R.T.S
「ん……」
夢はいつものように唐突に終わりを迎え、ユノは覚醒した。
身体の調子は悪くなかった。気を失ってからどれだけ時間がたったか分からなかったが、“勇者の加護”はユノを治してくれたようだった。
「痛っ……」
そう呟いてユノは頭を抱える。
発生源のわからない、茫洋とした頭痛を感じた。
その痛みは例えるなら頭の両側を、厚みが100ラウンはありそうな鉄板でぐいぐいと押さえつけられているかのようだ。
しかもその鉄板の表面は平静なものではなく、斬新な表現を希求するスティール・アーティストが創意工夫を重ねに重ね、元のインゴットの形が想像できなくなるほど曲面と鋭角が増えてしまったでこぼこの荒地だ。
血こそでていないもののその痛みはひどく、まるで頭の一部が割れて欠け落ちて、何かが抜け落ちているように感じた。
……だがいくら触って痛む場所を探したところでどこにも罅割れはなく、しばらくして痛みは沈静した。
上体を起こし、そこでようやく眼を開く。顔半分を包帯のようなもので巻かれているから片方は暗闇のままだ。
「……王都から救援があったみたいね」
ユノが目覚めた場所は見覚えのあるランバルディア国軍の印章が入った仮設療養院だった。
丈夫な布とポールで組まれた簡易のもので、四、五人を収容出来る程度の大きさだ。ベットに寝かされているのはユノだけで、治癒に使ったと見られる薬油や包帯などが銀の盆に載ってワゴンに置かれている。親切な誰かが治癒の手助けをしてくれたらしい。
薄い天幕から射しこむ光はおおよそ昼過ぎの日差し。外は快晴のようだった。
「あ……」
きょろきょろと片目だけで天幕の中を見回して、ユノは思いがけない人物を眼にした。
「すー……すー……すー……」
アリカだった。ユノの横たわるベットに近い椅子の上で毛布にくるまっている。
救援に来た誰か(ルビィやフリードか、大穴であの密偵かもしれない)が気を利かしてくれたのか、灰まみれのネグリジェとカーディガンにかわり、療養院のヒーラーたちが身に着けるような白のブラウスと暗色のロングスカートを履いている。顔に残ったガーゼや足に巻いた包帯がユノの良心をちくりと刺激した。
(ああ、ダメだ、しっかりしなきゃ)
ユノは頭を振り、心に出来たしこりを落とそうとする。ユノは自分が大切だと思うものを守ろうと決めたのだ。アリカ、アリカ・マイルズ。
ユノ・ユビキタスはこれから一生をかけて彼女を守っていこうと決めた。それは昔から――じつはユノがアリカを救ったのではなく、アリカがユノを救ってくれていたと気づいたときから心に決めていたことだが、今回の出来事でそれは一層強くなった。
何にでも頼って、何でもして彼女を守ろう。
そのためには――自分はこれからずっと強くあらなければならない。
どん、と胸を強く叩き、深く息を吸い込む。これで決心は完了だ。
――そう思い込む。
ベットを軋ませ、ユノは立ち上がる。その途端ぐうと腹の虫が鳴り、ユノは思わず辺りを見回した。情けない話だが“勇者の加護”で怪我の治りを早めた後はいつもひどくお腹がすくのだ。
軽く赤面しながら、自分の服装を確認する。
これもまた誰かが気を利かしたのか、ぼろぼろになったアンダーウェアとレザーアーマーにかわって白い入院着を着ていた。“グラーベルの鉄篭手”は取り外せなかったのか、肩口から袖を切り取ってそのままにしてくれたようだ。
近くにある鏡で顔を確認するとそこにはぼけっ、とした表情をしたミイラ女が佇んでいた。ほとんど顔は包帯でぐるぐるまきで、寝癖のついた白い髪がその隙間からまぬけにとび出していた。
(こんなに巻いてくれなくてもいいのに)
いい加減かゆみに我慢できそうになかったので、顔の包帯をとることにする。
頭の後ろの結び目をさぐり、指でほぐして包帯を外していく。幾度か頬と包帯がくっついているような感じがあったが気にせず剥がす。皮膚と包帯が癒着してるという怖い事態もなく、親切な誰かが治癒力を高める薬油を顔に塗ってくれたようだった。
薬油で濡れた頬がひんやりとした外の空気に晒されて心地いい。
「…………」
ミイラ女の包帯を外すとそこには顔が醜く崩れ、つぎはぎだらけのモンスター――というようなことはなく、かわり映えのしない自分の顔が現れる。黒目がちで、少し高い頬骨を持つ童顔。
火傷がひどかったとみえる部分がうっすらと黒みがかっているが、これもそのうち消えていくだろう。
ユノの治癒力は普通の人間の比ではない。
「あ、お目覚めになりましたか」
外した包帯をなんとなく右手でもてあそんでいると、天幕をくぐって誰かが入ってきた。
一瞬、腰の後ろに手が伸びるがそれは無意味だ。装備は全部外されている。
仕方なく振り返ると、天幕の外から射しこむ光に照らされて背の高い女性が立っていた。
「御体の具合はいかがですか?」
「ああ、ええと、見ての通りよ」
ユノは後ろ手で巻いた包帯を机の上に置く
「本来ならあなたは生きているのが不思議なくらいの火傷と怪我を負っていたのですが……」
「便利な身体でしょう?……失礼だけど、あなたは?」
「失礼しました。ランバルディア国軍中央療養院に所属しておりますマリエラ・クロフォードと申します。お初にお目にかかりますわ――ユビキタス様」
女性――マリエラ・クロフォードは折り目正しくお辞儀をした。
本人もいっている通り、その姿は療養院で働くヒーラーの模範といった風情だ。髪かくしの白いケープに露出の少ない黒のロングワンピース。身体の前には外科手術用の赤いエプロンを着けている。何故エプロンが赤いかというと、飛散した血が目立たないようにするらしい。
彼女は恐らく――ロスクヴァ教会に所属するヒーラーだろう。
詰襟の首元に、その証である雌の山羊を象ったホーリーシンボルを下げている。
ロスクヴァとは主神ドンナーに仕える従者の一柱だ。兄であるシアールフィと共に地に生きる全ての人々を助け続けているという。
ロスクヴァを信仰する教会はその救いを代理し、国の広い範囲で無償の療養院として機能している。ロスクヴァが女性である所以なのか、教会に所属しているヒーラーはほとんど女性だ。
髪は隠れているため彼女が貴族か平民かは判別がつかないが、顔はたまごのようにつるりと白く、鼻筋の通った綺麗な顔立ちをしている。鳶色の瞳は優しい色で満たされているようにユノには思えた。
少なくとも彼女が突然ナイフをこちらに突きつけてくる可能性は低いだろう。
(……違うな)
一瞬だけ彼女を「値踏み」し、警戒を解く。立ち振る舞いや仕草からは戦いに関係のありそうな匂いがしなかったからだ。
(嫌な女だ、わたし)
顔をなんとか笑みの形に作る。
「どうもありがとう、クロフォードさん」机の上の包帯をつまむ「この包帯もあなたが?」
「ああ、いえ」
マリエラは柔和な笑みを浮かべながらユノの背後――椅子の上で眠りこけるアリカの方を視た。
「治療の大半は彼女が行いましたよ……自分も怪我をしているというのに、私が治しますと聞きませんでね――努力家で、優秀なヒーラーだと思いますわ、シスター・マイルズは」
シスター・マイルズ、とユノは口の中で反芻する。看病をしてくれたアリカだとは分かったが、なんとも耳に慣れない呼び方にユノは少し笑った。
目の前のマリエラという女性はアリカのことをシスター、つまり同胞として見てくれるらしい。アリカはギルド所属のヒーラーだ。
なんにせよアリカが評価されているらしいのは嬉しかった。
「アリカは、ずっと看病を?」
「ええ、国軍が到着するまでずっと……休ませてあげてくださいね」
「そうね、ありがとう」
ユノはそう礼を言いながら、気を失ってまだ時間があまりたっていないことに安堵した。
この「みんな」の安否を確認しにいく為の旅――それが“対話”の通信不良や地や天に潜っているという可能性は失われた。
魔族は人間に対してすでに侵攻を仕掛けている。
その第1歩――非常に大きな1歩として「勇者」を無力化しようとしている。
…………それはもう目のそらしようのない現実で、8割がた成功してしまっている。
西部に残留する魔族軍の残党がなんらかの策略によってナオキとケンヤ、そしてハイネ、アライス、エレノア――自分をのぞく勇者を排除した。
その5人を排除したなら当然次の順番は元勇者であるユノだ。
セリアは除外されているだろう。彼女はあくまで勇者を「こちら」に召還する巫女であり、勇者ではない。
それにセリアは「国」と「城」と「加護」に護られている。セリアを排除するのはランバルディア一国を相手にするのと同義だ。
(そう、次は私。私の順番だから“ここ”に来た)
普通の――よほどの楽観主義者でもないならそう考える。
(でも、信じられない)
話題がなくなり、自分の仕事――療養院の仕事を黙々とやっているマリエラを横目に見ながらユノは思考する。
(あの5人――ナオキたちのチームワークは完璧だった)
目を閉じ、頭の隅に追いやっていた「みんな」の顔をひとりひとり、思い出す。
それはユノにとって神経を使う作業だった。
現在の「ユノ・ユビキタス」ではない、「こちら」に来た当事の「向月ゆの」の記憶は透明で、臭いがなく――陰惨極まる戦場での記憶と感情が濁り凝った「ユノ・ユビキタス」の中では容易に見失い、二度と取り戻せそうになかったからだ。
それでも、大切にしまいこんだ「みんな」の顔をユノは今回も無事に思い出すことができた。
ゆっくりと目を閉じ、視界を暗闇にする。瞼で外界と自分とを遮断するのは大切な記憶を閲覧するのには必要な儀式だった。
暗闇の中にそのうち「みんな」の顔が浮かび上がる。
「ユノねーちゃん!」
目に映えるエメラルドグリーンの頭髪に健康的に焼けた小麦色の肌。口元に生えた八重歯がチャームポイントで、背丈を大きく超える長大な弓を持って笑いかけている……龍に育てられた野生児のような、けれど時にハッとするくらい正鵠を射る言葉を吐くこともある。無邪気で、そして聡明な弓使いの少女エレノア。
エレノアはよく沈みがちだった「向月ゆの」に懐き、元気づけてくれていた。今も同じようにしてくれるだろうか。
「ユノさん、いいですか魔術とはそもそも――」
くい、と銀縁の眼鏡を中指で押し上げて線の細いローブ姿の少年がユノに何事かの薀蓄を語りかけてくる。アライス、知識の賢者アライス。フルネームは忘れてしまった。記憶が失われたわけではなく、メンバーの誰もが憶えるのを放棄するくらいとんでもなく長いのだ。
アライスはいつも大量の蔵書を背中に背負っていた。そう、確かケンヤが「こちら」に来たときに持っていたリュックをあげたんだっけか。いつも小さな本棚を無理やり背負っていたアライスの喜びようときたらなかった。今思い出してもユノは笑ってしまう。
いつも聞き流していた色んな薀蓄を今は真面目に聞いてみたいと思った。
「ユノっ!後ろをお願いしますわ」
凛とした、それでいてどこか艶やかな響きを持つ声がユノの脳裏によぎる。
鮮烈な印象をのこす真紅のドレス・アーマー。儀礼用かと見紛うような装飾をちりばめられた大剣と盾。
その二つをお供に戦場を舞踏する優美な少女ハイネ、ハイネ・オーディニ・ミルニル。
ハイネはお世辞にも付き合い易いタイプとはいえない性格だった。一見して傲慢で高飛車で高圧的――しかし彼女と時間を共にし、背中を預ける関係になればその印象は一面的なものだと気づく。彼女は繊細で傷つきやすく、時に誰よりも優しく人を助け、時に誰よりも悪を憎んで矢面に立つ。
そしてそんな一面を悟られるのが照れくさくていつも「高貴で高慢な貴族のお嬢様」の仮面を被る。ハイネはそんな少女だった。
「こっちは任せときな!向月ッ!!」
そう叫び、逞しく隆起した腕が銀色の光を放つ槍を投擲する。
その後姿はいつ見ても頼もしい。
「こちら」に着てからもずっと着続けていたぼろぼろの学ランをはためかせながらケンヤ、東条ケンヤが不敵な笑顔を見せる。
ユノと同じく「こちら」に召還され、勇者になった少年だ。
はじめは見た目のいかつさと粗暴な言動でユノは敬遠していた。生まれつきらしいツンツンの頭髪はどう贔屓目に見ても不良にしか見えなかったからだ。でも、運命共同体だと一緒に冒険を続けるうちにその印象は薄れていった。
貴族の妖艶な夫人に魅了されて顔を赤くして戸惑った彼や乱暴だけどいつも優しさのある彼に気づくことが出来たからだ。
「――ユノちゃん」
彼の姿を思い出すとき、ユノは胸の奥が詰まるのを感じる。さらさらの髪。やさしく、いつも憂いを帯びたような双眸。今のユノよりも細いが決してひ弱ではない身体。それらをひとつひとつ思い出していくだけでユノは胸が張り裂けそうになる。
(ナオキ……神代ナオキ)
頭に思い浮かぶのは彼の様々な顔だった。笑いかける顔、落ち込んだ顔、戸惑う顔、怒る顔、もう一度笑いかける顔。
それらがユノの脳裏で明滅しながら表情を次々変えていき――最後にはいつも「あの顔」になる。
今にも泣きそうな、捨てられた子犬のような表情。
「気づいてあげられなくて、ごめん」
(ああ、やめよう、これ以上はダメだ)
ユノはかぶりを振って頭の中の「みんな」を消していく。ひとつ残らず。念入りに。
「これから」のことを考えればこれ以上の回想は避けるべきことだった。
ユノは自分の手を広げ、皮膚の下に内在する力を感じる。
それは体中を奔る細い血管の一筋から一筋まで満ちていて、時たま生きているように脈動する。
血液のようで物質ですらないそれは「こちら」に来てから授けられた“加護”――人を「勇者」にしてくれる無形の力だ。
(力の勇者――ドンナーの力強さを分け与えられた存在)
力を授かったあとのユノは時たまそのように呼ばれることがあった。
“加護の地”を守る賢者たちが言うには「勇者」に与えられる力は均一ではなく、ドンナーが持ちえる強大な能力を分配される形で授けられる。
どんな基準で選ばれたのかはユノ自身には分からないが、ユノはドンナーが持つ単純な力、つまりは破壊に関連する能力を分け与えられている。
(私だけで、いや、私たちでみんなを救えるだろうか)
ユノはかぶりを振ると、ベッドから立ちあがり外へと出て行こうとする。
するとまるでタイミングを計ったように天幕の中に入ってくる人影と目があった。
「――ん、生き返ったか馬鹿勇者」
蔑んだような眼で悪態をついたのは、相変わらず変化のないチェインメイルを身につけたルビィだ。
唯一違うのは後ろでまとめていた髪が顎のラインまで下りていることか。
猫っ毛なのか髪先は自由奔放にあちこちにゆるい弧を描いている。
ふん、と鼻を鳴らし、腰を当てながらユノと背比べでもするように胸を張って立った。
ユノはそのぼさぼさの赤髪の頭を半眼で見下ろしながら、その悪態に応える。
「いきなり失礼ね、馬鹿って何よ」
「馬鹿は馬鹿だ。いきなり死ぬような真似をしやがって」
吐き捨てるようにそう言うとずかずかとベッドに腰掛ける。
ユノはそのいらついた様子に片眉をあげる。
「あら、心配してくれてたの?」
「馬鹿をいうな馬鹿勇者、おまえに今死なれるのは……困るだけだ」
声にださずその言葉にユノは笑い、対面のベットに座る。
込み入った話だと察してくれたのか、雑用をしていたマリエラが一礼して去っていく。
アリカは安らかな寝息を立てたままだ。
ルビィは一度その肩を叩いて起こそうかと考えたが――半死半生の目の前の勇者に縋りつき、夜を徹して治癒を施していた姿を思い出し、やめる。
救出した当初、何の役にも立たなそうな女だとルビィは判断していたが、その姿を覗いて以来ルビィはこのハーフリザードの女を見下さないように意識して気をつけている。
「それで?今の状況は?」
しばしの沈黙のあと、ユノがそう聞くとルビィは不機嫌に、しかし一介の軍人らしい簡潔な言葉で現況を説明してくれた。
ランバルディア本国がドンテカの異変に気づいたのはおよそ32時間前、ユノとアリカ。そして包囲するスラッド兵たちがメチャクチャに吹き飛ばされた頃だ。あの巨人が引き起こした大爆発が異変の察知をかなり早めてくれたようだ。
夜間哨戒中のワイバーンライダース――文字通り飛竜ワイバーンを巧みに操る竜騎士たちで構成されたランバルディア空軍の1騎がドンテカに舞い降り、村で大規模な魔族による襲撃があったと知らされてあわてて王都へと帰還。魔族と戦えるだけの戦力を至急整えて大急ぎでドンテカへと出立したらしい。ランバルディアはドンテカと防衛協定を結んでいる。
ルビィたちは突然弱まった火の海の中に飛び込み“勇者の加護”で力を使い果たしたユノを回収。国軍は村の状況を察知し、すぐさま生存者の捜索と村内の捜査に乗り出し今に至る。
「結局、村人に生存者はほとんどいなかった――私たちを含めた数人のみだ」
「……」
「ひどく惨たらしいものだった。腹を裂かれ、逆さまに吊るされ……あれではドンナーの身許に辿り着くことはできまい」
「そう」
感情をこめないユノの相槌にルビィの眉間が険しくなる。
わかりやすいな、と冷めた感想を抱きながらユノは少女の言葉を待った。
「……何も思わないのか、勇者」
「そうね――死体を使った陽動、いや、囮戦術か……村役場の中に入らなくてよかったわね」
「そうではない!人が死んだんだぞ――たくさん!」
「それがどうしたの?」
かっ、とルビィが怒りの衝動に駆られるのがわかった。
信じられない、という表情はすぐに憤怒にかわり、膝の甲に置かれていた手の平が固く握り締められる。
少女の小さな手が尖鋭な拳に変わるのをユノは冷静に見つめていた。
「貴様は――!!!」
振りぬかれるルビィの拳をユノは避けなかった。何故そうしてやったのかは分からない。
骨と骨がぶつかる音と共に鈍痛が頬に広がり、脳が軽く揺さ振られる。いっそ心地いい気分でユノはベットに倒れこんだ。
「守れなかったんだぞ!!何の関係もない民を!すぐそばにいながら!!なんの手立てもなく!細切れにされたんだぞ!!!」
「そうね」
入院着の襟元が掴まれる。上半身に圧し掛かる少女騎士の体重と体温を感じた。
少女の体重は“勇者の加護”を受けた身体には軽く、体温はとても熱い。
興奮しているのか、吐息が荒い。
(ああ、うざったい)
「つっ――!」
なんの拍子もなく、ユノは軽いフックをルビィの顔に叩き込む。
それをルビィは反射的にかわそうと素早く身を反らすが、圧し掛かられる内に伸ばしていた右手がルビィの首を抑える。左のフックはフェイントだ。
目を見開き口を開ける少女をベットの上に叩きつける。同時に上体、下半身、両足、と順に身体を捻り、正面と背後の位置を強引に入れ替わる。
叩きつけられながらも脇腹を狙ってルビィが蹴り足をねじこんでくるが、全てを見こしたようにユノはその蹴りをわずかに上体を捻ってやり過ごし逆に腕で抱え込み拘束する。
どしゃん、と派手な音を立ててベットが軋む。脇に押しやられていた枕が宙に跳ね、音も立てずに剥きだしの砂の大地に転がる。薄い布を通して射しこむ光が舞い上がった砂埃を輝かせる。
ユノの月のような瞳と、マットに頬を押しつけられたルビィの蒼い双眸が重なる。
「言いたいことは、それだけ?あなたがあまりにも暑苦しかったからこうしたけど――言いたいことは言えた?」
「こッ、の――――!!」ルビィが起き上がろうとする。
ユノは右手だけでなく左手で肩のあたりを圧迫する。くぅ、とルビィは呻いて動けなくなる。無理に動けば関節を痛めるだろう。
「いい?私はね」
ユノは落ち着いたトーンで、言葉を選びながら喋る。
「もう“何の関係もない人間”を守ろうなんて、思わないの。私を助けてくれた人、私を嫌わない人、私を守ってくれた人。私が助けたいと感じた人、私が好きだと思った人、私が守らなきゃいけないと思った人。それだけを、守ろうと思ったの……それ以外は、好きにすればいい」
「…………」
「好きにすればいいよ。生きたり、死んだり、嫌ったり、好いたり、守ったり、勝手にすればいい――私の手は小さい。周りにあるもの全部助けたり守ってたりしたら、本当に守らなきゃいけないものに指が届かなくなる。」
「――貴様はッ、勇者だろうが……!」
ルビィの押し殺した声を、ユノは静かに笑いとばす。
「勇者、勇者だから、どうしたの?」
言葉を切り、息を吸う。
「・・・・・・勇者だったら顔も見たこともないような誰彼の命まで責任持たなきゃいけないの?」
ユノの瞳が奇妙に歪む。静かな声音で語られる言葉は少し熱を帯び、どこか揺れていた。
「……そんなのもうたくさん。本当はわかっているんでしょう?勇者が絶対じゃないことが、無敵の存在じゃないってことが」
ユノはそういい終えて、ルビィの身体から手を離す。
興奮していた――色素の薄い頬には赤味がさし、肩で小さく息をしていた。
だが、激情はすぐに醒めていった。声のトーンは次第に落ちていき、いつもの少女にしてはハスキーな声音へと戻った。
「もし勇者が絶対無敵の超人で、たった1人で何百何千の命を救えたなら、とっくに魔族なんて滅びてるわ」
ルビィは身体を起こし、ユノの方を振り向く。
「……それに、わたしはもう勇者なんかじゃない」
射しこむ光が少女の全身を黒いシルエットへと変えていた。
シルエットは踵をかえし、外へと歩き出す。
「ここに居るのは、ただの、ただの“私”だよ」
その呟きははっきりと悲しげだった。
「……………」
はあはあ、とルビィはベットの上で荒い息を吐いた。
しばらくの沈黙ののち、ルビィは押し殺した叫び声を上げて、固いベットを拳で叩いた。
「……くそッ!くそっ!くそっ!糞ッ!!!!」
繰り返し、拳を打ちつける。
胸中に行き場のない怒りがあった。
勇者が「誰をも救えるような無敵の存在」ではないことぐらい、ルビィはずっと昔から理解していたことだ。
斬られれば血がでる、出過ぎれば死ぬ。ただ、そう、ただ「死にづらい」だけだ。
様々な奇跡をもたらす「勇者の武具」や強力で周囲にも多大な恩恵をもたらす「勇者の加護」もあくまでもドンナーが与えたもうた「手段」にしか過ぎない。どんな武具も力も正しく使われなければ意味を成さないのは騎士として教育を受けたものならば誰もが知っていることだ。
(それでも、私は信じたかった……!!!)
ルビィは昔から、勇者になりたいという願望があった――はじめはただ勇者に近づきたいという憧れだった。
だが騎士として泥臭い訓練と血生臭い戦いに明け暮れ、己の無力さに気づかされるうちに、それは「勇者になりたい」という願望へと変わった。
その頃のルビィにとって、勇者とは超然とした、全ての懊悩から解き放たれたような存在だった。
遠い異世界から聖女たる巫女に選ばれ、王から無条件に名誉を授かり、主神ドンナーから寵愛にも似た加護と圧倒的な力を得て、恐怖も、劣等感も、焦燥感もなく――ただ大陸を魔族の手から救うために戦いに立つ無敵の存在。
そんな勇者にルビィは憧れ、そして嫉妬していた。
(だが、その感情を、わたしは認めたくなかった)
1歩でも近づけるよう、ルビィは血の滲む努力をした。戦場に行ってしまった親友を想いながらも、心の奥底ではそんな感情が渦巻いていた。
“授かりものの、借り物の力なんて努力で打倒してやればいい。努力すれば近づける。追い抜ける。自分もまた世界に認められる!!”
けど、それは、ルビィの勝手な思い込みだった。
姉の仇を執る為に様々な情報を調べる中で知ったことだ。
人には誰にしろ例外なく限界があり、そのラインの内側ぎりぎりでなんとか遣り繰りしながら自分の身を取り巻く世界と戦い続ける。定められた限界を越えればさらにその向こう側に辿り着けるか、それとも何もかも壊れて失うか――2つに1つ。
それは男も女も子供も老人にも平等だ。限界のない人間なんていない。
人魔入り乱れる戦場の中でそれを知り、越えてしまったのだ。勇者という大きな力の、その重みに耐え切れず壊れた――ルビィは知っている。あの白髪の勇者が2年間の人魔戦争の渦中で、幾人もの兵士を身体を張って守ってきたことを。
勇者は何もかもを超越した救世主ではなく、自分と同じように泥と血に塗れた「人間」なのだとそこでルビィは気づかされた。
もし、あの「村」での騎士殺しがなければユノ・ユビキタスは5人の勇者と同じように人々から尊敬と感謝の念で迎え入れられてきたはずだ。
だがもうそんな未来は訪れない――ユノは魔族の「村」を巡り配下のエインヘリャルと対立。村の制圧を進言する騎士たちを殺し、「村」に棲んでいた魔族の民を逃がした。多くの兵士を救ってきたその手を騎士の赤い血で染めたのだ。
そこに至る理由はきっと都の口さがない連中が真実味たっぷりに囁くような「配下との不仲説」や「優秀すぎる部下たちに無能な勇者が耐え切れなくなった」「魔族の村など建前で実は痴情のもつれだった」など、そんな世界の出来事ではなかったはずだ。
確かに、そう彼女は守って、傷ついて、命を賭して――決壊したのだろう。
「でもっ、それでも……おまえには救える力があるんだろ……!!力が、あるんだろ……!!!」
それは結局、他力本願な願いなのだ。
自分に出来ないから、救えないから自分以外の強力な他者に頼り、縋りつく。縋りつくだけならまだいい。縋りついて、その力のある他人にも救えなかったなら今度は感謝もせず責めるのだ――おまえのせいで、おまえが出来なかったから。さきほどの自分の姿そのままだ。
それを浅ましいと、情けないとルビィは思う。それが怒りを増幅させる。
(それでも――)
ルビィは思ってしまうのだ。
ユノ・ユビキタスが自分と共に昨日の村の中にいて、そして戦ってくれたなら――
「…………」
悔しさを、感じた。
昔からきっとその感情は何も変わっていない。
浅はかな、それでもどうしようもなく強い願望。
ルビィはどさ、とベットの上に寝転がり、天幕の天井を眺める。暴れたせいで埃が舞い上がり日の光を受けてきらきらと輝いていた。
それを掴むように――実際に掴もうとしたわけではないが、手を伸ばしてルビィは小さく呟く。
「強くなりたい……」
「――――その言葉を、しっかりと伝えてあげなきゃいけませんよ」
ルビィは突然聞こえたその声に、顔をあげた。
「すいません、起きてしまいました」
そう申し訳なさそうに言ったのはアリカだった。亜麻色のふわふわとした髪に金色の瞳。縦に長い瞳孔がルビィのことをじっと見つめていた。
表情に怒りの色はなかった。天幕の中に漂う静寂を反映したかのように、その視線は静謐さだった。
その視線を受けてルビィは居心地悪そうに目をそらす。いつから起きていたのかわからないがルビィはユノを殴ってしまった。目の前のアリカにとって、それはいい行為なわけがない。
ルビィからすれば、フリードか、それかアンテローズ領の両親や乳母を罵倒され殴られたようなものだ。
このハーフリザードの女性にとってユノがそれほど大切な存在であることはルビィにだってわかる。
ただ、出てきた言葉は心情と違う言葉だった。
「恥ずかしいところを見せたな……」
「何が恥ずかしいのですか?」
アリカは控えめな、しかし芯の通った声音で目をそらすルビィに言った。
追求でも批判でもない、純粋な疑問。それは逆に、ルビィの身をさらに小さくさせた。
乳母に怒られてるような気分だな、と頭の隅で自嘲しながら言葉を返す。
「聞いていただろう?わたしは、あいつを責めたのだ。自分の無力を、怒りを、勇者のせいにしようとした……あいつの身を狙った襲撃に巻き込まれた人間のことなど、本当はどうでもよいのだ。本当は、ただ縋りつきたいだけなのだ」
「……」
視界の隅で亜麻色の髪が揺れるのが視えた。
「力のない私にかわってドンテカの誰も彼も救って欲しかったと、助けて勇者さまと、そうやって駄々をこねたのだ……これが恥じゃなくて、何だ」
「恥なのですか?」
アリカはこくん、と不思議そうに首を傾げる。ひとさし指を下唇につけていた。
「わたしは、あの怖い化け物たちが襲ってきたときに何度もユノさんに助けを求めましたよ?それはもう、恥ずかしくなるくらい。窓の外から姿が見えるたびにきゃーきゃー悲鳴をあげちゃって、顔には出さないけど迷惑だったろうなぁ」
くすくす、と何がおかしいのかアリカは口元に拳をあてて笑う。
「とにかく何にも分かんなくて助けてー!守ってー!ってね……ユノさんだって必死なのにね」
(強いな――この女、いや、この人は)
ルビィは笑う。目の前の、穏和な笑みを見せるヒーラー見習いのアリカと今の自分。その対比に泣きたくなる。
それでも言葉を返さなければいけなかった。
「それは――守られるものと守るものの違いだ。おまえ、あ、いやあなた……ミスマイルズは守られる側で、私は騎士だ。人を守ることが意義。間違っても、誰かにその意義を放棄していい人間じゃない」
「アリカでいいですよぅ……でもあなたは、本当に縋りつきたいのですか?」
奇妙な感覚を憶えて、思わずルビィはアリカの顔を視た。さきほどと変わらない。
まるで教師に教えを受ける生徒のように背筋をぴんと伸ばし、膝に手を置いた姿――しかしその座り姿は何故かルビィにアンテローズ領の乳母を思い出させた。さきほど抱いた印象は間違いではない。母親にかわり勉学や作法を教えてくれた厳しくも優しい乳母。父と母の「しごき」に耐えかねて何度その胸に飛び込んだか。
似ても似つかないはずだ。乳母は普通の人間だったし、ルビィが物心ついたときにはもう「ばあや」と呼べる年齢に近づいていた。
目の前のアリカは成人してまだ2年もたたない。戦いに身を置く、明日も知れない類ではない、まだ「若い」と呼べる年だ。
ルビィはアリカの縦長の瞳から目が離せなくなる。
それでも、まだ言葉は口からとび出した。
「縋りつきたくなど、ない。ただ」
「ただ?」
「……」
「あなたは、自分でさきほど言っていたではありませんか――」
アリカは微笑みながら、どこか得意げに唇を動かす。
つよくなりたい、と
「――――」
ルビィの頭の中で、かちりと何かが嵌る音がした。欠けていた、いや、むしろ何か余計な異物が挟まったまま無理やり回っていた歯車が子気味のいい音と共にその邪魔っけな異物を吐き出したような、そんな音。
わたしもさっき言っていたんですけどね、と笑いながら目の前のハーフリザードの女は言う。
「その言葉を、はっきりと伝えなくちゃ、多分前に進めないんだと思います。あなたがどんな風に、なんの為に強くなりたいのかなんてわたしには分かりません。けど、その想いを伝えることはとても大切なことだと思うのです」
「それは……何故?」
「人は1人じゃ強くなれないからだと、思うからです」くすっ、とアリカは笑う「わたしね、ユノさんと出会う前はこんな風に貴族様にエラソーなこと言えるような性格じゃなかったんです。いつも人の顔ばかり窺って、怯えて泣いて隅っこで震えて――ユノさんがいなければわたし今頃生きていなかっただろうなぁ、と思います」
懐かしそうにハーフリザードの女が笑う。
「そりゃあユノさんはあんな性格ですから――あ、ユノさんってクールそうに視えて意外とトラブルに自分から首を突っ込む性格なんですよ?たくさん危険な目にも遭いましたし、こんな生活イヤ!と思ったことも何度もありましたよ」
「……そんな性格なのか」
「ええ、元はといえばわたしとユノさんが出会ったのも酒場でのトラブルですしね」
ええと、どこまで話したんだっけ、と口元に手を当ててからアリカは言葉を続ける。
「けどそんな生活を続ける内に、世界が随分と広がった気がしたんです。今ではちょっとくらい乱暴な人に遭ってもなんとか遣り過ごせるし、思ったよりも自分の身体が強いことに気づいてちょっと無茶しても大丈夫だって分かったし、昔の自分より強くなれた気がしたんです」
「……」
「それはなんでかなーって思うとみんなみんなユノさんに助けてもらって、次からは自分だけでも大丈夫なようにって教えてもらったことばかりだったんです。そう、だから、誰しもが自分だけでは強くなれないんじゃないかなーって、強い人でも行き詰まったときには誰かコッソリ頼ったりしてるんじゃないかなーって……そう思ったんです」
ああ、こんなに喋ったのは何日かぶりです。と照れくさそうにアリカは笑った。
もう居心地の悪さをルビィは感じていなかった。
視線を外し、俯いたままルビィはぽつりと呟く。
「あいつも、勇者も、そうだと思うか?」
「え?」
ルビィの問いに虚を突かれたようにアリカは一瞬戸惑い、うーん、と金色の瞳を天幕の端から端まで巡らせてから口を開く。
だがその動きとは裏腹に迷いのない口調だった。
「きっと、ユノさんもそうだと思います。ユノさんは凄く強くて、時々恐くなるくらい冷静で、どんなときでも頼りになるけど、きっとユノさんもたくさん泣いて、たくさん傷ついて、たくさん誰かに助けを貰って……そうやって強くなってきたんじゃないかな、と思います。」
その言葉を聞き、ルビィは顔を上げる。
憤りも、迷いも、悔しさも消えてはいなかった。
ただ、そう、出口のない回廊をぐるぐる回るのをやめただけだった。
浅はかな性格だな、と自分で思う。けれども悪い気分じゃなかった。
「そうなのか……」
ルビィは椅子に座るアリカに礼を言うと、天幕から外へと駆け出した。
「……久しぶりだな」
天幕を飛び出し、あてもなく基地内を歩いていたユノに声を掛けたのはイスラだった。
ユノは沈黙のまま歩を進めるのを止めるとゆっくりと振り返り壮年の男の姿を視界に入れる。
通り抜けていく風が白い病院着のすそをはためかせた。
数年前の記憶より少し老けただろうか。壁のように張られた陣幕を背にして立っている。黒いアンダーウェアに動き易く改良された鋼鉄製のプレートアーマー、肩口には騎士団長を表す赤と黒の肩章を括りつけている。
ぼさぼさの髪を無造作に後ろで括った髪型も負傷した足をかばうような立ち姿も何ひとつ変わっていない。
「……お1人ですか?」
「いや、供回りが2人いる。少し出払ってもらったがな」
皮肉じみた笑いをイスラは口元に浮かべる。
そのまま胸の上で組んでいた腕を降ろし、ポケットの中に突っ込む。ごそごそとしばらく漁って取り出したのは少しよれた紙製の箱だ。
その中から片手で器用に1本の紙で乾燥した草を巻いた棒状のもの――つまりは煙草を取り出し、口に咥える。
これまた器用に片手でマッチを擦って火を点けてからイスラはユノに話しかける。
「……吸うか?」
「まだ吸える年じゃないですから」
「クロップ(この世界の煙草の呼び方)に吸える吸えねぇもないだろう」
「私の世界ではそうだったんですよ」
ユノはその隣に腰を降ろして基地内を忙しく駆け回る兵士達に視線を向ける。
「あいつ」
少しの沈黙ののちイスラが口を開く。
横目で見ればユノと同じように遠く前方に視線を投げ掛けていた。
「あいつを、どう思う」
「…………ルビィの事ですか、師匠」
ユノはイスラのことを師匠と呼ぶ。何故だか初めてあったときからその呼び方がしっくりと来たからだ。
「よせよ、もうそんな風な呼び方できる立場じゃねえだろ――おたがいに」
「それでも、他の呼び方が思いつかないもので」
「はあ……」
ぼりぼりとイスラはめんどくさげに頭を掻く。いかつい顔が困ったように歪むのをユノは「たいいくずわり」した膝の下で笑った。
ユノは顔をあげ、頭に浮かぶルビィの顔や姿を反芻しながら言葉を述べる。
「とても優秀だと思いますよ。剣の腕、身体能力、機転の良さ、負けん気の強さ……きっとあの子ならいい騎士になれると思いますよ」
「……それがオマエを殺すために培ってきたものだとしてもか?」
「ええ」ユノは迷いなく返答する。
「それが、それがそうして鍛え上げられたものだとしても、今回の出来事には関係ない。「みんな」を助けるために、精一杯強くなってもらうつもりですよ」
「――助けられると、思うか?」
ユノはイスラの顔を見やる。視線は遠くを見つめたまま、ただわずかに顎を引き締め歯を噛みしめているのが見て取れた。
「助け、ますよ」
「……」
ユノは祈るように合わせた両手で鼻先を覆う。月にような瞳の中には地平線を埋め尽くす砂の海、その先にある西部の大地が映りこんでいる。
「セリアにお願いされたからじゃない、ましてやこの世界や、ランバルディアの為でもない」
「自分の、為、か」
「ええ」
隣に立った男の身体が軽く勢いつけて前にでる。降ろした指先にはすっかり短くなったクロップの亡骸が挟み込まれていた。
「そろそろここを発つ。王陛下に報告をしなきゃならんのでな」
「そうですか――お気をつけて」
陣幕の壁に背中を預けたままユノはそう言う。
「それは俺の台詞だ、莫迦者め」
ばさっ、ばさっ、と軽い風と共に基地の上空に3騎のワイバーンが飛んでくる。竜騎士が操るそれはどうやら少し離れた敷地に着陸したようだった。数から考えてもイスラたちの迎えの騎竜だろう。
「1つだけ、俺はオマエにいっておくことがある」
もう離れて歩いていたイスラが言葉を発して止まる。振り返ることなく、どんな表情をしているか分からなかった。
ユノは座ったまま言葉を待つ。
「あいつは、オマエとは“違う”」
「……」
「ただの人間と勇者の違いの話じゃない――ただ、オマエとあいつは“違う”んだ」
竜が翼ではためかせた風がイスラの髪と張られた陣幕。ユノの白い前髪を揺らす。
「くれぐれも、あいつを持っていってくれるなよ――向月ゆの」
その言葉を最後に、イスラとユノは3年の半年ぶりの再会を終えた。
年数・日時共に詳細不明
ミドガルズオルムの領域、あるいは封印された海淵
海とは、人間にとって魔の領界だ。
それはどこの世界であっても、現実でも、異世界でも変わらない真実だ。
諺にこんな言葉がある。
“板子一枚下は地獄”
それは、船乗りの仕事が危険と隣り合わせという意味だ。
木で作られた船が唯一の命綱。それがなければ人は海というものに永劫関わることは出来ない。
どんなに科学が進歩しようと、時代が移り変わろうとそれだけは変わらない。
人は海の中で生きることなど出来ない。
人は水に、海に、重さに、冷たさに、暗さに決して耐えることなど出来ないのだから。
「♪~♪~♪~」
地獄の底――光射しこまぬ海底のそのまた底の闇の中。
完全に光がその権力を失い、そこに生息する魚たちが奇怪な発光器で自ら光を発するようになる異界中の異界の底。
そこに、白い少女がいた。
白、という表現は被服の色を表現するものではない――それは少女自身の色。裸体だった。
少女の裸体は完璧な均整を保っていた。
ひとつのしみもない足首。異様なまでに艶かしく、長く伸びた2本の足。膝、太腿。臀部。細く締まった腰。
すらりと1本1本が伸びた長い指にそれを胴体と繋ぐ手首と二の腕。
桜色の先端を持つ2つの乳房は手の平に収まる大きさで、重力に負けることなくかすかに上を向いて少女の胸元で揺れている。
長く艶やかなビロードのような黒髪を海の重力に任せ、上昇も落下もすることなくそこに存在している。
それは決して水死体などではなかった。
海中の冷たさを無視するかのように赤味をさした頬に桜色の唇。軽く開いた口元からはマリンスノーと同様に上昇する気泡があった。
呼吸をしている。
少女は、確かに生きていた。
「♪~~~♪~~~~」
少女は黒髪を靡かせ、手を広げて歌を唄っている。
その歌はこの世界のどこにもない歌だった。澄んだ鈴の音のような、だがどこかに醜悪なまでの甘さを含んだ魔の歌声。
それに魅かれたように、少女の周りを大小さまざまな異形の魚が泳ぎ漂っている。
ネエ、愛オシクテ仕方ガナイノ
艶かしい銀色の身体をくねらせて紅い背鰭と冠を持つ巨大な魚が少女を包むように踊る。
ネエ、憎クテ仕方ガナイノ
異様に膨れた顎と鋭く細いナイフのような歯を持った魚が恥らうように少女の手から逃れる。
ネエ、ワタシノ気持チニ気ヅイテホシイノ
カウンター・イルミネーション。自らの身体を虹色に光らせ哀れな魚を誘引する水母が遠慮がちに少女の周囲を回る。
ネエ、狂ッチャウホド、愛シテイルノ
どこからか、少女を照らすように光が射した。日の光とは違う。冷たさを持った奇妙な光。それに照らされて少女と、その周りを漂う幾百を超える魚とそうでないものたちの群れが銀の鱗や黄色く輝く瞳が艶かしく輝かせる。
そして、唄う少女と踊る従僕のような魚たちの遥か下――遥か巨大な都市が眠っているのが視えた。
隠れ潜む、封ぜられた神を信奉しその身を海中に投じた人々の末裔。ミズガルズたちが棲もう悠久の都――深海都市ミッドガルド。
幾多の尖塔と奇妙な形状を持つ高層建築を持つそれは、人が住む都などより数段雄大で、進歩しているように見えた。
だがそれは自然なことなのかも知れない。
ミズガルズには人間しか「敵」がいないのだから。
そしてその「敵」を打倒するために気が遠くなるほどの進化と研鑽を積み重ねてきたのだから。
外敵のない絶対的な優位と、細胞の基礎に刻み込まれるほどの地上への回帰願望。
その二つが、ミズガルズという種族の文明を急速に発展させていた。
海と生きることの出来ない人間にはその脅威を予想することすら出来ない。
『チヒロさま、第4軍団の方がお待ちです』
うっとりと眼下に広がる都市を眺めていた少女は、手首に付けられた通信球からの声で現実に引き戻される。
一瞬だけ眉根を寄せながら手首を顔に寄せて通信を入れた近衛のソーサラーに返答を返す。
「すぐに戻るわ。部屋に通しておいて」
『御心のままに』
まったくもー、と小声で独り言を呟きながら上――ミッドガルドの上界に聳える巨大な「何か」へと泳いでいった。
部屋の中で1人の少年が落ち着きなくソファに座っている。
青と黒で統一された部屋の中は奇妙だった。教会の天井ほど高い天井に反してその部屋の横幅はそれほど広いとは言えず、とても一種族を束ねる差為政者の私室とはいえないこじんまりとした造りをしていた。
調度にしても贅の尽くした珊瑚造りのテーブルや、持ち帰った人間の部品などの「戦勝品」を加工して造られた高等家具なども存在せず、地上にもありそうな一般的なものが使われている。
ただ幾つかの「この世にそぐわないもの」がなんの防護もなく無造作に部屋のどこそこに無造作に置かれている。
どこか遠くの異界の様子を移す鏡のような装置や様々な記録が封じられた薄い奇妙な円盤状のもの。
一応技術士長という役職を持つ少年にも計算しきれないような、膨大な数式を一瞬で終わらせてしまう光輝く箱状のものなど、この世界の理を変えてしまうような恐るべき能力を持つオブジェクトが部屋の中に存在していた。
「あ……!」
部屋の中央の床に空けられた丸窓――ミズガルズの住居には一般的な外界と部屋とを繋ぐプールの中から少女が裸体のまま現れる。
あわわわ、と白い柔肌から目を逸らす少年を無視し、部屋の端で彫像のように控えていた側仕えの魔族にガウンを着せてもらう。
長い黒髪を乾かす必要はない。少女がさっ、と髪に手で櫛をいれるとはじめから水気などなかったかのようにさらさらと音を立てて少女の肢体を包むように広がる。
それらの一連の動きを終えてからようやく「新しき王」チヒロは少年に声を掛けた。
「それで?どんな用なの、プシュケくん」
「あ、いえ!はいっ……」
革張りのソファから立ったり座ったりと挙動不審な動きをしながらプシュケと呼ばれた魔族の少年が応える。
そして執務机に腰を降ろしたチヒロにあるものを手渡した。
紙状の、だが人間の言葉ではない魔族語で筆記されたものだ。
ガウンを肩口まではだけさせたチヒロはふんふんと頷きながらその帳面に目を通し、直立不動で裁量を待つ少年に声を掛ける。
「プシュケ」
「はっ!」
「この解析の結果をすぐにマニュアル化して戦事部門に配布しなさい。特に“レヴィアタン”には優先して配布。あまり時間はあげられないわよ」
「チ、チヒロさま、それでは」
「ええ」
くすっ、と満足げにチヒロは笑う。感極まったようなプシュケの頬に白い手をあてる。
「よくやり遂げたわね――褒めてつかわすわ」
一瞬の沈黙の後にプシュケは膝から崩れ落ちた。強張っていた身体から糸が切れたようだった。
よく視ればその少年の目元には黒々とした隈があり、指先が震えているのが見て取れた。
「やった……これで、これでようやく……!」
チヒロは知っていた。このプシュケという少年が今の今まで不眠不休で研究を続けていたことを。そして今、こうして出来た「結果」がこれまで“ローレライ”の本来の目的である「勇者への対抗」という史上目的をはじめて果たすことが出来たのだという事実を。
それは、きっと何ものにも変えがたい達成である筈だ。
魔族――ミズガルズの民には人間と異なる特有の精神構造が存在する。
それは人間が高機能な自由意志を持って生まれてくるのと違い、はじめから役割を背負ってこの世に生を受けるという点だ。
生まれたその時から既に一生の役割が決められている。つまりは魔族の社会とは蟻の社会と同じものなのだ。
働きアリは永遠に労働から解放されることはないし、兵隊アリは死ぬまで戦役のために鍛錬し、そして死んでいく。
目の前で泣き崩れるこの少年もまたその1人だ。
彼は自分の努力が認められたから泣いているのではなく、この世に生を受けてようやく己の役割を果たすことが出来たのだと――そういった涙なのだ。
そしてその涙を流させることが出来るのは、女王アリ――チヒロだけなのだ。
(生きた機械、意志を持った装置、感情を表現する愛玩人形)
泣きながら感謝の言葉を述べる魔族の少年をその身で抱きしめながら、チヒロはぞくぞく、と恍惚に身を震わせる。
(みんな、みんな、わたしのもの。わたしだけの、わたしだけが自由に動かせる“ユニット”)
チヒロの脳裏に――「こちら」に来る前に飽きるほどやり込んだゲームの画面が浮かぶ。
それは、この世界とてもよく似た時代背景を持つ、最大で4人までが対戦の席に着くことが出来るゲームだ。
プレイヤーは神か、それに等しい権力者に君臨し自由に人間を動かすことが出来る。
開拓者に世界を探索させて視界を確保し、滅ぼすべき国と同盟を結ぶべき国を見つける。
農民に様々な資源を採集させ内政を潤し、都市の建築と文明の発展を遂げさせる。
そうしている内に時代は進み、軍隊が世界のテクノロジーの中に登場する。
そして、敵国を滅ぼすために兵団を指揮し、戦争する。
それは決して文明を作ることを目的としたゲームではなく――いかに効率的に敵の文明を滅ぼすか、そういったゲームなのだ。
「あちら」でまだ人間だったチヒロは、そのゲームが大好きだった。
(ああ、早く、早く滅ぼしたい)
チヒロは恍惚の表情のまま部屋の天井を、その遥か遠くに広がる地上の世界に思いを馳せる。
そこには敵対文明である<人間>が巨大な文明を築いている。
それを全部「まっ平ら」にするのが、魔族全体の、そしてチヒロのひどく個人的な望みなのだ。
(さあ、もうわたしは手札を切ったよ?)
音もなく、痙攣するように少女は嗤う。
(あなたは、次はどんな風に動くの?)