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ブイ・フォー・ヴェンデッタ Ⅱ


『月』の暦1065年

天候:晴れ 8月23日

22時32分――朝焼けにはほど遠い

砂海入り口の村――ドンテカ



 宿の環境はなかなか良好だ、とルビィは割り当てられた部屋をざっと見回してそう結論した。

 木造の部屋には砂埃は見当たらず、吸う空気も砂漠周辺の街特有の砂っぽい気配はない。

 メイドがきちんと掃除している証拠だ。

 ベッドは多少固く感じるもののバラックの汗と埃が染み付いたベッドに比べればどうということはない。

 顔を埋めて匂いを嗅ぐと太陽の香りがした、眠気を誘われる。

 ルビィはふーっ、とため息を吐いてごろりとベッドに寝転がる。普段のリングメイルではなく寝巻き用のチュニック、鋼のブーツはそのままで腰の後ろには短剣を2本差している。

 どちらもそれほど眠るのを阻害しないものだ。

 しばらくそうしてベットに寝転んでいたが、なんとなく眠る気は起こらず、上体を起こしてベットの横にある窓を開ける。

 乾いた夜気と共に、冒険者の馬鹿騒ぎや旅行者の楽しげな声が部屋に飛び込んでくる。もう深夜も近いというのに人の気配は絶えず、通りに面した窓からは行きかう人と様々な食べ物を売る露天。顔を真っ赤にして笑いあう冒険者たちの姿が見える。

 まだまだこの街は眠らないようだ。


「……疲れたな」


 ルビィはそう独り呟いてもう一度ベッドに転がる。

 旅の疲れで節々が痛んだ身体が柔らかいシーツの感触を喜んでいるのを感じた。

 フリードとスコルピオは1階の部屋で同じように休んでいることだろう。スコルピオに関してはユノ・ユビキタスのいった通り「保留」だ。言動と王命通知書で一応の信頼はあるものの完全な裏が取れない限りは手放しでメンバーとして加えることはできない。

 フリードによればロードスギルドで通知書の真贋確認とスコルピオが本当に冒険者であるか確認出来るらしい、開店時間までは敵か味方かの判断は保留だ。

 そこまで考えて少女騎士の脳裏に副官――フリードの顔が浮かぶ。


(フリード、か)


 フリードリヒ・ヴァイセン――守護騎士団第6部隊隊長補佐。戦争で功績を立てた“自由騎士”称号の保持者。アンテローズ領の猟師の息子。幼いころからの遊び相手。

 ルビィとフリードがはじめて出会ったのは10年前のアンテローズ領内の森の中だ。

 ルビィは幼いころは気性の荒いアンテローズ一族の中では内気な部類に入る子供だったらしい。

 今のように豪放に、人の眼を気にせず振舞えるようになるのはだいぶん後の話だ。

 父母の鹿狩りについてこさせられたルビィは、子供特有の無鉄砲さと好奇心の強さで姉の手を離れ森の奥深くまで入って、当然ながら迷って出れなくなった。

 ひとりの不安と、夕暮れの森の怖さに泣きじゃくりながら木の側でうずくまっていた所に現れたのが、2歳年上の猟師見習いの少年――フリードだった。


 フリードは笑わない少年だった。


 無表情で、狩ったばかりのウサギの首を握り、山刀を手に現れたフリードは恐怖の対象だった。

 ルビィは悲鳴をあげて木の後ろまで後ずさり、眼を閉じてドンナーに祈った。

 突然現れた見慣れない猟師姿の少年が幼い5歳のルビィには「悪い子を攫いにやってくるオバケ」だと思えたからだ。

 そんなルビィに少年のフリードは無表情な双眸に戸惑いと若干の怯えを滲ませながら、なんとか警戒を解こうと口下手に話をはじめた。

 生まれてから祖父と山中の小屋でひっそりと暮していたフリードは今の快活な性格と違って人が苦手で喋るのも苦手だった。

 それでも自分に怯え、泣きじゃくる少女をなんとかして宥めた。内気だが好奇心の強いルビィを泣き止ませるのに効果的だったのは、森の中で稀に遭遇する妖精や不可思議な生態のモンスターたちの話――たどたどしいながらも、実体験を交えた不思議な御伽話は森の暗闇を恐怖から、幻想の対象に変えさせた。

 そうやって父と母と姉、お付きの従者達が大慌てで駆けつけてくるまで、ルビィとフリードは仲良く旧来からの知り合いのように話しこんでいた。

 山を離れたその後も貴族の子女とその領民という身分違いの関係にも縛られることなく、ルビィとフリードの友達付き合いは続いた――海より復活した魔族が西部を闇の大地に変えてしまうまでは。

 200年ぶりの魔族の侵攻に騒ぐ国の中で、特に早く動き始めたのがアンテローズ家だった。もともとアンテローズは自由騎士から本物の貴族まで為りあがった家だ。

 “戦うことしか知らない家”そう揶揄されることも厭わず、寧ろ誇りにさえ思いながら、アンテローズ家は魔族との戦争にいち早くはせ参じた。

 姉さま、ダイナ・ギムレット・アンテローズの出陣。

 それと同時にルビィも騎士学校へと入学させられた。次世代を担う人材としてかなり厳しく躾けられたのを憶えている。今は勇者の1人として崇拝されるハイネ――ハイネ・オーディニ・ミルニルの一見高慢ちきな振る舞いに腹が据えかねて喧嘩を売り、見事なまでにボコボコにされたのもいい思い出だ。

 その間フリードはしばらくアンテローズ領で猟師生活をしていたものの、魔族との戦争が激化するにつれて徴兵され西部の戦線へと行ってしまった。

 それを知ったルビィは泣いた、兵士として戦争に行くということは死ぬことと同義だ。それがたとえ必要な犠牲であったとしても寂しさや悲しさ、ともだちが死んでしまうという喪失感は否定できなかった。


 その後は人が変わったようにルビィは騎士になる為に頑張った。毎日誰よりも早く朝稽古をはじめ、一般の訓練兵に混じって行軍や野営の教練にも積極的に参加した。

 とにかく“仇”をとってやろうという想いで心が一杯だった。

 勉強は苦手だったが“闘う”ことに関する学問ではいつも上位の成績をキープしていた。

 武者修行もやった。同輩にも先輩騎士にも負けない実力があるとわかり多少傲慢になったかも知れない――もっともそれは守護騎士団に入ってから団長イスラにだいぶ矯正された。

 そして死んだと思っていたフリードと再会した。


(そう、ともだち)


 男女の関係には2種類しかないと、人は言う――恋人かそうでないか。

 ルビィとフリードの間に恋愛感情はなかった。

 ルビィにしてみれば“レンアイ”なんてものは本の中の遠い出来事だったし、フリードという男は――例えばルビィが薄いネグリジェを着て、薄く化粧し髪を解いて、いつものと違う小悪魔のような表情でしな垂れかかろうともきっと襲うまい。 それどころかそんな事をすれば病院か教会かに連れてかれ医者の処方か神父の悪魔払いを受けるのがオチだ。

 身分違いのともだち、それがルビィとフリードの関係。


(これまでは、そうだった)


 戦争から帰ってきたフリードに、違和感を感じたのはいつごろからだったか。

 自由騎士となったフリードは昔と違い明るく快活な青年になっていた。口も巧く世渡り上手、でルビィには到底思いつかない貴族への小粋な美辞麗句や平民が好みそうなジョークをふたつもみっつも知っている。

 戦地でどんなことがあったのか知れないが、猟師のフリードと自由騎士のフリードはルビィと同じように人が変わっていた。

 それに関して、ルビィは悪いと思ったことはない。

 少年時代の環境が作った暗い性格が明るくなるのはいいことだし、騎士学校時代の武者修行のせいで敵が多く、同輩にも友人の少ないルビィは守護騎士団の隊の運営でフリードの人受けの良さや口の巧さでおおいに助けられている。


(そう、その代わりに――あいつが時々、怖い)


 それはきっと小心だろう。しかしルビィの脳裏に盗賊団襲撃のときのフリードの顔が浮かぶ。

 それはどう形容すればいいのだろう、ルビィは使える語彙が少ない。鉄のような、氷のような、感情がまるでないような、血が通わない――人ではなくなってしまったような。

 そんな顔をしているときが、時々ある。

 森で1人きりのルビィを助けたときの暖かな、感情の出し方が不器用なだけの無表情ではなく“何か”を隠蔽することに長けた無機質な仮面。

 これまで、守護騎士団の隊長と副官として共に働いていて感じることもあったが、実際にしっかりとそれを目の当たりにするのはこの前の襲撃の出来事が初めてだった。


「ああ、くそ!らしくない」


 上体を勢いをつけて起こし、手で頬をぱんぱんと叩く。

 こうやってうじうじと悩むのはルビィの性に合わない。不思議なことや怪しいことがあったら遠慮なく躊躇なく突っ込む。それが例え罠だったとしてもその罠を全力で叩き潰す。

 それが自分であり、アンテローズの家訓だ。


(そう、直接本人に聞けばいい!おまえはどんなことを考えているのかーって!)


 ぐっ、と拳を握り頷く。

 思い立ったら吉日とばかりにルビィは部屋を出る。フリードはまだ起きている筈だ。

 多少狭さを感じる廊下を渡り、階段を下りる。照明の光が弱く、気をつけなければ足を踏み外しそうな薄暗さ、窓から入る月明かりと街の灯が気休め程度には緩和しているか。

 2階の部屋――203号室の扉をノックもせず開く。


「おい!フリードまだ起きてるかっ……あ」


 勢いこんでいた心がへにゃりと曲がるのを感じた。

 フリードは一見窓の横にある椅子に腰掛け、ベットに横たわるスコルピオと名乗る少年魔法使いを監視しているように視えた。

が、眼を閉じて眠りについているのがわかった。近づいてみると安らかそうな寝息を立てているのが聞こえた。

 念のためスコルピオの方を確認すると手を後ろで縛り上げられ、そのまま器用にぐうぐうと眠っている、顔に似合わず豪胆な性格のようだ。

 押収した杖やビブリオなどの魔法具はフリードの足元にあるのがわかった。

 まとめて黒い紐で縛っているのは容易に取り戻すことの出来ない工夫だろう。

ルビィはそこまで視て、ため息を吐いてフリードの対面に座る。


「はあ……」


 テーブルに頬杖をつき、じっと幼馴染の自由騎士の顔を眺める。

 ルビィにはよく分からないが貴族の婦女の間で噂になる程度にはハンサムらしい。彫りは深く、彫刻のような顔立ちをしているが全体の印象はさっぱりとした明るい印象を持っている。

 男臭さとかそういうのとは無縁だがそれは好みの問題というものだろう。

 どちらにせよ、ルビィはまだ異性に恋をしたことは一度もない。


「わたしも――いつかは恋をして子供を生むんだろうか」


 “姉のかわりに”

 そんなひとりごとを言いながら、何の気なしにフリードの頬に手を当てる。

 砂海のひんやりとした夜気に当てられてその髭の少ない頬は冷たい、ひんやりとした石のように。

 フリードは頬に当たる手の感触に気づくこともなく安らかな寝息を立てている。

 一見無防備だが“本当の危険”に対してはフリードは非常に敏感に反応する。優秀な兵士であり天性の猟師だった、ということなのだろう。


「おまえは、どんなことを考えているんだ……?」


 自分への問いかけのような少女の言葉に返答の声はなく、薄暗い宿屋の一室を砂海から来る冷たい風だけが通り抜けていった。





『月』の暦1065年

天候:晴れ 8月24日

12時00分――ミズガルズが喪った瞳の痛みを訴える時間

ドンテカで3番目に大きい酒場『ロッソ・ベア』



「おいロバァートぉ~」

「なんスか兄貴ぃ~」


 泥酔した酔っ払いだけが残った静かな酒場のラウンジで2人の冒険者がいる。

 この2人も例外なく腰の短剣と自分の一物がわからないほど泥酔し、テーブルに足を投げ出して夜の空をぼおっ、と仲良く眺めている。

 “兄貴”と呼ばれた顎に傷のある大男がふらふらと夜空を指差して隣の弟分ロバートに告げる。


「なんかよぉ、空おかしくねーかー」

「そりゃ兄貴の目が酒で曇ってんでショーがよー、いつも通りいい眺めの空じゃあないでスか」

 馬面の背ばかり高いロバートがなはは、と赤ら顔で笑いながら兄貴に答える。

「莫迦野郎、手前だって酒瓶と女の尻間違えるくれぇ酔っ払ってんだろうが」にやりと“兄貴”が笑う「で?柔らかかったか?」

 げへへ、と幸せさ半分下種さ半分といった度合いの笑みをロバートが浮べる、馬面の頬にはくっきり綺麗な紅葉が咲いている。

「いやぁ、ご同業の女ったぁやっぱり筋肉が固くっていけねぇや、やっぱりバディアの天使じゃなきゃあねぇ……ん?」

 そこでロバートは隣に同じように足を投げ出して座る“兄貴”が空をじっと見つめているのに気がついた。

 その視線に酩酊はなく、普段の――つまり盗賊やモンスターと相対しているときと同じ程度の警戒を表している。


「あ、兄貴?」

「空を見ろ、ロバート」


 がたん、と派手な音を立てて“兄貴”が椅子にしっかりと座り直す。

 ぎしり、と古い木の椅子が鎧分の重量がプラスされた体の重さに悲鳴をあげる。

 手の平を眉間に当て、眼を細めて黒一色の星のない空の中に何かを見つけようとしている。


「なにが見えるんです?」

「なんかおかしいぜ……俺の勘がそう告げた……!」


 ついには椅子から立ち上がり、酒の様子など微塵もなく立ち上がる。濃い横顔には焦燥と警戒がロバートにはありありと見て取れた。

 あわてて同じようにロバートも立ち上がろうとするが、足がふらついて普段どおりには動けない、なんとかラウンジの柱に寄りかかって空を見上げるくらいだ。

 “兄貴”のザルにつき合わされ過ぎた、と自分の不幸を呪った。


 “兄貴”は非常に勘の鋭い冒険者だ。純粋な剣や腕っ節の強さだけならドンテカの冒険者の中ではそこまで強い部類ではないが、ただ強くてマッチョなだけの連中にはないセンス――第六感が長けている、らしい。

 らしいとはいったが、実際に長く“兄貴”の相棒をやっていて“兄貴”が「危険だ」と感じた依頼や場所には必ず何らかのトラップがあった。例えば「ペットが逃げ出したから捕まえて欲しい」という成金商人からの依頼で実はそのペットとやらが人を10人は殺してそうな巨大なコーンベア(鋭い一角のある熊。最大で40ラウンまで報告されている)だったり、何の変哲もない街道沿いの廃砦が知る人ぞ知る生きては帰れない“悪霊砦”と異名されるアンデットモンスターの巣窟だったりしたことがあった。“兄貴”が察知して野宿を止めていなければ確実になんの装備もなく強力なアンデットと戦うハメになっただろう。


(今回、ヤバイな)


 酩酊した意識の中で、ようやくロバートは「何かヤバイ事態」に自分たちが巻き込まれようとしていると認識した。

 よくよく耳を――アルコールで聞こえが悪くなった耳を澄ませば村のあちこちで犬の唸り声が聞こえる。

 ドンテカにはモンスター避けに犬を飼う風習が古くからあるが、その犬が、ドンテカ中のすべての犬が至る所で狂ったように空に向かって吠え立てている。

 獣は吠え立てて地を駆け巡る――ウォーエイジの有名な一節。

 ぞくり、と体中の産毛が総毛だつのを感じた、異様な気配が風に漂っている。

 こんな事態はこれまでの長い冒険生活で一度も見たことも聞いたこともない。


「ロバート!空を見張れ、何かあったらすぐ報せろ」

「兄貴はどうするんで!?」

 今にも腰の剣を抜き放ちそうなほど“兄貴”は殺気立っている。

 酒場の扉に手を掛け、勢いよく開ける。

 薄暗い魔術照明だけの店内に月灯が差し込む。

「おい!ガンプオードの爺!!外の様子を見てみろ!!」


 薄暗い酒場の中に“兄貴”の濁声が響く。

 心地いい酩酊と倦怠に包まれていた冒険者や情婦が煩げに眼を醒ます。

 が、その中でも実力者にランクされる何人かは村の異様な雰囲気をいち早く察し、窓際から外の様子を伺っているのが視えた。もっとも我の強い連中だから協調は望めないだろう。

 カウンターでグラスを拭いていた熊のようにゴツイ店主が怪訝そうに“兄貴”に尋ねる。


「なんでぇプリンス、揉め事かぁ?」

「俺はプリンスじゃねぇ、兄貴と呼べ――とにかくガンプオードの爺を起こせ」

「へいへい、てーかあのヒス女が割った酒瓶代払えよ……」


 ぶちぶち言いながら店主がカウンター席で酔いつぶれていたこの村一番の老兵――ガンプオードの肩を揺する。

 どんなこだわりかは知らないが旧ランバルディアの兵士の格好をした風変わりな老人で、酒が入ると嘘か真かわからない豊富な冒険譚や知恵などを得意げに披露する。

 娯楽欲しさの旅行者や単純に冒険の話が聞きたい物好き、それなりに信頼性のある老兵の知恵を求める冒険者なんかが集まる一種の『ロッソ・ベア』の名物のようなものだ。

 錆の浮いたサレットを被ったガンプオードがセイウチのような口髭を震わせながら起き上がる。


「なんじゃあ、今日はもう話は終いじゃぞ」

「そりゃプリンスに良いなジイさん、呼んでるぜ」

 老人の灰色の瞳がぎょろりと動く。

 ふらふらと意味のない手の動きをさせたあと、酩酊した足取りで“兄貴”――本名プリンス・ウェールズのいる店の扉までやってくる。

「あ~?なんじゃコラ、プリンスの坊主」

「やかましいプリンス言うなジジイ……それより空、視てみろ、なんかおかしいぞ」

 店主とガンプオードに恥ずかしい本名を何度も呼ばれて額に血管の浮かんでいる兄貴――プリンスだったが、それよりも外の異様な状況を聞くことが先決だ。


 ガンプオードはいまでこそ耄碌しているものの若いころはこの大陸を旅しつくした冒険者のひとりだ。前時代の勇者たちの冒険を助けたこともあると豪語している。

 村の冒険者なら話半分に聞いて笑い飛ばすようなハナシだがプリンスはそれを真実だと知っていた、かつてひっそりと自費出版された勇者自筆の冒険記の中に「前 ランバルディア兵の格好をした男」と共に伝説として語り継がれるワイバーン“不浄なるピュートーン”を討伐したと記述されている。

 偶然その冒険記を手に入れたプリンスはその「前ランバルディア兵の格好をした男」がガンプオードだと確信している。

 だから今のこの異様な状況について、豊富な冒険の経験を通じて何か知っているかも知れないと踏んだ。

 前例を知っていて正体がわかれば上等、さらに対策が立てられれば万々歳だ。


「とにかく早く外を見てくれ!知恵を借りてぇ」


 プリンスのただならぬ様子にむ、とガンプオードは髭の下で唸り、視線鋭く扉を抜けてラウンジを出る。

 店内で俄かに起こった騒ぎを傍観していた他の冒険者たちもただならぬ様子を察して身を固くしているのがみえた。

 ガンプオードの後ろについてラウンジに出ると、ロバートがひどく慌てた様子でプリンスを呼ぶ。


「あ、兄貴!」


 ラウンジの柱にへばりつくようにして空を見つめていたロバートは何か信じられない、もしくはとても忌まわしいものでも視たようにがたがたと震えている。

 この涼しいというのに顔は汗にまみれ、眼はぎょろぎょろとして血走っている、歯の根も噛みあわない様子だ。

 そんな弟分のただならない様子にプリンスは動揺し、大声を出す。

「なんだ……何かあったのか!」

「あ、兄貴、そ、そら」

「空がどうしたってんだ!」

 嫌な風が吹いているのが、もうはっきりと判った。

 プリンスもラウンジから身を乗り出し、黒々とした空を睨むように見つめる。

 そしてロバートの悲鳴のような言葉と同時に、プリンスもその“異常な事態”に気づいた。


「空が、落ちてくる!!!」


 そう、まるで水気をたっぷりと含んだ絵の具がカンバスの上を滑るように――夜の 黒々とした暗闇が地上に“垂れている”

 油のような粘性をもったそれは地上の、ドンテカ内の至るところにどろどろと堆積し黒い汚泥の沼を形成していく。

 遠くに響き渡る犬の吼え声と相まってその奇妙な光景は、プリンスに恐ろしく不吉な予感を与えた。

 腰の剣を抜き放ち、警戒の態勢をとりながらプリンスはガンプオードに叫ぶ。


「ありゃ一体なんだ!?」


 ガンプオードの返答は、しばらくの沈黙の後、震えるような声音でかえってきた。

 老兵の灰色の瞳がぎょろぎょろとせわしなく動き、眼が血走っている。


「……ぞく、じゃ」

「何?」

「魔、族、魔族が攻めてきたんじゃ!!!」

 その言葉にプリンスは耳を疑った。

 今のこの時期、この場所にそいつらがここにいるわけがない!

 呆然とするプリンスと震えるロバートを置き去りに、ガンプオードが齢90近い老人とは思えぬ俊敏さで店の中に戻ろうとする。


「いかん、早く火を点けろ!!ありったけの火を点けにゃならん!!火と光を!そうでないと、奴らは――」

「あ゛」


 どす、とプリンスの背後で濡れてくぐもった音がした。

 びしゃり、と何かの液体が頬にかかり、プリンスはおそるおそる背後を振り向く、そこには恐怖で足腰が立たなくなった弟分が、ロバートがいた筈だ。


「あ、あにぎ……」


 確かに先程とかわらず、ロバートはそこにいた。柱にへばりつくようにしてようやく立っている。少し深酒に付き合わせ過ぎたのか酩酊がひどくまともに立てなかったのだろう。

 プリンスはどこか冷静な面持ちで、ロバートに対して剣を構えた。

 ロバートの右目の上から、黒い錐のようなモノが飛び出ている。ぽたりとラウンジの木の床に落ちたのはロバートの血、何故か赤と黒が混じってひどくグロテスクになっている。

 よくよく見ればその黒い錐は植物の蔓のようにロバートの身体を柱に縛りつけ身動きが取れないように拘束している。

 触手の食い込み具合から、もうロバートは助からないとプリンスは判断する。

 正体不明な脅威への対処のひとつとして――剣を振るう。


「だあっ!」


 木の床を踏み壊さんばかりに勢いをつけた剣の一撃が、ロバートだったものの胴体と柱を薙ぐ。

 血と臓物を撒き散らしながら倒れるロバートと真っ二つに切られた柱だけが崩れ落ちる。

 プリンスの剣より一瞬早くその場から離脱した奇妙な黒い「何か」は、触手から黒い油のような液体に形態を変え、ラウンジの床に滑り落ちる。

 と、プリンスが次に見たものは信じられない――この異常な状況下の中でさえ、奇妙な現象を目視した。

 液体が沸騰したように煮立ち、人に、瞬く間に人型に形を変えていく。

 子供の工作のような拙い人型から、コマ回しのように造形を精細にしていく。

 身長185のプリンスより高い。腕が猿のように長く、太股は丸太のような、筋肉質な肉体。

 それは“兵士”だ、プリンスの直感が告げた。

 肉体から浮き出るように形成された黒の魚燐を象った鎧、漆黒の、材質不明な螺旋状の槍。頭とおぼしき場所から硬質化した2枚の板状のモノが平行に涌き、プリンスの方を――つまり対峙する標的の方向に向かって交差しながら合体する。

 球面状に膨れ上がったその板には覗き穴とおぼしき楕円状の穴が3つずつ空いており、人間ではありえない色彩の瞳が、黄色く輝く瞳がプリンスを睨みつけている!


「う、うわ、うわああああ!!」


 原始的な、魂に刻み込まれたような恐怖を覚えてプリンスは恥も外聞もなく逃げに走る。

 剣を捨ててきびすを返して『ロッソ・ベア』の中に逃げ込もうと足を動かす。

たった5歩の距離だというのに恐ろしく遠く感じる。

 幸運なことに背後のバケモノはプリンスを追ってこず、身体の調子でも確かめるようにぐるぐると肩を回している。高い知性を持っている証拠だ。

勢いこんで『ロッソ・ベア』の扉を開け、妙に薄暗い店内へ駆け込む。

 篭城だ。この店は頑丈だし、他の冒険者も大勢いる。もしかしたら実力者たちは事態に気づいてもう何らかの防衛策をとっているかも知れない。

 勇者と一緒に旅をしたガンプオードをいる――これなら、大丈夫。


「……え?」


 ブーツが、ぬるっとした泥のようなものを踏む。

 まず見えたのが、カウンターに乗り出すように突っ伏した店主の姿だった。その背中からは黒い錐状の針が生えている。熊のような顔は驚愕の形に固まり、目が飛び出さんばかりになっている。

 さきほど駆け込んだ筈のガンプオードは床に倒れていた。いや、それはもはやガンプオードというより――前ランバルディア兵の“衣服のぼろぎれ”だ。

 他の冒険者も、常連の力自慢の脳筋馬鹿も、痩せぎす眼鏡の魔術師も、化粧の濃い女弓使いもみんな――身体のどこかしらから錐を生やし、死んでいる。

 その光景にプリンスは思考を奪われ、背後に近づく巨大な影に気づかなかった。





 どさ、と人間の男――おそらく冒険者と呼ばれる類の戦士が崩れ落ちる。男の死因になったのは後頭部に刺さった錐槍の穂先だ。赤い血が床に流れる、人間の血は触りたくない。

 プリンスを背後から殺した魔族はぐるぐると喉もとで奇妙な唸りを上げたあと、奇妙なイントネーションを持つ魔族語で店内の部下たちに呼びかける。


『分隊、整列』


 酒場のいたるところで“タールー”になったままの部下達が一斉に人型へ形を戻す。

 9人の分隊員たちが酒場の中央に集まる。

 その様子に満足げに隊長格の魔族はうなずく。


『各員、身体に異常はないな?』

『良好です』

『問題ありません、隊長』

『異常ありません』


 各々の言葉で返答を返してくる。隊長含め分隊員9人全員問題なしだ。

 唯一気がかりだったそれを確認すると、隊長格は手首に付けた奇妙な飾りの装置に話しかける。


『こちらエイス分隊、浸透成功』

 手首の飾り――妖術通信球が明滅し、司令部から言葉が届く。

『了解、粛々と作戦を遂行せよ』事務的な言葉のあとに、通信役のソーサラーが球ごしに笑うのがわかった『ああそれと十人長、落着成功の報告は君の分隊が一番のりだ、生還した暁には国王様から褒美が与えられるそうだぞ』


 その言葉を聞いて隊長格の魔族が低く笑う。

『それは素晴らしい……通信、終了』


 にやけを抑え、待機する分隊員に命じる。大声で叫ぶようなことはしない――彼らは「静かな制圧」を至上目的とした兵隊なのだから。






『全スラット兵部隊落着成功――現在のところ作戦進行に支障、ありません』


 誇らしさの混じる、といっても顔の下半分が蛸の触手になっている、笑みを浮べて通信球を操作していたソーサラーが報告する。

 それを聞いて慌しく魔族の士官たちが行き交う部屋の中央に座っていた少女がにこりと笑う。


「よろしいっ」


 その一言を聞き通信役の蛸のソーサラーは顔が真っ赤になった。感激しているやら照れているやら興奮しているのだけは確かだ。

 その様子を見て少女の横に控える糸目の女性――デアシュが呆れ笑いを浮べながら注意する。


「ああほら、口から墨が垂れていますよ、ご自重なさい」

『はっ!?た、たいへん失礼しましたっ!!!』


 口元から垂れる墨をぐしぐしと拭きながらソーサラーは慌てて仕事に戻る。

 人間に置き換えれば鼻血みたいなものだ。

 その様子に国王――チヒロはくすくすと笑い、手に持った扇子で口元を隠しながら横のデアシュに訊ねる。

 珊瑚で創られた小さな冠に人間の王が着る様なガウンを羽織っている。下は白いブラウスに黒いミニスカート。異様なまでに白く長い素足がたんたんと一定の間隔でリズムを刻んでいる。

 

「それで?デアシュ、あの玩具は一体いつ使うつもりなの?」

「あら玩具というのは酷いのではありません?プシュケが一所懸命に創った一品ですのに」

「まあいいじゃない」ぺろりと唇を湿らす「あれも投下するんでしょ?」

 わくわくとした様子の王にデアシュはあらあらと笑うと部屋――作戦室中央に浮かぶ「砂の箱庭」の前へと招く。

「砂の箱庭」は深海の砂を触媒として特定の空間の状態をリアルタイムに再現しつづける一種の立体地図だ。

 平面の地図のように文字などの情報は載せられないものの細部まで精細に立体空間を再現できることと何よりも「動き」を捉え続けることはできるのが強みだ。

 人間の技術では構想はあっても未だに実現されていない魔術装置だ。


「ごらん下さい国王様――――」


 現在は「V作戦」の領域である“ドンテカ村”が再現されている。

 ドンテカは砂海の外延に沿うように横長になっており、低い平屋の建物がほとんどで2~3階建ての建物は目立つ。村の入り口付近になるほど階層建築の建物が多くなり、逆にメルカトル大砂海側になると平屋ばかりになっていく。

 主要な建物は村長のいる役場やロードスギルドの支部、療養院、衛兵詰め所だが、それらは既にスラット兵たちの迅速な浸透作戦により沈黙・無力化されている。

 数件のある程度規模の大きい酒場――飲酒文化がない魔族たちの間では酒場は非正規戦力、つまり冒険者などが集まる場所として捉えられている――も万が一の為に制圧してある。

 冒険者という奇妙な連中の中には、騎士などよりよほど強い存在が時として存在していることがある。

 優先度は低いが排除の対象だ。


「村の機能をいち早く無力化し、現在は遭遇した人間を処理しながら」デアシュが「砂の箱庭」の一点を指し、ぐるっと円を描くようにしなやかな指を回す「案件Yの居住地を包囲する手筈になっております」

 デアシュの指先が示した地点に、だいぶ他の建物と孤立するように立った家がある。砂で再現されたそれは屋根の修繕痕が目立つ平屋で、敷地前の柵にはランドドラゴンが繋がれている。

 砂で作られたランドドラゴンは異様な気配を察知したのかマズルの長い口をぱくぱくと上下させているのが見えた。

 ふーんとつまらなさそうにチヒロが相槌を打つ。それをたいして気にせずデアシュは続ける。

 

「包囲網が完成し次第――この中心に“スルト”を投下、戦闘を開始させます」

 スラッド兵たちを象った砂の人形が家を包囲した後、大きな立像が砂で出来た家の前に立ち現れる。スラッド兵の人形に比べると一回り大きい。

 それを視てチヒロが質問する。

「あら、こんな使い方でプシュケは満足だって?」

「まぁ彼にしてみれば一対多での情報が欲しいでしょうが、どこまで勇者に通用するか、というのもまたいい情報になるんじゃないでしょうかね」

「ふーん」


 口元を扇子で隠しながらチヒロはにやりと笑う。

 ほとんど思いつきではじめたような嫌がらせ作戦だったが、シチュエーションとしては充分だ。包囲する黒衣の軍隊に燃え盛る炎、戸惑う「あの子」の前に過去からの復讐者が現れる。

 実に主人公らしい、救いのない終わり(バッド・エンド)のありそうな筋書きだ。

 チヒロが「あの子」を見つけてからずっと描き続けてきた絵図が、完成し易くなるだろう。

 いや、完成させなければいけないのだ、私は。


「……いいわ、それじゃあデアシュに任せるね」

「はい、ありがたき幸せに御座います」

 出来の良いマネキンのような人間味のない顔に上品な笑いを浮かべ、うやうやしくデアシュが跪く。

 「砂の箱庭」を離れ、いつもの部屋に戻ろうとしたチヒロだったが何か思い出したように振り向き、簡単なお使いでも頼むようにデアシュに言う。

「あ、それと勇者は殺しちゃダメだけど一緒にいる女は殺しといてね」

 デアシュが意外そうに片方の眉をあげる。

「あら、いいのですか?」

「うんいいよ、別にアレは私にはいらないし――興味も、ないからね」

 そう「害虫が迷惑だ」くらいの軽さで言い切ったチヒロだが、その黒々しい瞳の奥底には嫉妬、あるいは羨望に近い感情がちりちりと小さく燃えている。

 糸目の女――デアシュは主人のその感情を把握したが、わざわざ触れることはしない。

 それに、一見気さくに視える我が王さまの奥底には深海の怪物にも見劣りしないほど醜く、グロテスクな「何か」が潜んでいるのだから。

 そのあぎとに自ら踏み込むような真似をとるのは愚かというものだ。

 

 (どちらにせよ、わたくしには理解が及びませんわね)


「御心のままに、国王様」

 デアシュは頭を垂れ、スカートの裾を摘む。

 黒いドレスがふさ、と音を立てて広がる。

 その姿は黒を基調とした床と相まって怖気がするほど調和していた。

 高貴なものから神聖なものへの、優雅な臣下の礼、形は違えど人と魔族に大きな違いはない。


 王と従者、神と巫女、将と兵、臣と官、官と民。


 意思を持つ存在である限り権威とは存在し、権威が階級を創り上げる。

 しかし魔族もまた同じように、その権威に対して心のままに頭を垂れているかはその本人しかわからない。

 うやうやしく頭を垂れたデアシュの唇が綺麗に下弦の月を描く。

 糸のように細い瞳からは、なんの感情も読み取れない。






『月』の暦1065年

天候:晴れ 8月24日

12時10分――ドンナーの助けは期待できない時間帯

ドンテカ中心の高級宿『テレーゼ』


「……?」


 すぐに部屋に帰る気にもなれずぼう、とフリードの寝顔をみながら過ごしていたルビィは奇妙な感覚に襲われた。

 よく身に憶えのある感覚だ。身体の中に氷で出来た刃を入れられたような――危険な感触。敵対者の不意打ちの刃を危機一髪で避けたときや、勇者の不必要なまでに 強力な斬撃を不安定な姿勢で受けたとき。死の気配を孕んだ「何か」に遭遇したときこんな感覚をルビィの身体は知覚する。

 がたん、と椅子から立ち、窓の方に向かおうとして――背後から呼び止められる。


「窓の側によるのは、やめておいたほうがいいですよ“アンテローズの赤薔薇”さん」

「!?」


 眠っているものだとばかり思っていたスコルピオが上体を起こし、手首を揉んでいる。

 見解が正しければルビィがこの部屋に入り、ベットのすぐ側に座ったルビィに気づかれることなく縄を解いたことになる。

 ぼうっとしていたことは認めるが、平時なら1000ラウン先の鳥の羽ばたきを察知することの出来る自分の横でそれを成し遂げたのだから侮れない。

 微妙に得意げな顔をしているのがむかついた。


「さすが密偵、といったところか?」

「ま、これでオマンマ食べてますからね――と、狸寝入りもそろそろ疲れたんじゃあありませんか?騎士フリード」

「……なんで今このタイミングで言うのさ?」

「なっ!?フ、フリード?」

「……おはようございますマム」


 慌ててルビィが振り返るとどこか困ったような表情でフリード座っている。眠たげな感じは一片もなく、つまり眠っていなかった様子だ。

 それを認識してルビィの脳裏で部屋に入ってからの自分の動作が鮮明に呼び起こされる。顔がかああ、と熱くなるのを感じた。

 よくよく考えてみれば、自分が今のいままでしてた行動はとんでもなく恥ずかしいものだったんじゃないのか?

 1人で悩み、納得し、人の部屋に押しかけた挙句テーブルの対面に座ってじっ、と10分以上幼馴染の顔を悩ましげに見つめつづける。

 自分がとんでもなく、こう、オトメちっくな動きをしていたことに戦慄する。

 変な汗が首まで赤くしたルビィの顔をだらだらと流れていく。

 こんなときの対処法は――きっとひとつしかない。


「ちょ、ル、ルビィ?たしかに10分以上顔を見つめられるのは身動きとれなくて辛いなぁー、と思ったけど別に悪い気分じゃ、いやむしろ顔が近づいたときにいい匂いが」

 目の前のフリードの戯言は聞かずつかつかと歩み寄る。そして親子のような体格差を完全に無視して胸倉を掴むとがっくんがっくんと揺する。

「痛っ、ちょ、ぐえっ、ルビィ、首当て締まってる、絞首刑のロープより絞まってるううう」

 震える声でルビィは言う。顔は俯いているが林檎のように真っ赤だ。

「い、いい、いいかフリード、おまえは今の今まで寝ていたな?」

「いや、そんな恥ずかしがらなくても」

「おまえは寝ていたな?」

「ちょ、窒息というより首の骨のほうがしんぱ」

「寝・て・い・た・な?」

 おもちゃの人形のように、危険な角度でがっくんがっくんとフリードの首が激しく揺れる。

 うわぁ、と1人蚊帳の外のスコルピオが半笑いで後ずさる。

「は゛い゛……ね、ねでましだ……」

「発言のあとにマムをつけろ騎士フリード」

「ね、ねてましたマム!」

「宜しい――おまえは、ね、寝ていたし私はここで密偵の監視をしていた、それで間違いないな!?」

「間違いないですマム!」


 どさ、とフリードが解放される。ルビィははあふう、と荒い息をつき、背後に引きながら佇むスコルピオにぎしりと音を立てながら振り向く。


「密偵……貴様もわかっているな?」

 異様なプレッシャーに押され、慌ててスコルピオが首を縦に振る。

「も、もちろんですともアンテローズ、それよりもこの“異常な気配”に対処することで先決ですよね!」

 弛緩しきった場の空気がようやくシリアスな雰囲気を取り戻す。

 ルビィは腕を組み、鋭い視線でスコルピオに再度訊ねる。

「それで?」夜の暗闇だけが見える窓に眼を向ける「窓に近づいていけないワケはなんだ?狙撃手にでも狙われるか?」

「いいえ、違いますよ――強いていえばもっと性質が悪いものがこの村にやってきた、と僕の霊感が告げています」


 エルムトの魔法使いたちは魔術の上位系である「魔法」を操る以外にも様々なスキルを持っている。スコルピオの言う「霊感」もうさんくさい加持祈祷の出鱈目の言葉ではなく、エルムト内で確立された知覚能力のひとつだ。空気中のマナの流れを行き交う精霊の力を借り、隠蔽された秘密や遠く離れた場所の遠視、ごく近い未来ならば予測することすら出来る。

 しかし多大な精神力とマナを消費することがデメリットとして問題視されている。


「あなたが窓に近づいたその瞬間、何者かがこの部屋に人間が居ることを察知するのが視えた」胡散臭げな笑みもなく、淡々と少年は告げる「この部屋の明かりが微弱であるのが幸運でした、彼らは強い光しか認識できないようです」

「彼ら?」ルビィが形のいい眉を寄せる「彼らとはなんだ?」

「その前にそろそろ僕の商売道具を返してもらっても?丸腰だとやはり落ち着きません」


 フリードが判断を仰ぐようにルビィに目配せする。まだ顔が熱いルビィであったが、気合でそれを無視して「返してやれ」と指で指示する。

 スコルピオの杖と短剣。蔵書ビブリオが床の上を滑る――ほっ、と屈んでそれをキャッチするとスコルピオは手早く短剣を腰に差し、杖を右手にビブリオを左手に持つ。

 狙いを定める魔法杖と魔法の供給源となるビブリオ。魔法使いの基本的なスタイルだ。


「彼ら、という言い方をしましたがそれは僕にも詳しくはわかりません。僕の霊感は彼らの視界を覗きみる形で機能したので、正体については何も」

「そうか……」


 まだこの密偵の少年については完全な信頼は出来ないものの、今の村を取り巻く“異様な気配”に対処するのに魔法使いは有用だ。感覚から察した印象でしかないがこの気配を発する存在は強敵だ。凡百の人間やモンスターが出せるようなものではありえない。明確な悪意と隠し切れない禍々しさを撒き散らす存在。

 それはもしかすると――

 窓の外から、先程よりも近い距離で気配を察知した。

 ルビィの感覚が正しければ60ラウンの距離。この建物の外壁のすぐ側を「異様な気配」が移動している。

 鋭敏な感覚を持つフリードと「霊感」持ちのスコルピオもルビィと同じく気配を察知し、何よりも早く窓から見えないように、遮蔽物へと身を隠す。ルビィとフリードはテーブルと椅子の影に身を縮め、スコルピオはベッドの脇に伏せる。



 ずるずるずる……



 粘性を持つ何かが這いずるような音が薄暗い部屋の中に響く。息を吐くことすら放棄し、とにかく宿の外壁を這いずる「それ」に見つからないことだけを考える。

 指示したわけでもないのにフリードとスコルピオも同様に気配を殺すことに専念しているのを感じた。

 部屋に差し込む月明かりが奇妙なシルエットに遮られる。

 その形を形容するのは難しかった。モンスターのスライムが一番近いだろうか、不定形の液体のような塊が、意思をもって収縮しながら動いている――しかしスライムにしてはあまりにもそれは大きすぎる。

 息を潜めながらも、ルビィは何とかして「それ」の正体を探ろうとゆっくりと、爬虫類が獲物に忍び寄るほどの緩慢さでテーブルの陰から頭を出す。


「……!」


 気をしっかりと保っていなければ悲鳴をあげていただろう。「それ」の姿を視た瞬間、魂を鷲掴みにされるような恐怖を感じた。

 スライム、という形容は当たりだ。液体状の生物がちょうど窓の上を通過するのをルビィは視た。しかしスライムの緑色や青色などとは違いその色は黒。てらてらと不愉快な光沢を持ち、それでいて月の明かりを半透明な身体が通り抜けていた。

 なによりもルビィが恐怖を感じたのは「それ」の眼――眼だと理解できたのはそれが人間の眼球のごとくぎょろぎょろと部屋の中を見回しているような気がしたからだ。

 幸いルビィと2人に気づくことなくこの部屋を「無人」と判断したようだが、もしこちらの気配を察知され、窓から侵入されるようなことがあればまともな精神状態で戦えたかどうか定かではない。

 しかしこの観察には価値があった。正体についてはもう確信がもてる。


(こいつらは魔族、それも木っ端じゃない上位階級のヤツらだ)


 かつて騎士学校で習った「魔族学」の座学が蘇える。題材に反して退屈な授業だったが、真面目に授業を受けていた自分に感謝した。 


(上位の魔族になればなるほど海の生物とのユウゴウが少なくなり、最上位になればもうほとんど人間の姿と判別がつかなくなる。また、上位に数えられる魔族の中には自分の形態を海の生物というくくりに囚われることなく自由に変化させることが可能となのもいる)


 だいたい要約すればそんな内容だったはずだ。

 窓の外の気配が薄まったことを確認して、3人は安堵と共に息を吐く。

 そして小声で――無意識にそうならざるおえない。今のことについて話あう。


「……今の、わかったか?」

「十中八九、魔族でしょうね」スコルピオが汗をぬぐい、力なく笑う「しかし勇敢だ、僕ではアレを直視していたら悲鳴をあげていたかもしれない」

「何故、魔族がこんなところに」

 フリードもまた高い鼻筋を流れる汗を拭いながら疑問の声をあげる。

「奴らは、滅んだはずじゃ」

 フリードの腕がぶるぶると震えているのが見えた。ルビィは彼の肩に手をかけ、落ち着かせる。

 西部の前線に兵士として参加したフリードは魔族の恐ろしさを一度体験している。だからこそこの3人の中でもっとも精神的な動揺が強い。

「落ち着け、フリード……とにかく、こうしてはいられない。勇者と合流しよう」

「そうですね――彼らが何故ココにいて、滅びもせず存在しているかという議論は置いといてもユノ・ユビキタスが彼らの目的である可能性は高い」


 復讐。そんな二文字がルビィの脳裏に浮かんだ。

 ユノ・ユビキタスは人から忌み嫌われ、復讐の対象とされる存在であるがそれは魔族にとっても、いや、魔族のほうが「自然」な対象だ。

 なんせ勇者は魔族を殺し、その王を倒す為にこの世界にやってくる。人の同程度の知性があるのであればユノ・ユビキタスもまた奴らにとって「悪魔」だ。


「裏切り者」であり「悪魔」


 自分も姉を殺され、いつか命を奪うと誓った復讐者なのに、ルビィは何故だかあのいけ好かない、無愛想な勇者がひどく哀れに思えた。





 幸運に恵まれたのかこの宿を魔族は素通りしていったらしい。廊下に出て警戒しながら自分の部屋へと装備を取りにいったルビィだったが、人間にも魔族にも遭遇することなく目的を達成することが出来た。

 人間に関してはもともとこの宿の宿泊客が少ないのと他の泊り客が懸命――ルビィたちと同じようにベットの下などに隠れとにかく息を潜めているらしい。

 とんとん、とためしに手ごろな部屋の扉をノックしてみたルビィだったが「ひっ!」とか「見つかるだろ!?ほっといてくれ」とか怯えに怯えた声ばかりが返ってくるだけだった。

 軟弱者め、と毒づいたルビィだったが、ルビィは騎士で彼らは民だ。守る者と守られる者ではその意識は違うだろうと思い直した。

 薔薇の紋章が入った“アンテローズの双剣”を確かめるように振る。くるくるとルビィの手の中で踊った対の刃は、薄暗い照明の中でも頼もしく自己を主張している。

 刃に感情はない、恐れなど感じず、その鋭さは鈍ることはない。

 ルビィは203号室に戻ると準備を整えた2人に声を掛ける。


「待たせたな、準備は?」


 スコルピオは変わらずタクト状の杖とビブリオを持ち、窓の外を見ながら頷く。飄々とした視線には警戒は感じたが恐怖は見られない。

 この密偵の魔法使いの力は未知数だが、あの恐るべきバケモノと相対する際には不可欠だ。今回に関しては全幅の信頼で背中を預けなければなるまい。

 フリードも大丈夫そうだった。魔族にたいしての恐れはあってもそれが混乱に繋がるような感じはなく、固い表情ながらいつでも腰のピストルを抜き放てるように体勢を整えている。人間らしくないとか、そんなルビィの勝手な葛藤は今は忘れておく。

 ルビィはすうっ、と息を吸い、静かに今後の目標を確認する。


「わたしたちがやるべきことは2つ。1つは出来る限りドンテカの民を助けること。中立村の人間といえどそれに関しては変わらない。2つは勇者との合流。勇者自体は大丈夫だろうがあのハーフリーザードの女は心配だ。勇者の支援と彼女の護衛。それでいいな?」

「ランバルディア騎士団への支援要請は?」フリードが質問する「事態を大きくすべきではないだろうけど、正直ボクたちだけではこの村の平穏を取り戻すのは無理だ」

「それは優先しない、もうこの騒ぎがはじまって30分以上たったが村は静かなままだ、村の人間の騒ぎ立てすら聞こえないとなるとこの村は包囲され、連絡手段も使えない可能性が高い」

 そう、村が静か過ぎるのが気がかりだ。こんな異様な気配を放つ魔族が闊歩しているのに村が混乱に陥っていないのはおかしい。村人と旅行者は叫びながら逃げ惑い、馬は嘶き、冒険者や荒くれどもが戦ったり火事場泥棒していてもおかしくないというのに。


 その理由は魔族たちの目的がこの村を「静かに滅ぼす」ことだったとしたら?


 この静けさの理由としてしっくりくる。可能なのかわからないが奴らは村の人間全員を静かに皆殺しにし、誰にも知られることなくドンテカを占領する気なのだろう。

 そしてここを拠点としてじわじわとケイブリス、そして東部へと侵攻していく……。


(そんなコト、許すわけにはいかないな)


「多少のリスクはありますが、魔法による信号を使ってみては?」

 スコルピオが提案する。

「僕の魔法のひとつにライトボールという強い光を打ち出すものがありますが、それを空に向かって打ち上げ続けて異常を伝えましょう――ランバルディアのワイバーンライダーズかエルムトのウィッチ飛行隊が確認に来てくれるかも知れません。」


 ふむ、とルビィは思考し、いい手段だとあたりをつける。魔族をおびき寄せる危険性を大きいが救援の手がくる可能性もゼロからプラスになる。やらないよりかはマシだろう。


「なるほど、それも目標に入れよう――そのライトボールは地上からでも届くか?」

「いえ、やはり飛距離的には高い建物に昇ってから撃った方が確実に届きます」そこでエルムトの魔法使いは申し訳ないといった表情をした「本来ならばテレパシーなどで仲間に連絡もとれるのですが、今はそのビブリオを持っていません……申し訳ない」

 魔法というのは強力だが、ひとつ大きな制約がある。それは魔法を使用するには対応するビブリオがなければいけないことと、どれだけしっかり暗記していようと使用していくごとに忘却がされていくことだ。

 その理由は「魔法」という力はもともとは「神」の奇跡を無理やり人間用にダウンサイズしたもの。その為、魔法の使用で消費されるマナは人間にとって払いきれる対価ではなく、数刻と立たないうちに木乃伊と化してしまうのだ。

 その大きな対価を軽減することが出来るのが「忘却」だ。全てのビブリオに組み込まれたそれは魔法の発動時に詠唱者の頭の中にある魔法に関する記憶を消去していく。消去した分のマナは詠唱者からは支払われずにすむ、といった仕組みだ。

 習熟すれば簡単な魔法であれば自分の手足のように使うことも可能だろうが、常の魔法使いは基本的に数十回も魔法を唱えればもう一度ビブリオを読み直さなければならない。


「まぁ、仕方ない――では手ごろな建物を見つけたらそこでらいとぼーる?を上げる、そういうことにしよう」

 微妙に怪しい発音でルビィが作戦案をまとめる。

「異論ないです」

スコルピオが気合充分、といった感じで頷く。

「……大丈夫、行こうルビィ」

 少し顔の青いフリードが頷く。


「よし、それでは行こう…………仕事のはじまりだ」


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