シュレーディンガーのあなた
「頼むよ、ね、もう5万だけ」
「もう、仕方がないわねえ」
夜の街で女が派手な札入れから紙幣を何枚か取りだすのを、待ちきれないように男はむしり取ると、それを慣れた手つきで丸め、ポケットに押し込む。
「それじゃまた来るよ、愛してる」
「来るのはいいけれどさ、いつになったら……」
「そのうちにね」
男は女の言葉を遮ると、隠れるようにすぐの路地を曲がり、別の店へと急いだ。
「店長、今月分を回収しに来たぜ」
店の裏に呼び出された店長は、愛想笑いを浮かべながら男に封筒を渡した。
男は封筒の中を覗き込むと不満を口にした。
「なんだ、ちょっと少ないんじゃないのか?」
「そりゃあ鮮度が落ちれば稼ぎも落ち着くから仕方がないですよ。また新しい子を沈めてくれたらすぐに増えますって」
店長の指摘に男はそれもそうかと納得したような表情となった。
そういえば1か月ほど女を沈めていない。
「言われてみればそうだな。それじゃまた用意してくるさ」
「漬け込むオクスリは、ほどほどにしておいてくださいね、口臭が出るようになったら酔客にあてがうしか、使いようがなくなってしまいますから」
「いちいちうるせえよ」
風呂屋を後にした男は、顔なじみのホストクラブに向かった。
「オーナー、景気はどうだい」
「ぼちぼちだな」
「ところでそろそろ回収が厳しくなった客がいるんじゃないかと思ってな」
「グッドタイミング」
オーナーは男を案内すると、物陰からそっと一人の客を指差した。
「あの女で百万ちょいだ」
「そりゃあぼったくったねえ」
「客の注文に答えただけさ」
オーナーは肩をすくめ、おどけたようなしぐさで男に答えた。
「まあいいや、それじゃ俺はいつもの場所にいるから、あの女が店を出るときになったら連絡をくれよ」
「わかっているさ、今回も回収を頼むぜ」
男は店の裏口から一旦路地に出ると、なじみの喫茶店で時間をつぶすべく足を向けようとした。
しかし男が喫茶店に出向くことはなかった。
「ここはどこだ?」
男は6畳ほどの部屋で目を覚ました。
同時に後頭部からの鈍痛によって、何が起きたのかを咄嗟に理解した。
「こりゃあ拉致られたかな」
半ばあきらめながらポケットをまさぐるも、当然のことながら財布もスマホも回収したシノギもなくなっている。
部屋には明かりがともっているが、窓の類いは一切ない。
ドアはふたつあり、ひとつはトイレとシャワールームにつながっているが、もう一つはドアノブが取り外され、隙間も外から目張りされている。
エアコンは快適な空気を送り込んでくるし、冷蔵庫にはビールと冷凍食品が詰まっている。
冷蔵庫の横には簡単なキッチンがあるが、コンロは付いておらず、電気湯沸かし器とカップラーメンの山が置かれているだけ。
男が横になっていた布団をめくっても、そこには何もない。
念のためコンセント周りや物陰をチェックしてみるが、隠しカメラや盗聴器の類も見当たらない。
部屋の隅には古ぼけた電話機が置かれている。
試しに受話器を取ると、回線は通じてはいるものの、ボタンを押しても外線がつながる気配は全くない。
男はもう一度トイレ、シャワー、エアコンの室外機接続チューブをチェックしたが、人一人が通れるような隙間はなかった。
ものは試しと、恐らく出入口であろうノブのないドアに力をこめてみるが、予想した通りびくともしない。
「こりゃあ相手の要求待ちかな」
男は覚悟を決めたかのように床に座ると、冷蔵庫からビールを取り出し、それを飲み始めた。
男とて、この世界で生きてきたという自負がある。
拉致にしても、したこともされたこともある。
こうして拉致られたら、うまいこと逃げだす算段がない限り、あがいても無駄なのだ。
それに男は彼自身にそれほどの価値がないことを理解している。
利権が動くこともない。
刑務所の看守を脅かすこともできない。
もし男が借金まみれであったら人身売買のタネにでもされるかもしれないが、所属の組にはそれなりに上納ができる程度のシノギを彼は持っている。
なので同業者がらみの拉致ならば、たいていは多少の暴力とそれなりの金で解決される。
素人さんが怨恨がらみで突っ走った可能性も無きにしも非ずだが、そのときは逆に彼のシノギが増えるだけなのだ。
中途半端な拉致には組を上げて因縁をつけ、素人さんの親類縁者すべてをしゃぶりつくすというシノギが。
「さて、相手は誰だろうな」
冷凍食品を冷蔵庫の上に置かれた電子レンジで温めなおすと、男はそれをつまみ代りにして、二本目のビールを飲み始めた。
恐らくは丸一日が経ったであろう。
しかし男を拉致したであろう相手からは何の連絡もない。
男が組事務所に顔を出さなければ、カシラたちも男の身に何かが起きたことくらいは気づくだろう。
「こりゃあ相手に何かトラブルでもあったかな」
男は現状を楽天的に捉えると、カップラーメンをすするべくお湯を沸かし始めた。
じりりりりん。
突然古ぼけた電話が鳴った。
「来たな」
男は一旦深呼吸をし、心を落ち着かせてから、受話器を取り演技を開始した。
「もしもし、これってなんすか! 何でもしますから助けてくださいよ! もしもし、もしもし!」
わざと気が動転した反応を見せ、相手が優位に立ったと思わせれば成功。
どうだ?
続けて男は注意深く聞き耳を立てた。
相手の声、反応する声色、話の内容、周辺から漏れる音。
そこから情報を収集していけば、何らかの打開策はあるはずだ。
しかし、聞こえたのは、男が全く予測していない声だった。
「愛してる」
受話器の向こうから、女性の声でそう一言耳に届くと、そのまま電話は切れてしまった。
電話が切れた後、この電話によって、男は初めて気づいた。
今、自分は「無音の世界」に閉じ込められているのだと。
電話の相手は誰だ?
どんな意味がある?
俺をからかっているのか?
とにかく情報が少なすぎる。
待つしかない。
男は冷蔵庫からビールを取り出すと、やけ気味にそれをあおりだした。
冷蔵庫のモーター音とエアコンのかすかな風切り音以外は何も聞こえない。
男は無限の時間を過ごしているような錯覚にとらわれた。
じりりりりん。
突然鳴りだした電話の音に男はびくりとしながらも、改めて深呼吸をした。
「もしもし」
しかし返事はない。
「もしもし?」
「愛してる」
再び電話は無音に戻り、男は無音の世界へと置いてきぼりにされた。
気を紛らわすためにと飲み続けたビールは底をつき、冷凍食品も食べつくしてしまった男には、大量のカップラーメンしか残っていない。
明かりを消しても眠れない。
瞼を開けても閉じても景色は変わらない。
どうなっちまったんだ俺は?
じりりりりん。
「おい、そっちの目的は一体何なんだ!」
絶叫する男にも受話器は返事をよこさない。
「愛してる」
そのまま受話器は沈黙した。
思わず受話器を床にたたきつけようとするも、何とか男は理性をつなぎとめた。
この電話機だけが外界とつながっているのだ。
これだけは壊してはいけない。
男はかつて食べ残したカップラーメンの冷たい汁をすすりながら、次の電話を待つことにした。
いつしか男は電話の前にしゃがみこむようになっていた。
何も考えられない。
何も見えない。
何も聞こえない。
じりりりりん。
男は待ちかねたように受話器を取った。
「あ、うう……」
男のうめき声にもかまわず、受話器は同じ言葉を繰り返した。
「愛してる」
水だけで過ごすようになってから何日が経ったのだろうか。
男は電話機を見つめながら床に横わたっている。
じりりりりん。
待ちかねた呼び鈴が鳴り響いた。
男は歓喜に震えながら、やせ細り、なかなか言うことをきかなくなった腕を何とか伸ばした。
既に声を出すのもおっくうな男は、何とか受話器を耳にあてる。
「愛してる」
そして静寂が訪れる。
◇
あの人は私のすべてを奪った。
財産も、名誉も、社会的地位も、家族も、そして私の心も。
でも、今更彼のことを恨んではいない。
今私が知りたいのは、彼の本心だけ。
でも彼は私に向き合うと、いつもの屈託のない笑顔で「愛してる」と囁きながら、暴力と愛で私から再び奪っていってしまう。
私が知りたいのは、彼の本心だけ。
だから私は彼の拉致を頼んだ。
彼の本心を知るために、一方通行の電話で、毎日一度だけ、私から一方的に「愛している」と囁いた。
彼は私を愛してくれているかしら。
それとも私のことなどどうでもいいのかしら。
だから私は毎日囁く。
「愛してる」
彼は私を愛してくれているかしら。
それとも私のことなどどうでもいいのかしら。
確かめるまでは私にはわからない。
でも私は徐々に喜びの感情に満たされていく。
「愛してる」
あの部屋には、私を愛している彼がいるかもしれない。
もしかしたら私を愛していない彼がいるかもしれない。
でも、確かめる術はない。
なぜなら、私があの部屋に出向いたら、彼は私に「愛してる」と囁くに決まっているから。
あの部屋には私を愛してくれる彼がいる。
同時に私を愛していない彼がいるかもしれない。
けれど既にそれは私にとって問題ではない。
私を愛してくれる彼がそこにいればそれでいい。
でも、そろそろ時間切れ。
拉致をお願いする代わりに臓器を提供した身体が、言うことをきかなくなってしまっている。
生きるのに最低限残してもらった器官も、私が息絶えたら、すべて提供することになっている。
点滴で生きながらえてきた私の命も、間もなく消えるのだろう。
私は身動きが出来なくなった身体をベッドに横たえ、時計を見続ける。
時計のデジタルが0時を示すのを、24時間の間、心待ちにしながら。
デジタルが0時になると、口元に固定されたピンマイクに電源が入る。
心の中でゆっくりと一から十まで数えると、私は心を込めて、彼へと囁いた。
「愛してる」
そして静寂が訪れた。