序章―1話 沈む夢
――息苦しい。呼吸が浅い。
必死に息を吸っては吐き出していく。当たり前のように出来ていた呼吸のやり方ももはや分からない。
これはストレスが限界値に来た時にたまに起こる発作のようなもの。別に何か大きな出来事があったわけじゃない。ただ、ただ生きていただけ。それだけでこうなってしまう俺は、この世界で生きるのに向いていないのだろうか。なんて、こんな気持ちの悪いことを考えてしまうのは、果たして本当に病気のせいなのだろうか。
俺は処方された薬を水で流し込み、溜めていた湯船に肩まで浸かった。
「明日、仕事行きたくないな……」
温まったおかげか、薬のおかげか、少し呼吸も落ち着いてきた頃。俺は突然襲われた眠気に従って、瞼を閉じた。
――ザザッ。――ピッ、ピッ。――ピー。
「مرحبًا، لي se カ い へ」
耳元で何かが囁いた気がした。
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窓から差し込む光が、ちょうど俺の顔を照らしている。その眩しさから自然と目が開く。
「やばい! 遅刻する! アラームかけ忘れたか!?」
俺はベッドから飛び起き、枕元に置いてあるスマホで時間を確認しようと振り返ると――
「リュー様、おはようございます。今日はいつもよりお早いお目覚めですね」
そこには、メイド服を着た若い女性が立っていた。
「え!? 誰!?」
見たことのない女性がこちらを見て微笑んでいる。女性は昔ながらのメイド服を着ており、その背中から差し込む光がまるで後光のように輝き、見惚れるほど美しかった。
「ふふっ、寝ぼけていらっしゃるのですか? しっかりしてくださいね。今日はリュー様の10歳のお誕生日なのですから」
「え? 10歳?」
ふと視線を横にやると、俺の目には鏡に映る少年が飛び込んできた。
「え!?」
俺はベッドから飛び起き、急いで鏡の前に駆け寄った。
「なんだこれ!?」
顔をぺたぺたと触ったり、力強くつねったりするも、鏡の中の少年は俺の動きをなぞるばかりで何も変化がない。
肌に触れた指は沈み込み、離せば肌がぷるんと踊る弾力。10歳の若々しい温かな肌は、乾燥してニキビだらけだった俺の肌とは大違いだ。
「夢じゃない? じゃあついに幻覚を見るようになったのか!?」
今までどれだけ調子が悪くても幻覚を見ることはなかった。というか、幻覚ってこんなファンタジーなものなのか? よく聞いていた症状はもっと被害妄想の具現化みたいなものだったような……。
「リュー様? どこかお加減でも悪いのですか?」
先ほどの女性が俺の顔を心配そうに覗き込む。
「え、あの、ち、近いです。それに、その、なんで俺の名前を知ってるんですか? 俺たち初対面ですよね?」
俺の言葉に目を丸くした女性は、みるみる顔が青ざめていき、しまいには大きな声で叫び出した。
「ジーク様!! すぐにレドール様とロイ様をお呼びください!! リュー様が大変なのです!!」
女性は慌てて部屋を飛び出していき、俺はひとり残されてしまった。
「えぇ……?」
大きな音を立てる扉、頬のヒリヒリとした感触。これは本当に幻覚なのだろうか。
鏡に映る少年をもう一度見つめる。プラチナブロンドの髪に透き通った紫の瞳。目鼻立ちははっきりとしていて、類を見ないほどの美少年。まだ幼いからか、どこか中性的にも見える。きっと可愛らしい服を着れば、女の子にしか見えないだろう。これが本当に俺なのだとしたら、そんな趣味は無いのだが。
「うーん。配信者になったら余裕で生きていけるくらいには美少年だ。これで仕事辞められるかなぁ」
と夢想するも、幻覚なのだとしたらこれはただの自認の姿に過ぎない。たとえ配信者になったとしても、画面に映るのは冴えないおっさんの俺だ。
「あぶないあぶない。あやうく俺の汚い姿を全世界に晒すところだった。この歳で黒歴史とか笑えないからな」
だが、幻覚にしては感触や匂い、五感のすべてがやけにリアルに感じられた。
部屋には柔らかな光が差し込み、カーテンは優しい風に揺られ、はためいている。部屋には木々や花の香りが漂い、沈んだ俺の心を和らげる。4畳半のワンルームに住んでいた時には感じたことがない匂いだ。
これは現実なのだろうか。もし現実なら、俺は一体――
「リュー!! 大丈夫かい!?」
勢いよく扉が開き、人が一気に雪崩れ込んできた。プラチナブロンドの髪に、紫の瞳を持った人たちだ。
「リューどこか痛いのかい? 私のことは分かるかい?」
今にも泣き出しそうな顔をした男性が、俺の顔を覗き込むようにしゃがみ込んだ。その顔は今の俺の顔にも負けないほど美しく、荘厳だった。
そして俺は直感的に悟った。この体の父親なのだと。父親と思しき男性の後ろには、俺と似た顔の女性と子供たちがこれまた心配そうな顔をしてこちらの様子を窺っている。母親と、兄妹たちだろうか。
この状況をどう切り抜けるのが正解なのか、俺はひとまず博打を打ってみることにした。
「お父さん? ですか?」
これが幻覚なのか現実なのか、今の俺にはまだわからない。だが、もしこれがいわゆる転生というやつなのだとしたら、俺は、俺はこの世界で、今度こそ、何も考えずに生きていけるだろうか――。




