第12話「揺れる地平、届かぬ声」
フォルグ峡谷の戦火は、日毎に拡大の一途をたどっていた。
王国軍と魔族軍――幾度となく繰り返される小競り合いは、やがて激戦の様相を帯び始めていた。
その日もまた、硝煙と金属音が空を切り裂く。
レオニスは斜面の岩陰から身を起こし、剣を構え直した。
フィンの姿が左手の丘を駆け下っていく。遠く、仲間の叫び声が響いていた。
「……分断されたか」
冷静に状況を分析しながらも、胸の奥に蠢く不安は消えない。
それは戦況ではなく――“あの青年”の存在だった。
──カイ=ザルヴァ。
かつて斬り結んだ、あの魔族の剣士。
今また彼は、この戦地に姿を現した。
(あれほどの剣を使える者が、なぜ「殺すためには戦わない」と言う?)
理解が及ばぬまま、答えは霧の中にあった。
***
一方そのころ、後方の臨時野戦医療所では、ティナが治療の合間にふと空を見上げていた。
西から吹く風に、焦げた匂いが混じっている。
(また前線が動いた……)
手の中には、粗末な包帯を巻いた兵士の手。
片方の足はもう戻らない。だが、彼はまだ若かった。
「……痛みますか?」
「……いいえ、平気です。あんたが笑ってくれるなら、何とかなる気がする」
「ふふ、口のうまい患者さんですね」
微笑むティナだったが、その胸は静かに重かった。
戦場では、言葉が届かない。
伝えたくても、伝える前に誰かが消える。
それが、怖い。
(……ノクさん)
脳裏に浮かぶのは、あの魔族の青年の顔。
治療所の火の粉が舞う夜、わずかに言葉を交わしたあの時間。
「あの人は、今……どこに?」
思わずこぼれたその声は、誰にも届かない。
***
そして、谷の反対側。
カイはひとり、崖の影に身をひそめていた。
傍らに倒れているのは、矢に倒れた人間の兵。
彼はその胸に手を当てると、小さくため息をついた。
「まだ……息があるか」
倒れた敵兵を見捨てることなく、彼は傷口に布を当てて縛る。
治療とは呼べない、ただの応急処置。
だが、そんな行動すら、今の戦場では“異端”だった。
「……味方に知られたら、俺はまた“裏切り者”か」
その瞬間、小さな気配が背後に走る。
「動くな」
短く、鋭い声。
そこにいたのは、ティナだった。
「……なぜ、治療を?」
「……あんた、あのときの……」
二人の視線が交わる。
思い出すのは、焔に包まれたあの夜。ほんの数語のやり取り。
だが、ティナは剣を振るわなかった。
カイもまた、逃げることなくただ立っていた。
「私は……知りたい。あなたは“敵”じゃないの?」
「それは……お前が決めることだ」
言い残し、カイは崖を跳ねてその場を離れる。
ティナはその背に、言い知れぬ感情を抱いたまま立ち尽くしていた。
***
夕刻。
再び火線が動く。レオニスは最前線で剣を交えていた。
敵は少数精鋭。だが、圧倒的な力と戦意を持つ者たちだった。
その中で、ふと感じた視線。
振り向いた先に、一瞬だけ見えた。
──黒い外套の影。
(……また、あいつか)
剣を構え、走り出す。
「今度こそ、話してもらうぞ」
だがその影は、再び霧の向こうに消えていった。
(“敵”とはなんだ。戦うべき相手とは……)
心に渦巻く疑問は、戦火にかき消されることなく、静かにレオニスの胸に残った。
そして、誰もまだ知らない。
この戦地の片隅で、小さな“言葉”が交わされたことが、やがて大きな波紋を呼ぶことになることを――




