第2章 | パート9: 制御不能な何か
夜の気配がいつもと違っていた。
デンドロの空はもはや黒ではなく――暗い紙の上にインクを零したような、禍々しい紫黒色に脈打っていた。薄い霧が地表を覆い、本来あるべき全ての音を飲み込んでいく。
私はその虚無の野原に立っていた。風が静かに吹き、鉄の匂いと、硫黄が焼けるような臭いを運んでくる。
そして、そこに「あの男」を見た。
痩せこけた体、破れた服、空虚な瞳。
彼は古の封印が刻まれた巨大な岩の下に座っていた。奇妙な文字が空中に浮かび、ゆっくりと回転している――だが不思議なことに、私にはそれが読めた。
> [ ꦩꦭꦶꦲꦶꦩꦤ꧀ꦱ꧀ꦮꦺꦴꦩ꧀ꦧꦭ꧀ ]
> 「囚われし者、だが死なぬ者」
>
古のジャワ文字(Aksara Jawa)。
その象徴は生きていた――線が細かく脈打ち、巨大な静脈のように紫色の光を放っている。
一歩踏み出そうとしたが、足が動かない。
突然――その男が私をまっすぐに見つめた。
瞬きもせず。表情もなく。
周囲の世界が震える。
空気が重密に変わる。
そして、かすかな、だが頭の中に響き渡る声がした。
> 「お前は……俺と……同じだ」
>
私は驚愕した。「何だと――?」
さらなる問いを投げかける前に――世界は白濁していった。
「起きて、起きて、起きて!」
高い声が耳元で跳ねた。ベッドが揺れ、軽いが力強い何かが私の腹の上で飛び跳ねている。
「ううっ……一体何なんだ……」
目は半分しか開かない。ぼんやりと、体の上で小さな一対の翼が羽ばたいているのが見えた。
その少女は……顔立ちは優しいが、笑みは悪戯っぽかった。
「起きなさい、この怠け者!怠け者!」彼女は笑いながら、また飛び跳ねた――ドン!ドン!ドン!
私は顔をこすった。「おい……俺のベッドで跳ねるなよ……」
すると、ドアの方から少し呆れたような声が聞こえた。
「ちょっとお姉ちゃん、人のベッドで飛び跳ねるのはもう相応しくないよ!」
マレオだ。
私は鼻を鳴らし、再び目を閉じた。
翼の少女は低く笑い、二人の声は次第に遠のいていった。
意識が薄れる中で、「あの男」の影が再び瞼の裏に現れた。
彼は立ち上がり――微笑み――指を私の胸に突きつけた。
> 「目覚めよ」
>
真昼
太陽の光が窓の隙間から差し込んでいた。私は重い頭を抱えて目を覚ました。
こめかみには冷や汗がにじみ、心臓が異常なほど速く打っている。
自分の手を見つめる。
指先がかすかに紫色に変色していた。まるで皮膚の下でインクが広がっているようだ。
「……これは一体……」私は低くささやいた。
テーブルの端に、一本の小さな針が光っていた――鋭く、深い紫色を帯びている。
いつそれを手にしたのか、記憶にない。
手が勝手に動いた。私は指の間でその針を回し、表面に映る自分の顔を眺めた。
その顔は……奇妙だった。
左目が鮮やかな紫色に輝いている。
「ジロー?」
その声に私は飛び起きた。シンシアがドアのところに立っていた。
彼女は私を長く見つめ、やがてその目を鋭くした。
「あなたの目……」
私は鏡を振り返った。そこにいたのは――私が知る自分ではなかった。
顔の半分が脈打つ紫色の血管に覆われ、それはこめかみから首筋へと這い回っていた。
「ジロー、その針を離しなさい」彼女は厳しく言った。
だが、できなかった。手が勝手に動き――その針を地面に突き立て、深く刺し込んだ。
瞬時に振動が伝わった。地底から響くかすかな声は、まるで泣き声のようだった。
シンシアが叫びながら走った。「スワ!マレオ!早く来て!」
世界が瞬時に紫色に染まった。
周囲の空気が固まり、シンシアのクリスタルが触れもせずにか細くひび割れた。
私の体は硬直し、激しく震え始めた。
痛い。
まるで胸の中で何かが生き物のように暴れ、外へ出ようとしている。
「あ、あああ、あああああああ――ッ!!!」
スワがドアを蹴破って現れた。その翼を強く羽ばたかせ、銀色の羽の欠片を空中に散らす。マレオが窓から滑り込むように続いた。
「あの子のオーラに侵食されてる!」とスワが叫んだ。
「こんなに早いなんて、ありえない!」マレオは魔力を練り上げた。
床から根が現れ、私の足を縛り付けようとする。
私は顔を上げた。視界は暗い――だが、彼らの姿ははっきりと見えた。
全てが……あまりにも明るい。眩しすぎる。
頭の中の声が笑った。
> 「奴らはお前を恐れているぞ」
>
その瞬間――私は立っていた場所から姿を消した。
ドォォォン!
跳躍した瞬間、木の床が砕け散った。体はより軽く、より速い。周囲の秒刻みが遅延しているように感じる。
私はマレオに向かって突進した――私の拳が、彼が召喚したばかりの根の壁を粉砕する。
「バリバリバリッ!」
根は瞬時に砕け、私の手のひらから紫色のエネルギーが噴出した。
「速すぎる!」マレオは羽ばたきながら叫んだ。彼は高周波の音波を放ち、ガラスや木材を激しく振動させた。
私は耳を塞いだが、その音は頭を突き抜け――目が脈打つように痛んだ。
スワが上空から舞い降り、狼の爪を閃かせた。「ごめんね、ジロー!」
彼女は真上から真っ直ぐに切り裂いた。
私は腕でそれを受け流した。
だが、血が流れた――赤ではなく、紫色の血が。
シンシアが手を掲げた。「クリスタル!」
私たちの間にクリスタルの壁が現れ、狭い空間を区切った。
クリスタルが、乱舞する紫色の光を反射する。
「殺しちゃダメ! 抑え込むだけよ!」彼女が叫んだ。
スワは壁の上に着地し、再び私に向かって跳んだ。翼を振るうたびに鋭い風の刃が放たれる。
一太刀が私の頬をかすめたが、痛みは感じなかった。
ただ……空腹だった。渇いていた。
「ハァ……ハァ……」奇妙な声が喉から漏れる。
私は素早く一歩踏み出した――瞬きする間に、私はスワの目の前にいた。
私の目は紫色に燃え上がった。私は彼女の掴みかかろうとする手を抑え込んだ。「なぜ恐れる?」私はささやいた。
スワは逃れようとしたが、その力は――人間の力ではなかった。
私の手が彼女の肩を掴み、彼女は壁へと叩きつけられた。
「スワ――ッ!!」マレオが悲鳴を上げ、地面から巨大な根の魔術を放った。数百の緑色に輝く根が伸び、私の体を絡めとる。
動きを封じられた。
「今よ、シンシア! 封印を!」
シンシアは両手を合わせた。周囲のクリスタルが震え始め、青い光が地面から放射される。
数百のクリスタルの針が私に向けられた――だが、私は笑った。
> 「また俺を封印するのか? 味わったことがないとでも思っているのか?」
>
紫色のエネルギーが体から爆発し、クリスタルを粉砕し、鋭い破片を四方八方に撒き散らした。
シンシアは顔を覆ったが、頬には小さな傷がついた。
スワは血を流しながらも立ち上がった。
マレオは激しく羽ばたき、爆風から守るためにシンシアを後ろへと押しやった。
紫色の煙が視界を遮る。
その霧の中で、私は歩き出した。一歩ごとに木の床に焦げ跡が残る。
シンシアは奥歯を噛み締めた。「……なら、最後の手段を使うわ。」
彼女は手のひらを地面に突き立てた。亀裂の音が空気を満たす。
> 「エリュシオンの壁(Dinding Elysium)!」
>
巨大な青いクリスタルが地面から現れ、私を閉じ込める透明な立方体を形成した。
内部の空気が私の体を圧迫する――だが、私は微笑んだ。
「クリスタルでは、渇望を止めることはできない。」
私の拳が壁を叩いた――瞬時にひび割れが広がっていく。
「そんな……まさか……」シンシアが息を呑んだ。
マレオが空を駆け、翼が淡い緑色に輝いた。彼は目を閉じ、歌を歌い始めた――優しく、しかし力強い、古の呪文のように。
> 「デンドロ・ヴィタエ ……迷える者を癒したまえ。」
>
緑の根が立方体の周囲を這い回り、繭のように包み込んだ。緑の光と紫の光が混ざり合い、目を焼くような極彩色を生み出す。
スワが後ろからシンシアを抱きかかえ、疲労で倒れそうな彼女を支えた。
「あと少しだけ耐えて!」
私は叫んだ――
それは人間の声ではなく、二つの生き物が混ざり合ったような咆哮だった。
体中の紫色の血管が激しく震え、肌が岩のようにひび割れ、その隙間から濃密な光が漏れ出す。
だが、その合間に……
別の声が響いた。
> 「もう、十分だ」
>
全てが静止した。
私の体はよろめいた。視界が暗くなる。
三人の顔が見えた――シンシア、スワ、マレオ。彼らの瞳には、恐怖と希望が同時に宿っていた。
私は膝から崩れ落ちた。紫色の光がゆっくりと減衰していく。
血管の浮き出ていた手は元通りに戻った。
そして地面に突き刺さっていたはずの紫色の針は――消えていた。
私はゆっくりと顔を上げた。
目は……黒に戻っていた。
体はひどく重いが、頭の中の声は消えていた。
スワが私を鋭く見つめた。「……戻ったの?」
マレオが私の首の脈を調べた。「まだ生きてる。」
シンシアは長い溜息をつき、静まり返った天井を見上げた。
「……でも、いつまで保つのかしら?」
彼らの声を遠くに聞きながら、私の視界は再び真っ暗になった。
完全に意識を失う直前、かすかな声が聞こえた。
> 「あの封印で二度も俺を止められると思っているのか?」
>
ちょうどその時、首都から戻ったばかりのミアウが、丹精込めて育てた庭の一部が突然無惨に荒らされているのを目にした。
「あんたたち、一体何をしてるのよ!!」




