第50話「名もなきモノ」
とある森の、奥深くに、静謐な水を湛えた泉がある。
――時は夜。
頭上には満天の星空が広がり、それが水面にも映っていた。
まさに幻想的と言えるその空間に――。
「あー! たーいーくーつー!!」
――雰囲気を完全にぶち壊す、子供の癇癪のような声が響いていた。
「最近じゃヒトもここらに近寄ってこないしー!! ボクは退屈でしょうがないんですけどー!」
その言葉と共に、パシャンパシャンと水音が鳴る。
静かだった水面には、俄かにいくつもの波紋が立ちあがり、そこに映っていた星々があっという間に乱される。
「――昔は、けっこう遊んでくれたのになー」
そうして再度パシャン、と音を鳴らしたのは――、人間の両足などではない。青みがかった蛇の尾だ。
「……もう、こっから出ちゃおっかなー。カミサマからは“動くな”って言われてるけどー。ちょぉっと頑張れば振り切れるしー」
その人物?は、身体の大部分を水中に沈めている一方、頭を泉の淵に乗せながら、他にもグチグチと言う。
「――あーでも、疲れるのはヤだなぁ……」
そうやって、蛇の下半身とは打って変わり、気だるげに頭上に目を遣るその上体は、この世のモノとは思えない――美しい人型だった。
無造作に草地へ拡がった水色の髪は、まるでガラス細工のように硬質な輝きを持ちながら、どこか儚さを感じさせる。
また、頭上を見つめるその瞳は、ラピスラズリの様な煌めく濃紺。
顔の造作も美しく、その繊細な輪郭はたおやかな印象を見るモノに与えるだろう。
ただ、先程からの言動でもわかる通り、そこに浮かぶ表情は子供のそれで――。しかし、そのアンバランスさが怪しげで絶妙な魅力となっていた。
ちなみに、その性別は外見から判断しづらく、少女とも少年ともわからない。
一方、そんな上体に続くのは――蛇の下半身。
水中を窺い見てみれば、腹部から上は白い滑らかな皮膚があるのに対し、その下から先は爬虫類の鱗に覆われている。
パシャリと水面を割ってのぞくのは、華奢な2本の足ではなく、白から蒼、濃紺へとグラデーションがかる蛇の尾だ。
その蛇の部分はおそらく3 mほど。
見る者によっては、きっと嫌悪感さえ抱くだろう。
しかし、その存在には――なんとも危うく、目を離せない何かがあった。
恐らくは、ニンゲンとしてこれ以上ない美を持ちながら、その下半身が蛇である、という、そのある種倒錯的な要素がどうしても人目を惹くのだろう。
そんな妖しのモノだったが――。
本人はその己の魅力など知らぬげに、無造作に頭を投げ出し水面に揺蕩う。
白い片腕が、濡れて顔に掛かる髪を撫で上げ、水中の尾が変わらずに時折水を掻く。
しばしこの場に静寂が戻ったかに思われた――が。
「……なんだ、アレ?」
その空間に、再びバシャリと一際大きな音が鳴った。
彼のモノが急に上半身を起こしたのだ。
一度、うつ伏せになったのち、蛇が鎌首をもたげるのと同じ動作で人型の部分を水面より持ち上げる。
そうして興味津々で見上げたのは、星が瞬く夜空の一画。
そこに間もなくチラリと大きな影が横切り、そして南方へと飛び去って行くのが辛うじて捉えられた。
「スゴイ!あれってボクとおんなじ、だよねえ……!」
生憎、今夜は新月の夜。
妖しのモノの眼をもってしても決して判然とはしなかったが、わずかに巨大な鳥の羽ばたきに似た音が、ここにも届く。
併せて、怪しのモノは魔力を用いて周囲を認識することもできるため、その反応からほぼ確信をもって「アレが己と同じモノだ」と口にする。
その表情はキラキラと輝き、新しい関心のタネができたと心の底から喜びを露わにするものだった、のだが――。
一瞬後にはその表情が曇り、俯いて言った。
「――rぅいな」
そうして、間髪入れずに息を吸い込み、そいつは喚く。
「ズルいなぁ! ズルい! ズルい!」
まさに子供の癇癪のように喚き、2本の腕を振り回し、彼のモノは周囲へ魔力をまき散らしつつ頭上へと言葉を放った。
「ボクは! こっから! 出れないのにぃ!」
その、なんとも様々な感情の混じった声音は、誰の耳にも届くことはなく、奥深い森へと吸収されるのみだった。
第50話「名もなきモノ」