剥がれた仮面
広間からフィオナを連れ出したアデライドは、しばらく廊下を進んで、今いるこの部屋までやってきた。客間の一つのようで、それほど広さはないものの品の良い家具が一揃い置かれている。
「ここで待っていなさい」
部屋の中央に立つフィオナに対してアデライドは入り口のところで足を止めたたままで入ってこようとせず、そう残すと、彼女を置いて返事を待たずに去って行ってしまった。
耳を澄ませても、舞踏会の喧騒はもう全く聞こえてこない。
逆を言えばここの物音も広間には届かないのだ。
そう気づいて、フィオナの胸にふと不安が湧き起こる。
(このままここに居ても良いのかしら)
ルーカスの言いつけを破ってしまったこともある。
母が一緒にいてくれたならまだしも、こうやって独りきりになってしまっても良いものなのか。
(やっぱり、戻った方が――)
ルーカスの言葉と母の言葉を天秤にかけて、前者に気持ちが傾きかけた、その時。
カチリと静かな音がして扉が開いた。
息をひそめてフィオナが見守る中、入ってきたのは、この屋敷の主、オーギュスト・アランブールだ。
「やあ、フィオナ」
彼はいつもの穏やかな声でフィオナにそう呼びかけ、彼女を見つめて柔らかく微笑み、そのまま後ろ手に扉を閉ざす。
「アランブールさま……」
母が自分をここに連れてきたのは、彼に会わせるためなのだろうか。
多分そうなのだろうとフィオナは思ったが、ではどんな用でなのかはさっぱり思い当たらない。
戸惑うフィオナに、アランブール伯爵は笑んだまま近寄ってくる。無意識に数歩後ずさった彼女よりもアランブール伯爵の足の方が速く、気付いた時には彼が目の前に立っていた。
添えられているのが柔和な笑みでも、一瞬たりとも彼女から離れない彼のその視線に、フィオナは射すくめられたような心持になる。
胸の前で両手を握り締め身じろぎ一つできずにいるフィオナに、アランブール伯爵が手を伸ばしてくる。それが頬に触れた瞬間、彼女の全身の肌が粟立った。
咄嗟にその手をはねのけたフィオナに、アランブール伯爵は笑みを深める。宥めるようなそれは、けれど、ほんの少しもフィオナの不安を和らげてはくれなかった。
「怖がらなくていい。私はただ君のことを守りたいだけなのだよ。彼らのもとにいたら不幸になるばかりだろう?」
アランブール伯爵の声は、慈愛に満ちている。
が、しかし。
守る?
彼ら?
不幸?
フィオナには、彼が発する言葉の意味が解らなかった。
「あ、の……?」
一歩下がっておずおずと見上げると、アランブール伯爵は全てを受け入れたような眼差しで見返してきた。意味も理由も目的も不明なその眼差しが、いっそう彼女を落ち着かなくさせる。
「わたくし、もう戻らないと……」
「戻るとは、どこへ? 君が帰る場所は私がちゃんと用意してあげたよ」
会話が、成り立たない。
(これは、誰?)
何度か顔を合わせ、言葉を交わした穏やかな紳士とは、まるで別の存在だ。
フィオナは、目の前に立つ優しげなこの人物が、突然得体の知れない何ものかに変わったような気がしてならなかった。
再び手を伸ばしてきた彼の脇を擦り抜け、フィオナは扉へと走る。けれど、ほとんど体当たりをする勢いで辿り着いたそれはガチャリと音を立てるばかりで開け放たれはしなかった。
(鍵――)
見れば、取っ手に錠がかけられている。
コツリと響いた足音にフィオナがハッと振り返ると、余裕に満ちた足取りでアランブール伯爵が距離を縮めようとしていた。
彼がどれほど優しげに微笑んでいようとも、鍵をかけて閉じ込めるなど、普通ではない。
このままここに居るべきではないということは、考えるまでもなく明らかだ。
そうは、思っても。
(どうしたらいいの)
フィオナは扉に背を押し付け、忙しなく部屋の中に目を走らせた。
ここは一階だ。廊下への扉がある反対側の壁には、庭に出られる硝子扉がある。
(あそこから、出られる……?)
きっとそこも固く閉ざされているには違いない。
(でも、硝子を割れば)
それは格子のない一枚硝子で、両開きのどちらかさえ破ってしまえばフィオナならば容易に通り抜けられるほどの大きさがある。
物を壊すなど、生まれてこの方――少なくとも記憶に残る限り――考えたこともない。
身がすくむ思いがしたけれど、フィオナは向かってくるアランブール伯爵を避けるようにして壁際を走りざま、暖炉の上の飾り棚に置いてあった燭台を掴んだ。思ったよりも重量のあるそれに一瞬よろめきながらも、彼女は息を切らせてそのまま硝子扉を目指した。
あと数歩でたどり着ける、というところで、両手で掴んだ燭台を振り返りもせず水平に振る。
渾身の力でそれを硝子戸めがけて投げつけようとした――が。
「ッ!?」
思い切り後ろに引いた腕を捉えられ、強い力で引っ張られ、ただでさえ燭台の重さで均衡を欠いていたフィオナの身体が背後に倒れ込む。燭台を取り落とし、転倒するかと全身を緊張させた彼女だったけれども、そうはならなかった。
「危ないじゃないか」
仰け反るように倒れ込みかけたフィオナを支えたのは、いつの間にか真後ろに立っていたアランブール伯爵だ。彼はフィオナの耳元で囁くと、彼女の動きを封じ込めるように腕を回してくる。
「ぃやっ! 放してっ」
拘束から逃れんと、フィオナは肌を粟立たせて身をよじる。
アランブール伯爵は決して屈強な男性ではない。
けれども、その腕は、彼女の力では振りほどくことができなかった。
もがくフィオナをアランブール伯爵は一層力を込めて抱きすくめてくる。
「危ないよ、暴れないで。君に怪我はさせたくないんだ。私は君を助けるためにこうしているんだよ」
夢見るような上ずった声で言われても、フィオナには少しもそうは思えない。それでも、少しでも彼に正気を取り戻して欲しくて、懸命に震えを抑えた声で問い返す。
「助ける、とは、何からですか?」
フィオナから会話を求めてきたことで気を良くしたのか、アランブール伯爵の力が微かに弱まる。背後から抱きすくめられていては不安が募るばかりで、彼女はゆっくりと身を捻って彼の方へと向き直った。目と目が合って、アランブール伯爵がニッコリと笑みを浮かべる。
「もちろん、君のあの家族からだよ。彼らの君に対する扱いは酷すぎる。あんなところにいても、君は幸せにはなれない。だから、私が救い出してあげたいんだ。彼らの代わりに、私が、大事に、大事に守ってあげよう」
彼の笑顔は、まっとうに見える。
けれども、その口が吐き出している言葉は、どう考えても、まともではない。
フィオナは怯えて縮こまってしまいそうになる思考をどうにか奮い立たせ、必死に逃げ道を探す。
(こういう時、ケイティはどうするの? ケイティは――)
彼女のことを思い浮かべた瞬間、キラリと脳裏に閃いた。
『いい、フィオナ。もしも街で一人の時に男に絡まれたらね――』
あれは、ウィリスサイドで過ごすようになって、一年か、一年半か、過ぎた頃のこと。
片手を腰に当て、もう片方の手の人差し指をピンと立てたケイティが、真剣な顔で言っていた。
彼女のあの教えの通り、フィオナはそっと右足を引き、息を詰め、次の瞬間思い切りその膝を前へと突き上げる。
刹那。
「ぐぅッ!?」
首を絞められたような唸り声と共にフィオナを捉えていたアランブール伯爵の腕から力が抜ける。
殆ど転がるようにその場にうずくまった彼から、フィオナは急いで数歩後ずさった。と、踵に何かが当たり、見下ろすと、先ほど落とした燭台が目に入る。
フィオナはまだ立てずにいるアランブール伯爵から目を離さずに身を屈め、それを拾う。そうしている間も、彼は呻き声を漏らして身を縮めていた。
燭台を抱き締め、フィオナは自分が振るった暴力の結果に息を呑む。
「あ、の……」
呼びかけても、アランブール伯爵は応えない。ただ、唸っているばかりだ。
(そんなに、ひどいことをしてしまったの?)
彼のあまりの悶絶振りに不安に駆られたフィオナは思わず一歩二歩と前に踏み出し、せっかく広げた距離を縮めてしまった。刹那、パッと伸びてきた手が、彼女のドレスの裾を掴む。
「ッ!」
フィオナが悲鳴混じりの息を呑んだその時、部屋の扉がガチャガチャと音を立てて揺さぶられた。




