フィオナの選択
フィオナは、彼女を守るように包んでくれているルーカスの腕の中から一歩を踏み出した。
アデライドにこの部屋に連れてこられて、アランブール伯爵に囚われそうになって。
そこから、大して時は過ぎていない。
けれども、その短い時間の中で、彼女はとてもたくさんのことを聞かされた。
アランブール伯爵の言い分。彼は、フィオナにすがるような眼差しを注いでいる。
父の言い分。彼は、どこか他人事のような顔をしている。
そして、母の言い分。彼女は、今やフィオナに対する嫌悪を隠そうとはしていない。
フィオナは、ここに――フランジナに来て父や母と再会してから、懸命に歩み寄ろうとした。そうしようとして、力を尽くした、と、思う。
(でも、それは最初から無理なことだった)
今は、フィオナの目にも、彼らと自分との間に口を開く大きな裂け目がはっきりと映っていた。何が何でもそれを乗り越えようとしていれば、いずれ深い淵に転がり落ちていたかもしれない。
フィオナは束の間目蓋を下ろし、上げる。
背中にルーカスの存在を感じていた。触れ合ってはいないけれども、確かに、彼の温もりを感じる。それだけで、彼女は真っ直ぐに立つことができた。
今のフィオナに臆する気持ちは微塵もない。アデライドを前にしてあれほど委縮してしまっていたのはいったい何だったのだろうと、不思議なくらいだ。
「あなた方にも事情があることは、よく、解かりました。けれど、それはわたくしには何の関係もありません」
彼らを見つめ、フィオナは、静かな声でそう告げた。
途端にアデライドがいきり立つ。
「何ですって!? あなたが――」
「わたくしがどんなふうに生まれるかは、わたくしには選べなかったことです。選べないことに、責任は持てません」
フィオナが発したその言葉は、大きな声でも、強い口調でもなかった。だが、アデライドの金切り声を完全に制している。
悔しげに唇を噛んだ母に――母だと思っていた人に、フィオナは真正面から対峙した。
「お父さまとわたくしの母との間にあったことで、あなたが傷ついてしまったことは、気の毒に思います」
「そうよ、だから――」
「でも、わたくしは謝罪しません。あなたに対して申し訳ないとも思いません。先ほど申し上げた通り、それはわたくしには責任を取りようがないことですから。わたくしは、わたくし自身のことを恥じることもしません」
きっぱりと、反論を許さない口調でフィオナはアデライドに宣言した。
ベアトリスという少女は、きっと、幼いころから存在を否定され続けてきたのだろう。
そうされるうち、自分には価値がないと思うようになっていたのかもしれない。
けれど、今ここに居るフィオナは、その少女ではない。
(わたくしは、『フィオナ』だから)
フィオナは、フィオナという人間のことが好きだ。フィオナという存在を愛してくれている人たちの存在を、信じている。
そしてこのフィオナは、アランブール伯爵が思うような、か弱く不幸な、守ってあげなければならない少女でもない。
彼女はアデライドからアランブール伯爵へと目を移す。
「わたくしは、あなたに守ってもらう必要はありません」
「でも、私は君を守ってやりたいんだ」
そう請うアランブール伯爵の方こそ救いが必要であるように見えて、フィオナはふと彼のことが憐れになった。けれど、同情で自分を与えることなど、できない。
「不要です。わたくしは不幸でも、可哀想でもありませんから。あなたが見ていた『気の毒なベアトリス・トラントゥール』は、もう存在しません」
静かに、だが、はっきりとそう告げると、アランブール伯爵はガクリとうなだれた。
皆が口を閉ざし、部屋の中はしんと静まり返った。その中に、場違いに朗らかな声が響く。
「さて、これで事の擦り合わせは全部終わったかな?」
振り返ると、ルーカスが明るくフィオナに笑いかけてきた。
「で、どうする、フィオナ? 彼らのことは人身売買の罪で告発できるよ」
「え?」
突然不穏当なことを言いだした彼に、フィオナは目をしばたたかせる。反応できずにいた彼女に代わって猛然と抗議の唸りを上げたのは、アデライドとエドモンだ。
「何ですって!?」「ちょっと待て!」
詰め寄りかけた二人を、ルーカスが見遣った。軽く頭を傾げ、斜めに視線を送るその表情から、彼の内心を読み取ることは難しい。
「当然でしょう。あなた方は金を受け取ってフィオナをアランブール氏に譲り渡そうとしたのだから、れっきとした人身売買です」
「ベアトリスは私の娘だ! 親が娘の身の振り方を決めるのは当然のことじゃないか!」
エドモンの台詞に、ルーカスの雰囲気がガラリと変わる。まるで、身にまとっていた何かをひと息に剥いだようだった。
「当時の彼女は十四歳、まだ子どもだった。親の保護の元にあるべきだった彼女を、あなた方は彼に売ったんだ。この国の法がどうなっているのかは知らないが、世間一般はどう評価するかな?」
フィオナは、ルーカスから発せられる冷やかな怒りに、息を呑む。彼がこんなにも感情を波立てているところは、今まで見たことがなかった。
言葉もなくルーカスを見つめるしかないフィオナに、クルリと彼が振り返る。
「で、君はどうしたい? 訴えるなら私が手続きをしてあげるよ」
再び問いかけてきたルーカスが彼女に注ぐ眼差しの中にあるものは、温もりと優しさだけだ。ついさっきまで滾らせていた吹雪の様に冷やかでありながら苛烈な憤怒は、いったいどこに隠してしまったというのか。
いつも通りの彼にホッとしつつ、フィオナはかぶりを振る。
「いいえ、不要です」
「そう?」
不満そうなルーカスに、今度はコクリと頷いた。
「四年前に起きたことでわたくしが失ったものは、何もありませんから。むしろ得たものばかりで」
そう答えてから、フィオナはふと眉根を寄せた。
十四年間の記憶は消えたが、失くして惜しいとは爪先ほどにも思えない。代わりに手に入れたものがウィリスサイドでの日々だというのだから、なおさらだ。
彼らがしたことが、自分にとって良い結果しか招いていないというのなら。
「……むしろ、感謝すべきなのでしょうか」
思わずそう自問してしまったフィオナに、ルーカスが一瞬息を止める。次いで、噴き出した。
「流石に、それはいいと思うよ。でも、いくら記憶がないといっても、今聞いた話で自分がどんな扱いを受けていたのかは薄々察しただろう? それに対して報復するのは当然の権利だよ?」
「報復、ですか」
フィオナは、その怖い響きを持つ言葉を繰り返した。
それは、過去に起きたことに対して、行われるものだ。かつてのベアトリス・トラントゥールが『酷い扱い』を受けてきたのなら、『報復』してもいいのかもしれない。
(でも……)
確かに、人は過去を積み重ねて作り上げられる。覚えていないとはいえ、フィオナの中にベアトリス・トラントゥールとして生きていた日々は存在している。
(でも、その過去が、わたくしにとって要らないものなら?)
今のフィオナにとって、ここでの記憶や経験は不要なものだ。十四年間を過ごしていても、きっと、ただ息をして眠って食べて、それだけで、何も得ていなかったはずだから。その存在しないも同然のものに対して敢えて時間と思いを割く必要など、あるのだろうか。それは、貴重な時間の浪費になるのではないだろうか。
「わたくしは、あの人たちのことでもう時間を無駄にはしたくありません」
この言い方で伝わるだろうかと首を傾げつつ、フィオナはルーカスに向けてそう告げた。彼は束の間目を見開き、そして微笑む。
「そうか、それもそうかもしれないね」
そう言うと、ルーカスは指の節でそっとフィオナの頬を撫でた。
フィオナは彼に微笑み返し、一つ、深呼吸をする。そうして再び両親に向き直った。
「わたくしに――」
言いかけ、ふとやめる。
『わたくし』
己を示すその呼称は、記憶を失ってもなお拭い去れなかった、『ベアトリス・トラントゥール』の最後の残滓だった。
それを、今、捨てる。
「わたしに、過去は要りません。これからは先だけを見て歩いていきたいと思います」
フィオナの方から突き付けた訣別の言葉に、アデライドは大きく身を震わせた。
「何を、生意気な! あなたなんて、最初から要らなかったのよ!」
鋭い刃のようなその言葉がフィオナの心に突き刺さる。彼女の方から切り離した相手が発したものであっても、それでも、存在そのものを否定するようなその叫びに無傷ではいられなかった。
身を強張らせたフィオナだったが、その彼女を、背後から温かなものが包み込む。
「だったら良かった。何のためらいもなくいただいていける」
フィオナの頭の上から響いた声は、心底から喜ばしげに聞こえた。この緊迫した場には、少々そぐわないほどに。
「ルーカス、さん?」
彼はポカンとしているフィオナを懐深くに掻い込み、覆い被さるようにして彼女のこめかみに口付けた。そうして、アデライドたちに向けてにこやかに宣言する。
「あなた方が要らないというこの人のことを、私は、もうずっと欲しくて仕方がなかったんですよ。この国に来るまでは、家族の元から再び連れ出すにはどうしたらいいだろうかと、本当に悩んでいたのですけどね、その言葉を聞いて安心しました」
フィオナを抱き締めるルーカスの腕に力がこもり、少し苦しいほどになる。けれど、彼女は、その苦しさに幸せを覚えた。
「あなた方がフィオナを愛せなかったことは双方にとって不幸なことだったと思います。まあ、そのお陰で、彼女を私のものにできるわけですが」
「そんな下賤の者の血を引く――」
再びフィオナを責め立てようと口を開いたアデライドを、ルーカスが封じ込める。
「あなた方は、フィオナを愛していない。ですが、それは、フィオナが愛されない女性だということにはならない。私の周りでは、彼女のことを愛している者の方が圧倒的多数ですから」
彼は小さく肩をすくめた。
「あなた方にフィオナが必要ないんじゃない。彼女に、あなた方が必要ないんですよ」
揺らぎのない声でのルーカスの台詞は、家族と思っていた人たちによってフィオナの中に刻み込まれた傷口に滲み込み、それを癒していく。
「フィオナ、君が帰る場所は、もう彼らのもとにはないよ」
彼は、その場所がどこであるのかを言葉を用いず伝えようとするかのように、フィオナをすっぽりと包み込んだ。その中で、彼女は小さく頷く。
「はい」
答えながら、ジワリと歪んだ視界を瞬きで晴らした。
ルーカスがフィオナに注いでくれる想いは彼女が彼に向ける気持ちとは同じものではないことは解っている。
それが嫌というほど解っていても、フィオナは、今はこの温もりに浸らずにはいられなかった。




