表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

婚約者にナタを突き立てられた第二王子、「愛が深いな」と勘違いする

作者: 江合 花果
掲載日:2026/04/25

第二王子エドガー・フォン・アルヴァレスの朝は、だいたい誰かの胃痛から始まる。


今朝の担当は、クラウス・フォン・エーベルハルトだった。


「クラウス」


「はい、殿下」


「今日の俺は、昨日より美しいと思わないか」


「胃が痛いので、視界が歪んでおります」


「そうか。俺の美しさで目が眩んだか」


「胃です」


「照れるな」


「胃です」


クラウスは、手元の胃薬を見た。


一包目は起床直後に飲んだ。


二包目は着替え中に飲んだ。


三包目は、殿下が鏡に向かって「王族とは光そのものだな」と言った瞬間、粉のまま口に流し込んだ。


効いている気はしない。


ただ、胃薬に対する信仰心だけが育っている。


「今日は定例茶会だったな」


「はい。リーゼロッテ様との、婚約者同士の交流茶会でございます」


「婚約者同士の交流茶会」


 


エドガーは満足げに頷いた。


「なんと甘美な響きだ。俺と彼女の未来を育む、愛の庭園だな」


「現場の認識としては、殿下の失言、侯爵令嬢の殺意、私の胃痛を茶菓子に添える王宮公認の耐久試験です」


「クラウス。お前は本当に詩的だな」


「悲鳴です」


クラウスは王宮に仕えて七年になる。


この七年で、多くのことを学んだ。


外交文書の整え方。


貴族同士の揉め事の収め方。


王族の失言を、できるだけ失言ではなかったことにする言い換え技術。


礼服についた菓子くずの目立たない払い方。


胃薬の粉を水なしで飲む技術。


そして、正しいゴミの分別。


世の中には、燃えるゴミ、燃えないゴミ、資源ゴミ、粗大ゴミ、そして第二王子殿下の御発言という、燃やすと国際問題になり、埋めると法務局が掘り返し、資源にはならず、粗大ゴミ扱いすると不敬にあたる、極めて扱いに困る廃棄物がある。


「リーゼロッテも幸せ者だ」


 


エドガーは鏡の前で髪を整えながら言った。


「俺の婚約者になってから、彼女はますます美しくなった。やはり女は、優れた男に選ばれて初めて磨かれるのだな」


 


クラウスは無言で胃薬の袋を破った。


「殿下」


「なんだ」


「朝から人類史の汚点を煮詰めた汁でうがいしたような御発言をなさらないでください」


「なるほど。俺の言葉は歴史に残るということか」


「汚点の方を拾ってください」


「照れるな」


「怒っています」


「お前の怒りはいつも情熱的だ。俺への忠誠が熱いのだな」


「その解釈能力を、暗号解読班に寄付していただけませんか」


エドガーは笑った。


この男は皮肉を浴びると艶が増す。


雨に濡れた薔薇なら美談だが、現実には毒茸である。


「クラウス。お前は俺に厳しい」


「殿下が現実に甘すぎるので」


「分かっている。お前は俺を誰よりも理解しているからこそ、俺を叱るのだ」


「誤解です」


「不器用だな」


「会話ですら殿下の都合で拉致されるのですか」


「よし。今日も調子がいい」


「悪いのは世界です」


クラウスは、ふと七年前を思い出した。


伯爵家の三男だった彼は、家の中で便利な調整役だった。


兄の失敗を片づけ、父の書類を整え、母の社交の根回しをし、使用人同士の揉め事まで収めた。


褒められなかった。


気づかれもしなかった。


できて当然。


我慢して当然。


そういう立場だった。


そんなクラウスに、まだ少年だったエドガーだけが言った。


『お前、すごいな。誰もできないことを全部やっているではないか』


その一言は、確かに嬉しかった。


その直後、エドガーは胸を張って言った。


『なら、お前は俺の側に来い。俺は将来、王になる男だ。お前ほど使える男は、俺の隣に置くべきだ』


言い方は最悪だった。


だが、初めて自分の能力を正面から見られた。


それは事実だった。


だからクラウスは今もここにいる。


いるのだが。


七年前の自分に言いたい。


感動するな。


逃げろ。


それは救済ではない。


災害指定だ。


「クラウス、どうした。胸を打たれた顔をしているぞ」


「過去の自分の胸ぐらを掴んでおりました」


「俺に出会えた幸福を噛み締めていたのだな」


「だいたい逆です」


「行くぞ。リーゼロッテが俺を待っている」


「殿下」


クラウスは真顔になった。


「本日の茶会では、リーゼロッテ様に対して、無礼、暴言、所有物扱い、侯爵家への干渉、第一王子殿下への当てこすり、努力を嘲笑する発言、女性蔑視、王宮法務局が喜びそうな比喩、ならびに後世の歴史家が項目名に困る一切の御発言をお控えください」


「注文が多いな」


「全部、最低限です」


「心配するな。俺は彼女を愛している」


「それが一番怖いのです」


エドガーは爽やかに笑った。


今日も何一つ伝わっていなかった。


     ◇


王宮庭園の東屋には、すでにリーゼロッテ・フォン・グラナート侯爵令嬢が座っていた。


銀の髪。


薄紫の瞳。


濃紺のドレス。


白磁の肌。


微笑みは上品で、所作は完璧。


外見だけなら、まさに王子の婚約者である。


外見だけなら。


彼女の膝横には、小さな革鞄が置かれていた。


上質な革で作られた、美しい淑女の鞄。


ただしクラウスは知っている。


あの中に入っているのは、刺繍道具ではない。


法令集。


失言帳。


撤回文の雛形。


侯爵家顧問弁護士への速達用封筒。


そして折りたたみ式の小型ナタである。


なぜ折りたたむ必要があるのか。


なぜ持ち歩く必要があるのか。


なぜ貴族令嬢の鞄が、王宮警備規則に正面から議論を挑んでいるのか。


クラウスには分からない。


分かりたくもなかった。


「待たせたな、リーゼロッテ」


 


エドガーは当然のように椅子へ座った。


婚約者が先に待っていたなら、立って挨拶すべきである。


しかしエドガーは座った。


世界が自分を中心に回っていると信じる男にとって、立ち上がるとは大地に敗北する行為なのだろう。


「お待ちしておりました、エドガー殿下」


 


リーゼロッテは優雅に礼をした。


声はやわらかい。


微笑みも穏やか。


その横で、侍女が無言で羽ペンを構えた。


記録体制である。


早い。


開戦前に死傷者名簿を用意するような練度だった。


「今日も美しいな」


「恐れ入ります」


「俺の婚約者となってから、君はますます磨かれている」


「まあ」


リーゼロッテは微笑んだ。


「朝から人類史の汚点を丁寧に再加熱したようなお言葉ですこと」


「それほど熱のこもった愛情表現か」


「殿下。今のは濃縮された嫌悪です」


 


クラウスは即座に言った。


「クラウス、嫉妬か?」


「通訳です」


「俺たちの愛に割って入るな」


「火災報知器です」


エドガーは優雅に紅茶へ手を伸ばした。


「リーゼロッテ。君の知性は素晴らしい」


「ありがとうございます」


「だが、少し強すぎる」


「強すぎる、でございますか」


「ああ。女の知性は、男を支える程度が美しい。君のその鋭さも、いずれ俺の妻として、ちょうどよく整えてやろう」


静寂。


次の瞬間。


ドンッ!


茶卓にナタが突き立った。


銀の匙が跳ねた。


紅茶の表面が震えた。


侍女のまつ毛も震えた。


クラウスの胃は、震える段階を超えて祖先に祈り始めた。


リーゼロッテは、ナタの柄に手を添えたまま、にこりと微笑んだ。


「失礼いたしました。うるさいハエがいましたので」


庭園に、ハエはいなかった。


いたのは王子である。


エドガーは、机に突き立ったナタを見た。


それから、晴れやかに笑った。


「俺たちの会話を邪魔するハエを素早く処理するとは。リーゼロッテ、君は本当に俺との時間を大切にしてくれているんだな」


「殿下」


 


クラウスはこめかみを押さえた。


「今処理されかけたのは、ハエではなく御身です」


「何を言う。リーゼロッテが俺を傷つけるはずがない」


「物理的には十分可能です」


「物理ではなく愛の話をしている」


「その愛が物理的に机へ刺さっております」


リーゼロッテはナタを引き抜いた。


机には、きれいな切れ込みが残った。


クラウスは瞬時に計算した。


修繕費。


報告書。


警備責任。


ナタ持ち込みの扱い。


第二王子の解釈修正。


どれから片づけても地獄だった。


「リーゼロッテ様」


「はい、クラウス様」


「せめて王宮備品への攻撃はお控えください」


「申し訳ございません。次からは備品ではないものを選びます」


「その言い方ですと殿下になります」


「はい」


「はい、ではなく」


クラウスは真剣だった。


リーゼロッテも真剣だった。


エドガーだけが幸せそうだった。


「ふっ。二人とも仲が良いな。俺を中心に会話が弾んでいる」


「殿下を中心に事件が起きているのです」


「似たようなものだ」


「似ていません」


「リーゼロッテ、俺は君のそういう激しいところも愛しているぞ」


リーゼロッテは、鞄から黒革の帳面を取り出した。


表紙には金文字でこう書かれている。


『第二王子殿下御発言記録 第三十一巻』


クラウスは思わず声を漏らした。


「三十一巻……?」


「はい」


 


リーゼロッテは穏やかに答えた。


「前回で三十巻が満了いたしましたので」


「早くありませんか」


「殿下が多作でいらっしゃるので」


「俺の言葉を三十一巻も記録しているのか」


 


エドガーは胸に手を当てた。


「愛が深いな」


「裁判資料です」

 クラウスは言った。


「用途は未定です」

 リーゼロッテは言った。


「未定が一番怖いのです」

 クラウスは言った。


エドガーは満足げだった。


「リーゼロッテ。俺の言葉は君にとって宝石のようなものなのだな」


「ええ、殿下」


 


リーゼロッテは羽ペンを取った。


「石には違いございません。主に投げつけたい種類の」


「情熱的だ」


「危険物です」


クラウスはもう、ほとんど反射で訂正していた。


     ◇


茶会は続いた。


続いてしまった。


王宮の規則では、婚約者同士の定例茶会は最低でも半刻。


長い。


あまりにも長い。


クラウスには、刑罰の一種に思えた。


「ところでリーゼロッテ」


「はい、殿下」


「君は五カ国語を操るそうだな」


「ええ。少々」


「俺の婚約者として相応しい努力だ」


「ありがとうございます」


「だが安心しろ。結婚後は、俺が君に必要なことと不要なことを選んでやる」


リーゼロッテの羽ペンが、ぱきりと折れた。


侍女が無言で替えを差し出した。


慣れている。


速い。


もはや羽ペン係ではなく、補給兵である。


「不要なこと、でございますか」


「ああ。女があまり外国のことに詳しすぎると、余計な考えを持つ。王妃となるなら、俺の言葉だけを信じればいい」


クラウスは目を閉じた。


殿下。


それは駄目です。


それは、いけません。


それは、異世界宮廷の倫理観でも普通に駄目です。


「殿下」


「なんだ」


「今の御発言は、女性蔑視、知的活動への不当干渉、王妃教育への誤解、そして殿下の言葉だけを信じた場合の国家崩壊リスクを含みます」


「国家が俺を信じるなら問題ない」


「国家にも選ぶ権利があります」


「リーゼロッテ。君が五カ国語を学んだのは、俺の国際的活躍を支えるためだろう」


「いいえ」


リーゼロッテは、黒革の帳面に何かを書き込んだ。


「外国の残虐事件の記録を、原文で読むためです」


「知的好奇心が強いな」


「はい。特に、思い上がった男性が最終的にどのような形で静かになるかについては、地域差が興味深く」


「俺のような男の活躍を研究しているのか」


「末路を」


「未来を見ているのだな」


「終点を」


「同じだ」


「同じではございません」


 


クラウスは言った。


「殿下、今の会話で一致している点は『殿下が対象である』ことだけです」


「つまり俺は彼女の研究対象か」


「危険人物としてです」


「愛は時に危険だ」


「危険なのは殿下の理解力です」


エドガーは気にしない。


彼の耳には、都合の良い言葉だけが王室専用の赤絨毯を敷かれて届く。


「君は本当に勉強熱心だ。だが、結婚後は少し落ち着くといい。もっと柔らかく、従順に、俺の後ろを三歩下がって」


ドンッ!


今度はナタではない。


リーゼロッテの手元にあった角砂糖が、握り潰されて粉になった。


白い砂糖の粉が皿の上に散る。


「失礼いたしました」


 


リーゼロッテは微笑んだ。


「手元に小さな不快感がございましたので」


「菓子にまで厳しいのだな」


「殿下。今粉砕されたのは砂糖ですが、比喩的には御発言です」


「つまり俺の言葉は甘いと?」


「粉々です」


「甘く砕けた愛か」


「殿下、なぜ毎回、死地に花束を持って戻るのですか」


クラウスは疲れてきた。


まだ半刻の半分も過ぎていない。


人生は長い。


しかしこの茶会はもっと長い。


「リーゼロッテ」


「はい、殿下」


「君は俺に対して少々冷たい」


「自制しております」


「つまり本当は熱いのだな」


「本当は刃物です」


「愛の刃か」


「物理の刃です」


「殿下、今リーゼロッテ様が分かりやすく警告してくださいました」


「照れ隠しだろう」


「殿下の世界では、殺意も照れ隠しなのですか」


「クラウス。恋を知らない男はこれだから困る」


「知っているので困っています」


リーゼロッテは静かに紅茶を飲んだ。


その仕草は美しい。


しかし、カップを置く音が妙に低かった。


クラウスは聞かなかったことにした。


     ◇


「そうだ、リーゼロッテ」


 


エドガーが突然、何かを思いついた顔をした。


クラウスの背筋が冷えた。


この顔は駄目だ。


エドガーが何かを思いつく時、だいたい国のどこかに迷惑が発生する。


「殿下」


「なんだ」


「今からの御発言を、一度心の中で法務局に提出してから口にしてください」


「必要ない。俺の言葉は法より先にある」


「だから問題なのです」


「結婚後、侯爵家の領地運営にも俺が助言してやろう」


クラウスの呼吸が止まった。


リーゼロッテの羽ペンが止まった。


侍女の目が光った。


エドガーは気持ちよさそうに続けた。


「グラナート侯爵家は古くから豊かな領地を持つ。だが、女である君には難しいことも多いだろう。俺が夫として導けば、侯爵も喜ぶはずだ」


終わった。


クラウスは思った。


ナタが机に刺さった時よりもまずい。


婚約者の実家の領地運営に、王子が結婚後に関与する。


それを軽々しく口にする。


しかも侯爵家の長女を、女だから難しいと決めつけた上で。


これは失言ではない。


火種である。


「さらに、侯爵家の財も、いずれ俺の王位への支えとなる。君も誇らしいだろう」


火種に油を注いだ。


いや、油ではない。


油田の権利書を燃やした。


リーゼロッテは静かに微笑んだ。


その微笑みを見て、クラウスは確信した。


ナタではない。


今日は法で刺す気だ。


「記録を」


 


リーゼロッテが言った。


侍女が、待っていましたと言わんばかりに羽ペンを走らせた。


あまりにも速い。


多分、趣味だ。


「リーゼロッテ様」


 


クラウスは慎重に声を出した。


「念のため確認させていただきますが、その記録は」


「侯爵家に提出いたします」


「ですよね」


「必要であれば、王宮法務局にも」


「ですよね」


「さらに、国王陛下、正妃殿下、第一王子殿下にも確認をお願いする形になるかと」


「ですよね!」


クラウスの声が裏返った。


エドガーは眉をひそめた。


「待て。なぜ兄上が出てくる」


 


リーゼロッテは淡々と言った。


「第二王子殿下より、婚姻後における侯爵家領政および財産への関与を示唆する御発言がございました」


「俺は助言すると言っただけだ」


「同時に、侯爵家の財を御自身の王位への支えと表現なさいました」


「事実だろう」


「殿下」


 


クラウスは低い声で言った。


「それは侯爵家の財産を、殿下個人の政治資金のように扱う御発言です」


「俺は王子だ」


「だから大問題なのです」


「俺ほどの男に使われるなら、金も喜ぶ」


「金に感情を与えないでください」


「金も俺の価値を分かる」


「分かる金は偽造貨幣です」


リーゼロッテは鞄から一枚の羊皮紙を取り出した。


クラウスは嫌な予感がした。


嫌な予感しかなかった。


「リーゼロッテ様、その書類は」


「撤回文でございます」


「用意が早い」


「殿下でしたら、いずれこの程度の御発言はなさるかと」


「予測済みでしたか」


「ええ」


クラウスは空を見上げた。


天気は良い。


王国は、今日も表面上は平和だ。


その平和の下で、侯爵令嬢は婚約者の失言を予測し、撤回文を持参している。


この国は本当に大丈夫なのだろうか。


羊皮紙には、整った文章が書かれていた。


本日の発言は、侯爵家領地および財産への干渉意思を示すものではない。


第二王子個人の軽率な発言であり、侯爵家ならびに関係各位に対し非礼を詫びる。


今後、婚姻関係を理由に、侯爵家の内政および財産に不当な関与を行わない。


完璧だった。


完璧すぎて怖かった。


「殿下、署名を」


 


クラウスが言った。


「なぜ俺が」


「署名しない場合、先ほどの御発言記録がそのまま提出されます」


 


リーゼロッテは優しく告げた。


「父は喜ぶかもしれません。最近、法務局との文通が少なくて退屈しておりましたので」


エドガーの顔が、わずかに曇った。


グラナート侯爵。


法と財務に強く、王宮内でも恐れられる男である。


笑顔で相手の逃げ道を塞ぎ、書類で首を絞める名手。


娘がナタなら、父は法令集である。


「……クラウス」


「はい」


「これは、その、少し大げさではないか?」


「殿下にしては珍しく、危機の匂いを嗅ぎ取られましたね」


「褒めるな」


「褒めていません。早く署名を」


「しかし俺は、未来の王として」


「未来の王は、現在の撤回文に署名してください」


「俺の言葉は、いつも大きく扱われすぎる」


「殿下の言葉が大きいのではなく、被害が大きいのです」


「リーゼロッテ。君は本当に俺の言葉を大切にするな」


「ええ。証拠は鮮度が大切ですので」


「愛も鮮度が大切だ」


「殿下、会話に戻ってきてください」


エドガーは不服そうに羽ペンを取った。


署名した。


クラウスは、今日初めて安堵した。


小さな勝利である。


いや、勝利ではない。


火事が小火で済んだだけである。


しかし、この職場ではそれを勝利と呼ぶ。


「ありがとうございます、殿下」


 


リーゼロッテは署名済みの撤回文を確認し、満足げに頷いた。


「これで本日の御発言は、正式な失言として美しく整理されました」


「美しく?」


「殿下。失言の部分を聞いてください」


 


クラウスが言った。


「リーゼロッテ。君は俺の言葉をそこまで丁寧に記録し、整理しているのだな」


 


エドガーは、なぜか感動した顔をした。


「俺たちの物語も、ずいぶん長くなった」


「第三十一巻ですものね」


「愛の記録だな」


「国家的反省材料です」


「ふっ。照れるな」


「照れておりません」


リーゼロッテは、にこりと微笑んだ。


その笑顔は美しい。


美しいが、クラウスには分かった。


彼女は今、たぶん心の中で何かを数えている。


「殿下、帰りましょう」


「まだ茶は残っている」


「これ以上いると、第三十二巻が始まります」


「もう三十二巻か。俺たちの仲も深まったものだ」


「被害記録です」


「記録されるほどの男ということだ」


「提出されるほどの男です」


エドガーは立ち上がった。


立ち上がるだけで、クラウスは少し感動した。


人は成長する。


いや、今朝は座ったまま挨拶していた。


成長していない。


「リーゼロッテ。また会おう」


「ええ、殿下」


 


リーゼロッテは優雅に礼をした。


「次回までに、わたくしもさらに準備を整えておきます」


「俺との未来に向けてか」


「はい」


クラウスは少し驚いた。


珍しく肯定した。


リーゼロッテは続けた。


「どの書式が最も美しく殿下を追い詰められるか、研究してまいります」


「愛の形は人それぞれだな」


「殿下、走りましょう」


「王族は走らん」


「では早歩きで。生存本能の範囲内で」


クラウスはエドガーの背を押すようにして、東屋を後にした。


背後で、ナタが鞘に収まる小さな音がした。


聞かなかったことにした。


     ◇


東屋を離れてしばらくして、エドガーが足を止めた。


「クラウス」


「はい」


「リーゼロッテは、俺のことが好きだな」


「なぜ今その結論になるのですか」


「俺の言葉を三十一巻も残している」


「怨念も長期保存されます」


「撤回文まで用意していた」


「危機管理です」


「俺の発言を誰よりも予測している」


「被災地では避難経路を確認します」


「彼女は俺を理解している」


「理解した上で法的に包囲しています」


エドガーは腕を組んだ。


真剣な顔だった。


真剣であるほど、嫌な予感がした。


「つまり、俺たちは相性がいい」


「殿下」


「なんだ」


「恋愛を、裁判準備と同じ棚に置かないでください」


「愛とは証明されるものだ」


「その証明方法が証拠提出なのです」


「ならば俺も、彼女への愛を示さねばならんな」


クラウスの胃が、ぎゅっと縮んだ。


「殿下」


「なんだ」


「その愛は、口外前に私へ提出してください」


「なぜだ」


「検閲します」


「不敬だぞ」


「救命です」


「では、今ここで言おう」


「言わないでください」


「リーゼロッテ、君の殺意すら俺には可憐な花だ」


「言った!」


「どうだ」


「本人のいない場所で言っても胃が痛い!」


「次回、本人に伝えよう」


「次回までに私が退職します」


「駄目だ。お前がいないと、俺の素晴らしさを正しく伝える者がいない」


「私はだいたい訂正しています」


「だから必要なのだ」


エドガーは、迷いのない顔で言った。


「お前は俺の失言を人の言葉に翻訳できる」


「殿下」


 


クラウスは、深く息を吸った。


「それは失言である自覚があるということですか」


「ない」


「ないのに今、失言と言いましたよね」


「お前がよく言うから覚えた」


「犬の方がまだ意味を覚えます」


「クラウス、口が悪いぞ」


「胃が悪いのです」


エドガーは笑った。


「まあいい。今日も良い茶会だった」


「王宮備品が損傷し、撤回文に署名し、侯爵家に報告寸前でした」


「恋には障害がつきものだ」


「障害物を自作しないでください」


「次回は花でも贈るか」


「花だけにしてください。言葉を添えないでください」


「なぜだ。花は言葉を求めている」


「花を巻き込まないでください」


「なら、短くする。『君の殺意に乾杯』」


「最悪です」


「『君の刃は俺だけに向いている』」


「恐怖です」


「『俺のために研がれた愛』」


「犯罪詩集です」


「難しいな」


「難しくしているのは殿下です」


クラウスは歩きながら、心の中で祈った。


神よ。


どうか次回の茶会までに、殿下の口に理性を。


無理なら、せめて自分の胃に鉄板を。


     ◇


二人が去った後。


王宮庭園には、再び静けさが戻った。


リーゼロッテは冷めかけた紅茶を一口飲んだ。


そして、黒革の帳面を開く。


「本日、殿下を心の中で処理した回数」


 


侍女が静かに答える。


「三十六回でございます、お嬢様」


「累計は」


「千二百四十一回でございます」


「増えましたわね」


「本日は、侯爵家の財産に言及なさいましたので」


「ええ。とても新鮮でした」


リーゼロッテは、うっとりと微笑んだ。


「婚約者ですもの。近くにいると、日々、新しい発見がありますわ」


「お嬢様。実行は」


「まだ早いわ」


リーゼロッテは、ナタの柄を指先で撫でた。


「殿下は、生きている方が面白いもの」


侍女は少し考えた。


「では、次回のお鞄には何を」


「法令集、失言帳、撤回文、侯爵家宛の速達封筒」


「いつも通りでございますね」


「それと、花瓶を」


「花瓶、でございますか」


「ええ」


 


リーゼロッテは美しく微笑んだ。


「もし殿下が花を贈ってくださるなら、飾る場所が必要でしょう?」


「お優しいですね」


「当然ですわ」


リーゼロッテは、机に残ったナタの傷を眺めた。


「花は、罪がありませんもの」


その微笑みは、どこまでも上品で。


どこまでも優雅で。


そして絶対に敵にも味方にも回したくない種類のものだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ