かたはらいたきもの
枕草子の第92段に「かたはらいたきもの」というのがあります。「春はあけぼの」と同じような「もの尽くし」と呼ばれるもので、読者が「うんうん、そうだよね」とか「なるほど、そう来ましたか」といった反応をするのを期待しているものだと言っていいでしょう。
で、この段ですが、「かたはらいたし」というのはそば(傍ら)で見たり、聞いたりしていていたたまれないといった意味のようで、悪いものを食べて横っ腹が痛いということではありません。
時代劇なんかでは、悪い武士が「町人の分際で片腹痛いわ」と言って、逆に黄門様(別に暴れん坊将軍でもいいんですが)に斬られてしまいますね。あれは見ちゃおれないって言うより、生意気で捨てておけないって感じで、意味が変化したのでしょう。
では、清少納言が挙げているものを一つずつ見てみましょう。
① かたはらいたきもの、よくも音弾きとどめぬ琴を、よくも調べで、心の限り弾きたてたる。
――下手な楽器は迷惑ですね。それ以上にチューニングの合ってない楽器をいい気になって弾くなんて殺人的です。
② 客人などに会ひてもの言ふに、奥の方にうちとけ言など言ふを、えは制せで聞く心地。
――客がいるのに奥の方で遠慮のない話をされるとひやひやしますね。
③ 思ふ人のいたく酔ひて、同じことしたる。
――酔っ払って繰り言を言うのはわたしも大嫌いですね。
④ 聞きゐたりけるを知らで、人のうへ言ひたる。それは、何ばかりの人ならねど、使ふ人などだにいとかたはらいたし。
――人の悪口をしてるのを聞かれていたのを気づかなかった。そういうのは使用人のようなさほどでない人の悪口でもいたたまれない。
⑤ 旅立ちたる所にて、下衆どものざれゐたる。
――旅先で下男下女どもがふざけているのが見苦しいと言ってますね。
⑥ にくげなるちごを、おのが心地のかなしきままに、うつくしみ、かなしがり、これが声のままに、言ひたることなど語りたる。
――かわいげのない赤ん坊をかわいがって、口真似なんかをする。それって、かわいいでしょと押し付けられるようで嫌なものです。
⑦ 才ある人の前にて、才なき人の、ものおぼえ声に人の名など言ひたる。
――学問のない人が学問のある人の前で、知ったかぶりをする。確かにひやひやしますね。
⑧ ことによしともおぼえぬわが歌を、人に語りて、人のほめなどしたるよし言ふも、かたはらいたし。
――自作のさほどでもない和歌を誉められたと自慢げに言うのもかないませんね。
どれも「かたはらいたいもの」だと思いますが、中でも②、④は客観的に見苦しいというだけではなく、こちら側の事情がからんだ気まずさがプラスされていて、実体験に基づくような感じがあります。そう考えると③もわざわざ「思ふ人」(恋人)と言っているので、そうなのかもしれません。身の置き所がないっていうのがぴったりですね。
昔、心ならずも二股をかけちゃってたことがあって、彼女と部屋にいたときにもう一人の彼女から電話が掛かってきて、生返事をしてたらやっぱりピンときて、何回も電話が掛かってきて、「愛してる」って言ってと言われ、「そうそう」なんて返事を……もう嘉門達夫の「鼻から牛乳」状態でした。
えっと話題を変えましょう。⑥、⑦、⑧はどれも自惚れた判断を押し付ける人は嫌いだってことで共通で、彼女らしいちょっと意地悪な視線がいいですね。特に⑧なんて歌を小説に置き換えれば…いえ何もないです。
①の音楽・楽器という誰しも納得する話題を冒頭に置いて、最後は「こういう人ってイタイと思うの」で締めるという構成も鮮やかです。
こういうことを書くから、清少納言は「そういうあんただって大したことないじゃん」って紫式部に悪口書かれたりするんでしょうけど、謙虚すぎる人もやだなって感じもするし、彼女みたいな人とお酒飲んで、言いたい放題言うのって楽しいような気がします。
よく新聞の投書欄に低俗な番組はやめろとか、電車の中で若者のマナーがなってないとか、現代の「かたはらいたきもの」尽くしのような意見が載っていると思います。思いますって無責任ですが、投書欄に投書する人って「才なき人」に決まってるんで読まないんです。
そう、ああいうところにもっともらしいけど、毒にも薬にもならないことを、しかもその新聞の論調に媚びたような投書をする方がわたしにとってはよっぽど「かたはらいたい」ですね。街角のインタヴューもそうで、テレビに出るとバカに見えるって稲垣足穂が言ってましたね。