第1章 | パート2: 外国人の名前
ありがとう
「名前は?」
その声は澄んでいながらも、鋭く突き刺さるようだった。
カイトの唇から零れ落ちる一音一音が、頭の奥で反響する。
俺は黙り込む。答えたくないわけじゃない。ただ、その単純な問いが、心の奥深くを抉るように感じられたからだ。
――名前。
名前、か?
その言葉を噛みしめた瞬間、記憶が蘇る。
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フラッシュバック
俺は一生、自分に“本当の名前”があった気がしなかった。
確かに、人々は俺を「ジロー」と呼んでいた。
だが、その名を呼ぶときの彼らの視線はいつも軽蔑に満ち、耳元では皮肉な囁きが響いていた。
俺はただの“ウィーブ”――そう呼ばれ、蔑まれる存在だった。
だが二次元の世界は、現実よりもはるかに温かかった。
漫画のページやアニメの画面の方が、他人の偽りの笑顔よりもずっと信用できた。
時々考える。
なぜ俺は“インドネシア人”として生まれてしまったのか、と。
政治に汚染され、民を苦しめ、弱者に居場所を与えない国。
十年前のあの日から、俺はすべてを失った。
両親――国会議員として忙しく、家にほとんど帰らなかった人々。
生まれた時から愛情など感じたことはなかった。
そして十五歳のとき、その報せが届いた。
汚職――一兆ルピア。
刑は、斬首による死刑。
その日、俺は“誰かの子供”ではなくなった。
ただの“汚職議員の息子”となり、すべての人が伝染病を避けるかのように俺から離れていった。
必死に立ち上がろうとした。
自分を証明するために、軍に入ろうとした。合格発表の掲示板には確かに俺の名が刻まれていた。
だが、喜びも束の間。見知らぬ者の名にすり替えられ、俺の名は赤線で消された。
賄賂。金。権力。
――もううんざりだった。この国には。
SNSに真実を晒そうか。世界にこの腐敗を叫ぼうか。
そう考えたこともあった。だが結局――誰も気にしないのだ。
俺はただの凡人。
現実を忘れるために朝も昼も夜も運動を繰り返し、働いて、働いて、いつか小さな家庭を築ければと夢を見ていた。
美しい妻に抱きしめられ、子供が笑い転げる居間で、慎ましくも温かな家。
――そう、俺は“感じすぎる人間”になんてなりたくなかった。
感受性が強ければ強いほど、世の中は敵意と嘲笑に満ちて見えるからだ。
これが、俺の人生だった。すべてが崩れる、その前までは。
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異世界に戻って
「名前は?」
再び、その問いが耳に響いた。
カイトの顔が目の前にある。静かで、だがその瞳はまるで俺の心を覗き込むように深い。
迷い。恐れ。
俺はしばし答えをためらった。
そして、決めた。偽名を名乗ることに。
幼い頃、憧れていた人物の名前を借りて――。
「……ジロー・ホリコジ。」
力強く言い切ると、カイトは片眉を上げた。
「ホリコジ、か。珍しい名前だな。だが――その服装、変わっている。別の大陸から来たのか?」
反射的に答える。
「……俺はインドネシアから来た。」
「インドネシア?南方の大陸の一つか?」
俺は息を飲み、嘘を紡ぐ。
「インドネシアは――調和に満ちた国だ。人間しかいない。互いに助け合い、平和で、豊かで……腐敗のない公正な政府に守られている。」
唇が震えた。自分でも、そんな言葉が信じられなかった。
カイトはじっと俺を見つめ、ふっと笑う。
「……素晴らしいな。本当なら、の話だが。」
その青い瞳が、夜空そのもののように輝いた。
俺は一瞬、この世界に迷い込んだ事実すら忘れてしまう。
「ジロー。宿はないんだろう?」
俺は無言で頷く。
「なら、来い。俺は屋敷に住んでいる。“はぐれ者”たちと一緒に。お前ならきっと馴染めるはずだ。」
迷うことなく、俺は彼に従った。
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屋敷への道
石畳の道を、ランタンの灯りに照らされながら歩く。
この街は美しくも、どこか冷たい。
王国風の建物は荘厳だが、行き交う人々の影には秘密めいたものが潜んでいた。
「ジロー。お前、本当に本が好きなんだな。さっきの漫画の見つめ方で分かった。」
俺は乾いた笑みを浮かべる。
「……まあ、そうだな。俺にとっては、現実よりフィクションの方がずっと理にかなってるんだ。」
「フィクションは面白い。」カイトはコートのポケットに手を入れたまま言う。
「なぜなら時に、フィクションの方が現実よりも正直だからだ。歴史だって物語に過ぎない。勝者が書き、敗者は忘れ去られる。」
「……哲学者みたいなことを言うな。」
「哲学者じゃない。」カイトは微笑んだ。
「ただの物語好きさ。」
俺たちは食べ物や言葉の違い、王国の政治の噂まで語り合った。
心地よかった。この世界に馴染める気がした――その瞬間までは。
不意に、俺は誰かにぶつかった。いや、正確には“女性の胸”に。
「っ!」
よろめいた俺の前に立つのは、一人の女性。
高く、優雅で、長い髪がランタンの光を浴びて輝く。
その唇が、冷ややかな笑みを形作った。
「……ふふ。こんな街に、スケベ坊やがいるなんてね。」
「なっ……!?」
彼女は俺を頭から足まで見下ろし、囁く。
「その柔らかそうな体……これなら、貫けそう。」
ぞくりと背筋が凍る。心臓が暴れる。
今まで出会ったどんな女とも違う。
やがて彼女の視線がカイトに移る。
「……あなたの瞳、とても綺麗ね。」
刹那、カイトが手を上げる。
見えない力が彼女を押し退けた。
だが、女は怒るどころか笑った。
胸元に手を差し入れ――十メートルもの巨大な針を引き抜いたのだ。
「なっ……!?」
細い身体のどこに、そんなものを隠していたのか。
そして彼女は、迷いなくカイトの腹に突き立てた。
「カイト!!」
血が溢れ、カイトが崩れ落ちる。
俺は震えながら叫ぶ。
「な、何をしてるんだ!?」
女は俺に冷酷な笑みを向ける。
「私こそが、あなたの物語の主人公よ。」
次の瞬間、その巨大な針が俺の頭を貫いた――。
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Return by Death
闇。
すべてが消え去った。
そして目を開けたとき、俺は再び同じ場所に立っていた。
目の前には、変わらぬ表情のカイト。
「あなた……この街の人じゃないですね?」
――同じ言葉。
俺は膝をつき、震える手で地面を支えながら、必死に呼吸を整えた。
なぜ……?
なぜ俺は生きている?
あの女は誰だ?
人間か? それとももっと恐ろしい“何か”なのか?
疑問が、心を食い尽くしていった。
またね!