第56話「無邪気」
視点:3人称
そして半月が経過し――。
「ねえ、なんか苦しそうだけど。君、だいじょーぶ?」
「……」
薄暗い森の中、少年とも少女ともつかない妖しのモノが、無邪気に言った。
だが、その問いかけに返事はない。
代わりに返るのは武器を構える無粋な音。
「わぁ怖い! でも、言っておくけど、そんなもの、ボクに向けたって無意味だよ?」
「……」
妖しのモノは、慌てもせずに戯けて言った。
それでも相手からの反応はなく、構えられた剣も下げられることはない。代わりに発されるのは最大級の警戒と殺気。
それを妖しのモノは完全に無視しつつ、木の根本に跪くその相手――未だ年若い青年のもとへと、その裸足を一歩踏み出した。
「君、結構ツラいでしょ、それ。
多分、ボクの魔力でちょっとはマシになると思うけど。どうする?」
そう言って、妖しのモノは濃紺の瞳で弧を描く。
華奢な肢体を覆うのは、透けるような薄布1枚。まるで水面のように揺蕩うそれを身に纏い、豊かな青白色の髪がそれを縁取る。
異様に青い唇に柔らかな笑みを履き、可愛らしい造作の顔が小首を傾げるその様には、思わず魅入られる美しさがあった。
だがしかし、場所が場所――魔物が潜むという森での遭遇だけに、よほどの阿呆でなければ身の危険を感じるだろう。
そんな程度には不穏さも満点だ。
もちろん、その場にいる青年も阿呆ではなく、甘言を囁かれ微笑みかけられようとも一切気を抜くことなく対峙していた。
ただ、妖しのモノが言う通り、何らかの理由で身体の自由はないらしい。距離を詰められながらも青年に逃走の気配はない。
実際、青年は満身創痍だった。何しろ、辛うじて剣を片腕で構えてはいるものの、片膝を突き、呼吸も荒く、顔には脂汗が浮き始めている。
今にも崩折れそうなギリギリの様相だったが、それでも青年は押し黙り、翠の瞳を鋭く妖しのモノへと向け続ける。
そんな状態だった。
「……」
やがて痺れを切らしたのは、妖しのモノの方。
「ちょぉっとお! なんか答えてくれない? ボク、つまらないのはキラーい!」
数秒前の不穏さはどこへやら。妖しのモノは、一転して見た目相応に頬を膨らませ、不満を素直に表現する。
その様は、まるっきり人間の子供と大差なく、あどけない言動は微笑ましくさえあった。
――ただし、魔力を振り撒いてさえいなければ。
人型を取り、人語を操っていようとも、存在感は間違いなく魔物のそれだ。間違ってもただの人ではない。
同じような存在をよく知ってはいる青年だが、だからといって安心感は全くない。
むしろ、刻一刻と悪化する体調と合わせ、多大なる緊張と負荷を青年に強いていた。
そんな状況から、青年には更々会話をする気もなかった。が、しかし、これ以上無言を通すのも悪手と判断。
余計な言質も与えぬよう、彼は慎重に口を開いて言った。
「……お前の、目的はなんだ」
そんなシンプルかつ真っ当な問いに、妖しのモノは鼻白んで言った。
「……なにそれ。つまんない」
その言葉とともに濃紺の瞳が眇められ、瞬時にその場の空気が凍ったような感覚が走る。――妖しのモノが魔力を周囲に放ったのだ。
一般人であれば、生物的な本能が警鐘を鳴らし、畏怖とともに訳もわからず硬直したことだろう。それ位には鋭い気配。
だが、それも数秒のこと。
次の瞬間には空気が弛緩し、妖しのモノは何やら思案し始めていた。
こんなふうに、妖しのモノは不穏かと思えば、あどけなく拗ねてみせ。かと思えば、ひらりと冷気を漂わせる。
クルクルとその雰囲気は千変万化し、相対する者に言いしれない不安を掻き立てた。
とはいえ。
言ってしまえば、――妖しのモノは幼児なのだ。
自らの感情や欲求を誤魔化すことなく発露し、それが通らなければ全力で不満を表す。
その点だけを並べれば、妖しのモノは間違いなく幼児だった。
だが、なまじ半端でない力を持つだけに、そこに微笑ましさはなく、ただひたすら恐ろしさだけが際立ってくる。
よりにもよってそんな存在と運悪くも遭遇してしまったことに、青年は内心で盛大に溜息をついていた。
ちなみに彼らがわずかに立てる物音は、鬱蒼とした森の中、周囲の木々に吸い込まれていくようだ。
鳥の声さえ聞こえない異様に静かで薄暗いその場所に、わずかに何条か挿した日の光。
そんな僅かな光にも、青年の金髪がチラリと輝く。
その間からのぞく尖った耳も合わせ、青年の外見も十分人目を惹くのは明らかだった。
森の木漏れ日のなか、一種幻想的な畏怖さえある。
対する妖しのモノも、外見だけで言えば森に潜む妖精、といったところ。宝石のような濃紺の瞳を煌めかせそこに立たずむ様は息をのむような魅力があった。
だが、妖しのモノはその印象を裏切るように、至って唐突かつ上機嫌に言った。
「ま、別に答えてあげてもいっか!」
そうして、無造作に腕を組んで宣う。
「ボクが動く理由なんて1つしかないんだよ。で、それはー」
不自然なほど明るく続けた妖しのモノは、再度小首を傾げて言葉を継いだ。
「――面白そうだったから、だよ。それ以外なんてない」
「……」
対する青年は、まったく対照的に眉をひそめ、心底嫌そうに顔をしかめた。
おそらくは、理解できない理屈とも言えない理屈に、文字通り嫌気がさしたのだろう。
一方、妖しのモノは更に言った。
「だって、この森に“お客”がくるなんてひさしぶりだからね。……しかも、それがボクとオンナジ奴らときた」
そうして一転。
妖しのモノは顔を伏せ、声音を落として言葉をこぼす。
「……そうだよ。……ボクとオンナジなんだよ君たちは。なのに……ボクと違って君たちは外から来た。……外の世界を自由に動き回ってる」
そして妖しのモノは視線を上げ、青年を見やった。
「――それってずるいと思わない? 思うよねぇ?」
笑みを伴いながらも再度ひらめく不穏な空気に、青年は心底辟易しながらバカ正直に言った。
「僕に同意を求められても。それこそ無意味でしょう」
「……」
これには、妖しのモノも再度鼻白む。
「――君って、ホント面白くないね。……やっぱ、他の奴を迷わせればよかったかなあ」
そうして奴は関心も低そうに言う。
「……例えば……あの黒い奴とか? 見た感じ、あいつからはいろんな話を聞けそうだよね」
「……」
無言を通す青年に、妖しのモノも気にせずに言葉を継ぐ。
「まあ、でも、君とボクってちょっと似てるかもって思ったんだよね。だから真っ先に迷わせてみたんだけど」
その言に、青年は視線を鋭くして言った。
「……あの霧は、お前がやっていたのか」
「――霧? ああ、迷わせたときの。そうだよ」
そうして頷く妖しのモノの声音にはなんの感慨もない。
「ただし、ボクは君たちの視界を奪っただけ。君が他の奴らとこんなところまで離されたのは、カミサマの力。ここってすごくその力が濃いんだよね」
その言葉に、青年は一瞬眉をひそめるも、それほど時間をかけずに思い至る。
「……神の力………………魔力か」
「ありゃ御名答。どうやら、君たちはカミサマの力をそう言うらしいね」
青年の呟きに、妖しのモノは上っ面の笑顔を浮かべて言った。
「――そう、魔力。……この世界の創生に関わる力、だってさ。それを使って、ついでにカミサマはここに檻を作った……ボクがここから出ていかないための、檻だ」
「……」
「だから、ここはこんなにも魔力が濃い。その魔力が、外ではありえないことを引き起こし、いろんな存在を迷わせる」
相変わらず薄い笑みを貼り付けながら、妖しのモノは言った。
「――そして、ボク以外はみんな狂う。もしくは死ぬ。……せっかくここに来てくれても、ボクは結局ヒトリになる」
「……」
「君もだいぶ苦しそう。……まぁ君の場合、元から何かが狂ってた、ようだけど」
「……」
ニヤリと笑んで言う妖しのモノに、青年は返答に一瞬の躊躇を見せた。
それに構わず、相手は無邪気に再度尋ねた。
「ねぇ、ホントにボクの魔力はいらない?」
「……」
「ちなみに、君の魔力は緑色だ。……森に満ちる魔力と同じ色。だから君は今苦しんでる。ただでさえ、森の中心に近いここの魔力は、ニンゲンの身体には強すぎるから、ね」
「――ついでに、君の中には赤色の魔力も混じってる。それも君が苦しんでる原因の1つ」
「森からの影響はボクにもどうしようもないけど、そっちの赤い魔力のほうは、ボクの青い魔力で打ち消すことができる」
そう言ってコテリと首を傾げた妖しのモノは、腕を後ろで組み直し、心持ち青年のほうへ身を乗り出しながら言った。
「――で、もう1回訊くんだけど、どうする?」
「……」
数秒逡巡した青年に対し、何を誤解したのか、妖しのモノは加えて言った。
「……あ、ところで、こういうことニンゲンに話すと、大概話が通じないんだけど。……ボクの言ってること、君はわかる?」
この問いに青年は頷きを返し――。
「ええ。まぁ。……ですが、いらぬ世話です。この状況で他者に頼るつもりはないので」
そんな素っ気ない返答に、妖しのモノは不思議そうに瞳を瞬く。
「……一緒にいたあいつらなら、まだもう少しかかると思うよ? なにせ距離があるし。着実にこっちへ向かってきては、いるようだけどね」
「では、それを待ちます」
「その状態で?」
「ええ」
「ふーん」
声音だけは淡々とした青年の返しに、妖しのモノは気の抜けた相槌を打った後。
数秒思案して言い放つ。
「……じゃあ決めた。勝手にやる」
「は?」
含意を掴みかねる唐突な結論に、それまで冷静沈着を保っていた青年も、さすがに顔を引きつらせて問い返す。
それへ、妖しのモノは一切悪気のない純真な笑みを浮かべて言った。
「だって、このままじゃ面白くないんだもーん」
「!」
「ついでに、君の知ってる外の事、ボクに教えてくれる? いいよね?」
「は? やめッ――」
妖しのモノは端から返答を聞いておらず、その姿がまず消えた。次いで、取り乱した青年の苦鳴を最後に。
その場には、しばらく音が絶えた。
第56話「無邪気」