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一輪のはな  作者: 天音空


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第4話 母を見守る愛と絆

 タクシーは施設の前にゆっくりと止まり、健一と玲子は急ぎ足で車から降りた。夜風が冷たく頬を撫でるなか、二人は言葉を交わすこともなく施設へと足を運んだ。


 入口の自動ドアが静かに開くと、健一は一歩踏み出したその瞬間に、心の奥で何かがふっと切れるような感覚を覚えた。


 施設の廊下は深夜の静けさに包まれていた。人の気配はほとんどなく、淡い灯りだけが長い廊下を照らしている。その空気の重さは、二人の足取りを自然と慎重なものにさせた。


 玲子は何度も周囲を見回しながら、母の部屋へ向かう道を確かめるように進んだ。


 一方で、健一はただ前を見つめ、早く母の元へたどり着きたいという一心で進み続けた。


 明りのついた居室のドアの前にたどり着いた二人は、そこでふと立ち止まった。健一は深く息を吐き出す。胸の鼓動が鼓膜まで伝わってくる。このドアの向こうで、母が待っている。そう思うと、手がわずかに震えた。


 そして、その鼓動が落ち着く間もなく、健一は手を伸ばし、そっとドアノブを引いた。


 部屋の中は静寂に包まれていた。窓の外に広がる桜の影が、夜の風に揺れるたび、薄い月光を部屋の中へと落としている。


 その光の下、ベッドに横たわる母、茂子の姿があった。その表情は、穏やかな安らぎに包まれているように見えた。


 健一の胸は一瞬で締め付けられた。


 玲子はその場で立ち尽くし、次の瞬間には涙があふれていた。


 美咲はベッドの傍らから、静かに近づいてきて、深く頭を下げた。


 その瞬間、健一は心の中で母の最期が訪れた事実を確信した。


 しばらく、誰も言葉を発することができなかった。


 部屋の中には、静かな時間だけが流れていた。


 やがて健一が、かすれる声で口を開いた。


「佐藤さん……母の最期はどんなふうでしたか」


 健一が言葉を探しながら切り出すと、その声は静かでありながらも震えていた。


 美咲は茂子の枕元に立ち、少し考えるような表を見せ、落ち着いた声で語り始めた。


「茂子さんは、健一さんが来ることを伝えると、最初は『うん、うん』と頷くように頭を動かしていらっしゃいました。とても小さな動きでしたが、それが茂子さんの精一杯の気持ちであったことが伝わってきました」


 その言葉を聞いた瞬間、健一の胸に熱いものが込み上げてきた。母が息絶え絶えになりながらも健一の到着を待ち続けていたこと、その微かな動きがどれほど彼を求めていたかを感じさせた。


 美咲は続けた。


「でも次第に、茂子さんは頭を左右に振るようになりました。それはもう待てないという気持ちだったのかもしれません。そしてその動きも徐々に弱まり、最後には動かなくなりました」


 玲子は涙を流しながら呟いた。


「お母さん……ずっと兄さんを待っていたのよね……」


 健一は静かに頷いた。母が最後まで自分を思ってくれていたことを、痛いほど感じていた。


 美咲はさらに続けた。


「最期の瞬間、茂子さんは大きく息を吐かれました。その息はこれまでの浅い呼吸とは違い、深く力強いものでした。それが茂子さんにとっての、最期の一息だったのです」


 その言葉に健一の涙は止まらなくなった。母の息がこの世を去る瞬間を美咲が見守った事実が、彼の胸を締め付けた。それは感謝と後悔、そして深い尊敬が入り混じった涙だった。


 美咲は茂子の表情について語った。


「茂子さんの顔は、とてもたおやかでした。まるで長い旅路を終えて安らぎの中にいるような、そんなお顔でした」


 健一はその言葉に小さく頷くと、母の顔を見つめた。


 茂子の穏やかな面持おももちには、長い旅路を静かに締めくくる者の誇らしさが漂い、その口元には、まるで誰かの名をそっと呼んだあとのような、かすかな笑みが咲いていた。


 健一は胸の内で、そっと語りかける。


 ――お母さん。

 

 僕を待っていてくれて、ありがとう。


 ――これまで、本当にありがとう。


 玲子は、母の手をそっと握りしめたまま、声を震わせながら呟いた。


「本当は、あのとき謝りたかったの」


 涙が止まらない。


「ごめんね……遅くなって、ごめんね」


 声が崩れる。


「お母さん……大好きだよ」


 涙が頬をつたい、母の手の上にこぼれ落ちる。


 健一も隣でそっと手を添える。


 目を閉じ、祈るように母の手を包み込んだ。


 窓の外では、桜の花びらが静かに舞っている。


 ふたりはその手を離さず、母とつながったまま、寄り添っていた。


 ――まるで時が止まったかのように。


 美咲の眼には、ふと一瞬、若かりし頃の茂子の傍らで無邪気に笑い合う幼い兄妹の姿が重なって見えた。


 静寂の中、夜風が桜をかすかに揺らす。


 美咲は目を伏せると、そっと部屋を後にした。


 兄妹が、母との 最期のひとときを静かに過ごせるように。


【完】

※最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

 この物語が少しでも、読者の皆さまの心に届いたならば幸いです。

 次回は誰もが持つ“秘密”が鍵になる、病院で起こるミステリーを予定しております。

 どうぞよろしくお願いいたします。

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― 新着の感想 ―
ひとりの人間の「看取り」に関わらなければならない人たちの苦しみを伴う心の動きがよく伝わってきました。切迫しつつもしだいに死を受容していく登場人物たちは胸に迫るものがあります。最終部分で最期の様子が再び…
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