第2話 思い出と感謝の道程
健一は電話を切ると、しばらくその場に立ち尽くしていた。手のひらの中で、スマートフォンを強く握りしめる。
目を閉じると、美咲から告げられた言葉が何度も脳裏をよぎる。
――そろそろかもしれません。
そのたびに、胸の奥がじわりと締めつけられるようだった。
やがて、深く息を吐き出すと、3つ年下の妹・玲子に電話をかけた。
「玲子、健一だ。たったいま施設から連絡が来た。母さんが……もう、そろそろみたいだ」
電話の向こうで、玲子は一瞬言葉を失ったが、すぐに短く答えた。
「分かった……すぐ行く」
その声には、現実を受け止めようとする強い意志が込められていた。
二人はタクシーに乗り込み、施設へと急いだ。
車内は不思議なほど静かだった。
健一はシートに身を沈め、窓の外に視線を移した。街灯に照らされた夜桜が、淡く車窓を流れてゆく。
車の揺れが、どこか遠い記憶のなかへと彼を連れていった。
そこにいるのは、小学生だった頃の自分と、若き日の母・茂子の姿だった。
父が突然の病でこの世を去り、母は涙を見せる間もなく、家計と子育てを一身に背負った。小柄な体で昼は事務の仕事、夜はミシンを踏んで内職を続ける日々。
眠る前に、部屋の奥から聞こえてくるカタカタという針の音が、いつしか健一にとって一番安心できる子守唄になっていた。
目を覚ますと、台所にはいつもの母の背中があった。湯気の立つ味噌汁と、ぎゅっと握られた塩むすびがテーブルに並び、幼い彼はその香りに包まれて一日を始めた。
その手のぬくもりと、大きな背中は、記憶の中では今も鮮やかに残っている。けれど、気がつけば、その背中は小さく、丸くなっていた。
それは、母が重ねてきた年月のかたちであり、家族を守り抜いてきた証そのものだった。
ふいに玲子の声が、車内の静けさを破った。
「お母さんって、いつも自分のことより私たちを優先してたよね……」
健一は窓の外を見ながら、静かに頷いた。
「ああ。俺たちがここまで来れたのは……母さんのおかげだよな」
玲子は小さく笑い、すぐに目を伏せた。
――思い出されるのは、風邪で寝込んだ夜、氷枕を額にのせてくれた母の手。失恋して泣いた時、無言で背中にそっと添えられた手の温もり。
そして、叱るよりも、黙ってうつむく母の姿の方が、胸に深く刺さった。
車は交差点で赤信号に止まった。
フロントガラスの向こうで、街灯に照らされた桜が静かに揺れている。
健一は深く息を吐いた。
玲子が再び口を開く。
「小学校の遠足の日、雨が降ったこと覚えてる?」
「……ああ」
「私、行きたくないって泣いたの。そしたら母さん、傘をさして桜並木を歩いてくれたの。『雨の日の桜も綺麗よ』って」
玲子は小さく笑った。
だが、その笑みはすぐ涙に変わる。
「母さんの傘、小さくてね。私をかばって……自分はずぶ濡れだった」
健一は言葉を失った。
どんな時でも、自分たちを先に考える人だった。言葉よりも背中で、行動で、愛を示してくれた。
「母さんが働きすぎて熱を出した夜のこと、覚えてるか?」
健一がぽつりと口を開いた。
「お前、まだ小さかったけど……俺は小学生なりに必死で、かかりつけの医院に電話したんだ。夜中なのに松田先生が来てくれて……」
玲子は静かに頷く。
「そのとき先生に聞いたんだ。どうして医者になったのかって」
「うん」
「先生は、『先生はね、子どものころに病で母親を亡くして、それが医者になった理由なんだよ』って。」
「そして言ったんだ。『健一君、君も医者にならないかい』って」
玲子は目を丸くした。
「……それが、お兄ちゃんが医者を目指したきっかけ?」
「そうだ」
「初めて聞いた」
玲子は静かに窓の外へ視線を移した。
「高校のとき……一度だけ母さんにひどいことを言ったの」
健一は黙って耳を傾けていた。
「『私なんか産まなきゃよかったのに』って……」
玲子の声が震える。
「本当はずっと謝りたかった。でも母さん、私がひどいこと言っても、余計にやさしくなるから……言えなくて」
玲子は唇を噛みしめ、そっと涙をぬぐった。
「大学を出て、就職が決まったとき、手紙を書いたの。でも結局渡せなかった……」
小さく息を吸う。
「今夜こそ、ちゃんと伝えたいの。『ありがとう』も、『ごめんね』も……全部」
健一は頷きながら、小さく微笑んだ。
――言葉にしなければ、伝わらない想いがある。
そう思った。
――37年前、医大を志したあの日もそうだった。母は一言も反対しなかった。
ただ、小さく頷いて、少しだけ笑った。
貧しい暮らしのなかで、健一の夢は、決して容易に背負えるものではなかったはずだ。 それでも母は、昼は事務仕事に、夜は針仕事に追われながら、決して弱音を吐かなかった。
台所に立つ母の背中は、幼い健一にとって、世界でいちばん大きく、温かいものだった。
――卒業の日。
春霞にぼんやりと煙る校門の前で、母は彼を待っていた。小さな花束を胸に抱え、風にゆれる髪を押さえながら、 涙を浮かべ、それでも笑っていた。
「よく頑張ったね、健一」
その声は、長い年月をともに越えてきた思いの強さと、満ち足りたやさしさを湛えていた。健一は何も言えなかった。ただ「ありがとう」と絞り出すように呟き、その手を両手で包み込むように握った。
それはもう少年の手ではなかった。医師として歩き始める男の手だった。
けれど、胸の奥にあった思いは、幼い日のままだった。
真新しい白衣に袖を通した朝、鏡に映る自分を見ながら、小さく呟いた。
――どうか、この姿を母に見せたい。母さんの、あの笑顔が見たい。
成功でも名誉でもない。
ただ、あの人の顔にもう一度、心からの微笑みを咲かせたかった。
それだけが、健一の変わらぬ願いだった。
やがてタクシーが施設の近くに差しかかる。風はなく、夜の静けさがいっそう濃くなっていく。
街灯が歩道に咲き始めた桜を照らしていた。その下を車が通り過ぎるたび、桜の影が揺れ、窓越しに淡い幻想のような光が差し込んだ。
施設の門が見えてきた。
健一の胸が再び強く締めつけられる。
「お母さんに、ちゃんと言葉を届けようね」
玲子が小さく言った。
健一は深く頷く。
「うん。ちゃんと言おう」
言葉にならない想いが胸にこみ上げる。
――ありがとう、ごめんね、大好きだよ。
そのどれもが、簡単には口にできない。でも、それでも伝えたい。
タクシーが施設の前に停まり、二人は静かに車を降りた。
この施設の窓のどこかに、母がいる。
夜風がふっと吹き、どこからか桜の香りが運ばれてきた。
玲子はその香りに、遠い春の日の記憶を重ねながら、静かに目を閉じた。
母が待っている部屋へと向かう足取りは重い。
兄と妹は、心に抱えたすべての想いを母に届けるため廊下を歩き始めた。




