第1章 | パート19:怠惰であること
ルミネ王都の中央広場には、市民たちの歓声が響き渡っていた。塔ごとに旗が翻り、王国の鐘は新たな時代の幕開けを告げるかのように鳴り響く。その日は証人となった――血塗られた事件と罪深き司教の恐怖を経て、民衆はつかの間の安堵の息をつくことができたのだ。
群衆の只中に、ジロウは背筋を伸ばして立っていた。汗に濡れた顔には大きな笑みが浮かんでいる。
「……すごいな」息を切らしながら呟いた。これほど大きな人々の波が、恐れなく一つに集うなど、未だ信じられない。
民衆の歓呼は彼らの不安をすべて吹き飛ばすかのようだった。シンシアや候補者たちの名も叫ばれていたが、最も大きかったのは「王都がまだ立っている」という感謝の声だった。
その人波から少し離れ、静かに見つめる者が一人いた。
カイト。
青い瞳の少年は細めた目で小さく微笑み、深く息を吸い込む。
「へっ……やっと笑えるようになったか。少なくとも今日だけは」
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馬車の列がルミネから一つひとつ出発していった。整然とした隊列が各地の道へと分かれていき、諸国の姫君たちをそれぞれの都へと送り返す。車輪の軋む音、馬蹄の響きは、悲劇に満ちた一日の後の勝利の行進のようでもあった。
カイトは自らの小さな馬車の前座に腰掛けていた。護衛も、従者の群れもいない。ただ一人、手綱を握り、地平線へと続く長い道を見つめるのみ。
「一人か……」低く呟く。その声には冷たさもあれば、わずかな満足も滲んでいた。「……こういう方がいい時もある」
その馬車は他のものより遅く進んでいた。車輪はだらしなく軋み、馬もただ中速で歩むだけで、急ぐ気配はなかった。
不意に背後から轟く車輪の音。金色に飾られた大きな馬車が勢いよく追い抜き、優雅にカイトを追い越す。側面の幕が開き、アクマリアの顔がのぞいた。
「また会いましょう、のろまさん!」ジオの姫は表情豊かに声を上げる。黒髪は太陽の光を浴びて輝き、手を振ると共に揺れた。
カイトは小さく鼻を鳴らす。「ったく……」軽く首を振り、空いた道の前方へ視線を戻した。追う気など毛頭ない。
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距離はみるみる開き、アクマリアの馬車はカイトのものより百キロ先を走る――通常ならあり得ぬ差。しかしそこで異変が起こる。
アクマリアの馬車が進む道は、突然いつも以上に熱を帯びた。先ほどまで穏やかに照っていた太陽が、今や灼熱の光を放ち、空気を揺らめかせる。
石畳の道の真ん中に、一人の男が無造作に寝転がっていた。白緑色のローブを纏い、顔は蒼白、目の下には濃い隈が刻まれている。瞳は大きく見開かれ、空を見つめ、貴族の馬車が迫ることなど意に介していないようだった。
アクマリアは細めた目でその姿を見据えた。「あれは……?」
「止まれっ!!」ジオの騎士アルデバランが叫び、手綱を乱暴に引く。馬が激しく嘶き、急停止した衝撃で後輪が石に当たり、粉々に砕け散る。
馬車が大きく揺れ、アクマリアは椅子から落ちかけたが、踏みとどまり、すぐに外へ飛び出した。
「一体何が……!」
男はゆっくりと立ち上がり、だらしない笑みを浮かべる。疲れ切った顔に不気味な余裕を滲ませながら。
「……やっとだ。新しき信徒が私のもとへ来た」声は重く、灼熱の下で奇妙に反響する。両腕を広げるとまるで説教をするかのように言葉を紡いだ。
「人間よ……働くのをやめろ。身体を弱さに委ねよ。この世を忘れ、ただ眠り、怠惰に身を浸すことこそ、美しさではないか?」
アクマリアの心臓が早鐘を打つ。
「……罪人」
「スロース」アルデバランが冷ややかに笑み、足元の大地が震える。「よくも我らの前に立ち塞がったな」
スロースは小さく笑い、腕を広げた。「さあ、信徒となれ……剣を捨て、重荷を捨て、怠惰の世界へ共に来るのだ」
「戯言を!!」アルデバランが叫ぶ。
踏みしめた地から結晶が隆起し、巨大な剣となって彼の手に収まる。そのまま一閃、スロースの胸を貫いた――はずだった。
だが響いたのは、何かが虚空に吸い込まれるような音。結晶の剣は……消えていた。まるでスロースの体に吸い込まれたかのように、跡形もなく。
「な、何だと――」アルデバランの瞳が見開かれる。
スロースはその消えた剣を眺め、満足げに微笑む。「ふむ……止めるのが面倒でね。そのまま吸わせた」
「下劣な……」アルデバランは忌々しげに手を振り払う。
アクマリアが前へ進み、手を掲げた。大地から輝く結晶が溢れ、彼女の周囲を包む。髪が舞い、青緑の光が結晶に反射する。
「ジオを侮るな!」鋭い声と共に、大結晶がスロースの背を貫き、腹を突き抜けた。
血が滴る。しかしスロースの目は満足に細められ、笑みを浮かべた。
「……あぁ……気持ちがいい……痛みが、もっと眠りを甘美にする……」
アルデバランの顔が怒りに紅潮する。「この狂った罪人め……!」
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アクマリアは手をさらに高く掲げ、結晶の檻をスロースに閉ざす。
「己の姿を見よ、罪人! 怠惰に沈むことを恥じぬのか? 世界は……お前一人のものではない!」
スロースはくつくつと笑い、「立ち上がる? ふっ……姫君よ、何も分かっていない。立ち上がるのは疲れる。抗うのは無意味。諦めこそ至福……」と異様な呪文を唱え始めた。
結晶は砕け散り、その破片がアクマリアの顔を裂いた。血が頬を伝うも、彼女の瞳は揺らがない。
アルデバランは再び剣を振りかざし、「口を閉じろ!!」と一刀を振り下ろした。
轟音と共に結晶が炸裂し、破片が辺りに飛び散る。森の木々に突き刺さり、馬車の馬さえ怯え暴れ出す。アルデバランが地を踏み鳴らし制御せねば、転覆していただろう。
塵煙の中、血まみれのスロースが立っていた。顔は笑みに歪み、声はうっとりと響く。
「疲れた……あぁ、なんて楽しい……お前たちの無駄な足掻きが、私をもっと眠くしてくれる……」
「黙れ、罪人。人間を名乗る資格などない」アクマリアが歯を食いしばり睨む。
スロースは大きな欠伸をし、影の手を大地から湧かせ、アクマリアの足を掴んだ。
「きゃっ!」彼女が倒れ込む。
「姫君、立て!」アルデバランが影を斬り裂き、彼女を引き起こす。だが息は荒く、結晶の力も弱っていた。
「……奴は怠惰だけではない。俺たちの力を吸っている……」
スロースは笑い声を響かせる。「その通り、騎士よ。動くほどに、お前の疲労は私の糧となるのだ」
アクマリアは拳を握り締め、「私は諦めない!」と結晶を呼び出そうとする。しかし力は砂のように崩れ落ちた。
スロースはまた欠伸をし、眠気を誘う声で囁く。
「眠れ……ジオの姫君。抵抗などやめ、世界を忘れるのだ……」
「ふざけるな、姫に触れるな!」アルデバランが剣を振り下ろすが、スロースは首を傾けるだけで避ける。
「お前の顔が気に食わん!」
「ふふ……それはお前が必死だからだよ」
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その時、遠くから蹄の音。風を纏うような異様な響き。
アクマリアとアルデバランは目を見開いた。
地平線に現れたのは、青い瞳の少年――カイト。
黒馬に跨り、風を裂くように進む。やがて手綱を引き、彼らの前で止まる。
冷ややかな眼差し、静かな声。
「言っただろう……俺が導くと」
スロースは一瞬で震え出した。黒い瞳が見開かれ、狂気のごとく叫ぶ。
「神……神だ……!!」
「光が……!! 何世紀も見えなかったあの輝きが!!」
涙を流し、這い寄るスロース。アクマリアは震え、アルデバランは剣を構えて前に立った。
「落ち着け、姫君。俺がいる限り触れさせはしない」
カイトは馬から降り、迷わずスロースへ歩む。冷徹な瞳のまま。
「こいつは……ただ口を閉じられぬ怠惰な罪人にすぎん」
その言葉にスロースはさらに狂笑する。
カイトが片手を掲げると、風が巻き起こり、散らばった結晶が宙に舞う。
アクマリアの目が見開かれる。「あれは……!」
結晶が集まり、青光を帯びた巨大な球体を形作る。カイトが腕を突き出すと、それはスロースを包み込み、氷結の牢獄へと変わった。
「永遠に眠れ」
氷結は空へ舞い上がり、やがて海へと落下。轟音と共に大波が立ち、静寂が訪れた。
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アルデバランは剣を構えたまま、青き瞳の少年を見据える。「……お前は何者だ?」
カイトは振り返らず、夕日に向かって歩き出す。「見るだけで分かるだろう。誰がここで最も優れているかを」
そして一度だけ振り返り、低く告げた。
「馬に乗れ。……シンシアが練り上げた計画を忘れるな」
彼の背は夕陽に伸び、影を長く落とす。
アクマリアはその背を見つめ、困惑を抱えながらも唇を噛み、やがて背を向けた。
「アルデバラン……戻るわ。ジオへ」
騎士はなおも鋭い目で少年を見据えていたが、やがて従い、姫を守りながら馬車へと戻った。
ジオの馬車は軋みを上げながら遠ざかり、地平線の彼方へ消えていく。
カイトは一人、道に立ち尽くし、遥か海を見つめていた。風が吹き、遠い波の音に混じって、氷の中で笑うスロースの声が微かに響いた。
第一章の終わりが近づいてきています。第二章を決めるために少し休憩するかもしれませんが、第一章のサイドストーリーは引き続き更新します。




