心の奥に刻まれていたもの
アランブール家でのひと悶着の後、その日のうちにルーカスとフィオナはトラントゥール家を後にした。グランスへの船の席が取れたのは三日後のことで、それまでの間の滞在先は街の宿へと移していた。
その間、二人は警邏隊の皆への土産を物色しながらフランジナの首都ラルスを見て歩き、明日に出立を控えた晩、ルーカスは夕食を摂ろうと言ってフィオナを伴い一軒の店を訪れた。
そこは小さく庶民的な店で、卓はせいぜい五脚。食事処というよりも酒を供する方が主のようだが、猥雑な感じはない。家庭的な雰囲気に空気で満たされており、奥の方には小ぶりな洋琴が置かれている。
夕食にはまだ少々早めの時間のせいか、五脚のうち、客がいるのは一脚だけだ。
こういった店に足を踏み入れるのは初めてのフィオナは、物珍しそうに視線を彷徨わせている。
「あの席にしようか」
ルーカスはフィオナの背に手を添え、洋琴に一番近い席へと促した。
二人が椅子に腰を落ち着かせると、すぐに店の者がやってくる。恰幅のいい中年女性で、笑顔は開けっ広げだ。
「いらっしゃいませ。品書きは壁に貼ってありますよ。おすすめは――」
給仕の女性は壁を示してからルーカスとフィオナに向き直った。が、ルーカス、次いでフィオナへと目を向けた瞬間、いぶかしそうな顔つきになる。
「…………リリアーヌ……?」
彼女はフィオナを凝視し、呆然とした口調でそう呟いた。まるで幽霊か妖精か、この世ならぬものでも見てしまったかのような顔をしている。
そんな視線を注がれてフィオナは困惑の面持ちでいるが、ルーカスは、彼女がそうなる理由を知っていた。
「彼女はフィオナという名前なんだ。今年で十七歳になる」
「じゅうなな……」
彼が静かな声で告げた数字を給仕はおうむ返しにし、そして両手で口を覆った。
と思ったら、突然厨房の方へと振り返る。
「ちょっと、あんた! あんた、来ておくれ!」
大声での呼びかけに、女性よりもいくつか年長に見える男性がのっそりと姿を現した。
「何なんだ、やかましい」
渋面で女性を睨みつける男性に、彼女は大慌てで手招きをする。
「こっち来て! この子、見ておくれよ!」
ブツブツ言いながらやってきた店主と思しき中年男は、女性に言われるままにフィオナに目を向けたかと思うと、その口をあんぐりと開いて固まった。
「あの……?」
ためらいがちなフィオナの呼びかけに、男性はパクリと口を閉じる。彼に代わって答えたのは、女性の方だった。
「ああ、ごめんなさいな。あたしはバルバラ、こっちは夫のエンゾ。ちょっと訊くけど、あんた、お母さんの名前、リリアーヌってんじゃないのかい?」
「母、ですか? 母は――アデ……あ、いえ……」
言いかけ、フィオナは顔を曇らせて口をつぐむ。アデライド・トラントゥールは、もう、彼女の母親ではない。
実の母親の名を知らないフィオナの代わりに、ルーカスが彼らに頷いた。
「そうです。彼女の母親は、ここで働いていたリリアーヌ・フェリエです」
「え?」
フィオナが目を丸くしてルーカスを見る。そんな彼女に微笑みかけてから、彼はエンゾとバルバラに顔を向けた。
「彼女はフィオナといいます。リリアーヌは彼女が二歳になってすぐに事故で亡くなりました。今は私のもとで働いてくれています」
だいぶ間を端折った説明だが、フィオナを目にした衝撃からまだ覚めていないのか、夫婦はルーカスの言葉に特に疑問を呈することもなく沈痛な面持ちになった。
「事故……あの子が……」
「悲しいことですが。その時居合わせたグランスの商人が彼女を引き取ったので、今、フィオナはあちらで生活しているんです。今回、私にフランジナでの仕事が入ったので、彼女を一度故郷に連れて行ってあげて欲しいと養い親から頼まれましてね。リリアーヌさんはこちらで働いていたことがあるのですよね? 良ければ、フィオナに彼女のことを話してもらえないかと思いまして。何しろ、物心つく前に亡くなってしまったので、フィオナは母親のことを何も覚えていないのです」
つらつらと口から出まかせを垂れ流したルーカスを、フィオナはポカンとした顔で見つめている。そんな彼女に、にっこりと笑いかけた。
「フィオナ、君もお母さんのことを聴きたいだろう?」
問われて、フィオナは目をしばたたかせる。
「え、あ、はい……とても、うかがいたいです」
最初は戸惑いがちに、最後ははっきりと、彼女は頷いた。
困惑を消し去り目を輝かせているフィオナに、ルーカスは微笑む。そして、再びエンゾとバルバラに向かった。
「どうでしょう、お忙しいとは存じますが、フィオナにリリアーヌさんのことを教えてやってもらえませんか?」
「そりゃ、もちろん。うちの店は夜が勝負だからね。この時間なら暇だし、あたしもリリアーヌの娘に会えて、こんなにうれしいことはないよ。もう、一目で判ったさ。本当にあの子にそっくりだから。あの子の髪は月の光みたいな色だったけど、目はまるっきり同じ色だね」
そう言ったバルバラは、微かに目を潤ませた。そうして、椅子を引いて腰を下ろす。次いでエンゾも妻に倣った。
「どこから話そうかねぇ」
バルバラはそう切り出し、ややして再び口を開いた。
「……あの子は十を少し越したくらいからウチで給仕をし始めたんだよ。元々この近所で親子三人で暮らしてたんだけど、父親が仕事中の事故で亡くなっちまってね。母親があんまり身体の強い人じゃなかったからさ。あの子も働かないといけなくなってね。まあ、うちも酔っ払い相手だから、子どもにいい仕事ってわけじゃないけど、知らないとこにやるよりかはいいかなってさ。うちなら母親と一緒に暮らせるしね」
にっこり笑ったバルバラは、記憶を追いかけるように眼差しを遠くする。
「いやもう、そりゃ可愛い子でね。見た目だけじゃなくて、おとなしいんだけど、いつもニコニコしててね。お客さんにも可愛がられてたよ。声を掛けられると恥ずかしそうに笑うんだけど、それが、もう、ね」
ため息をこぼしたバルバラがあまりにしみじみとした口調だったからか、思わず、というようにフィオナが笑みを浮かべた。
「それ、その笑い方! それもそっくりだ」
パン、と、両手を叩いて、バルバラが声を上げた。そして陽が射すような笑顔になる。
「最初の頃は給仕だけだったんだけど、そうこうするうち、あの子はめっぽう歌が上手いってことに気付いてね。ちょっと間してから、それも頼むようになったんだ。ほら、あそこ」
バルバラは言いながら身体を捻って店の片隅を指さす。洋琴が置かれている一角だ。
「あれはね、リリアーヌが歌ってくれるようになってから買ったんだ。洋琴なんて触ったこともなかったってのに、練習し始めたらあっという間にうまくなったよ。天賦の才ってやつなんだろうねぇ」
バルバラはしみじみとした口調でそう呟いた。そして、ふと顔を曇らせる。
「リリアーヌが十六か七か――今のフィオナちゃんとどっこいどっこいくらいの時だったかな、母親が風邪をこじらせて寝込むようになってね。可哀想に、一冬越せずに逝っちまったんだ」
彼女の口から深いため息が零れ落ちた。
「それから半年かそこらしたくらいかな、その頃よく店に通ってきていたお人が、あの子の世話をしてくれるって言ってさ。歌の勉強とかもさせてやるって」
「通っていた人、ですか?」
首を傾げたフィオナに、バルバラは頷いた。
「ああ。身なりが良かったから、貴族であることには違いなかったんだろうけど……」
そこで、言い淀む。
「母親が亡くなるちょっと前からチョコチョコ来るようになった人だったんだけどね、リリアーヌに色々持ってきちゃ、断られてたよ。ほら、花とか……宝石とかさ。気立ても器量も良い子だから、いっそ結婚してくれって男もたくさんいたんだけど、あの子は引っ込み思案だったからねぇ。あの子のことを良く知ってる連中はそういうところにもメロメロだったから、何ていうか、妙な協定みたいなものを結んでてね。あんまり強引なことはしてこなかったんだけど、あのお人はちょっとしつこかったな」
そう口にしながら、彼女は鼻の頭にしわを寄せた。どうやら、その人物の『贈り物』にいい印象を持っていないようだ。実際、良からぬ下心があったのだろうと、ルーカスでも思う。
「確かに歌とかやれるならこれ以上はないって話だったんだろうけど、どうもね。独りになって寂しいならうちに来てもいいよとは言ったんだけど、結局、あの子は行ってしまったよ。良い話に釣られたわけじゃ、ないと思うんだけど……。あの子は初心な子だったし、寂しい時に優しくされてよろめいちゃったのかねぇ」
眉をひそめたバルバラには、リリアーヌの選択が未だに納得できないようだった。だが、ルーカスは、リリアーヌがその道を選んだ理由を薄々察していた。
一通りのことを語り終えたのか、バルバラは軽く目を閉じる。
「ああ、でも、そうか。あの子は、もういないんだね」
深いため息を、一つ。
「あの子の歌、もう一度聴きたいねぇ」
そう言って、彼女はたどたどしく鼻歌を奏でた。
あまりうまいものではなかったが、それを聴き取ったフィオナがハッと息を呑む。ルーカスも、その歌には聞き覚えがあった。フィオナの中に唯一残っている『記憶』――時折彼女が口ずさんでいたものだ。
「それ……」
呟いたフィオナに、バルバラは首をかしげる。
「え? ああ、この曲かい? これはリリアーヌが一番好きだったやつだよ。気付くと歌っていたね。きっと、あんたにも散々歌って聞かせてたと思うよ?」
「お母さんが……」
フィオナはうつむき、膝の上で両手を握り締めた。ルーカスが固められたその拳を包み込むと、彼女は突かれたように顔を上げた。
強い感情で揺れる深い青の瞳を覗き込み、ルーカスはそっと囁く。冷えた彼女の手を温めながら。
「君の中に、一番大事なものだけは残っていたな」
「大事な、もの?」
フィオナは心許なげな口調で彼の言葉を繰り返した。そんな彼女に、深く頷く。
「ああ。きっと、お母さんは何度も何度も、毎日繰り返して、君にその歌を歌ったんだ。だから、胸の奥に刻み込まれているんだよ」
「わたしの、胸の奥に……」
フィオナは、ふわふわ漂う霞のような記憶を辿ろうとするように目を閉じた。
「そう……そう、ですね。赤ちゃんだったわたしが忘れていないくらいですものね」
呟いたフィオナの口元に小さな笑みが浮かび、それはやがて全体に広がっていく。さながら蕾が綻び大輪の花が咲き誇るように、彼女は笑った。
「お母さんの声、わたしは、ちゃんと覚えています」
フィオナは胸に手を当て、半ば目蓋を伏せて言う。
「少ししか歌えませんが、わたしの中に、その歌がちゃんと残っているんです。それを歌うとここが温かくなって。どこで……誰から聴かされていたんだろうって、ずっと不思議でした。他には何も覚えていないのに、どうしてこれだけ残っているんだろうって」
彼女は目を上げ、バルバラとエンゾを見つめた。
「これがお母さんのくれたものだと判って、とてもうれしいです。お二人にお会いできて……お話を聞けて、良かった。ありがとうございます」
微笑んだフィオナに、バルバラが盛大に鼻をすする。その目は、赤い。
「こっちこそ、あんたに会えてよかったよ。小っちゃい頃に死なれたら何も覚えておけないとは思うけど、リリアーヌはね、ホントに優しくて温かくていい子だったんだ。短い間でも、きっとあんたのことをこれでもかってほど可愛がってたに違いないよ。あの子のことをよぉく知ってるあたしが、保証する」
ふくよかな胸をドンと叩いてそう断言したバルバラに、今度はフィオナの目が潤んだ。
「はい。わたしも、きっとそうだったのだと思えます」
震える唇を一度キュッと結んでからかすれた声でフィオナがそう答えると、バルバラはニカッと笑った。




