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―――6月・上旬。


土曜日の夜、ファミリーレストランの大きな窓からは、薄暗闇の中を仲良さそうに歩くカップルの姿が見える。


私は汗をかいた冷たいコップを包みながら九条君のことを考えた。


あれからも九条君とはあまり会えていない。

ごくたまに学校で見かけるくらいだ。


しかし、よく考えれば大して悲観的な話ではない。


そもそも高校に入学した頃は、登下校中にたまたま会うときか2週間に1度の写真部の活動くらいでしか九条君と話す機会がなかったのだ。


ただ、九条君に嫌われているという噂を聞いた後では話が違う。


やはり気にせずにはいられないのが本音だ。それでも最近は杉野さんと仲良くしているおかげで、九条君とのことで不安になることは減った。


「おまたせ!」


考え事をしていたせいで、唐突に聞こえた杉野さんの声に驚いた。杉野さんは「考え事?」といつもの鋭さで気にかけてくれる。


「ううん、大丈夫。それよりお腹すいたよ~!」

「そうだね、ガツンといきたいけど太っちゃうな」


杉野さんは冷静な顔をしながらメニュー表を広げた。そんな杉野さんの前で、私は「ハンバーグステーキ300gとライスと食後にイチゴパフェで」と自信満々に宣言する。


「ま、まじ??」

「私いくらでも食べられるから!」


杉野さんは苦笑いしつつタブレットで注文をしてくれた


杉野さんとの話題は学校のことやらバイトのことやらいろいろだけれど、一番盛り上がるのはやはり九条君の話だ。


私はクラス内での九条君の様子やバイト中の九条君の仕事ぶりなどの情報を知り得ないので、杉野さんからそういったことを聞けるのはとても有り難い。


「そういえば、健君さ」


お待ちかねの言葉が飛び出して、私は済ました顔を維持しながら耳に全神経を集中させた。


「この間、バイトでグラス割ったんだよ」

「え、ほんと?」

「うん、しかも中身入ってたから後処理大変だったのよ」

「それは大変だ…。九条君はおっちょこちょいなところあるからね」


私たちはそう言ってクスクスと笑う。

九条君には申し訳ないけれど、杉野さんは九条君のミスを包み隠さず教えてくれるのでとても面白い。


「あとオーダーミスもしてさ、たこ焼きをイカ焼きと間違えたんだよ。どうやったら間違えるんだって思ったわ」

「やらかしてるな~、九条君はバイトのしすぎだよ」


秀才なイメージしかない九条君が、たこ焼きとイカ焼きを間違えて怒られているところを想像したら、とても可愛くて愛おしいと思えてしまう。


杉野さんのそういった話からは、もう九条君に対して気がないことがはっきりと分かるので安心して話が聞ける。


「由佳ちゃんはバイトしないの?」

「うーん、お金は欲しいけどバイトはね…」

「やっぱり休みがなくなるのは嫌?」

「うん、九条君の休みとも被らなかったら写真部も活動できないし」


杉野さんは「ふーん」と言って、タブレットで他のメニューを眺めている。

ふと窓の方を見ると、情けない顔をした自分と目が合ってすぐに目をそらした。


「お待たせしました、ハンバーグステーキ300gとライス、オムライスでございます。以上でお揃いでしょうか?」

「はい」


杉野さんは店員さんに会釈すると、フォークとナイフを私に手渡した。私は杉野さんに「ありがと」と言うと、肉汁の跳ねるハンバーグにフォークを刺す。


「杉野さんって趣味とかないの?」

「趣味か~、そう言われるとないね」

「好きなこととかは?」

「うーん、由佳ちゃんとこやってのんびり話しているのは好きだよ」


急にそんなことを言われて顔が熱くなるのを感じる。「顔赤いよ?」とからかってくる杉野さんに「ハンバーグが熱いからだよ!」と言い返してライスを頬張った。


2人ともあっという間に食べ終わり、私はデザートに突入する準備をする。呼び出しボタンを押そうとしたところで、杉野さんが「あっ」と声を上げた。


「ごめん、パフェ注文するの忘れてた…」

「え、あ、うん、まあお腹いっぱいだったから大丈夫だよ!」

「よかった~」


私は少し戸惑いながらも杉野さんに気を遣わせないように、笑顔でお会計を済ませた。


お店の外は乱雑に交差している車の光で眩しい。

私たちは遊歩道まで少し歩いて、道の真ん中にあるベンチに腰掛けた。


「遊歩道は静かで良いね!」

「うん、カップルはいるけどね」


ちらほら手を繋いだカップルが横を通り過ぎていく。


「健君ってゲイの噂あるんでしょ?」

「あ…、うん」


杉野さんがその真相を知っているかもしれないと期待する気持ちと何も聞きたくない気持ちとが心の中で混ざって溶ける。


「それ嘘だよ」

「え、ほんと?」


自分でも驚くほど声が軽くなってしまった。

杉野さんはそんな私に少し笑いながら続ける。


「でもそういう人もいっぱいいる時代だからね」

「うん、LBGTっていうやつでしょ?」

「それだけじゃないよ、今はLGBTQIA+」


ベンチの下にある間接照明で、杉野さんの表情がより深刻そうに見えた。遠くまで続く遊歩道は冷たい夜風が吹き抜けていて、自分の手が冷たくなるのを感じる。


LGBTQIA+とは、よく知られるLGBTにQIA+を加えたセクシャリティを意味するという。


「Qはクエスチョニングとクィアで、自分のセクシャリティを決めていない人や同性愛者のことを言うんだって」

「へぇ、自分には決められないっていう感覚分からないな…」

「私もそう。あとIはインターセックスで、身体に男の子と女の子の特徴をどちらも持ってる人のこと。Aはアセクシャルで、恋愛感情がない人のことだって」


私は杉野さんが自分とは違うレベルの人間であることを再認識した。こんなに仲良くしているけれど、杉野さんはおそらく九条君と同じように秀才だ。


「すごい詳しいね、セクシャリティってたくさんあるんだね…」

「実際はもっとあるらしいよ、アロマンティックっていって恋愛感情はないけど性的感情はあるとか、人それぞれみたい」

「+はたくさんあるって意味なのかな?」


私も負けじと頭の良さそうなことを言ってみる。杉野さんは「そのとおりだよ、さすが~」と褒めてくれた。


不意になぜ私が杉野さんと話していて気持ちが楽になるのかが分かった。杉野さんは九条君のように物知りで、私がテキトーなことを言うとツッコんでくれるし、たまたま当たっていると笑って褒めてくれる。


私の劣等感や自尊心の低さを、無駄に引き上げたり引き下げたりすることもない一種の冷淡さに、私は安心するのだ。言ってしまえば、杉野さんも九条君も実は私に無関心なのだろう。


でもやはりこの「楽しい」気持ちのどこかに穴が開いているような気がして、私はその穴の正体に気付かないふりをする。


頭上に見える星空は白波の上にあったそれより薄く、沿道に並ぶ杉の木に隠れた月はあの海月より小さい気がした。

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