ブイ・フォー・ヴェンデッタ Ⅳ
「よっし!みんな準備いい?準備いいよね??」
そこは奇妙な空間だった。
巨大な円筒を形成する壁には、人の使う魔術を行使する上で使われるルーン文字とは異なる、妖術における「力ある言葉」であるソーサル・ロウが半球の天井から床の中心まで放射状に彫りこまれている。文字は発光と変色を繰り返し、赤・緑・青の三原色の光を天井から床まで供給しているように見える。
床の中心にあるのは作戦室と同じ「砂の箱庭」を小さくしたものが設置されている――地球儀のような形をしたそれには沸騰する用途の知れない液体が入れられ、シリンダーや、明滅を繰り返すトラペゾヘドロン(魔族が棲む深海域のみで産出される鉱石。妖術の力を高める用途で魔族文明内では広く使われている。)が金属器に嵌められ幾つも接続されている。
その装置を取り囲むように設置された大きな妖術球の間には幾人ものソーサラーが様々な作業をこなしている。
妖術球に向かい呪文を唱える者。「砂の箱庭」と妖術球を交互に確認しながら手に持った巻物に何かを筆記し続けるもの。
壁に彫りこまれたソーサル・ロウの光の流れを監視し、定期的に何らかの呪文を吹き込む者。
ソーサラーたちの眼にはこれから起こる「結果」への期待と不安が入り混じり、「静寂した興奮」とも呼ぶべき二律背反な空気が漂っている。
そんな空気の中を、魔族の少年――魔族軍第四軍団“ローレライ”を率いるプシュケが跳ねるように駆け回る。
「そこっ!しっかりとマナの供給率を確認してっ、100目盛りごとにトラペゾヘドロンを交換して」
『了解です』
「筆記班から数名!ソーサル・ロウ持続班のサポートに入りなさい。あー、タスク計測チーム、自動筆記に切り替えて回りなさい、早急にっ!」
『プシュケ様!作戦室本邦から“スルト”の行動に対しての説明要求が来ています!』
「今それどころじゃない!追い出しといてっ!」
四方から飛ぶ報告に、矢継ぎ早に指示を飛ばすプシュケは間違いなくこの奇妙な空間の主だ。
普段のおどおどした感もなく、魔王チヒロの艶かしい仕草に翻弄される少年の表情はそこにはない。熱心な研究者。或いは大衆の心を動かし、扇動するアジテーター。
その一面はプシュケという魔族が、決して只の気弱そうな少年ではないと雄弁に物語っている。
『案件Yと“スルト”が接触!戦闘がはじまります!』
通信役のソーサラーが妖術球から身体を離し叫ぶ。それを聞いてプシュケが大きく頷いた。
「よしっ、それでは各員計測を開始――余すことなく、一粒残さず、一滴残さず、何もかも精査しろっ!」
『了解!計測開始』
『計測開始』
『ソーサル・ロウのフル供給完了!いけます!』
“ローレライ”のソーサラーたちがプシュケの号令に応える。多種多様な形態の魔族達のその全ての眼が、中心に鎮座する「砂の箱庭」の再現された立体地図を注視し、その全ての眼が遥か遠い「上」の大地。魔族にとっての奪われた故郷で繰り広げられる光景を焼きつけんとしている。
メルカトル大砂海入り口の村、ドンテカ。
炎の海。堆積する瓦礫の上。そこに佇む「悪魔」と“スルト”
彼らが長年待ち望んだ夢の第1歩。
プシュケが朗々と、興奮を滲ませながら発言する。
「勇者を、勇者のすべてを、解体してやるんだ」
勇者。憎き「自分たちの」神を海の底に縛りつけ、両目を潰した邪悪な神ドンナーに遣わされた魔族にとって最低最悪の悪魔。
卑劣な人間たちの軍勢を率いて何度魔族を敗退させたことか数知れない。人でありながら人ではなく、容易に俗人に紛れる恐るべき“兵器”
それに対抗する為に特別に編成されたのが第四軍団“ローレライ”だ。
魔族の歴史の中でも軍団の歴史は浅く、プシュケが1代目だ。
魔族軍を構成する4大軍団は永きにわたる人間との戦いの中で幾度も壊滅し、統括する魔族さえも変わっている。
プシュケと“ニドヘグ”の老獪な参謀ウーフェアネスを除く2軍団長は、魔族内で実力が認められて新しく選ばれた者達だ。
もっとも“レヴィアタン”デアシュと“リンドブルム”魔戦士長ルナティークは、プシュケより階級も能力も生きている年月さえ優っているから立場的にはプシュケが一番下だ。
それに加えて、これまでに一度も本来の目的である勇者への対抗という任務をこなせていない。
一応は魔族軍全体の諜報部隊として、人の都市に紛れ込んで情報を得ることで貢献はしているが――その本分は“研究”だ。
達成不可能な目標を、未知の領域にメスを入れること、新たな概念を創造し配給すること、研究。
勇者の弱点、或いは対抗措置を見つけ、創りだすことが彼らの真にやりたかったことだ。
先代の――勇者に殺されてしまったものたちは不幸だった。当代の国王は過去の王とは根幹から「違う」
力に優れているだけでなく、統治に必要な才能だけでなく、驕り高ぶらない決して油断しない「理性」と「慎重さ」が存在している。
これまでの王達はあくまでも正面から、力で押し潰すことしか考えなかった。大規模な諜報作戦やスラッド兵たちを運用した浸透作戦。あの王たる少女がどれだけ魔族全体の敗戦続きで呆けた頭を醒ましてくれたことだろう!
銜えてあの恐るべき力――――ミズガルズの再来と言っていいのかもしれない。
(やれる、やれるぞ)
プシュケの興奮まじりの思考は、今の魔族軍全体の空気を反映したものだった。
『月』の暦1065年
天候:晴れ 8月24日
2時27分
ドンテカ外れ――燃えさかる炎の中
火は、恐ろしいものである。
触れたものを全てその舌で舐め上げ、尾で巻きつき、燃焼させる。火は火を産み、新たな標的を求めて空に、大地に、酸素を喰らいながら際限なく領土の拡大を続ける。
大きく育った火にはなにものも無力だ。
しかし、火は人にとって、文明の中で生きる全ての人間にとって、かけがえのない隣人でもある。
自分の身の回りにあるものを思い浮べてみればいい。
火の明かりがなければ夜は碌に本を読むこともできない。
火の暖かさがなければ冬の間をずっと凍えて過ごさなければいけない。
火の熱さがなければどんな腕利きの鍛冶屋でさえ剣の1本も打つことが出来ない。
火は素晴らしいものだろう、人の生活を豊かにしている。常にそこに居るだけで暖かさを与えてくれる恋人のような隣人。それが火。
だからといって――火に全てを委ねてはいけない。火は責任ある誰かに制御されている限り従順だが、一度人の手を離れ口輪を解き放たれれば、たちまち凶悪な獣と化す。どんな神話も、どんな英雄録にも記述されていない、名前の与えられていない怪物。
命あるものを、無垢な欲求のままそのあぎとに放り込む不老の怪物。それが火。
……火の権化のような巨人が、白髪の少女ユノ・ユビキタスと対峙している。
この大陸には、現在は巨人という種族は存在しないと考えられている。
魔族や危険な海獣に遮られ人が渡ることが出来ない離れ島や、開拓されていない外の世界には存在しているかもしれないが、この大陸ではドンナーとミズカルズが始めた世界を2つに割った大戦争のさなかに絶滅したものと考えられている。
詳しい話は知らないがドンナーとミズガルズの戦争に巻き込まれる形で参加していたのだという。
本来は、ドンナーとミズガルズがこの世界に来る前から暮していたらしい。
余所者の戦争に平穏を奪われた哀れな種族――どこかで聞いたような話だ。
おおよその巨人は、30ラウンから200ラウン程度の大きさを持ち、肉体は頑健かつ強靱で、精霊と強く結びつき、息吹だけで強風を起こし、拳で大地を鳴動させ、流す涙は雨となり、その亡骸は巨大な樹木となる。
大陸に点在する三大樹――ランバルディアの「始世樹」、龍族が棲まう「龍の巣」、パルメキアの僧侶たちが管理する「鉄の樹」、その全てが偉大な巨人の亡骸だという。
亡骸が変じた樹には不思議な力が宿っており、「始世樹」には人の才覚を見抜き王を選別する力が、「龍の巣」にはマナを生み出す力が、「鉄の樹」にはあらゆる呪いを打ち破る力がある。
彼らは偉大だ、そうユノは思う。
亡骸になってさえ、関係のない誰かに奉仕している。
(私だったらきっと、毒とか瘴気を撒き散らす樹になっていたろうな)
ふ、と口元を笑みに歪め、視線だけは眼前の“炎の巨人”を見据える。
この巨人は贋物だ。ただ図体が大きいだけの只の人。いや、やはり魔族か。
それにしては――造形が人間に似過ぎている。魔族はごく高位の者を除けば異形だ。海の生物と結びついて深海で生きながらえているのだから、それは仕方がない。
優男とも表現できる双眸を怒りと笑いに染め、ただ一点。ユノに注視している。
弱点である「黄色く光るもの」は少なくとも露出した部分にはない。高位な魔族ならば体内にある事の方が多い。
幸いなことにユノの背後にいるアリカへは関心が向かないらしい。もっとも、これからこの炎のリングで行われる戦いで気絶したアリカは無事では済まないだろう。
巨人から向かって右に、炎の海の内円に沿うように歩き出す。
意識がこちらに向いているのなら、必ず等距離に動くだろう。剣と剣の間合いだ。
ユノがだらりと下げた直剣のふくよかな曲線を描く刃と、巨人が構えた紋章の描かれた儀礼刀の剣身が火のゆらめきを無感動に照らす。
燃え盛る炎の中、ユノは口を開く。
「ねえ、大切なものを奪われた気持ちって知ってる?」
巨人は答えず、ただ凍りついた怒りと笑みを浮かべて、ユノと対面に動く。
姿勢を低く保ったその姿勢と、地面から足を離さず擦るように身体を移動させる足運びはユノにとっても馴染み深いものだ。召還された当初、騎士団団長イスラに叩きつけるように教えられた、前ランバルディア時代から続く由緒正しい古代剣闘術。
限られた空間で、一対一で決闘するのに向いたスタイルだ。
ユノの剣技は戦場の混沌としたフィールドの中で歪曲し、原型は無くなっている。
今イスラがユノの戦い方を見れば、こっぴどくどやされることだろう。
死にたいのか――――と。
「裏切られたり、燃やされたり、誰かを傷つけられたり」
なんの拍子もなく、つま先で瓦礫を蹴りとばし、巨人へと肉薄する。ニザヴェリルの魔術銃の銃口を前に向け、右手の剣をだらりと下げたままの特異なスタイル。
ぎしぃっ、と奥歯の歯が鳴るのをユノは聞いていた。
「すっごく痛いよ?」
鉄と鉄が衝突し、強く振動した轟音が、全ての音を掻き消す。
魔術銃から放たれたのは、魔族用の大型弾筒。篭められた魔術は“炸裂”
空気を圧縮し、一気に爆発させることで衝撃波を発生させるポピュラーな攻撃魔術だ。描くルーン文字の量が増すごとに威力は重く、鋭くなる。
摩擦で起きた白煙で綺麗な直線を描きながら“炸裂”が巨人の胸に突き刺さる。鉄の筒の先端が肉に刺さる音の後に、耳をつんざく破裂音と共に筒の内側の空気が爆散し、巨人の上半身を大きく揺らす。
効果の確認を待たず、ユノは上体を倒れこむように低く、巨人に向かって駆け出す。
瓦礫が踏み砕かれる。
「シィッ――!!」
懐に飛び込んだユノは素早く巨人の膝を剣で殴打する。突撃の勢いを利用したダッシュスラッシュ。重い鈍器のような刃が、胸に空気の爆裂を喰らって上半身を反り返らせた巨人の体勢をさらに崩す。“勇者の加護”によって必要以上に強化された腕力はきっと龍族とも力比べが出来る。ユノは力の勇者、6人の勇者で「単純な殴り合い」で一番強い。
駄目押しに巨人の無防備な鳩尾に至近距離から“炸裂”を叩き込む。
トップブレイク式の機構からしゃりん、と涼やかな音を響かせて鉄製のリングが飛び出す。赤く焼けたそれは地面に落ち、火花を散らす。大型の魔術円筒の中ほどに嵌められた反動軽減の“重し”だ。発射される円筒と共に加速し、銃口から出る直前に円筒から分離し、発射された銃身の先端部に残る。重い鉄製のリングは発射の衝撃を相殺し、銃身のブレを少なくする。役目を終えたリングは自動的に中折れ機構を作動させ、飛び出してくる仕掛けだ。
本来ならここで新しい魔術円筒を詰めるところだが――宙に浮いた巨人の肢体が大きく漲るのをユノは見逃さなかった。
(反撃が、くる)
倒れこむように、姿勢を低くする。
ぼおお、と炎が燃えあがる音が頭のすぐ上を通り抜けた。同時に押さえつけられるような熱風。髪の毛が焼ける匂いがした。
ちら、と視線を上げると巨人が中空で大きく剣を振ったのがわかった。大きな図体に見合わず軽業師のように身軽だ。
片手で大きく振った剣は炎を纏い、ユノの頭上を薙いだことが夜の闇に残った炎の残滓でわかった――炎の剣。ルーンを刻んだか、魔法で形成したか、魔族が持つ技術では創れないタイプの武器。
炎の剣の剣先がぶれる。
「ふっ!」
でたらめのように――炎の暴風がユノに襲い掛かる。斬り上げ、打ち下ろし、薙ぎ払い、斬り返し、おおよそ剣の基本的な技が炎熱を纏って振るわれる。肌に感じる熱さと熱風での推測だが、当たれば一溜まりもない。刃が身体に触れたが最後、燃えて炭になり、灰になり塵芥に還るだろう、これはそんな“炎”だ。
ナオキに与えられた魔族殺しの宝剣――ラーヴァテインによく似ている。
顔に吹き付ける熱と風に顔を顰めながら、ユノは叫びながらとびすさる。
瓦礫を踏み砕く感触。
「いつから魔族が火を使うようになったわけ?おまえたちの大嫌いなものでしょう」
返答はなく、ユノは戦闘を継続する。左手の篭手を盾に、顔の前に翳し、直剣で炎の剣の剣先を払う。巨人は予想通りの豪腕。剣速は相当早く、魔法の炎と併せて大きな脅威だ。
しかし技巧自体は大味で、守りに徹して立ち回れば捌ききれないこともない。
だがそう打ち合い続けることも出来ない。剣圧で負けるのが先か、ユノの剣が熱で溶けて使えなくなるのが先か。
「ワタシハ・・・・・・復讐者ダ」
「――何?」
「サキホドノ問イニ答エテヤル!」
くぐもってはいるがーー意外なほど凛々しい声で巨人がそう叫ぶ。その相貌からは笑いは消えており、燃え滾るような怒りとはっきりと“こちら”へ指向性をもった憎しみがある。それはユノが嫌というほど知っている「真摯」に卑怯な手段を執る人間の顔だ。
その眼光を受けて、ユノは呼吸がし辛くなる。
「ワタシハ全テヲ奪ワレタゾ、貴様ニッ!!」
「……!」
巨人の図体が沈み、炎の剣が大きく薙ぎ払われる。膝を立て、足を伸ばした姿勢。足払い。ユノはその一撃を跳躍して回避する。着地先は巨人の肩。大きく踏み込み、背後へと回ると大きく転進。その背中に刃を突き立てる。
筋肉を刺し貫く繊維の感触はなく、剣先に当たる固い――石のような物。
それは骨でもなく内蔵でもない。およそ生物の体内にありえない「何か」
背中から深く肺まで刺し貫かれているというのに、巨人は一切の痛痒すら見せず、背後へと回ったユノに振り向く。
炎の剣が振るわれる。
「彼女ハワタシの全テダッタ!」
ぶおっ、と炎の波が目の前を横切る。ユノは後退する。
「貴様に奪ワレタ!!」
振るわれる炎の勢いが増している。
「モウ彼女はワタシニ微笑マナイ!触レ合ウコトモデキナイ!貴様ガ!貴様ガアアアアアアアアアア!!!!!!!」
巨人が正気を失ったように咆哮する。
眼の水分が熱に奪われたのか、眼を開けているのが辛い。狭まる視界の中、必死に炎の剣を回避する。身体を斜めに傾け、頭を下げ、足を狙った一撃を跳躍してやり過ごし、まるで砲弾のような威力の刺突を転がってなんとか避ける。
(熱い、まるで窯の中に居るみたい)
巨人の狂乱的な怒りの沸騰に呼応するように、周囲の温度が上がっているのを感じた。熱いというより痛い。ちりちりと顔の産毛が焼ける音がする。
この巨人の近くにこれ以上いるのは危険だ。
口の中でユノは素早く言葉を唱える。
“ドンナーは雷を纏い駆け出した 迅い 迅い 我の眼に影すら視得ず、矢のごとき疾風 もはや誰にも止められぬ”
古代語のワーズ・ワースを紡ぎ『世界の停止』を発動する。ユノを除くすべてのものが緩やかに速度を落とし、限りなく静止する。音も光もないユノと巨人だけの世界が出来上がる――6歩しか動いてはいけないというルールの元に成立する、いかさまの世界。
6歩以上動けばどうなるか?それは誰にもわからない。
(身体が、きついな)
発動した力の負荷が身体に重くのしかかる。“勇者の加護”は世界の眼を誤魔化してズルをすること。人が事象に働きかけるのに必要なものの一般的な対価――マナを必要とするわけではないが、力を行使するたびに確実に何かが身体から抜け落ちているのがわかる。戦場でやむおえず加護の力を乱用したことがあったが、そのあとは全力で疾走したあとのように疲れきり指1本動かせなくなった。連続で使用することは危険だ。
勇者であった。戦場の「向月ゆの」にはたくさんの味方が居て、疲弊しきったユノを助けてくれたが――今はそんな姿を晒せばどうなるか、想像しなくともわかる。
痛む身体に奥歯を噛み締め、6歩の逃避行にユノは移る。
1歩、まずはこの巨人の周囲から離れなければならない。
勢いをつけてその場から大きくジャンプする。暗闇の中、瓦礫を踏む感触。
片足をつくと2歩目にカウントされてしまうので、間髪入れずに次の2歩目を踏み出す。
静止した巨人のすぐ前に着地する。
大きく剣を振りかぶった姿勢の巨人を、ユノは観察する。全身に炎を纏い、古代の貴族のような姿をした炎髪の巨人。その端正な顔に浮かぶ怒りをユノはしっかりと見据える。歯を食いしばり、顔中の筋肉を歪めて爛々と光る眼を憎しみで満たしている。
その顔から視線を外し、少し離れた瓦礫の上に横たわるアリカを見る。
「復讐者、ね」
3歩、巨人の背後まで移動する。
この巨人が発する熱の範囲はおおよそ30ラウンの円周。炎の剣を捌くのに必死で気づかなかったが、相当な高熱だったらしい。巨人を中心とした30ラウンの円内の地面や瓦礫がことごとく焼け爛れ、酒の瓶などの硝子は飴のようにぐにゃりと曲がっている。ただの人間であれば大火傷で動けなくなっていただろう。
巨人の方に身体の向きを変える。両足をつき、これで4歩目。
「アリカに出会う前なら、殺されてもいいと思ってたよ」
静止した巨人に何も語らない。目の前の“仇”を殺すために剣を振るっている。
言葉を聞かせるつもりはない。残り2歩の世界の中での独白。
「殺されてもいい」というのは――偽らざる本心だった。
ユノはこれまで「復讐者」と名乗る人間と何度も対峙したことがある。騎士の男。騎士の女。魔術師の老人。魔術師の老婆。平民に扮した少年や少女もいたか――みんな殺したか、不具にして二度と剣など握れないようにしてやった。
老若男女、様々なその人々の眼には同じ色彩が宿っていた。怒り、憎しみ、憎悪、嫌悪、義憤、悲しみ、虚無感。それらの感情を鍋で火にかけて煮込んだようなどす黒い色。
彼らの多くは復讐がどういったものかを知っていた。復讐は何も生まない非生産的な行為だ。名誉も利益も発生せず、ただ殺された者の恨みを晴らすという“儀式”と、大切なものが殺され、傷ついた己の心を和らげる為にある自己満足――無駄だ。
復讐したとしても、死者は還ってこない。ユノは殺されても死者を生き返らせることは出来ない。もし死骸が残っていればユノの知りえない神秘的な手段で生き返らせることが出来たかもしれないが、どのみち過去は変えられない。
だからユノはせめて、残された人たちに殺されることでその怒りを晴らさせてもいいかと思った――アリカに逢う前の“契約”に疲れ果てて、ただこの世界からの解放を望んでいた当時の浅はかで傲慢な考えだ。騎士たちの遺族に向き合っているようで、自分のことしか考えていない。
「今は、殺されてあげない」
「向月ゆの」はもう「この世界」の住人だ。勇者というゲストではなく、地位も名誉もない漂泊者として生きた2年間でこちらに馴染んでしまった。
セリアという友人も、アリカという「守るべき人」も出来た。
だから、自衛する。自分と自分の大切に思うものを守る。自分のために。
「私を殺したいというのなら」
かちん、と音を立て、魔術銃の銃身が2つに折れる。
歪みひとつない綺麗な円を描く砲身が黒々とした口を開ける。そこにユノの手で放り込まれるのは先程発射されたものと同様、頑強極まりない魔族を殺すために大型化された魔術円筒。
刻まれたルーンが、光を失った世界の中で唯一かがやく。
魔術銃を肩につけるように構える。身体の重心を低くし、右足を前へ。
これで5歩だ。
「……すっごく痛いよ?」
左足の踵で6歩目を踏み、世界に時間を取り戻す。
急速に世界が息をふきかえし、光が戻る。木材と土が焼けた煙のにおいがつんと鼻につく。
巨人は目の前からユノが消失したことに動揺したようだが、すぐに自身に迫る危機を察知したらしい。
敵を見失ったときに最も警戒するべき箇所――背後に剣を振りながら顔を向ける。
そこがユノのねらいだ。
「アアアアアッ!?」
巨人が大きな悲鳴をあげる。しかしすぐにそれは言葉にならなくなる。
振り向いた顔の頬に突き刺さったのは“加速”を得て砲弾と化した魔術円筒だ。
刻まれた魔術ルーンは“貫通”と呼ばれる魔術。本来は木の壁を砕く程度の威力の空気の槍を作る魔術だ。発動に必要なルーン文字も少なく、人間や低級モンスターにはちょうどいいが魔族に対抗するには心もとない、そんな魔術だ。
それが鉄製の円筒に刻まれるとどうなるか?――魔術ルーンは言葉を連ねて綴ることによって効果を増す。円筒のつるりとした表面にはびっしりと同じ文字が円周に沿って刻まれている。
着弾と同時に刻まれた“貫通”が目を醒ます。
「月までフッとべ!」
その原理はスペースシャトル打ち上げと同じ原理だ。
シャトルは宇宙に上昇するのに自分の力ではなく、外部の燃料タンクと補助ロケットブースターによって行う。そしてその後起動操縦システムの操作で噴射されたブースターで宇宙を飛ぶ。
燃料タンクは魔術銃で補助ブースターは内側螺旋状の“加速”だ。
そして、発射された魔術円筒に刻まれた“貫通”が“飛ぶため”のブースター。
「――――!!!!??」
再び巨人が悲鳴をあげる。
着弾し、失速してあとは地面に落ちるだけの円筒が再加速する。砲弾が自分の意思を持ってパンチしたようなものだ。
強力な頭部への打撃に巨人が完全に身体のコントロールを失う。危険な角度まで曲がった頭につられて上体が前にのけぞり、司令塔を揺さぶられて制御がきかなくなった下半身が大地から離れる。ユノから視ると上体をひねり、こちらに顔を向けたまま前のめりに回転している。
ユノはその巨躯が地面につく前に、銃をかなぐり捨てて白兵戦に移る。
瓦礫を一足飛びで越え、体重移動の勢いを乗せて鉄篭手で殴りかかる。クリーンヒット。宙にういた巨人の鳩尾に篭手が突き刺さる。みしり、と骨のきしみと共に、身体の中の何かが砕けるのを感じた――内臓の感触ではない。石か金属だ。
続けて素早く拳を引き、再度殴打を繰りかえす。フック気味のストレート。駄目押しに、踏み込みながら肘で巨人の背中を追撃する。いずれも低級の石ゴーレムなら砕ききれる威力を篭めている。
「グウウウウッ!!!」
巨人が手をつき、なんとか立ち上がるがそれ以上の行動をユノが許さない。立ち上がった巨人の懐に入り込み、流れるように剣の一撃を叩き込み、脇を抜けて離脱。
踵を返し、一撃を入れて再度離脱――ヒットアンドアウェイ。足を止めて打ち合うことは避ける。この巨人は恐らく「周囲の熱を操る力のようなもの」を持っている。
近くに、少なくとも30ラウン圏内に長くいることは危険だ。
怒り狂った巨人はなんとかユノの姿を捉えようと炎の剣を振るうが、その一撃は易々と避けられる。頭部と身体へのダメージが大きく、せん妄状態でやみくもに振るった刃は目にみえて鈍っている。
ユノが巨人の脇を駆け抜けるたび、その彫像のような肉体に斬撃が奔る。赤みを帯びた白磁のような肌に裂傷が生じ、そこから魔族特有の蒼い血液や脂肪ではなく、赤い光源が見え隠れしている。
(この巨人、魔族でなければ生物でもない――機械みたいなもの?)
巨人の振るう炎の刃を転がって避けながらユノはある程度この巨人の正体を推測する。
魔族と人間は神話を紐解けばわかるとおり、全くの別種族というわけではない。海の生物との同化具合にもよるが、上階級の魔族たちはほとんど人間と同じ身体の仕組みをしている。脳。そこから続く神経。体中を巡る血管。骨。筋肉。肺や肝臓をはじめとする内蔵も同じだ――唯一、心臓、それに類する器官だけが「黄色く輝くもの」に置き換わっているらしい。
それに対して、この巨人は違う。これは生物ではない。
幾度か直接ダメージを――拳で殴った手ごたえなどで判断するとこの巨人の身体の中を占めているものは“石“だ。筋肉は繊維だから砕けないし、内蔵は破裂という表現が近く、骨の感触はもっと軽い。展性(物体が圧力や打撃によって破壊されることなく変形する性質)が極めて少なく、硬度に富む物体だ。
この世界の鉱物に関してそれほど詳しくないユノは石を思い浮かべるほかない。
(その“石”を砕いてもコイツは痛がってる様子もない――とすればこれは弱点じゃない?)
「ナ・メ・ル・ナアアアアアアアアアアアアアアアアアァァァッ!!!!!」
怒りの咆哮と共に振りおろされる剣を避ける。ぼけた頭が戻ってきたのか、剣の鋭さが戻っている。
ユノはその一撃を避け、大きく飛び上がり後ろに下がる。長年の相棒であるショートソードがもう駄目になっていた。そうとう丈夫な造りの剣だったが巨人の発する熱で刃が歪みはじめている。あの炎の剣とはもう打ち合えないだろう。腰にもう1本短剣を差しているがこれは打ち合うタイプの剣ではない。
振るわれる炎の波を避け、後退する。
捨てた銃を拾いたかったが無理そうだ。巨人は身体全体から気炎のようなものを立ちのぼらせ、こちらに接近してくる。
追撃を鈍らせるためレザーアーマーの肩口ポケットに収納されたスローイングダガーを投擲する。加護の力を受け、銃弾のような速度で投げられた刃は人ならば即死――眉間や首、心臓の箇所に深く突き立ったが効果は見られない。続けて眼と足を狙って投擲するが、剣のひと薙ぎで中空で焼け、溶けて尽きる。
このままではいけない、じり貧だ。
(時間を稼ごう)
必要なのは、ヤツを接近させないこと。
そのまま幾本かダガーを投擲しながらアリカの寝かされた場所まで下がる。巨人にアリカの存在を認識させるのは危険だが、考えたプランを実行するにはアリカに掛けられたユノのポンチョ――その裏側に隠された武器の幾つかが必要だ。
「もう少し我慢してね、アリカ」
意識のないアリカに話しかけ、折れた骨に障らないようにポンチョを剥き、平らな瓦礫の上に素早く広げる――ポンチョの内側には頑丈に革で補強されたループ。そこに右から順に組み立て式のリカーブボウ、ルビィと戦ったときに使った鉄鎖の投網、反しのついた二対の短く柄を調整されたトマホーク、腰のポーチに入りきらない数珠繋ぎの魔術円筒、色々な用途に使えるラトゥカ(賢者の都パルメキアのあるギムレー島に自生するつる性植物。細く弾性に優れ頑丈で、日用品から船の建材まで幅広い需要を持つ。代表的な交易品としてカスツールから大陸に流通している。)で編まれたロープなどが吊り下げられている。
ユノは迷うことなくトマホークとロープの束を手に取り、アリカにポンチョを掛け直す。
そうしている内にも巨人は大股でこちらに近づいてきている――歩幅から予想して5歩。余裕を感じているのか、怒りの中に嘲りの笑いが浮かんでいる。攻撃が通用しないことへの優越感か、それともユノの後退を怯えと受け取ったか、いずれにせよ全力で走ってこないことは幸運だ。
ロープの結束を解き、見当をつけた長さで切り裂く――ここまでで2歩。
トマホークの木柄に備え付けられた鉄製のリングにロープを通し、固く結ぶ。
巨人が剣を振りかぶるのが見えた――このまま避けなければ、ユノは焼死体になる。
片方の斧にも手早く結び、両手に掲げるように持つ。
巨人が唇を歪ませ、嗤う。
「ドンナコトヲシヨウト、無駄ダ」
「ぎゃあぎゃあうるさい」
渾身の力を篭めてトマホークを投げる。
唸りを響かせながら投げられたトマホークは正面の巨人の両脇を大きく通り抜け――炎の海を越えたところに立っていた燃えかけの潅木に勢いよく巻きつき、反しのついた斧刃が幹に深く突き刺さる。もう片方も同様だ。
それがもし「攻撃」だとしたのなら、大失敗もいいところだ。どんなに争いと縁のない幸せ者であろうと、自分を殺そうと目の前で剣を振りかぶる敵に向かって斧でも石でも投げつけるのが正解だと思うだろう。
しかしユノが行ったのは「攻撃」ではない、サボタージュだ。
「ヌゥッ!?」
巨人が大きくのけぞる――胴体に強く喰いこんだロープのせいだ。
500ラウン離れた潅木に突き刺さる威力で投げられたトマホーク。それに結ばれたロープは恐るべき速度で「直線になろうとする」
その中間に何があろうとお構いなしだ。
40ラウン近い巨体が浮かぶ。投石器から発射される砲丸のようだ。
炎の海を越えた瓦礫の上に勢いよく巨人が墜落する。粉塵が勢いよく舞い上がり、ぱっ、と火の粉が夜の空を焦がした。
(かなりダメージは大きいはず、しばらく時間を稼げた)
ユノはプランの成功に確信の笑みを浮かべ、今さら訪れた失血のよろめきと火傷の痛みに声を漏らす。
致命傷ではない限り“勇者の加護”はユノを可能な限り生かしてくれるが、痛いものは痛い。
重い身体を引きずり、再びアリカの横に座る。
とにかく――あの巨人が目に付けない場所に隠したかった。出来るだけ遠い方がいい。まだあの巨人の倒し方も力の全貌も見えてない。はじめにユノとスラッド兵の一団を丸ごと吹き飛ばした巨大な閃光と炎。頑丈な家の材木と建材が盾になり2人とも奇跡的に助かったが、奇跡に二度目はない。
荒い息を整え、アリカの応急手当を行う。
腰のポーチの中から包帯を取り出し、ナイフで裂く。折れた骨が肺に突き刺さらないよう固定する必要があった。意識のないアリカを仰向けに寝かせ、胸の下あたり――肋骨の折れている患部の上に軽い木の板をのせる。当て木だ。
「許せない、よね」
呟きながら、包帯で当て木を固定する。
ユノの黒い真珠のような瞳に炎に包まれた家の亡骸が映る。
「何かもかも燃えちゃったよ、服も、金も、酒も、私の好きな青オリーブの塩漬けの瓶も、アリカがはじめた菜園も、蔓棚も、私が作ってあげたブロンズの如雨露も……みんなみんな」
俯いたユノの白い頭が震える。ばきっ、と音がした――鉄篭手を嵌めた左手が瓦礫の破片を握りつぶした音だ。砕いた後も掌は小刻みに震えながら力を篭め、破片を砂粒にかえていく。
そしてその無骨な篭手に包まれた手で涙の跡の残るアリカの頬を撫で、優しくその身体を抱き、火の気のない――燃えた自分の家の亡骸がない場所を探して歩き出した。
『月』の暦1065年
天候:晴れ 8月24日
2時20分
ドンテカ、死体置き場と化した役場の前
―――――――西の空が、紅く燃え上がった。
その事態は周囲を取り囲む9匹の“兵士”にとって全く予想していない出来事のようだった。
追い詰められて殺される寸前、刹那に燃えあがった空を呆然と見つめていたルビィとフリード、そしてその背中に背負われたスコルピオは瞬時にそれを好機と見てとった。
「ルビィ!」
「フリード!突破するぞ!」
「……!」
ルビィが目の前で立ち尽くした“兵士”の懐に入り、ショーテルを眼球めがけて突き出す。対応が遅れた兵士は慌てて後退しようとするが、強烈な炎の光に眼を潰されバランスを崩し転倒、馬乗りの形になったルビィに眼を刺され絶命する。
それに対して4匹の“兵士”が錐状の槍を振りかぶるが、それは迂闊な動きだった。
「隙あり」
『ッ!?』
耳元で聞こえた声にルビィに槍を向けていた“兵士”の1匹が弾かれたように振り向く。そこには金属音と共に押しつけられた冷たい虚ろがある。
兜の中の黄色く輝く瞳の瞳孔が窄まる。
どちゅ、と汚らしい破裂音が響く。フリードのピストルが火を噴いた音だ。
連続して起こった仲間の死に固まる“兵士”に時間を与えず、スコルピオの詠唱が紡がれる。
「エクスリブリス・コルタナ五編断章。ライトボール!」
『!!』
下にむけたタクト型の杖から光の球が撃ちだされる。地面にぶつかったそれは誰にも――眼を瞑り、顔を背けたルビィとフリード以外に動く暇を与えず破裂する。
強力な閃光が周囲に満ち、“兵士”たちが顔を覆って悲鳴をあげる。
魔族の多くは火と光に極端に弱い。これは古くから伝えられる魔族の弱点だ。
人間ならば数秒間目が眩む程度の閃光が強力な武器となる。
「よくやった!あとは寝てろッ!」
喜色満面に鋭い笑みを浮かべ、ルビィが駆ける。豹の如き跳躍。進路上にいた“兵士”がルビィの気配を感じ、身体を変化させて、触手を伸ばすがそれらは容易く切り裂かれる。
光が身体に影響を与えているのか、その動きは緩慢で力がない。
“兵士”の頭上にルビィの影が被さる。月をバックに、双剣を逆手に構えたその姿は蝙蝠の羽を広げた悪魔のようだ。
その気配に我を失った“兵士”は無骨なロングソードを片手に突進してくるフリードに反応が遅れる、致命的に。
踏み込みの勢いを利用して繰り出された刃のひと薙ぎが、上を見あげた“兵士”の首を殴りつけるように切り裂く。
首の半分以上を切断されて無事な生物などいない。筋肉が発達し、並の剣を通さない防御力を持つ魔族でさえそれは同じだ。蒼い血を夥しく撒き散らし、“兵士”がごぼごぼと苦悶をあげる――その叫びは三度押しつけられたピストルのゼロ距離射撃がすぐさま中断させる。
その間に地面に着地したルビィは態勢を低く疾走し、眼を抑えて呻きながら槍を振り回す“兵士”たちの群れを抜ける。ライトボールの光に慄いているうちに離脱しなければならない。光の影響が弱まれば元の木阿弥だ。
フリードもマナ切れでぐったりとしたスコルピオをしっかりと背負いなおし追従する。
向かう先は西。ユノ・ユビキタスの家だ。
「…………何が起こっている?」
残りの“兵士”を振り切り、ユノ・ユビキタスの家の近くまで近づいたルビィは呆然と呟いた。
まるで怒り狂った龍が炎の吐息で一切合財根こそぎ燃やしていった後のようだ。
ユノ・ユビキタス邸は完全に焼失、いや爆裂四散といった表現の方が正しいか――敷地を仕切っていただろう柵だけがここに家が存在していたことをむなしく誇示している。
家の壁だの柱だのが半ば炭と化した破片となりそこらじゅうに散らばっている。
屋根の一部だっただろう木の板が地面に深く突き刺さっているのが爆発の威力を物語っていた。
「……火薬庫が爆発でもしたのか?」
「そのワリには硝石も硫黄の匂いもしませんけどね」
ルビィの横からにゅ、とスコルピオが顔を突き出す。
「普通個人の家に火薬庫はないと思うなぁ……」
「うるさいな、言ってみただけだ。」
いちいち細かい魔法使いと副官の一言にふん、と鼻を鳴らしてルビィは元ユノ・ユビキタス邸に近づく。炎は酸素を喰らいながら燃焼し、周囲を煌々と照らしている。
無事でいるか怪しいが――とにかくユノとアリカという女性を探さなければいけなかった。焦りや動揺は注意力を喪失する。そうは言っても「勇者」が「死んでしまう」なんて考えるだけで恐ろしい気分になった。
ルビィにとって、勇者とは憧れ以上の存在だ。
人の誰よりも強く、人を導き、人の誰よりも危険な先頭に立ち、人の為に魔と戦う。それも何の思惑もなく、ただただ純然に世界を救う為に戦う。ルビィにはどれだけ頑張っても無理な相談だ――自分は弱く、人望もない。いつも先頭に立つことを心がけているが、その側には必ずフリードという「保護者」がいる。
魔族と戦うにしたって、1人では恐怖で足が竦んでしまうだろう。ドンテカの村内は2人がいるから切り抜けられたのだ。
自分に出来ないこと、自分には無いものを持っている“勇者”はルビィはとても羨ましい。決して埋められない力の溝というのは嫉妬を呼び起こすものだが――圧倒的な雲の上の存在に対してはそんな感情は起こらない。
だからこそ――ルビィは「ユノ・ユビキタス」という存在を人一倍憎んでいる。
勇者なのに罪を犯し、自分の大切な姉を永遠に奪い、償いもせずのうのうと生きている。
ルビィにとって姉のダイナもまた、自慢の姉であると同時に勇者と同じ羨望の対象だった。自分と違い知性と感性に優れ、歌で人を引きつける姉。剣の腕前は当時のランバルディア軍のなかでも五本の指に入り、勇者のそばに並びたち魔王に立ち向かう神の戦士団“エインヘリャル”の一員として選ばれる。
それをあの勇者は奪った。ルビィの大切な姉を、羨望の対象を奪った。
それも“勇者”という同じくらい憧れている存在の姿をして。
大切なものが、大切なものを奪う。これは堪えた。ダイナの死を知り、その加害者を知った時の荒れようをルビィは自分でも憶えている。両親や家の従者、フリードにも随分と迷惑をかけてしまった。
結局それは心に「復讐」という目標を得て安定した――姉を殺し、勇者の尊厳を汚した唾棄すべき愚者を斃す。それがルビィを騎士隊長という役職へと上げる原動力となったのだ。
守護騎士団の隊長となれば王族との接点も増える。そうすれば勇者の情報を知る機会も増えるだろうと思ったからだ。
(だが、蓋を開けてみれば――)
勇者来訪の報を知り、城の庭を訪れたユノの姿を視て、いや、直接ユノ・ユビキタスという少女と関わってルビィの中の復讐心は少しその炎を小さくしてしまった。
自分でもその気分はよくわからない。“契約”が本当に成されていることを知ったからだろうか?勇者、というルビィが抱いていたイメージと大きくギャップがあったからだろうか?ただ戦いに疲れ果て病んだその精神を、剣で感じてしまったからだろうか?
分からない。それはルビィには本当によく分からなかった。
(ただ、そう、そうだ)
ルビィは城の庭で戦った時の、ユノの姿を思い出す。
“いい判断、ハナマルをあげましょう”
武器を隠したポンチョは風にはためかず、白髪のショートヘアだけが風に揺れている。
ルビィよりも齢が三才ほど年上だというのにその体格は弱弱しく。折れてしまいそうに見えた。左手に嵌めた奇妙な篭手が不釣合いだが、己の手のように馴染んでいる。
逆手にショーテルを構え、いつでも飛びかからんとしているルビィに対して、その構えは無防備に思えた。だらりと下げた右手の直剣と左手。普通の戦士にやられれば侮られているのかと激昂するとこだが――その立ち姿には一分の隙もない。
その姿にも戦慄を憶えたが、一番印象に残っているのはその顔だ。
何が楽しいのか、笑っている。かわいらしいとも表現できる造作の顔を皮肉げに歪めている。瞼の降りた黒の双眸。歪んだ口角。どこか少しだけ泣いているようにも見えた。
(そう、あの女は、あの時、泣いていたんだ)
涙こそ流れていなかったが、あの瞳は泣いていた。何かに疲れ、絶望し、後悔していたように見えた。
考えてみれば――馬鹿な話だ。
(結局、自分の気の迷いでしかないな)
顔に出さず、自嘲する。
ただそれでも、声に出して確認しておきたかった。
「……あいつを殺すのは、私だ、私なんだ」
「ルビィ?何か言った?」
フリードが不思議そうに呟く。ルビィの背後について死角をカバーしている。
「いや、なんでもない――とにかく勇者を探そう」
火の手はかなりのものだった。幸いユノの家付近は類焼物がほとんどなかったから彼女の家だけで済んでいるが、もしこれがドンテカの中心だと考えるとぞっとする。
火はどこまでも貪欲に、燃やせるものを自分の身体にくべている。
あたり一面が炎の海だ。
ルビィとフリードは舞い散る火の粉から顔を手で庇いながら家付近まで近づく。
まるで炎が行く手を阻む壁のように家の敷地に入らせない。
何か奇妙な力が働いているようだ、とスコルピオが呟いた。
「あぁ、ちょうどいいところに」
「!?」
どうするか、と考えあぐねていた時、炎の海の向こう側から声がした。
聞き覚えのある声だ。少女としてはハスキーだが、耳に艶やかな声音に、明瞭で淡々とした発音。ユノ・ユビキタスの声だ。
その声を聞いてルビィとフリードは安堵した。
「勇者か、無事そうでなにより……」
そう言いかけて、ルビィは眼を疑った。ユノと思しき人影は躊躇せず、なんの気負いもなく炎の海の中を歩いてきたのだ。
フリードがあとずさる。ばき、と瓦礫を踏み砕いて人影が実体と化す。
炎の海を越えてやってきたユノは――満身創痍だった。
全身から煙と、肉が焼ける嫌な臭いを立ち昇らせている。きれいな白髪はところどころ焦げ、僭称の“灰かぶり”を連想させた。顔の半分近くは火傷で膨れ、片目を半分閉じている。額からは血が流れている――穏やかな顔立ちは“それ”を全く意に介していないことがわかる。それがひどく不気味にルビィには思えた。
白のレザーアーマーは酷い有様で、ほとんど防具として機能していない。黒のアンダーウェアは血と灰が混じりあって死衣のようだ。
「ユノさん、その、腹、は?」
「うん?」
フリードが青ざめながら少女の腹を指差す。家の柱と思しき木片が脇腹を貫通している。かなり時間が立っているのか、血が夥しく流れたあとが着衣を黒く汚している。
炎で逆光になってよく分からなかったが、他にも太腿や肩に爆発で飛散した破片が突き刺さっていた。
「平気だよ、これくらい、はね」
「平気なわけがないでしょう!とにかく止血、いやまずはその木片を抜かないと!」
フリードの背から降りたスコルピオが慌ててユノに駆け寄る。マナ切れがまだ響いて足がふらついている。
「いいよ、そんなのは――ええと、名前、なんだっけ」
ユノは駆け寄ったスコルピオや呆然と見つめるルビィとフリードを置き去りにしたまま、その両腕で抱えた大きな「何か」をスコルピオに手渡そうとする。ユノのポンチョの筈だがアニマルハイド製のそれだけは綺麗なままだ。“耐火”のルーンでも織り込まれているのだろう。「何か」はそれに大事そうに包まれている。
自失して受け取ったスコルピオは尻餅をついた。感触は柔らかく、意外なほど重かったのだ。
それもそのはずだ、とどこか冷静な心地でフリードは納得した。それは話に聞いていた「ハーフリザードの女性」確か、名前はアリカ嬢――だったからだ。
服はぼろぼろなものの満身創痍のユノと違いこちらは無傷だ。ただ泣きつかれたように、涙の跡を頬に残して意識を失っている。
尻餅をついたスコルピオにフリードが駆け寄り、代わりに彼女を抱きかかえる。体温もあり、苦しげに吐息をついている。生きていた。
「お願いね、肋骨が折れてるから、乱暴に扱わないでね?」
平然と、ユノが言う。顔が逆光で見えづらいのがフリードには酷く怖かった。
それでもなんとかその畏怖を唾と一緒に飲み込み、フリードはなんとか発言する。
「ええ、はい、でもユノさんは、どちらへ?」
その問いに答えず、ユノは3人に顔を背け炎の向こう側を見やる。
しばらくして、ぽつりと呟く。
「火を、消しにいくの」
「……火?」
聞き返せざる得なかった。
確かにそれは、理にかなった行動だろう。誰だって自分の家が燃えれば火を消そうと努力する。
だがフリードにはユノがそういったニュアンスで発言しているように見えなかった。
まるで、そう、何か生きたものを命どころかその存在から抹消しようとしているような――怒りを通り越した感情が見えた。
沈静しているわけではない。狂っているわけではない。
それをなんと形容していいのか、フリードは詩人でも文学者でもないから分からない。
ただぼんやりと脳裏に浮かんだイメージとして、幼少期に、アンテローズ領の山の中で一度だけみた夜の湖。木立で月の光にも照らされず、しかしどこからかの得体の知れない光源でぬるりとした感触できらめく黒い水面。
あの逃げ出したいのに背をむければ水面を割って白い女の手でも飛び出してきそうな、気の迷いで素足をちょんと水面に点ければ最期。水面下に潜む得体の知れない怪物が嬉々としてあぎとを開きそうな――脅迫めいた不安感があった。
止められない、フリードはそう思いただ腕の中で眠るアリカ嬢をしっかりと抱えなおした。
「お、おい、本当に大丈夫なのか?」
驚愕して黙っていたルビィがためらいがちにその背中に声をかける。
先程の黒々とした思考はショックと共に消し飛び、純粋な心配が口からついてでた。このまま行かせたらきっと死んでしまう。何をするつもりなのか分からないが、死んでしまう。わけのわからないまま死なれるのは、嫌だった。
「大丈夫、なーんにも問題ない、そう何にもたいしたことなんてない」
・・・・・・ルビィには目の前の勇者が正気とは思えなかった。このままじゃいけない、とルビィは気を取り直し、また炎の海の中へ戻ろうとするユノの側まで歩く。
「おい、待て私も一緒に――」
突然、鼻先に指が突きつけられる。金属に包まれた人差し指。反射的にルビィはのけぞり、あとずさる。
「い、一体なにを―――――」
「まだ“早い”」
黒い真珠のような瞳が、炎に照らされている。
言葉が繰り返される。
「あなたには、まだ“早い”」
「何、を」
「それじゃあ、また後で」
呆然と固まる3人を置き去りにして、ユノはまた炎の中へ戻っていった。
「スルト」は忘れかけていた肉体的な痛みと共に意識を取り戻した。
身体の下の「燃え滾る石」が動くたびにごりごりと擦れあうのを感じた。不快な感触だ。
しかしすぐにそれも気にならなくなる。身体の中心から増幅するような熱と共に高揚感だけが彼の心を支配していた。
ダメージは多少受けたがあの勇者はてんで自分に敵わない。小手先で時間を稼いだのがいい証拠だ。猟師が猟銃を失ったらどうするか?それが肉食獣の前だったらどうするか?答えは簡単だ。ぶざまに、みっともなく尻をまくって逃げる。
ぐはははは、と昔なら決してしなかっただろう野卑な笑い声をあげながら、彼は起きあがる。
とてもいい気分だった。今の自分は何もかも「みかえしている」権力を傘に自分と彼女を下品に茶化した貴族も、偽善的な心配で自分の優越感を満たそうとする鼻持ちならない親族も、無関心な国も、何より自分の半身を、彼女を奪ったあの勇者も――今の自分には決して敵わない。
身体の上に被さっていた瓦礫やら灰をばらばらと落とし、傍らに落ちた炎の剣――確かあの小さな魔族は「レヴァンテイン」と言っていたか。
まぁそんなものはどうでもいい、と「スルト」は大股で歩き出す。少し離れてしまったがまだ勇者を殺す機会は充分にあるはずだ。今ならば忌々しい魔族どもの行動の制限もなく存分に力を振るえる。もし遠くに逃げようとしていればまた辺り一帯を焼き払えばいいだけだ。「スルト」を造り替えた魔族は力の使用について何かと小言を言ってきたがそんなのは構ったことではない。
どうせこれが終われば、自分は彼女の元へ行くのだから。
「サア、隠レテモ無駄ダゾ?逃ゲテモ無駄ダ……勇者ヨ、何処イル?」
「ここだよ」
なんの前触れもなく、勇者――ユノ・ユビキタスが目の前に現れる。
巨大な篭手を振りかぶり、半身を捻った、痛烈な打撃を生み出す姿勢。
なんの反応をする暇もなく、「スルト」は強かに打ち据えられる。
身体の中の「燃え滾る石」がまた割れた。だがどうということはない。この石が自分の身体にある限り、力は永遠に供給される。
砲弾のようなショックにまだ残った「人間の部分」が悲鳴をあげたが、そんなものはどうでもいい。狂った笑いと共に、炎の剣を振り回す。
「ハハハハハハ!無駄ダ!無駄ダ!オマエハ私ニ敵ワナイ!誰モ誰モ私ヲ止メラレナイイイイイイイイィィィィ!!!!!!!」
「さっきから止めてるけどね」
振り回される炎を、勇者は避ける。その回避は確かに見事だ。軽業のようでありながら決して地面から足を離さず、滑るように転がるように炎の剣先から紙一重で避け続ける。
もしこれが人間だった頃の「スルト」であれば絶望していただろう。これはなんの冗談だ!と。
「スルト」は嘲笑を篭めて叫ぶ。
『火ノ精霊ヨ!踊リ狂エ!』
「!」
「スルト」となった彼は人間には出来ない奇妙な能力――精霊を見聞きし、意のままに操ることが出来た。彼を造り出した小さな魔族がわけのわからない講釈をしていたが、全く興味がない。ただ五大元素でいうところの「火」に類する精霊を特に強く操ることが出来た。
周囲に漂う火の精霊が悲鳴のような吐息と共に踊り狂う。まるで乱痴気騒ぎ。周囲の炎が勢いを増し、温度が轟々と音を立てて上昇する。
「ハハハハハ!」
彼は手を広げる。目の前の勇者は何も出来まい。ここはムスペルヘイムなのだから。
自分以外生きのこれるものはいない。地獄のような灼熱の世界。
「燃エロ!燃エロ!世界ノ凡テ、何モカモ燃エテナクナレ!燃エテ燃エテソノ炎ガ天上ニ上ガレバアノ愛シイ女性ハ暖カクナル!体温ガ戻ル!全手元通リニナル!!」
「スルト」は自分の中で2つのものが暴れ狂うのを感じていた。ひとつは「人間」である自分。もうひとつは「スルト」である自分。かたや目の前の勇者を殺し、現実を否定し、何もかも元通りの愛の生活にする妄想とり憑かれ、かたやただ純粋無垢な衝動のまま世界の全てを燃やして灰塵に帰さんとする――破滅の権化だ。
彼を形成しているのはそのふたつの狂気だ。
「くっ」
勇者は苦しげに呻き、後方へ跳躍する。上昇する熱に耐えかねたのだろう。体中から白煙を立ち昇らせ、香ばしい肉の香りを漂わせている。
その事実に「スルト」はにやにやと頬を歪めた。
距離を詰める。炎の剣を指揮棒のように振りながら。
「サア、ドウシタ?敵ワナイカ?苦シイカ?彼女ハモットクルシンダゾ、オ前ハモット苦シンデ、ブザマニ許シヲ乞ウテ死ンデイクノダ……アノリザードマンノメスモ一緒ニナァァァァァ????」
「は――」
勇者が俯き、震える。その姿に「スルト」は言い知れない満足感を感じていた。圧倒的な存在を、自分より強い存在を屈服させている。これは人間の頃では味わえない快感だ。
「サア、膝ヲ折って彼女ニ祈レ、ブザマニ、ブザマニ――」
「あっははははははは……」
「その場」に似合わない、その行動に、彼は呆然とした。眼の前の勇者は笑っている。
俯いて震えていたのは、無力感に打ちのめされていたのではなく、もしや、まさか、腹を抱えて、笑っていた――?
「あー……」
勇者が顔をあげ、目元を拭うふりをする。可愛らしいと形容できる顔には笑みの色が浮かんでいた。伏し目がちで、どこか憐れんだような奇妙な笑顔。
「こんなに笑ったのは、本当に久しぶりだよ」本当に愉快そうに笑う「ええと、そう、エリーゼもまた随分と、苦労してたのね」
エリーゼ、それは「スルト」の永遠に失われた恋人の名だ。
「こんな、ああ、気持ちの悪い気どり屋が恋人なんてね」
その一言が耳から頭に入り、理解するのに少しの時間がかかった。
理解した瞬間、「スルト」の意識が真っ白になった。
「ああ、とっても、笑える」
「貴様アアアアアァァァァァァァァァァ!!!!!!!!!」
怒りの衝動にまかせ火の精霊をさらに踊らせる。躍らせるというより子供がぬいぐるみの首を掴んで振り回している状態に近い――無理やり働きかけに精霊たちは悲鳴をあげてブチブチと潰れて死んでいき、精霊がこの世界に生きるのに必要なマナを血のように吐き出していく。
それらのマナは空気を伝い「スルト」の体内で鼓動する「燃え滾る石」に集約されていく。
マナの急激な供給を得て活発化した「燃え滾る石」はオーバーヒート寸前のエンジンの如く振動しながら強力に発光する。活火山のマグマを思わせるような禍々しい灼熱の色だ。
「燃え滾る石」は「外側からでも否応なく位置がわかるくらい」の強力な光を発している。
それを視て――勇者の瞳が半月に歪む――ああ、それか。と声なく口元だけで呟き、形のいい唇に笑みがのぼる。獲物を追い詰めた狩猟者の嗤い。
「私ィトオオオオォォォォ、エリーゼヲ愚弄スルカアアアアアァァァ!!!!!!」
「スルト」は優男の容貌などもはや微塵の影もなく、眼から火が燃え上がり、口は裂けて口蓋の奥から今にも炎を吐き出さんとしている。
「燃え滾る石」へのマナの供給は臨界を迎え、それに応じて「スルト」の前にソーサル・ロウで構成された魔法陣が構成される。人間の魔術師たちが使うものとは違う形体のものだ。紅い光を放ちながら蠢動する魔法陣の中心に強力に凝縮されたマナの塊が膨れ上がる。
魔法的なセンスを一切もたぬ者でもわかるだろう。魔法陣の中心の塊に場の「力」が強力に集められていくのが、周囲を包む炎が怯えたようにその火勢を小さくし、大地は震え、瓦礫の破片が地から天へぱらぱらと浮き上がる――あれは「発射口」だ。数十人からなるスラッド兵の一団と村の区画をばらばらに吹き飛ばすパワーの放出源だ。
直に喰らえば、勇者も「死ぬ」
その為の一撃だ。亡き恋人と自分を侮辱された今、目の前の加害者を甚振ることを取りやめ、終わりの一撃を放つことに決定した。
すう、と勇者は息を吸う。
そして力ある言葉、ワーズ・ワースを紡ぎだす。
“やれ進め、進めや進め、我が民よ。留まることは許されぬ、眼の見えぬものは手を使え、手のなきものは前へ出よ、足なきものは手で進め、四肢なきものは歌い給え”
そうウォー・エイジの物語の一節を呟きながら、勇者は「スルト」に向かって歩を進める。
呪文はまだ終わらない。歌のようにか細く、韻律を上下しながら淡々とした抑揚で古代語の呟きが続く。
“惑え怯えよ蛇の民、鉄の矛と鉄の剣。その囲いに怯え惑えよ。さあ進めや進め、我が民よ、幾千のその身で幾万の愚者を打倒せよ”
「スルト」が動く。精霊から奪ったマナの凝縮に注力しながらも、炎の剣を振るう。
それはマナの凝縮の完了まで近づかせないための牽制の一撃だった。
しかし、勇者は足を止めない。顔のすぐ横を炎の波が通り抜ける。その様子を理解出来ず、焦った「スルト」が剣を反し、首を両断せんと薙ぎ払う。
火炎の刃が進む少女の首に触れ、炎がその身を覆い尽す――しかし、その身体は淀みなく次の1歩を進めた。
「!?」
巨人の顔に動揺が浮かび、さらに刃を振るう。
炎の波がでたらめに周囲のすべてを焦がす。何発もレヴァンテインの炎を受けた勇者は頭の先からつま先まで炎に包まれている。だがその波の轟音の中でもはっきりと聞こえる、瓦礫を踏みしめる音が彼の思考をパニックに陥らせる。
(何故ダ!?何故コノ剣ガ効カナイ!?)
“たとえその身が朽ち果てようと、進めや進め。たとえ大地が割れようと進めや進め、いかずちの旗印の元に。さあ進め、やれ進め、這いずる蛇の首級をあげよ”
人型の炎と化した勇者が、左手を掲げる。高温の炎に包まれてなお、その奇妙な光沢の金属で造られた巨大な篭手は月と炎の光を受けて無感動に輝いている。普通の鉄ならばもう液体と化している温度だ。
そして「スルト」は視てしまった――自らを包む炎の中から、冷然となんの感情もなくこちらを見やる勇者の瞳があったことを。
そして「スルト」は幻覚を視た。眼前で弱弱しく歩を進める勇者の背後に、幾万もの戦士たちが血に濡れた剣や槍を手に、行進を進める姿を。その視線の先はすべて自分だ。憎しみも殺意もなく、ただただ理解不能な光だけを湛えてじりじりと包囲を狭める姿を。
“さあ、進めや進め、我が民よ、這いずる愚者の首級をあげよ”
「ウ、ウ、ウガアアアアアアアアアアアアアア!!!!!!」
魔法陣がたわみ、凝縮されたマナの塊が激しくぶれる。使用者の動揺をもろに影響に受けて、不完全な形でソーサル・ロウの術式が停止してしまった。しかしそんなことに気づかず、眼前の勇者と背後の軍勢に怯えた「スルト」は力を解放する。
閃光!
凝縮されたマナが一気に弾け飛ぶ。指向性を持つその放出は「スルト」の前方に放射状に広がり、猛烈な爆炎と閃光を撒き散らし全てを吹き飛ばす。
まるで白の絵の具をぶちまけたような有様だ。炎と光の波に包まれた瓦礫とおぼしき影は宙高く空を舞い、高温であとかたもなく消滅する。先の爆発のあとでもしぶとく燃え残っていた低い潅木もまた根を生やした土ごと天高く舞い、大地と永遠に死別する。
「アアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!アアア!アアアアア!!!!」
そんな暴虐な力の放出がしばらく続き、唐突に出力を弱めて辺りに夜の闇が戻ってくる。
力を解放しきった「スルト」は疲弊したのか、もう存在しない心臓のあたりを抑え、呼吸を荒げている。なんとか息を整え、跡形もなく消えたであろう勇者の消滅を確認しようとする――
がしっ、と首元が掴まれた。
「……エ?」
「スルト」は全ての思考を停止し、ただ自分の喉元にかかった女の腕を見た。
これは右手だ。ところどころ被服が破れ、白い肌を露出している。白い?火傷を負っていない?ただ白煙だけがその肌から上がっていて――
「…………つかまえた」
ぞぶり、と肉の埋まる音と共に、「スルト」は胸に異様な痛みを憶えた。
「…………つかまえた」
ユノは途切れそうになる意識をなんとか繋ぎとめながら、呟いた。
身体が鉛のように重かった。短い時間で“勇者の加護”を使いすぎた後遺症が出始めている。ユノは一度勇者であることを完全に捨ててしまっている。自分の精神に問題があるか、それともドンナーが「壊れた勇者」に呆れ失望し、もう見捨てているかは知らないが「向月ゆの」であった頃と比べて自分は弱くなっている。勇者として。
それでもそろそろこの乱痴気騒ぎを終わらせなければならない。
「グアアァアア……!?」
弱点の推測はどうやら当たったようだ――胸の中心から抜き手で差し入れた手が、固い感触をもつ「何か」を掴んでいる。それは石に酷似しているが絶え間なく熱を放出し、生物の内蔵のようにびくびくと脈動している。石のような内蔵。内蔵のような石。どちらにせよ、これを掴んだことで巨人の身体から力が抜けていっているのが分かった。
「エリーゼは、確かに素敵なひとだった」
この巨人が聞いているのかわからないが――ユノは呟く。
「もし、この世界がただのファンタジーだったなら、エリーゼみたいなひとが勇者って、そう呼ばれたんだろうな、そう思ってた」
手の中の石がびくびくと蠢きながらなんとか篭手の中から逃げようともがいている。ぐ、と力をこめてそれを抑える。弛緩した巨人の五体が痙攣した。
「けど、エリーゼは、きっと正義感が強すぎた。まるで炎みたいだった。際限なく燃えて広がって、何もかも燃やしてしまう。あの日、あの場所で、エリーゼはそうなってしまった」
そこで言葉を切り、ユノはむなしく笑う。いい加減灰と煙で潰れた喉が痛かった。
「それが私にはとても――――気持ちが悪かった」
ごばっ、と音を立てて、篭手を石ごと引き抜く。巨人の体内からは血は結局一滴も出ず、かわりに小さな火の粉が雪の粉のように舞った。
左の手の平を開き、この巨人の核になっていた石を視る――魔族語の力ある言葉、ソーサル・ロウがびっしりと刻まれた小さな石。それは心臓のように脈打ち、ユノの手の平から逃れようともがいている。
音を立てて巨人がくずおれる。出来すぎた彫像のような五体に罅がはいり、急激に風化していく。巨人はその様子を呆然と、形を失っていく自分の両手を眺めている。
「許して、とは言わないよ。あなたには恨む権利がある……恨み、私を殺す権利もある」
「けど」
「私にはこれからやらなきゃいけないことがたくさんある。みんなに会って、謝らなきゃいけない。セリアとの約束を守らなきゃいけない。アリカを守らなきゃいけない。だから今も、これからも、死ぬわけにはいかないの」
手に力を篭める。ばきばきと音を立てて石が砕けていく。やはり普通の石とは違うのか、握った手の中から零れた破片が宙に溶けて消えていく。
「浅ましいけど――私は私を優先する。だから」
ばきん、と手の中の石が砕け散る。それが最後のひとかけらだった。
「死ね」
巨人が消えていく――もう人の形を成していない。胸の中心から壊れ宙に溶けて消えていき、もう残るはわずかな肩の輪郭とその優男風の顔だけが残っている。
その顔は、火の気配も怒りも憎しみも抜けて、ただの青年の顔のように見えた。どこか弱弱しい印象を受ける青年貴族の顔。きっとどこかの社交界で頑張って彼女を口説いたのだろうな――そんな風に思える顔だ。
青年の口が動く。もう声帯も失って声は出ない。だが、空を見つめながら何事か呟いた口は緩慢で、はっきりとユノにも読み取れた。
「エ、リー、ゼ…………」
「あ――」
ユノの意識はそれ以上続きそうもなかった。限界がきていた。力の消耗はもろに身体にダメージを与え、今にも瞼を閉じてしまいそうだった。意識を失うことの快楽がそこにあった。
どさ、とユノは仰向けに倒れる。ごほっ、と咳が肺からとび出した。咳とともに口から鉄の味がする液体が滴り落ちた――しかし鉛のように重い身体はもう指1本動かず、口を拭えそうにもなかった。
(ああ、もう、勇者じゃないもんね)
いつの間にか夜が明けそうになっていた。巨人の消失と共に周囲を包み込んでいた炎は勢いを弱め、今にも消えそうだ。ただ未練がましく瓦礫や墨と化した材木の表面でくすぶりつづけている。
遠くの方で、がしゃがしゃと騒々しい音を立てて誰かが走ってきているのが分かった。瓦礫を蹴散らす鋼鉄製のブーツ。軽い、猫のような体重の移動。これはきっとルビィだろう。いつかユノ・ユビキタスを殺してくれるかもしれない少女。
少しづつ近づきつつあるその音を聞きながら、ユノはゆっくりと意識を失った。