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悪夢



 これは夢だ、とユノは冷めきった気分でひとりそう思った。

 顔に降りかかる雨はぬるく、血の味がする。

 ユノはぼんやりと、どこかの橋の上で空を見上げていた。

 陸と陸を繋ぐ簡素な木づくりの橋。目の前に流れる川は雨を飲み込みながら、少しづつ朱けに染まりつつある。

 川の両端にはねじくれた木が群生し、その一部が今にも川に身投げしそうなほど頭を傾いでいる。

 それは雨の重みせいではなく、木の中ほどに引っ掛かった死体のせいだ――白い肌を持つ、それ以外人間とかわりのない魔族軍兵士の死体。矢で貫かれた腹部からは青い血がしたたり、川に1本の黒い線を引いている。

 蛇が描かれたミズガルズの黒と金の旗が、川の中腹にある岩に留められている。

 あれだけ恐ろしかった軍旗も、掲げる者がいなければただの塵芥だ。


 ああ、憶えている――


 ここは、村だ。あの村に続く橋の上。西部の沿岸にほど近い森林地帯を抜けた先、撤退する魔族軍の一団を追跡し、見つけた村だ。

 それは一見、普通の、よくありがちな住民を永遠にうしなった村にみえた。

 魔族に蹂躙しつくされ占領された西部アリストピア領には人間はひとりも残っていなかった。人間だった残骸か、モンスターの「食糧」になってしまった食い散らかしがのこるばかりだった。

 しかしそこには、人の、否、生きている「なにか」の気配が感じられた。



“どうします?ゆの様――人など生きているとは思えませんが”

“さきほど排除した連中の生き残りでしょうかね、それか捕虜の可能性もあるか”

“莫迦な、これまであの残虐な連中が人を生かしたままにしていたかね?可能性として低かろうそれは”

“希望はもつべきではないですか■■■■卿――きゃつらめから逃れた人々が居ると”

“フン、あのバケモノどもが地上にひとかけらと存在しているかぎり、我は希望など持てんな”



 そう会話し、指示を仰ぐエインヘリャル達になんと言ったか――ユノは口を歪め呟いた。

 2年前の、今より少し小さい背中を持つ「向月ゆの」と声が重なる。



「みんな落ち着いて、とにかく偵察を出しましょう――」




 ぱちっ、と何かを切り替える音がして、眼を開いた瞬間にユノは村の中にいる。

 つつましい規模の農作と林業で成り立つ名もない村、きっと人が居た頃のアリストピアでも交易商が立ち寄るたぐいの村ではなかっただろう。

 またこの「夢」がなにかを見せ、ユノを責めようとしているのか、そんな風に思い、少しだけ待つ。

 ざあざあと降る不快な雨が黒い泥を跳ね上げている。


「なにも、ナシ」


 今回の「夢」は特になにも見せるつもりはないらしい。

 いつもはこの村で殺した騎士たちに怨嗟の声を投げかけられているか、騎士たちが逃げ惑う魔族の民を惨たらしく殺していく様子を見つめているか――それか壊れた「向月ゆの」が淡々と騎士を殺していくさまを見せつけられるか。この村でエインヘリャルたちを殺して2年。そんな光景をユノは繰りかえし見続けている。


 慣れた様子でユノは村の中を歩き出す。

 魔族の村はおおよそ人が使っていた村を自分たち向けに改装したものだった。

 村の通りの屋根と屋根の間には隙間なく黒い布が大きく張られ、強い日の光を遮るようになっている。

 そうして光を遮った場所には手掘りとみられる泉が点在し、そこには黒い、人の感覚には不快に感じる瘴気を放つ水が満たされている。その水場は「ズール」と名づけられ、人間にとっては周辺を魔族が通っていった痕跡として扱われていた。

 「ズール」は人間には得体の知れない――珊瑚や魚の鱗、ヒトデをモチーフにした装飾で飾られ、水源の中央にはスイレンに似た水生多年草が生えている。

 魔族にとっては「ズール」はなんなのか?それは魔族文化の研究者ではないユノにはわからないが、この「夢」で冷静に村の中を観察するようになってこの「ズール」は魔界――つまり海の底、深海の空気をもたらすものなんじゃないかと思うようになった。

 深海の空気、なんとも可笑しい字面だが魔族にとっては海が永く住み慣れた世界。人が水の中に入って息が出来ないように、魔族もまた地上では空気が吸いづらいのかもしれない。

 それが真実かそれとも魔族に入れ込みすぎた狂人の妄想か?

 きっと、それはどうでもいいことだ。


 暗く遮られた村の中をユノは歩く。天に張られた布は日よけにはなっても雨は防げず、遠慮なくユノの首すじや鼻先に垂れて落ちた。

 夢の中でさえなんとも冷たい。

(ああ、そうこの辺りだった)

 村の通りを抜けた、広場。そこで「向月ゆの」は彼女に手をかけた――



“ねえ、ほら、視て下さいよユノ様、こいつらこんなに、こんな人並みに苦しんじゃってる!人じゃないのに、真似っこしてるだけなのに!”



 村の中央広場、「向月ゆの」の指揮を聞かなくなった騎士たちは村々に思い思い散り、これまでの復讐を愉しんでいた。


 それは、ソーサラーの放った妖術に貫かれた領民の為だった。

 それは、純粋な正義感の爆発だった。

 それは、魔王に操られたモンスターに妻を喰われた夫の私怨だった。

 それは、サディスティックな感情の発露だった。

 それは、魔族の軍勢に捕まり“戦利品”に加工された同胞の代弁だった。


 ここに居る――彼女、エリーゼ・ブリミル・フォンブラウンもまた魔族狩りを楽しみ、見ていて哀れなほど怯えていた。

 エリーゼは綺麗な女性だった。

 芯の通った高い鼻に雲ひとつない空のような碧眼。健康的な赤味を帯びた頬にはよく笑みが浮かんでいた。

 すらりと頭身は高く、身体は優雅さを失わない程度に鍛え上げられていた。

 ユノは彼女と並ぶとちょっとだけ自尊心が傷ついた。

 「にほんじん」である自分とランバルディア人のエリーゼの美醜を比べるのは無意味な話だが、それでも同じ女性とは思えないほど綺麗で、男らしかった。

 そう、彼女は男らしい雰囲気を持つ女性だった。貴族の女性のなよなよと気取った雰囲気もなく少年のような朗らかな性格だった。

 よく社交界に男装して参上し、きゃあきゃあと大貴族の令嬢の方々を騒がせたと自慢していたか。

 健全な肉体には健全な精神が宿るのか、空のような碧眼には正義感と自信に満ち溢れ、実力もあった――もし彼女が勇者だったなら、それはきっとよく似合っていたことだろう。

 勇敢で優美な颯爽たる女勇者。

 でもその印象は、彼女が自分を守るために作りあげていた鎧なのかも知れない。


 エリーゼは広場の中央にある物見やぐらの上にいた。火事を報せる半鐘はむなしく木の板で作られた足場に横たわり、人がいたころには真鍮かブリキの風見鶏でもいたかもしれない屋根はばらばらにやぐらの周辺に散らばっていた。

 エリーゼは赤い、顎のラインで切り揃えた髪をかきむしり、狂気じみた独り言を喋りながら柵にロープを巻きつけていた。頑丈な登攀用のロープ。それは本来の用途で使われていなかった。

(ああ、ここで一度、吐いたんだっけ)

 柵と結び付けられているものは、魔族の老人だった。1人だけではない。白い肌と黄色い瞳を持つ、男、女、老人、他にもいたかも知れない。

 物見櫓は、絞首台へと変わっていた。

痛めつけられた魔族の民は最後はここに運ばれ、彼女の手によって櫓から落とされていった。

 吊るされたものには手足がないものもいた。腹を一文字に切り裂かれ、内容物をぶらさげているものも。

 いつのまにか横にいた――地面に胃の内容物をぶちまける「向月ゆの」を無視して、ユノはやぐらの螺旋階段を登る。階段の中ほどで吊るされた魔族の男と眼があった。

 ぱくぱくと口を開いては閉じていた――人間より生命力の高い彼らは死ぬまでに時間はあった。

 やぐらの上では、ぶつぶつと何かを喋りながらエリーゼがしきりに頭を抱えていた。

 その顔はひきつった笑いで固定され、眼からは涙が溢れていた。

 落ち着きなく動く碧眼は何を視ているのか、それとももう何も視なくなってしまったのか。



“ああ、違う。こんなの違う。こんなこと私は望んでいなかった”


“でも、でも、嫌だ。ああ、嫌だ。憎い、こいつらが憎い。魔族が憎い!魔族は悪だ!!”



 ユノは左の拳を握りながら、彼女の方へと歩き出す。

 もはや身体の一部と化している“グラーベルの鉄篭手”の感触がひどく頼もしかった。

 こんな最悪な夢の中でさえいつものように安息を与えてくれる。

 冷静な鋼鉄の保証人。



“そう、悪だ!こいつらは悪だ!それなのに、こいつらは何?こんな、こんな顔をして、嫌だ、違う――悪は滅ぼさなきゃならないのに!”



 ユノは拳を振りかぶる。

 彼女にとって――魔族とは常に強大で、邪悪な存在だったのだ。魔王という象徴に率いられる極悪非道な、良心のかけらもない存在。

 そんな存在を打倒するため、地に平和をもたらすため、エリーゼは自分の中の「正義」に従って戦った。本当に、よく戦ってくれていた。

 けれど、エリーゼは清廉すぎた。

 彼女は村の中で魔族の「日常」を視た。人と同じように暮らし、開墾し、笑いあい、親と子で団欒し、恋人同士で愛を育み、幸せを謳歌する。そんな光景を視てしまった。

 追い詰められ、傷つきながらもここが最期とばかりに退かなかった魔族の死兵たちの真意を知ってしまった。

 自分の姿を視て、まるで「魔族」にでも襲撃されたかのように怯え、逃げ惑う「魔族」の姿を視た。子供を抱き、必死に庇い続ける母親の姿を視てしまった。殺された恋人の亡骸を、半狂乱になって引き摺る男の姿を視てしまった。

 それが、彼女が信じ、何もかもが尊い犠牲として吹き飛んでいく戦場の中で頼ってきた正義に、致命的な罅を入れた。


“ねえ!教えてくださいユノ様!こいつらは悪?私は本当に正義?こいつらは本当に魔族?私は本当に人間?私が、わたしが戦ってきたものは本当に――――”


 拳の先に突き刺さる感触は軽く、現実感のないものだった。

 腕を広げ、涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら笑うエリーゼの幻影が消える。それは当たり前のことだ、これは夢にしか過ぎないのだから。

 脳も臓器も骨も筋肉も存在しない、自らの脳味噌が創り上げた幻影にしか過ぎないのだから。

(この夢を見始めた頃――何度やり直そうと思ったっけ)

 この夢を見始めたころ――ユノはこれを過去への逆行と勘違いしていた。過去の過ちを正せる、夢のよう奇跡。ここで自分が正しく動けていたなら、心折れず勇者のままでいられたなら――未来は、いや、現在が変わるかも知れない。

きっと「あちら」で普通に学生をしていたころにそんな内容の本でも読んでいたんだろう。

 けれどどれだけ必死になって村々を駆け巡り、魔族を責め立てる騎士たちを説得し止めようとして失敗し、それでもめげずに足掻いても何も変わらなかった。

いつも終わりは唐突に訪れ、何も変化のないまま汗だらけのベッドで目がさめる。

 何度も何度もそれを繰り返しては泣いて、胃の中のものを吐き出して、それを「夢」だと冷静に受け入れた。そうすると途端に夢は現実感を失い、つまらない「えいが」に品を変えた。

 黒い破片となってぱらぱらと崩れていくエリーゼだったものを見送り、ユノはやぐらから空を見上げる。

 

「この夢、何度見続けるんだろう、私」


 その答えはまだ、ない。





『月』の暦1065年

天候:晴れ 8月26日

13時45分



 昼下がり――砂ばかりの荒涼な大地の上で、せわしなく動く集団がある。

彼らが動き回るたびにがちゃがちゃと甲冑の板と板どうしが擦れあう金属音がかすかに鳴り、砂海の静寂をわずかに乱す。

けたたましい喧騒に踏み散かされた大地の砂が空気の中に舞い上がり、ひとり不機嫌そうに座る少女の鼻腔をくすぐった。


「隊長、陣地の設営終わりました!」

「よろしい、しばらく待機。では次は渡航者への検問設置の件についてだが――」

「おい、ウィンストン。工兵が薪とロープが足りないと報告がきているようだが……」

「エルムトの者達がドンテカの村人たちを弔いたいと――?駄目だ、適当な理由をつけて追い払え、ロスクヴァのものに紛れさせるなよ!」


「うー……」

「いらいらしてもしょうがないよ、ルビィ」

 親子のような身長さの2人の騎士――“アンテローズの赤薔薇”のルビィと自由騎士フリードは手持ち無沙汰で急設されたランバルディア軍の基地内にいた。

 適当に引っ張ってきた椅子に座ったルビィは大股を広げ、その膝にひじをついて不機嫌そうな顔を支えている。その横に佇むフリードは常体の黒い甲冑姿ではなく灰色の薄いチュニックに身を包んでいる。“兵士”の攻撃で鎧の背甲が破損したのだ。幸い、到着した国軍の中に鎧鍛冶がいたので修理させているところだ。破損自体は致命的なものでもない。昼過ぎか夕方前には鎧としてよみがえるだろう。

 ルビィはフリードの言葉に答えず、頬の古傷をぼりぼりと掻く。

険しい少女の視線の先にあるのはせわしなく基地の設営を続ける兵士たちだ。

もちろん“兵士”とは違う。人間の、ルビィとフリードにとって馴染み深いランバルディア正規軍の兵士たちだ。


ランバルディア正規軍――文字通り大陸の東南部を領土とするランバルディア王国によって編成された軍隊だ。広大な農作地と鉱山を背景に、大陸ではもっとも規模が大きい。

規模だけでなく装備もまた充実している。優れた製鉄技術と市井の職人たちによって生み出される良質な武具に、豊富な火薬――火薬とは昨今の戦争においてなくてはならないものだ。

 先天的な素質と教養が必要となる魔術と誰にでも扱える火薬では単純な優位性は火薬のほうが高くなる。

 ランバルディア、エルムトそして今は亡きアリストピア。この三大主要国の中で現在唯一平民の兵士に過不足なく銃器が行渡っているのはランバルディア正規軍のみだ。

(それでも、魔族に対抗するには足りない。足りなさ過ぎる)

 ルビィは昨夜の惨劇を思い出し、そばにいるフリードに気づかれない程度に身を固くした。

 昨夜、ルビィたちは本当に運が良かったのだ。

 

 結局――ドンテカは魔族に滅ぼされた。

 生存者はルビィたち4人を含めて8名。運よく最後まであの“兵士”たちの嗅覚に引っかからなかった平民の夫婦にその1人息子。徹夜で火の番をしていた鍛冶見習いの青年。あとはルビィはよく知らないが、偶然ドンテカに滞在していたらしい凄腕の冒険者“ハッカペル”――4年前の魔王戦争のおりに魔王の魔力によって使役された巨大モンスター“マッナガルム”の撃退に一役買ったといわれている。


 もっとも、彼はランバルディアの国軍がドンテカに到着するより先に村を離れたらしく、戦ったあと――リーンベルネの王城の柱よりも太い鉄棍によって上半身まるごと叩き潰された数匹の“兵士”の死骸によってはじめて彼の滞在が確認されたという。

 只1人、身に降りかかる粉を振り払って村を離れたということらしいが――昨夜の地獄を体験したルビィにとってはにわかに信じがたい話だ。

 それ以外、運よくも生き残り今日の陽を浴びることの出来た者以外はどうなったかというと――思い出すだけでルビィは胃の中の内容物が逆流するのを感じた。


 ひとことでいえば、死んだ人間の末路のすべてはドンテカ中央の村役場に収められていた。

 その様子を表現すること自体は非常に簡単だ。人間の、刺し貫かれて内臓のとび出した遺骸が、なんの尊厳もなく肉屋の軒先のように吊るされていただけだ。

 調査に居合わせた数人の不幸な兵士が胃の中のものを吐き戻したようだった。


 そして今ルビィたちが何をしているかというと――何もしていない。

 急に火勢を弱めた炎の海の中に倒れていたユノを回収したルビィたちは、とにかく火の気のない村の外へと移動した。

 意識を失い、満身創痍といってもいいユノと包まれたハーフリザードの女、アリカ・マイルズを抱えてルビィたち3人は途方に暮れていた。

 頼みの綱である勇者は満身創痍で意識を失い、まだ残留した魔族が生存者を探して動き回っているかもしれなかったからだ。

 そのとき炎で照らされた南の空にあきらかに鳥とは異なる巨大な影が現れた。

すわ新手かと身構えたルビィだったが、それはランバルディア国軍が誇る飛翔竜騎部隊「ワイバーンライダース」の哨戒騎だった。

 亜竜――ワイバーン等の動物的な竜を操る彼らは、地を這い回り泥にまみれる地上の兵士たちにとって救いの神となることが多い。

 ドンテカの異常を察知して駆けつけた竜騎士に簡単な報告を済ませたルビィたちは1日ののち到着した国軍と合流し、今に至る。

 簡単な状況の説明(説明が容易に済んだのは、村に取り残された“兵士”の遺骸や村役場の死体置き場などがあったからだ)をしたあと幾つかの報告と負傷者――満身創痍のユノとマナ切れで渇望状態に陥ったスコルピオ、意識をうしなったアリカ・マイルズを軍属の療養院に収容し、その後ルビィたちは暇をもて余している。

 中央から派遣された守護騎士団の2部隊と、エルムトその他他国への警戒を努める辺境領から出撃した騎士団と兵隊が崩壊したドンテカの周囲に展開しているがユノ・ユビキタスの旅への同行を理由に一時守護騎士団の隊長職を解任されているルビィとフリード、そして本来表に出てくることのない密使であるスコルピオは守護騎士団にも、領主騎士団にもその下に仕える正規兵隊にもなんの権限も持たないのだ。

 ある意味今の立場は――閑職に追いやられているといっても過言ではない。

 そのせいでルビィはさきほどから少し不機嫌になっている。

 

「大丈夫かな、ユノさんとアリカさんは」フリードが腕を組みながらそう呟く。

「……」


 ルビィはぼうっと何かに考えを巡らしているようなフリードに一瞥をくれると、その視線の先――ロスクヴァ教会の雌羊のシンボルが刺繍された布の仮設療養院へ目を向けた。

 ロスクヴァ教会とは主神ドンナーに仕える兄妹の召使いの妹、ロスクヴァを信仰する教会だ。兄であるシアルヴィが勇敢な心と旅の安全を守護し、ロスクヴァは献身と慈悲を司る。大陸の広い範囲でほぼ無償の療養院を開いている。

 所属する信奉者のほとんどは“魔術”による恢復術を学び修めたもの――ヒーラーの女性だ。

 戦いに日常的に赴くものであれば足を向けて寝られないというのが一般的な、ルビィにも同じことがいえる認識だ。

 今この場所でも負傷者や気分の優れないものの治療や診察。昨日の惨劇で死んだ村人や冒険者たちの弔いと埋葬にと慌しく働いている。

 今視線の先にあるテントの中では、昨夜から意識の戻らないユノ・ユビキタスが眠り続けている。

(まだ、早い、か)

 ぎし、と鉄材で組まれた軍用イスに体重を預け、昨夜のアリカ・マイルズを抱え現れた彼女を思い出す。

 顔の半分を覆う火傷。燃えて焦げた白髪。至るところに生じた裂傷と打ち傷。先端からどす黒い血の滴り落ちる身体を貫通した木材。

 そして、それらをまるで意に介さない、穏やかにもみえる双眸。

 その月のような瞳の中に何が満ちていたのか、ルビィには想像がつかない。

 ただ、そう、印象深いのは「まだ早い」というその言葉だった。


(わたしはまだ、届かないということだろうか)

 

 人ではない。魔族という埒外の存在に立ち向かうには。


「――!」

「ど、どうしたのルビィ?」

 突然立ち上がった隣の少女騎士にフリードはびくっと身体を竦める。

「少しあの女の様子をみてくる」

「え?イスラ様が先程到着されて、セリア様から連絡事項があるって――」

「かわりに聞いておいてくれフリード」


 えー、ちょっとぉと狼狽しながら追いかけてくる大柄な騎士から足早に逃げ去りながらルビィはぐ、と家紋の刺繍されたグローブの下で拳を握る。


(わたしは、知る必要がある)


 昨日の戦いの中で、ルビィはひとつの現実を思い知らされた。

 今の、今ここにいるルビィ・ギムレット・アンテローズでは魔族に勝つことはできない。

 仲間の支援を受け、これまでの経験を総動員してようやく“兵士”を2匹。戦っている最中は高揚していたが、朝がきて冷静になりその情けないスコアに愕然とした。

 これから自分はおよそ今回の数段は過酷な「魔族との戦い」へと乗り出すのだ。5人の勇者が消息を絶ち、西へと向かう最後の勇者が狙い済ましたように襲撃された。

 もはや心配性のセリア姫のいつもの杞憂、という可能性は吹き飛び、魔族がなんらかの暗躍を画策。いや、もう「している」可能性が浮上した。

 ドンテカの村内を捜索したさいに幾つかの建物の中で明らかに人間以外の、モンスターでもない要因で殺害された遺骸が発見された。それは昨夜の惨劇よりずっと前に作られたもので、多くは白骨化して身元がわからないようにされていた。

 決定的な証拠となったのは同じ部屋で発見された怪しげな、地上のどこにもない石で彫られた小さな彫像。

 その姿はドンナーやその親族に類するものではなく、頭に珊瑚の冠を戴いた半人半魚――マーメイドの女を模ったものだった。

 半人半魚という極めて魔族に近い生態を持つマーメイドたちは魔族との永い間の盟友だ。

 魔族に比べて身体能力は低いが人間に近い知力と高い擬態能力を持ち、戦時中などに捕らえられた間諜の多くはマーメイド族だった。

 その、人間にとって忌まわしい種族を模った彫像はこのドンテカに少なくとも数ヶ月前から擬態した魔族、もしくはその信奉者が滞在していたことを示していた。

 ランバルディアの国民にはまだその事実は伝えられていないが王族をはじめとした国家の中枢部は今頃大騒ぎしている頃だろう。

 絶対的な安全圏であるはずの今の時期、今の首都に魔族が潜み、今に自分の命や領民の命を狙っているやも知れないのだから。

(そして、居るんだ、西には、アリストピアには!)

 間諜という「枝葉」がいるなら必ず「根」は存在する。それはこれまでの戦争の終わりと違い、敗走を装い地に根を巡らせ、ずっと反撃の機会を窺っていたのだ。

 今回の5人の勇者と中央との途絶も、ドンテカへの襲撃もまだ実った果実の一部にしか過ぎないのだ。

 これから、本格的に魔族は攻勢に出てくるだろう。

 それに少しでも対抗する――先手を潰すのがユノ・ユビキタスとそして自分たちなのだ。

「絶望してなどいられない。戦いの手段を、届くための術を――――」


 自分はあの勇者に教わらなければいけないのだ。


「ああー、いっちゃったか……」


 フリードは姿の見えなくなったルビィを追うのを諦め、どうせ行き先は分かるからいいよねとひとりごこちる。

 資材袋を運搬する兵士やドンテカ周辺の地図の束を抱えて走っていく事務官の間を器用に縫いながら、フリードはもとの場所に戻った。


「ん?」

「おお、あー、1週間ぶりだなフリードリヒ自由騎士“隊長”」

「……えっ?」


 ルビィとフリードで適当に溜っていた場所に佇んでいるのは見慣れた騎士姿の3人――ランバルディア守護騎士団団長イスラ・ウルズ・アンゴーシュと、ルビィ率いる(といっても元だが)騎士団第6隊に所属するケリー・ジェーンとスコッチ・ロズル・ビフィターの2人だ。

 ケリーはフリードと先輩後輩の関係にあたる新鋭の自由騎士だ。好奇心をむき出しにした緋色の瞳に愛嬌のある丸顔。細いみつ編みにくくった髪とそばかすが「そのへんのパン屋の看板娘」のような雰囲気を醸しだしている。

 しかしその技量は確かなもので、モンスターの撃退や盗賊団の鎮圧などを担当する銃兵隊に所属し平民志願兵とは思えないほどの狙撃スコアを記録したという。

 フリードもいくらか彼女の銃の腕前を見たことがあるが、おそらくランバルディアでも5本の指に入る名射手だろうと認識している。

 そんな事情もあってかケリーに与えられたのはフリードなど通常の自由騎士が所有する「黒騎士ピストル」ではなく、完全に彼女専用に寸法を調整されたワンオフの「ボルトアクションライフル」だ。

 現在正規軍兵が採用しているフリント・ロック(火打ち石式)のマスケット銃とは比べ物にならない精度と威力を誇っている。

 ちなみにユノの持つ“ニザヴェリルの魔術銃”はドワーフたちの人間には埒外の技術を使ったもので、比較の対象にならない。

 今はフリードが焼け跡から掘りおこして背中に担いでいる。

 にこにこといつもの笑い顔で会釈する横で、スコッチはいつものように鉄面皮で直立不動の礼をしている。

 スコッチ・ロズル・ビフィター。古くから王都の警備などに携わってきた名門の跡取りだ。

 神経質になでつけた髪に細いフレームの銀縁眼鏡。身体は細く、手足も長いせいでどちらかといえばひ弱な印象を与えるが騎士としての能力は問題なく優秀で、騎士学校の教育課程も主席で卒業している。

 本来なら“問題児騎士団”――つまり上官であるイスラなどに平然と暴言を吐いたり、武者修行と称して同期の騎士を襲撃してねじ伏せたり、モンスターの巣窟と化し近隣の住人に被害がでていた廃坑を外側からまるごと爆破したルビィをはじめどこかしら問題のある騎士達が集まる第6隊にはまったく似合わない人材だ。

 少なくとも、書類上の成績で判断するなら誰もがそう思うだろう。

 だが外見は立派な騎士に見える彼もまた立派な「問題児騎士」なのだが……。


「なにか、こう、不穏な言葉が聞こえましたよ?イスラさま?」

「ん?何がだ、フリードリヒ自由騎士“隊長”」そしらぬ顔でイスラが言葉を繰り返す。

「それですよ!」びし、とイスラの人の悪いにやけ顔に指を突きつける「な・ん・でボクの階級が4つも上がってるんですかっ!?2階級特進てレベルじゃないですよ!」

「ヒラから一気にたいちょーですもんねー、驚きますよねー」イスラの後ろでへらへらと笑いながらケリーが呟く。

「正式な辞令が今頃アンテローズ領の邸宅に届いていることでしょう。おめでとうございますフリード自由騎士長」淀みのない早口でそうスコッチが謝辞を述べる。

「ス、スコッチ、キミもさ生真面目に報告してないで状況の説明をしてくれないかい?」

 そう顔を引き攣らせるフリードの鼻先にイスラの手で朱印の押された書類が押し付けられる。

 それを慌てて受け取り文面に目を走らす。紙の手触りは上等なもので決して性質の悪い冗談でないことを物語っていた。

「特別任務遂行にあたり、フリードリヒ・ヴァイセン自由騎士に騎士隊長権限を授ける……王国軍執行部ならびに自由騎士会……それにセリア姫の印章まで」

「そう、まぁ冗談ごとじゃないんだな、フリード」

 イスラの顔から人の悪い笑みが消え、冷徹な指揮官の顔へと変わる。

 無意識にフリードは背筋を正す。2人の騎士も同様だ。

「これからおまえとルビィ――そしてユビキタスには魔族軍の潜伏地として可能性の高い西部へと渡ってもらう。この目標自体には今後も変更点はない。が、しかし状況は大きく変わった。」

 ええ、とフリードは緊張気味で頷く。

「ドンテカは想定しえない戦力で殲滅され、各地で続々と魔族の潜伏。信奉者の諜報活動が報告されている。襲撃の発覚から今日にかけて既に20件を超えた。ほとんど地方村は全滅だな」

「この騒動を境目に、ですか」

「そうだ、王都の魔術師どもに精査させた結果だ。手口はその全てが“ドッペル”――最悪のケースだと家族全員がヤツラに成り代わられていた場所もあった。」

「活動の内容については?」

「破壊工作は報告されていない。ほとんどが情報収集――王都周辺の地勢情報や防衛体勢、戦力に関する情報だな。なかには地方領主に「蜜」を嗅がせて情報を得ていた者もいたよ」

 げぇ、と無遠慮な悲鳴をケリーが上げる。眠たげな瞼の上にかかった眉が歪む。それに釣られるように口の片方もへの字に歪んだ。

 オホン、とその横のスコッチが咎めるように咳払いを吐く。

「ま、そんなわけで最悪、魔族側に地方全域の地形から兵舎の位置。王都の詳細な地図情報まで入手された可能性が高い――これは魔族と人間が戦いをはじめて、史上、類を見ない出来事だ」

 ごくり、と状況の深刻さにフリードは唾を飲み込む。

 「地の利を知る」というのは戦いにおいて非常に重要なことだ。攻撃目標の決定。進攻ルートの選択。手段の立案。不確定要素の想定。戦いの中での重要な局面全てに関わる。

 「歴史上、正面からの物量作戦しか運用してこなかった魔族がはじめて大掛かりな諜報作戦に乗り出した――そしてその成果を誇示するように、まるで手の内を見せるようにあいつらは先ずドンテカを破壊し尽した……まだ幾らでも手札はあるとでもいいたげに、な」

「――それが、ボクの騎士隊長昇格へとどう繋がるんです?」

「フリード、おまえは今のアリストピアの状況を知っているか?」

「?ええ、4年前の魔族進攻時に現女王プリシラが親交の厚い北のスコヴィヤ帝国に落ち延び、支援を受けて亡命政府を樹立。その後スコヴィヤ軍と共に戦線に参加し国土を奪還。いくつかの契約を経て新アリストピアとして復興中……現在は国外に流れた国民に召集をかけ、ちらほらと帰還民が増えているという話ですが」

「その出来事があり小国だったスコヴィヤが存在感を増してきましたね」これはスコッチだ。

「あたしスコヴィヤのお酒すきだわー、身体がすっごいあったまるんですよねぇー」

 間延びしたケリーの無関係な発言を無視し、イスラは話を続ける。

「そう、だが現地に残留したエインヘリャルや派遣した使節から得た情報はあまり芳しくない。総合するなら現在の新アリストピアはカオス――帰還民と新国民の間での軋轢や体制の不備、冒険者などのならず者の過剰な流入による治安の悪化エトセトラ……どこになにが潜んでいもおかしくない状況だ。」

「そんな風になっているとは――この情報はやはり国民に漏れぬように?」しばし考えを巡らせフリードはそれだけ尋ねる。

 イスラもフリードの問いの内容を読み取り、ああ、と口を歪めて首肯する。

「自分たちの国は自分たちで直さにゃな、まぁ、つまり西部ではまともな協力体勢は得られぬ公算が高い。」

「そこでボクの騎士隊長権限ですか」

「そうだ。望めぬ正規戦力より動ける非正規戦力――おまえに授けられるバッチは自由騎士称号持ちで一個小隊組める。有効に活用するんだな」

「力の勇者にアンテローズ家の騎士隊長、そして自由騎士の一個小隊ですか……これで相手が魔族でなければ怖いものなしの編成なんですがね……話はわかりました」

「ん」手をあげてイスラが頷く。

「ところでフリードリヒ自由騎士隊長、アンテローズ様は何処へ?この場所で落ち合うよう伝令には伝えた筈ですが」

「いままでどおり副長でいいよスコッチ……」ルビィがさきほど歩き去った方向に目をやり「ユノさん、いや勇者の様子を見てくるとさっき行ってしまったけど」

「あー……そうか」


 はぁ、とイスラは壮年の顔をきしませながらルビィと同じようにイスに体重を預ける。ぎしり、という金属のきしみは少女のものに比べて重い。

 なにやら突然やりきれないような、奇妙な色がイスラの浅黒い顔に浮かびフリードは目をしばたたかせた。

「どうかしましたか?」

 なにかあったのか、とニュアンスをこめてケリーとスコッチに視線を送る。

 だがケリーは正直に首を傾げ、スコッチは相変わらず表情を読めなかった。

「なに、あいつ――アンテローズは相変わらずのようだな、と思っただけだ」

「ええ、まあ行動が唐突というか、考えるより先に身体が動くというか……それが善く働くこともあるのですがね」

 普段の、第6隊を率いて王都の警護をしていた1週間前を思い出す。

 色々と苦労もこうむることも多かったが、フリードの顔には苦笑が浮かんでいた。

「違うさ……」

「え?」

 静かなイスラの否定にフリードは疑問符をあげる。が、椅子に体重をあずけて遠い空を睨むように見つめる壮年の騎士はその疑問には答えなかった。

「あいつも“持っていって”くれるなよ……向月、ゆの」

 険しい色を潜ませた視線の先、砂海の空には鳥が吹き飛ばされるように飛んでいた。





 夢のなかで、ユノは置かれた状況に当惑していた。

 夢のはじまりと終わりはいつも唐突なものだが、その夢の開始はあまりにも強引だった。

 そこはおおよそ――ゆとりを考えなければ20人程度は入りそうな小さな、いや「小さい」という括りのなかでも、ほんの少し上位に入りそうな広さを持つ「カフェテリア」だった。

 ユノは未知の「夢」に警戒しながら「カフェテリア」の中央から周囲に視線を巡らす。


 しっとりとしたオイルの質感のある板張りの床――床は掃除が行き届いていて天井のシーリングライトから降り注ぐ黄色を帯びた優しげな光が淡く反射している。

ひっそりと長い年月を経たような古びた椅子とテーブル。そのいくつかは同じデザインの物ではなくアンティーク・ショップで買い集めてきたもののようにユノには思えた。

 来客を告げるブロンズベルのある扉。その横にはこれもまた年代ものの黒電話が置かれたキャビネットがあり、棚の開いた隙間から黄色い表紙を持つ分厚い本が見え隠れしていた。

 窓は少なく、暗い印象がある。しかし室内に射しこむ西日を色とりどりのステンドグラスが味気ない白色の陽光を赤色や青色へと変え独特な雰囲気を店内に与えている。

 隠れ家的名店――もし雑誌にでも紹介されるならそんな表題がつきそうだ。

(あ、コーヒーメーカーが付きっぱなしだ。)

 店の中には誰もいない。客も、店主も、ウエイトレスもいない。それどころか蝿や羽虫の1匹もこの空間には存在しそうもなかった。

 ただ、天井から光を提供するライトと同じように木製のカウンターの脇でぼこぼことコーヒーメーカーが煮立っている。黒い、刑事ドラマで小物として登場しそうな古臭いモデルだ。オレンジのランプが点灯し、静かな店内に微かな作動音を振りまいている。

「なんだか……不気味。いったいこれは何?」

「オマエの過去さ、向月ゆの」

「っ!」

 背後から唐突に聞こえた声に、ユノは拳を振り上げて振り向いた。

 左足を前に出すのと同時に半身を捻り、右手を前に、左手を上段に。迎撃の構え。

 そこで、ユノは自分自身の姿が変化していることに気がついた。身体を覆うのは最後の記憶にあったぼろぼろに破損したアーマーとアンダーウェアではなく、剣帯や魔術円筒を入れるポーチが付けられた革製のベルトではなく、太腿から膝まで覆うアニマルハイドと鉄の膝当てがついたレギンスではなく――それは確かに、いつか着ていた制服のブレザーとスカートだった。

 そして決定的だったのが、いつもユノの左腕を覆っている“グラーベルの鉄篭手”が影の形も存在していなかった。

 懐かしい、血管でも浮き出そうなくらい白い「向月ゆの」の腕だった。


(何故!?)


 狼狽する暇もなく、正面から何かが覆いかぶさってくる。

 転倒しないことは幸運だった。ユノの背後から襲ってきた襲撃者は西洋然とした――ランバルディア人であるように見えた。襲撃者は腕を前に、両腕を押し付けるようにして体重をかけてくる。

 それに対しユノは力での拮抗を選び、その選択に致命的に後悔した。“勇者の加護”が身体のどこにも感じられない。いつもの、溢れるような制御しきれない力の内在がどこにもない。今の自分はどこにでもいる――少しだけ格闘技をかじっただけの4年前の少女だ。

 背中が壁に押しつけられる。カウンターに面したカフェテリアの横幅は人1人が横たわるスペースは存在せず、偶然にして組み伏せられることは回避できた。

 どんっ、と固い壁に肺を圧迫され、けほっとユノは咳き込む。パニックになりながらも冷静なユノの一部は攻撃を選択し、床から左足を離して膝蹴りからローキックか金的かを相手に叩き込もうとしていた。

 しかしユノはきっ、と襲撃者の顔を睨みつけて、痺れるような感覚と共に全てを自失した。

「なん、で…・・・?」

 襲撃者は、たった少し前に、間違いなく殺したはずの「巨人」だった。

 いや、その言葉には語弊がある――正しくはそれは炎の巨人に姿を変えたはずの、エリーゼの恋人だった。

 そう一目で認識できたのはその男の額に1本も髪がかからず、うねりのある後ろ髪を首の後ろで束ねて顔が見やすかったかもしれない。

 どう見ても人間にしか見えない彼は王宮の楽士服に身を包み、黙したまま顔をユノの鼻先まで近づけてきた。

(違う、こんな、私は、知らない!)

 ユノは極限のパニックに襲われていた。目を限界まで見開き、奥歯を震わせてただ目の前の男の顔を見つめるしかなかった。

 ユノはエリーゼの恋人であるこの男のことなど「知らない」――あくまでもあの「巨人」の最期に視えた顔と、エリーゼが生前していた惚気話、思い出の中に出てきた登場人物でしか知らない。この男が楽士だったことや髪型を後ろで束ねることなど知るはずがない!

「当たり前だ、私はおまえの創作物ではないのだから――」

「嫌――!」

 男の言葉にユノはただ身を捩った。頭からはもうこれまで培ってきた護身の術が抜け落ちて、ただ非力な少女が男に必死で抵抗しているだけになってしまった。

 革靴を履いた足で必死に男の脛を蹴る――股の間に足を入れられ、すぐに蹴りは届かなくなった。

 五体を拘束され、顔を覗き込まれる。

 言葉が喉から繰り返される。


「嫌――嫌、いやっ」


 目の前で男の顔はじわじわと変化していった。

 男の細面で骨ばった輪郭はふっくらした曲線を帯び、彫りの深い顔面の造形は小ぶりに、全体的に丸みを含んで形状を変えていく。目じりから皺と隈がきえてその大きさを変えながら落ち着いた緑から空色の碧眼へと目の色が変化した。

 それと同時に身体を拘束している男の肉体も変化していく、肩幅の広い男の造形から、丸みを帯びた柔らかな造形へ――女の、身体だ。

 ばさり、と赤い髪が抑えを失ったように目の前へかかった。

 そして、変化の終わり。ユノはその顔を視て、ただただ首を横に振った。


「嫌、なんで、いやだ。いやだ――――エ、リーゼ」

「―――――」

 健康的な美に溢れる、女の顔が笑った。鋭い印象を伴って。

「ゆの様、痛かった…………ですよ?」




 ――――嫌あああああああああああああああああああああああああ!!!!!!



 抑えていた感情が爆発した。

 ユノはただ狂乱する。首をちぎれんばかりに横に振り、拘束された腕を振り回す。

 身体はてんてんばらばらに可動できる場所を求めて動き回り、紺色のブレザーをめちゃくちゃに乱した。

 足もまた独立して逃げ場を求めて狂ったように床を蹴り、近くにあった椅子を勢いよく蹴り倒した。

 目は堅く閉じられ外界の耐えられない現実を遮断し、肺と繋がった喉は徐々に悲鳴を嗄れさせていった。

「――あ、いかん」

 状況に似合わない醒めた女の声が聞こえた。

 その言葉が耳に聞こえてもパニックに陥ったユノには言葉として届かず、悲鳴を途切れ途切れの奇妙な呼吸音へと変えていた。

 ひゅ、ひゅ、ひゅ、ひゅ、と口と喉、肺が1本の透明の筒で固定されたようの自由が利かず、痙攣したように激しく胸を上下させていた。

「術を誤ったか、やはり私はこういう役割は向かんかな――?」


 ひゅ、ひゅ、ひゅ、ひゅ、ひゅ


「おおい、水もないのに溺れてもらっては困る。ぬしは■■■■ではないのだから――」

 身体をだらしなく弛緩させ内股に床にずり落ちるユノを「エリーゼの顔をした者」は優しく支えた。

 おびえた子供を宥める父親のように、男性的な強さを感じさせる手つきでさらさらと少女の頭を撫でた。

「おお、愛い子よ。憂い子よ――さあいつもの冷静な、波ひとつない平面の心に戻るのだ……力の勇者よ」

 カウンターの上のコーヒーメーカーがごぼっ、と音を立てる。黒い液体のなかに気泡が上がった。


 女の、エリーゼの顔をした何者かに抱きすくめられたユノは次第に全身に安定した力を取り戻し、痙攣が消えた。異常なまで収縮を繰り返していた肺は沈静して呼吸もいつものリズムへと戻り始めている。

 その時点で普段のユノ、ユノ・ユビキタスであれば目の前の異常な物体に取れうる限り有効な反撃を繰り出すところだが――まるで親の手で撫でられ安心した幼子のように恍惚の表情を浮かべおとなしくしていた。

「あなたは……誰?」

 悲鳴で酷使された喉はがらがらに涸れていたが、ユノははっきりとした口調で疑問符を目の前の存在に投げ掛けた。

「ふむ、私のことを聞かれたのははじめてだな――まあ、いいか、とにかくコーヒーでも飲もうか」

 そっとユノの肩から手を離した女は首を傾いで思考しながら少女の身体をカウンター席の小さな椅子の上に誘った。

 そしてしばしの間、ユノは何故だかひどく穏やかな気分で木製カウンターの木目を数えていた。

 軽い音と共に出されたコーヒーの香りではっ、と意識を戻す。

 カウンターにコーヒーのカップを置いたのは落ち着いた雰囲気を纏った男だった。

「飲むといい、君はよくこのお店でブラックコーヒーを飲んでいたらしいからね」

「そうなの?」

「少なくともこのメニュー表にある季節のフルーツ盛りバナナサンデーではないようだね。フルーツとバナナが何故別れているのか、私には理解し難いがね」

「そう」

 ユノは何の警戒もなく、黒い液体に唇をつける。香ばしい芳香と共に広がった心地いい苦味がユノの味覚を刺激し、まだどこか呆けていた頭をハッキリさせた。

「さて先程の質問だが」

「?」上目遣いでユノは男の顔を視る。

「私には、そう、とてもたくさんの名前がある。どれを使えば君に影響を与えずに済むか――ヴェラチュール、グリムニル、スヴィパル……少し露骨か、シーズスケッグ、ガグンラース、ハールバルズ…………とても呼びにくい名だな、我ながら」

 顎に手をやりながら唐突に名前のようなものを羅列しはじめた男を「何やってんだろう」と思いながら、ユノは新たにコーヒーに口を運ぶ。

 ユノの口が3度、黒い液体を嚥下するまで男は悩み続け、そして大きく頷いた。

「ふむ、そうだな。どうも私の名前はどれも憶えるのに苦労するし問題がある。本来は君に付けるべき名だったが――ここでは私はこう名乗らせてもらおう」

 満足げに頷いた男の身体が再び変化する。だが、ユノは次は驚かなかった。

 頭の片隅でこの「存在」はこういうものなのだと誰かが報せていた。

 年齢不詳の、若いのかも老いているのかもわかりづらい男の身体がカメラのピントがずれたように暈けて視えなくなる。目の前にいるのにぼんやりとして視えないのは奇妙な感覚だった。

 ただその擦りガラスを隔てたような向こう側で男の姿が大きく変貌しているのがわかった。

 特徴のないワイシャツとズボンの被服が白金に輝く甲冑に変化し、中肉中背の肉体が豊満で均整のとれた女性の肢体へと変貌を遂げる。白髪まじりのオールバックが先端から輝かんばかりの金髪になり、髪の先端がくるん、くるまった愛嬌のあるカールの長髪に長さを変える。

 そして最後に翼の生えたサークレットを頭に被り、女は深い海のような碧眼をゆっくりと開いた。

 時が止まったようなカフェテリアの静寂を震わせるように、女はひどく澄んだ声音で名乗りをあげた。




「我は勇敢たる人間を選定し、きたるべき戦役へと備えるもの――戦死者を運ぶ神に近く、神でないもの。ワルキューレが1人、ラーズグリース…………“計画を壊すもの”」




 ユノは目を見開き、空になったカップを床へと落とした。



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