそれに気づけなかった自分を恥ずかしくなった。
「昨日殺した奴さ、ほらあのでけぇの」
ぼそり、とケンヤが呟いた。
「なかなか“グングニル”が抜けないから足で胸板を踏みつけて、こう、引き離して穂先を抜いたんだ。わざわざ槍を抜くために加護の力を使うのももったいないしさ――そしたらさ」
ケンヤがぼろぼろになった学ランのポケットから何かを放り出す。
「……彫像?」
それは汚い布に包まれた、小さな彫像だった。地上にある石ではない、たぶん海の中の石を彫って作ったものだ。
出来はあまり良くはないように見えた。辛うじて、女性を模ったものだと分かるくらいだ。先の尖ったもので削られた髪のライン、小さな顔、目を見立てて開けられた不揃いの穴――ずっと見ていたら呪われそうに感じた。
「その、オレの殺したヤツの懐から出てきたんだよ、槍を抜いたときの弾みと一緒にさ、鎧の隙間に挟み込んでたんだろな」
沈黙が降りた。
遠くに聞こえるスコールの音が洞窟の中に満ちる。
「なんの像なんだろうな、それ」
ぽつりとケンヤが呟いた。
くしゃくしゃ、音を立ててと横にいるケンヤが動く。
頭を掻いているようだった。ケンヤは何かを深く考えるときそんな風にする。
「オレにはさ、それが、こう、そいつのヨメとか、オンナなんじゃないのか。それを模ったもんなんじゃないのかって思えてならねぇんだ。もちろんさ、もちろん違うかもしれない。俺達とあいつらの文化とか風俗?とかそーいうのが違うってのはよくわかってる。俺の考えてるようなものとまるきり違うかもしれねーなーってのも、思う」
「……」
「やめなさい、ケンヤ。考えてはいけません」
アライスが嗜める。
「それを思い悩むのは、魔王を私たちの手で倒してからにしましょう……考えるなとは言いません。ただ、深い懊悩は刃を鈍らせる。特に君が今抱えているその“考え”は、君自身を滅ぼしかねない――ぼくはそんなのは御免だ」
ケンヤは空腹の狼のようにうめいた。くしゃくしゃ、と髪をかきむしる音が激しくなる。
苦しげな声が洞窟の中に低く響く。
「分かってる、頭では理解してるんだ……今オレが考えたところでなんの意味がないことくらい!でも、浮かんでくる、メシを喰うたびに!夜、目を閉じるたびに!頭の中で考えちまうんだ!!」
「ケンヤ!」
たまらずナオキは叫び、隣に座るケンヤに駆け寄る。鼻先すら見えない暗闇の中、ケンヤはこの2年で筋骨逞しくなった身体を縮こまらせ、頭を抱えていた。
学生服に包まれた身体は震え、こわばっていた。
「落ち着いて、ケンヤ。今は考えちゃダメだ、何も思わなくていい。目を閉じて、ゆっくり息を吸うんだ……いい?ほら……」
ナオキはケンヤの背中をさすり、ゆっくりと言い聞かせるように言葉を吐く。
昔、何か悲しいことがあって泣いたり落ち込んでいたときに姉がやってくれたことだ。ナオキはそれを真似する。
「うう……」
うめきながらも少しケンヤは落ち着いたようだった。身体の震えは止まりつつある。
様子を伺っていたアライスの影が安堵の息を吐いた。
限界が近づいている、ナオキはそう感じた。考えてみればそれは当たり前のことだ。なんの予告もなく、一方的に「こちら」に呼び出されて以来2年、自分たちを取り巻く状況は常に過酷で、狂っていた。
知らない世界、知らない人々、知らない価値観、知らない歴史、知らない戦争。
それら全ての未知のものが全部降りかかってきた――いつの間にか「勇者」という知らない人間になってしまった自分たちに。
そしてそれら全てを自分たちは背負ってしまった。拒むことは出来なかった、自分たちを求め、助けを乞う人々があまりにも多すぎたから。
勇者――人々の期待を一心に背負い、大陸を脅かす魔族と戦う存在。
それだけならばまだよかった。
しかし自分たち、いや、ケンヤは思ってしまったのだ。これまで斃してきた魔族という怪物たちは、実は“怪物ではなかったのかもしれない”ということを。自分たちがこれまで守ってきたのと同じ、心がありそれぞれ個人の歴史があり家族があるごく普通な、ただただ生きてきた境遇が違うだけの「人間」だったのかもしれないということを。
(でも、よかった。今ここでこうして吐き出してくれて)
ケンヤは苦痛を自分の中に隠してしまう性分だ、昔からそうだ。弱音も吐かず苦痛も見せず、いつも誰よりも明朗に豪放であろうとする。
それは本当ならとても好ましいだろう。でも今のような常に心身ともにプレッシャーがかかり続ける状況では危険だ。兆候がない。誰も彼もが人の心や身体の機微を察することは出来ない。苦痛も苦悩も、自ら主張しなければ誰もそれを取り除いてやることはできないのだ。
(彼女は、ゆのちゃんは大丈夫だろうか)
ケンヤの背を擦りながら、ナオキは自分と同じく「こちら」に呼び出された少女に想いを馳せる。
向月ゆの――ボーイッシュな黒髪が似合う、少し冷たい印象の少女。
彼女は今ナオキたちとは別行動を執っている。人対魔族の現在最大の主戦場たる「鉄の森」で魔法でナオキたちに偽装した騎士と配下のエインヘリャルたちを率いて戦っているだろう。昼も夜もなく、今こうしてケンヤの背を擦っている合間にも。
ナオキたちには計画があった。その計画の要ともいえる役割は、ゆのがもっとも適格だったのだ。
その役割とはこれ以上なく派手に暴れて魔族の主戦力を釘付けにすること――陽動だ。
そして今その陽動は成功し、効果を発揮している。今ナオキたちが居るスー渓谷は「鉄の森」の後方だ。
この渓谷さえ無事に抜けることが出来れば魔王陣営としてもっとも信頼性の高い旧アリストピア王城――フィンランギィ城はもう目と鼻の先だ。
(彼女は、アライスやケンヤのような苦悩を抱えているんだろうか――)
瞼の裏に、最後にあったゆのの姿が浮かぶ。
5日前の朝――彼女の背後には鬱蒼とした「鉄の森」のシルエットと細く立ち昇る黒い煙があった。
エインヘリャルたちに紛れる為に着た板金鎧に青みがかった外套。そこから見え隠れするすっかり馴染みきった勇者の武具“グラーベルの鉄篭手”に、どこかの誰かが恐ろしいほどの執念をこめて魔族殺しの術法を施した無銘の剣。
それらを身に纏ってアライスから作戦の概要を聞く彼女はいつも通り涼しげで、頼もしかった。
「そう、つまりいつも通りでいいわけね?わたしは狂人。あなたたちは狼。狂人が踊り叫ぶうちに狼はゆっくりと獲物に忍び寄る――狩人が近くにいないことを祈るわ」
笑みをその声に含めながら嘯き、記憶の中のゆのは自分の首を絞める真似をする。
「心配しなくても大丈夫よ、わたし、こう見えて騙すのは得意なの」
そう言い切ったゆのの顔は笑っていたのか――ナオキには思い出せなかった。
『月』の暦1065年
天候:晴れ 9月1日
13時48分
メルカトル大砂海フレッド・ディビス二十四番渓谷――時間は2年と104日進む。
ユノは自分の中の「闘いをこよなく愛する不定形」が喜び悶えるのを感じた。
いつもは抑え込んでいる黒々とした「闘い」への欲望が、身体の中いっぱいに広がりつつあった。
だが今はそれでもいい。この不定形は飼い馴らせない、時には外から出してやらないと檻を壊してしまう。
そう判断し、ユノは瞳を閉じる――次に開いたときにはもうそれは今の自分ではない。
目の前には一杯の砂山とモンスターの集団が広がっている。
それらの異形のモンスターたちがユノを中心に追い詰めるようにじりじりと近づき、包囲していた。
「けっこう久しぶりだな、これだけの数と戦うのは」
ユノはそうひとりごこち、ゆっくりと前に出る。
このモンスター達は魔族からの尖兵だ。魔王のマナによって操られ、人を襲うように仕向けられた即席の「妨害者たち」それが人魔戦争下における、モンスターの認識だ。
あくまで魔王のマナの影響によって洗脳状態にあるだけで知能が高まるわけではない。ある程度知能の高いオーガやゴブリンなどの亞人ならば、効率的な襲撃計画を立てたりもする。
それ以外の動物に近いモンスターは人間に対する敵意が何よりも優先されるだけだ――それが一番の脅威でもあるが。
「もう、ここは戦場。そう考えていいのかな」
襲撃のタイミングが明らかに良すぎた。砂海に入ってわずか4時間。ルビィの失敗をふまえても、この広大なメルカトル大砂海で、こんな「戦いに向いた」集団が形成されるわけがない。
魔術を弾き返す特質な皮膚と、圧倒的なタフさを持つ砂海蛇ドゥーラー。
堅牢な外骨格と致死性の毒。そして昆虫特有の俊敏さを持つアーマースコルピオン。
同じく強力な毒と、そして集団の怖さを冒険者に教えてくれる巨大蟻ヴァンジャナギア。
狂気じみた凶暴性と狡猾さをあわせ持つ低級の亜人サイクロプス。
これらのモンスターの群れをヒトが相手取ろうと思うと、訓練され武装の充実した兵隊をふたつみっつ犠牲にするつもりで投入しなければならないだろう。それだけ厄介な集団だ。
何者かが――考えるまでもなく魔族たちの仕業だろうが、この砂海に工作を施している。
戦場が作られている。大陸西部でも多くこんな局面はあった。
雲霞のごとく襲いかかるモンスターと、それを盾にして進撃してくる魔族たち。
それに哀れに喰い散らかされる兵士たちと、自分の身を守るので精一杯だった自分たち。
目を閉じればいつでも瞼の裏に浮かんでくる――助けを求める兵士の顔と、その幾つもの死の景色が。
「でも、もうわたしはそれに何も感じないんだ。悲しくも、つらくもない。ただひとつ」
轟。そんな音がした。
それは砂が一斉に蹴立てられた音だ。モンスターの集団が動きだした。その先は一点、ユノひとりだ。
その音を聞いてようやく眼を開く。もうこれで自分は自分ではない。
ユノは押さえようのない「高ぶり」を喜びに変換し、口から息を洩らす。
ひきつれた笑いが少女の形のいい唇を歪ませた。
「グオオオオオオオッ!!!!!」
一つ目の不潔で狡猾な亜人、サイクロプスの集団が一番最初にユノに到達した。
そのほとんどが腰蓑に棍棒といった武装だったが、中には冒険者の遺留品らしき錆びた銅剣や刃こぼれした斧を構えているものもいた。
サイクロプスの集団は雲霞の如くユノに殺到し、すぐさまその姿を見えなくする。
人間などものともしない跳躍力。地が、空が、視界がすぐさま血走った眼球で覆われる。
もしこの光景を誰かが見ていたなら、もはやその中心にいる少女の生存など露と考えないだろう。撲殺か剣斧の刃でぐずぐずに切り裂かれたか、集団の重みにすりつぶされたか――そう考えるだろう。その少女の正体を知らないものならば。
ぎし、ぎし、ぎし、ぎし…………
蜂球の如く群がった集団の中心で、異様な音が響いている。
それはふたつの武器と、多数の金属がぶつかり、拮抗する異音だ。
集団は動かずに停滞している。中心の何かに狼狽するように。
サイクロプスの集団が襲い掛かったのは確かに数瞬前までひとりの小さな少女だった。
左手に嵌めた巨大な篭手がアンバランスな、細身の少女。
だが今はどうだ、そこにいるのは死神だ。少女の形をした死神だ。
死神は笑っている。顔を地面に向け、目を閉じて口を大きく開けて笑っている。
その姿は異様なものだった。腰を低く、尻餅をつく寸前までかがめ、足を大きく、柔軟に開いている。
右手は前に突き出し、その手には“ニザヴェリルの魔術銃”の銃身を握り、左手はその上を交差するように天に掲げられている。
その二つが、サイクロプス達の進撃を止めている。
棒が、剣が、斧が、ユノの差し出した一対の腕に全て止められている。異音の正体は数十の凶器が少女の篭手と魔術銃の特異な形状の銃把を抜けようとして、震える音だ。
しかしそれは徒労のように見えた。
まるで蟻が象に歯を立てているような状況だ。
あまりにも、ユノという少女とサイクロプスの力は違いすぎた。
「ぷれいぼーる!」
少女が、少女の形をした死神が、顔をあげて嬉しそうに叫ぶ。
甲高い金属音が砂海に響き渡る。
数十の凶器を一気に弾き返したユノは、体勢を崩して怯んだサイクロプスの群れに肉薄する。
その手の中にあるのは逆さまに握られた魔術銃だ。特異な――平たい斧のような形状の銃把は鈍器として使えるように設計されたものだ。
それを両手で振りかぶり、大きな目玉を瞬かせるサイクロプスに思いっきり振り下ろす。
「ぎゅぐっ」
間の抜けた苦鳴をあげてサイクロプスが吹き飛ばされる。いきおいよく砕けた頭部からリンゴ大の眼球と脳漿が飛び散り砂の上に落ちる。
ユノはそれに構うことなく、わずかに笑みを口元に浮べながらさらに魔術銃を引き寄せ、振り下ろす。
フルスイング、筋骨逞しい亜人の身体がまたひとつ宙空に浮かび砂の上に落ちる。
「……!!!!」
仲間に2匹の犠牲が出てようやくサイクロプスたちが体勢を立て直す。
それぞれ各々が持ち寄った武器を片手に構え、少女を打ち負かさんと動き出す。
走り寄るサイクロプスの数は4。
ユノは笑いを口元に貼りつけたまま暴風のように動き出す。
背後から振り下ろされた錆びた金棒をわずかに体勢をそらして回避し、そのまま流れるように自然な動作で肘鉄を突き出し、背後のサイクロプスの臓腑を突き上げる。
悶絶し、崩れ落ちるサイクロプスの頭を後ろ足で潰して無力化すると、前方から剣、斧、槍とばらばらの武器を突き出し、殺到する3匹にぶつかるように突進する。
少女の背筋が弓のように引き絞られ、体内に液体のように充満する“勇者の加護”が沸騰する。
「ワンナウト」
少女は冗談めかして呟く。
銃把が振り切られる。剣を振りかぶり、ユノに斬りかからんとしていた1匹が錐もみで回転しながら砂に沈む。
「ツーアウト」
横合いから突き出された斧を篭手で打ち払い、その衝撃で怯んだ2匹目の顔面に固い銃把を叩き込む。
ばきん、と首の骨の折れる音と共に斧のサイクロプスは崩れ落ちる。
「スリーアウト、攻守交代っ」
3匹目のサイクロプスが決死の覚悟で突き出した槍を首をそらしてかわし、懐にもぐりこむ。あわてて槍を引き戻ろうとしたサイクロプスに左拳を叩き込み、喉の骨と胸骨をばらばらに砕く。サイクロプスの大きく開いた口からは滝のように血が流れ、その巨躯が膝から崩れ落ちていく。
「さあ、次、次」
瞬く間に6つの死体を生産したユノは変わらず独り言を続けながら前に進み出る。モンスターはまだこの場の唯ひとりの人間を殺さんと周囲で機会を窺っている。
その状況に一切構うことなくユノは手の中の“ニザヴェリルの魔術銃”をくるり、と回す。
銃が「正しい」位置に戻る。固いウォルナット材のグリップを手に収め、中折れ機構を作動させ、円筒の装填。手首を振って銃身を真っ直ぐに戻し、人差し指を優しく、撫でるような繊細に引き金にかける。
その一連の動作にはひとつの躊躇いもない。慣れきった、何度も何度も繰り返された動きだ。
「たーまやー」
にへら、と恍惚とした笑みを浮かべてユノは引き金を引く。
篭められた魔術は“炸裂”
空気が衝撃波を伴ってはじけ飛ぶ。
もろに着弾したサイクロプスが苦痛の雄叫びと共に爆裂四散し、その周りにいたモンスターたちが発生した衝撃はで切り刻まれる。
ユノは効果の確認をせず次弾を装填し、繰り返し引き金を引く。発射。命中。
単眼の巨人の赤い血、肉片。巨大な蟻の破片、体液、鎧のような甲殻をもつ大蠍の残骸――全てがすべてごたまぜに、なんの慈悲もなく砂の海の上にばら撒かれる。
「――ああ」
ユノは熱い息を吐く。身体の芯が融けてしまいそうだった。
引き金を引いた指先からしびれるような疼きが身体中に広がっていく。腕、身体、脳髄、爪先。
その感覚が体中に広がり、余韻を残して消えていく。
「……たのしい」
そう呟くユノの眼前の大地が砂を吹き上げて割れる。巻き上げられた砂塵のむこうに見えるのは、細くとがった歪なナイフの群れ――砂海の下に潜んでいたドゥーラーの大顎だ。
爛々と輝く小さな爬虫類の眼が確かな殺意を持ってユノを見据えている。
唾液を撒き散らしながら自分を噛み砕かんとする大きな口を見上げ、少女は暗く笑みを浮べる。
「ねえ、そう思わない?」
ユノは赤々としたドゥーラーの口腔めがけて左拳を撃ち放った。
アリカ、フリード、スコルピオと別れたルビィは自分の選択を後悔しはじめていた。
「グギャアアアアアッ!!!!」
「ッチ!!」
砂の霧を抜けた先で――ルビィはモンスターに囲まれた。
「あの時」に砂塵の奥にみえた数ほどではないにしろ、一人の剣士が相手にするには充分すぎるほど多い。
狂気じみた単眼の亜人――サイクロプスの振るう剣を頭を低くして回避する。
モンスターの振るう剣だけあって、技巧はないが威力と速さは充分すぎる。
大きく剣を横に振ったサイクロプスの懐に飛び込み、双剣を袈裟懸けに振るう。
ぱっ、と赤い血が飛び散り、サイクロプスの赤銅色の胸板に赤い一文字が刻まれる――しかしサイクロプスは少しよろめいただけでそれがどうしたとばかりに強烈な戦意を持ってルビィに撃ちかかってくる。
(くそっ、タフすぎる!)
ルビィは背後から忍びよっていた巨大なサソリ――アーマースコルピオンの尾の一撃を前に飛んで回避し、そのまま剣を振り上げて斬りかからんとしていた亜人の顎に強烈な蹴りを叩き込む。
首の骨を砕く感触と共に、身体に無数の赤い筋――双剣での切り傷を負った亜人がようやく事切れる。
「くそっ、勇者め……どこで戦っている!?」
昆虫独特の素早い動きで距離を詰めてきたアーマースコルピオンの一撃を身体をそらしてやり過ごし、胴体と尾の隙間に双剣のかたわれを突き刺す。剣や銃をはじく装甲そのものの大蠍に有効なダメージを与えるにはそうするのが一番効果的だった。
緑色の体液が飛沫をあげて砂を汚す。運良く急所を突けたのか、アーマースコルピオンは壊れたおもちゃのように痙攣し、あおむけにひっくり返る。
「グオアアアアアッ」
「!!、くそったれ!!!」
息を吐く間もなく、砂山の上からサイクロプスの集団が飛び降りてくる。モンスターたちはそういった生態なのか、それとも魔王のマナの影響なのか判らないが、砂山の上や中を縦横無尽に行き来できる能力があるようだった。
砂の大地に粉塵と共に舞い降りたサイクロプスたちは顔一杯の眼を血走らせ、ルビィに襲い掛かってくる。
ちっ――と何度したかしれない舌打ちと共にその場を飛び退き、顔の前で双剣を交差に構える。かたわれを上に、かたわれを逆手に。攻守を素早く切り替えられるアンテローズ家相伝の構え。
血と油で濡れたショーテルの刃が、ぬらりと光る。
太陽が、ちょうどルビィの天辺に来ていた。
「ガオオオオオオオッ」
「――――!!」
深く息を吸い込み、ルビィは砂を蹴立てる。
集団の数は遠くに3。近くに2。武装は徒手と金棒、ハンマーが半々といったところだ。
近くにいた2体が吶喊するルビィを迎えるようにそれぞれハンマーと剣を振り上げる。
だがその動きは“アンテローズの赤薔薇”には遅すぎる――ルビィは体勢を低く、猫科の小動物のように地を蹴って棘付きのハンマーを振りかざすサイクロプスに突撃する。
顔のすぐ前を、振り下ろされたハンマーの質量が通り抜けていく。占めた、相手は目測を見誤った。
振り下ろされた丸太の様な腕を足場に、ルビィは跳躍する。
狙うは顔に寸法の間違いかのように付けられた大きな単眼。眼はどんな生物であれ、急所だ。
逆手で握られた双剣のかたわれが、サイクロプスの血走った単眼を横一線に切り裂く。
感触は、思っていたより硬かった。
「グオッ!?グオオオオオオオオッ!!!」
サイクロプスが絶叫をあげてくず折れる。ハンマーから手を離し顔を抑えてしゃがみこんでいる。
(こいつはもういい。盲目では動けまい)
ルビィは一瞥をくれてそう判断し、次に控えるサイクロプスに踊りかかる。
振るわれる剣は重く、そして速い。しかしその動きは乱雑で読みやすいものだった。
「所詮バケモノかっ!」
袈裟に振り下ろされた一撃を易々とかわし、双剣を前に突き出しながら全速力で踏み込む――その様子は興奮した闘牛のようだ。
突き出された2本の角――湾曲したショーテルの切っ先が剣を振り下ろしたサイクロプスの腹に突き刺さる。貫通、繊維を貫く硬い手ごたえ。
「っ!!」
ルビィはひらり、とサイクロプスに突き刺した両腕を支点に空中に踊る。腹に剣を突き刺され悶絶するサイクロプスの胸板を蹴り一回転する。その勢いで突き刺した双剣が一気に抜け双剣が硬い腹筋から解放される。
腹を刺された上にその切っ先をぐるりと一回転に回されたサイクロプスは腹から臓腑をぶちまけながらくず折れる。
「グオアアアアアアアッ!!!!!」
遠くにいた3体が踊りかかってくる――中央が槍、左右が徒手。
(いいぞ、私は戦える。やれている)
残る3匹を打ち砕く自分を描きながら、そう確信する。
ルビィにとって、戦いとは人と人が行うものだった。
王都守護騎士団。それは文字通りランバルディア王都の平和を維持する治安騎士団だ。
凶暴で人に害を与えるモンスターが掃討されている王都周辺では、任務のほとんどが野盗や蛮族、その他国に対してよからぬ企みを算段する人間を叩きのめすことだった。
ルビィはモンスターを相手にした経験が殆どない。2度か3度か、そのうち一回は姿を見ずに終わった――武器庫で有り余っていた爆薬で吹き飛ばしたのだ。
その自覚がルビィの心の内に不安を生じさせていた――王都から旅立ち、今までずっと。
魔族という人間にとって最大の天敵と戦うという緊張と焦燥と一緒になって、ルビィに重石となってのしかかっていた。
しかしそれも今ここで終わりだ。自分は戦えている――完全に、とは言わないが、“戦いの家”アンテローズの名を汚さぬには充分に。
「来いっ!」
ルビィは叫び、両手の剣を手の中で一回転させる。
その姿は勇ましい。サーコートを風に靡かせ、ケトル・ハットの鍔から覗く瞳は蒼く燃えている。
砂海のさらさらとした砂を踏みつける両足は力強く、何者にも屈しない意思を感じさせる――。
しかし、その立ち姿に、その勇ましさに、忍び寄るものがいる―――
ごっ、そんな音がした。それから首の骨が軋む音が。
ルビィは一瞬何もわからなくなる。明滅した視界、頬に当たる砂の細かい感触。綺麗に線を引いたような横一線の空と地平。そこに佇む、単眼の亜人の醜く膨れた足。
(殴ら、れ、た……?)
視界が何かの影で塞がれる。錆びた、棘付きのハンマー。
首を少し上に、そのハンマーの持ち主が太陽に陰になって見える。
(……しく、じっ、た)
その影は、ルビィがはじめに目を切り裂いた盲目のサイクロプスだ。眼が潰れ、顔を赤く染めている。しかしまるで何も問題がないかのように、足元の哀れな敗北者を嘲笑うように顔をこちらに向けている。
ルビィは知らなかった。サイクロプスという種族が、非常に鋭敏な五感を持っていることを。そして魔王のマナがモンスターに狂気のような執念と戦意を与えているということを。
眼を潰したところで、足をもいだ程度で、全身を切り裂いたぐらいでは、モンスターは止まらない。
唯一の対処法は息の根を完全に止めてやることだ。慈悲も油断もかなぐり捨て、念入りなとどめを。
そうしなければ、倒したと思った1匹に、自分が息の根を止められることになる。
「グヒヒヒヒヒッ」
眼が潰れたサイクロプスがいやらしく笑う。
そしてその2本の腕が高々と、太陽を覆い隠すように振り上げられる。
黒々としたハンマーの影が、天から血を流すルビィの頭めがけて今にも振り下ろされようとする。
「かあ、さま――――」
そう、呟きながらも、明滅する脳裏に浮かんだのは――あの楽しげに笑う勇者の顔だった。
ハンマーが、少女の頭を砕くのに充分な力を持って、振り下ろされる。
――――ぐしゅっ、と何かが潰れる音が、砂海の空に響いた。
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ツイッターです。一応載せときます。
更新したときとかに多分おそらく呟きます。