第13話「夜を裂く声」
焦げた風が峡谷を吹き抜ける。
フォルグ峡谷。
狭く複雑な地形と断崖が入り組み、昼なお陰が濃いこの地は、
戦術的には拠点にも罠にもなり得る“死地”だった。
その谷底を、レオニスは静かに歩いていた。
剣の柄に手を添えながら、目を細める。
(……嫌な匂いだ。血と鉄と……煙)
前夜、王国軍はこの谷に夜襲をかけた。
だが、情報が洩れていたかのように、魔族側の迎撃は完璧だった。
補給路は潰され、部隊は散り、いくつかの集落が焼き払われた。
「これが……“正義”の果て、かよ」
フィンの呟きが、岩壁に反響する。
彼はヘルメットを外し、汗で濡れた前髪をかき上げた。
レオニスは何も言わず、足元に転がる折れた矢を拾い上げた。
矢羽根は、王国製でも魔族のものでもない。
まるで、どちらの紋章も拒むような、無印の矢だった。
(誰が、何のために……?)
そのときだった。
谷の向こうから、かすかな足音が聞こえた。
レオニスが身構えるより早く、
二つの影が駆け込んできた。
「負傷者だ! 早く、こっちへ!」
声の主はティナだった。
その肩には、魔族の少年が血を流して倒れていた。
フィンが驚きに目を見張る。
「そいつ、魔族じゃねえか……!」
「今は、それより命が先よ!」
ティナは叫びながら、レオニスを見た。
その瞳には、ためらいがなかった。
レオニスは、少年の顔を見て言葉を失った。
かつて戦場で刃を交えたあの少年——
カイ・ザルヴァではないが、彼に“よく似ていた”。
「……どこで、これを?」
「深部の洞窟。崩れかけた岩の下で……彼、仲間を庇っていたのよ」
ティナの声は震えていた。
怒りでも、悲しみでもない。
ただ、何かが崩れていく音に怯えているようだった。
矢の雨が岩を砕き、地を裂く。
レオニスは剣を構えたまま、敵影を見上げた。
「見覚えがない装備だ……王国軍でも、魔族でもない」
「第三勢力、ってことかよ……」
フィンが地を転がりながら呟く。
だが、敵の矢は正確だった。
治療班の傍らにいた兵士が一人、額を貫かれて崩れ落ちる。
「くそっ……っざけんな!!」
レオニスの剣が走った。
魔力が刃にまとわりつき、次の瞬間――風を割って跳ね上がる。
「“選定の剣”、なめるなよ……!」
その斬撃は、岩を跳び越え、敵陣の一角を切り裂いた。
だが、敵はひるまない。
それどころか、まるで“彼の力”を確認しているかのような動きだった。
(……何かが、おかしい)
ティナはカイに似た少年の処置を続けながら、歯を噛み締めていた。
彼の脈は微かに続いている。助かる可能性は、ある。
「ティナ、逃げろ!」
「この子を放ってはいけない……!」
ティナの声はか細いが、揺るがなかった。
だがその背後から、一人の黒衣の刺客が迫る。
レオニスが動こうとしたその瞬間――
「……あたしの患者に、指一本触れるなッ!!」
ティナの叫びと同時に、少年の手元の小瓶が弾けた。
癒しの香草と、抗炎の粉末。
それらが爆ぜて空気を巻き上げ、刺客の視界を奪った。
「今のうちに!」
レオニスがティナを抱え、急いで岩陰へ退避させる。
そこに、フィンが肩を負傷しながらも駆け込んできた。
「……全員、無事か……?」
「患者が……まだ……!」
ティナが振り返ったその時だった。
さっきまで横たわっていた少年の姿が、消えていた。
「……え……?」
「くそっ、やられたか……!」
レオニスがすぐさま周囲を確認する。
だが、気配も、痕跡もない。
(まるで、最初から“幻”だったかのように……)
⸻
襲撃が始まってから、わずか十五分。
第三勢力は深追いせず、闇に紛れて姿を消した。
谷に残されたのは、焼け焦げた岩と、呆然とする兵たち、
そして、守れたものと、守れなかったものの境界線だった。
⸻
夜が更けた。
レオニスは一人、峡谷の端に立っていた。
剣を岩に突き立て、手を額に当てる。
(なぜ……“奴ら”は、俺の剣を試すような動きを……)
ティナが後ろから静かに近づく。
「さっきの子……やっぱり、どこかで見覚えがあるんでしょ?」
レオニスは答えなかった。
だが、剣の柄を強く握る手に、その迷いが滲んでいた。
「命を選ぶって……こんなにも重いのね」
ティナは、胸元の銀のペンダントをそっと握った。
中には、小さな花弁が押し花にされていた。
それは、まだ医療を志す前、彼女が野で拾った“名もなき癒しの花”。
(……あの日も、風は、こんなふうに吹いていた)
⸻
その夜。谷の対岸の影に、仮面の一団が再び姿を見せた。
「“勇者”の反応、確認。想定以上の力だな」
「だが、まだ不完全。迷いがある」
「次は、もっと深く突き崩せ」
彼らの声は、風に流されて誰にも届かない。
闇はなお深く、
その奥に潜む声が、少しずつ“夜”を裂き始めていた。
「私は……選ばなきゃいけないの?
救う命と、見捨てる命を?」
沈黙が落ちた。
そのとき、谷の上方から、矢の雨が降り注いだ。
「伏せろッ!」
フィンが叫ぶ。
レオニスはティナをかばうように覆い、咄嗟に魔力障壁を展開した。
「くそっ、伏兵か……!」
上空には、黒い仮面をつけた兵士たち。
王国でも魔族でもない、その第三勢力が、
炎と矢を纏って谷を包囲しはじめていた。
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