約束
ルーカスとケイティが連れ立って向かった先は、隊員たちが寝泊まりする部屋がある階だ。
少女たちには事情聴取をする必要があったし、頭領を捕まえたとはいえ、まだ残党がうろついている危険もあった。だから、警護の意味合いもあって、当座は彼女たちをこの警邏隊詰め所に置いておくことにしたのだ。元から多少の空き部屋はあったが、さすがに十数人を入れるのには足りず、隊員の幾人かには外で寝場所を探してもらって部屋を空けた。
救出してから、ルーカスが仕事としてではなくフィオナに会うのはこれが初めてだ。彼女の様子はそれとなくケイティに訊いていて、寝食はできているということだけは確認できていたのだが。
ちゃんと熟睡できているのか、美味いと思って食事を摂れているのか、ルーカスはその目で確かめたくてたまらないのをどうにかこうにか抑えていた。たかが三日が、三年、いや、三十年も経ったように感じられる。
フィオナが寝起きしているのは、普段は若手のアレンが生活している部屋だ。
――他の男が寝起きしていた寝台で過ごさせることには微妙に胸がモヤついたが、副長であるルーカスの部屋を使うのも不自然極まりないので仕方がない。
黙っているとそんな埒もないことを考えてしまうので、ルーカスは笑顔を作って隣を歩くケイティを見下ろす。
「ここでの生活はどう? 不自由はないかな」
同じ目に遭ったというのに、ケイティは他の子のように怯えてはいなかった。それに加えて生来世話焼きなのか、少女たちの間を回って甲斐甲斐しく面倒を見ている。
彼女はルーカスを見上げて仔猫のような笑みを浮かべ、かぶりを振る。
「いえ、とても良くしてもらってます。みんなも、ようやく落ち着いてきたみたいで。笑える子も出てきましたよ」
「それは良かった。で、その……フィオナは、どうかな」
一昨日事情聴取をしたときは、フィオナはケイティの袖を握って放さず、常に彼女の陰に隠れるようにしていた。ルーカスやブラッドの質問をケイティが繰り返し、それに首の動きだけで答える。その間、彼女の声を聴くことは叶わなかった。
「少しは喋るようになったかい?」
個人を特別扱いにするのはどうかと思いつつ、先ほどの話の流れがあるから許容されるはずだと言い訳をして、ルーカスは彼女の名前を口にした。
ケイティは笑みを消し、心配そうな色をその眼に浮かべる。
「フィオナは、まだ……訊いたことには何とか答えてくれますけど」
「そうか」
ルーカスは彼女同様眉をひそめた。
フィオナが機能的に話をすることが可能であるということは、確認済みだ。理解も問題ない。
となると、あとは話す気持ちになるのをじっくり待つしかないのか。
我知らずため息をこぼしたルーカスだ。
それきり互いに口を閉じ、やがてフィオナがいる部屋の前に着いて、ルーカスはケイティに一歩を譲る。彼女が先に姿を見せた方がいいに違いない。
「フィオナ、ケイティだけど入るよ?」
ケイティが軽く扉を叩いてそう声をかけたが、返事は聞こえない。彼女は一拍置いてから扉を開けた。
「ルーカスさんもいるけど、一緒に入っていい?」
扉の隙間から顔を突っ込むようにしてケイティが訊いている。間を置かず彼女はルーカスを振り返った。
「いいって」
その答えに、ルーカスの肩から力が抜ける。抜けたことで、自分が緊張していたことに気付いた。
まるで、初めて女性を逢引きに誘った時のようだ。
そんなことを考えたが、ルーカスはすぐに心の中でかぶりを振った。
(いや、アレの方が遥かに気楽なものだったな)
断られることなど頭の片隅にもよぎらず、むしろ、「してやる」くらいな気持ちだったはずだ。
ルーカスは苦笑しつつ先に部屋に入ったケイティの後に続く。
「失礼するよ」
入ってみると、フィオナは、窓際に置いた椅子に座っていた。揃えた両手を膝に乗せ、真っ直ぐに背を伸ばしている。さながら陶磁器の人形だ。うっかり衝撃を与えたら粉々に砕けてしまいそうに見える。
窓から見える空よりも深い青色をしたその目がルーカスを見て、しかし、すぐに伏せられてしまった。ケイティはそんなフィオナの後ろに立ち、励ますように両手を彼女の肩に置いている。
ルーカスはしばし逡巡する。
どこまで距離を詰めたらいいか――どこまで許されるか。
意を決し、彼は、一歩一歩ゆっくりと、フィオナの様子を確かめながら進む。
が、良くも悪くも反応がない。
さほど広くもない部屋の中を、よくもそれほどというほどの時間をかけて、フィオナの前に辿り着いた。
見下ろしたままでは余計に怯えさせてしまうので、ルーカスは、そろそろとフィオナの膝の先にひざまずく。彼女よりも目線が下になるように腰を下げ、うつむき気味の顔を覗き込んだ。
フィオナは一瞬肩を強張らせたが、それでもおずおずと視線を動かし、ルーカスの胸元あたりにそれを落ち着かせる。
きっと、まだ怖いのだろう。
だが、それでも、ルーカスに応えようとしてくれている。
その気持ちが確かに伝わってきて、彼の胸の中にブワリと何かが広がった。そして同時に、心臓が何かに握り締められたように苦しくなる。
やけに急いてしまう気持ちの手綱を取って、ルーカスは柔らかく柔らかくと心掛けた声をフィオナにかける。
「少しは落ち着いたかな?」
間。
そして、小さな頭が上下にコクリ。
「何か困っていることはないかい?」
間。
今度は、微かに左右に振られた。見るからに柔らかそうな黒髪がサラサラと揺れて、ルーカスはそれに口付けたい衝動に駆られた。
が、そんなことができるわけもなく。
彼は己を戒める為に膝の上で両手を握り締めた。そうしてフィオナに微笑みかける。
「ケイティから聞いたよ、何も覚えていないって」
クッと、彼女の華奢な肩が強張った。膝の上に置かれた優美な手が小刻みに震えている。と、それに気付いた瞬間、ルーカスは自分の両手のひらの中に彼女の手を包み込んでいた。
触れるべきじゃない。
そうは思ったが、頭で考えるよりも先に身体が動いてしまっていたし、小さなその手が冷え切っていることを知ってしまえば放っておくことなどできやしない。
ルーカスはそれをしっかりと握り直し、頭を下げてフィオナの目を覗き込む。
「大丈夫、家族が見つかるか帰る場所を思い出すまで、ここにいたらいい」
それは、嘘偽りのないルーカスの本心、いや、切実な望みだった。
――たとえ家族が見つかろうが記憶が戻ろうが、ここにいて欲しい。
その想いを押し付けてしまわぬよう意識して、彼は付け加える。
「ここは安全だし、君が嫌でなければ、ここにいて欲しいんだ」
フィオナはジッと固まっていたが、ルーカスは身じろぎ一つせず、いや、できず、待った。
どれほどの時が過ぎた頃か、やがて彼女が小さく頷く。
その微かな動きに、思わず、ルーカスの口から安堵の吐息が漏れた。
帰す場所が見つかるまでは、彼女はここにいる。
(永久に、見つからなければいいのに)
ふと頭の奥での囁きは聞こえなかったことにして、ルーカスはもう一度フィオナに微笑みかけた。
「必ず、見つけてあげるから」
本心とは裏腹に力強くそう宣言したルーカスに、フィオナはほんのわずかだけ、表情を和らげる。
「ありがとうございます」
消え入りそうな、微かな声。
だが、確かにそれはルーカスの耳に届けられた。思わず彼が微笑むと、つられたようにフィオナの唇もほころぶ。
それは、初めて彼女が見せた、生気のある表情だった。人形めいた美しさが、一転、愛らしさを帯びる。
ルーカスの胸が、詰まった。
もっと、微笑ませたい。
声を上げて、顔を輝かせて笑うところを、見てみたい。
いずれは、そうなるだろう――そうさせてみせる。
彼は、そう心に誓った。
だが、いつか彼女が帰る場所が見つかってしまえば、それを手放さなければならなくなるのか。
フィオナの幸せと彼の望みとは、両立させることができないのかもしれない。
そんな考えがルーカスの頭の片隅をよぎったが、気付いた時にはもう迷いを抱きながらもフィオナに向けて告げていた。
「約束だ」
と。
――ルーカスが望むと望まざるとにかかわらず、その約束は三年の時を経た後、果たされることになるのだ。