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悩める子爵と無垢な花  作者: トウリン


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過去への扉を閉ざすもの

 ルーカスの前から逃げるように走り去り真っ直ぐに自室に戻ったフィオナは、かろうじて寝台まで歩み寄ると力なくそこにへたり込んだ。


 この半日で、フィオナの中の何かが大きく変わってしまった気がする。


(何だか、疲れちゃったな)

 彼女はぼんやりとした頭で部屋の中を見回した。


 ここは、自分の、部屋。


 けれど、およそ月の半分を過ごした今でも、少しもそうは感じられない。

 確かにとても綺麗で豪華で何もかも揃っていて。

 申し分のない部屋のはずだけれども、フィオナは、ウィリスサイド警邏隊詰所の寝台と書き物机があるだけの部屋の方がずっとずっと落ち着けて、ずっとずっと好きだった。


「この部屋は、わたくしに相応しくない」

 声に出して呟くと、よりいっそうその事実が身に染みる。

 それは、以前から――この部屋に最初に案内されたときからフィオナが感じていたことだった。それを、ごまかしていたのだ。そう感じるのは記憶がないからだと。記憶さえ戻れば、懐かしいと思えるはずだと。


(でも……)

 フィオナは、部屋の中の一つ一つに目を向ける。


 繊細な意匠の書き物机。天板は狭くて、便せん一枚を置くのがやっとだ。小さな引き出しには、きっと、詰所の机にしまってあるものの半分も入れられない。

 細かな模様のレースのカーテン。薄くてしなやかで、光を遮ることもできないし、部屋の中を隠してもくれない。

 絹の掛布で覆われた寝台。掛布はサラサラで滑らかで、あまり汗を吸い取ってはくれないし、洗ったらすぐにダメになってしまう。

 どれもこれも贅沢で、そして、実用性に欠ける。

 家具も、壁紙の色も、何もかも、何一つ、好きではないのだ。記憶にないかつての自分がここを好きだったとも、思えないほどに。


「わたくしには、そぐわない」

 フィオナはもう一度胸の中に溢れているその感覚を言葉にしてこぼした。そうすると、ほんの少しだけ重苦しくのしかかっていたものが軽くなった感じがした。

 母も、兄も、姉も、彼女の幼い頃を知るというオーギュスト・アランブールも、フィオナはここに相応しくないと言う。

 そう言われても、フィオナは奇妙なほどに残念にも寂しくも思えなかった。

 ただ、自分でも薄々そう感じていたことが、他者から言われることで改めてはっきりと実感できたというだけだ。


「今さら、よね」

 呟き、フィオナは小さく笑った。

 むしろ、本当はこの家の娘ではないのだと言われた方が、よほど納得できる。それほどに、彼女はベアトリス・トラントゥールである自分に違和感を覚えていた。


 そして、今日実感したこと――思い知ったことは、他にもある。


 一つ。

 母は、二人目の娘であるフィオナのことが嫌いだ。

 二つ。

 ルーカスはフィオナをグランスに帰したがっている。

 三つ。

 ――ルーカスは、ここに残るつもりだ。


 フィオナがここに相応しくないということも、母に疎まれているということも、グランスに帰った方がいいということも、もう、受け入れられる。

 もしかしたらそれは記憶がないせいなのかもしれない。トラントゥール家の一員だという記憶が戻れば、自分が弾かれた存在なのだということを辛く思うのかもしれない。


 気持ちを偽らずに言えば、家族に再会して三日もすると、微かに抱いていた血のつながりへの憧憬は霧消した。

 過去に対する未練とかではなくて、そういった曖昧な『かもしれない』をはっきりさせたいから、フィオナは記憶を取り戻したいと願うようになっていた。その思いは、根強く残っている。当初の、家族に、あるいは失った記憶に焦がれる気持ちはもう今はきれいに消え失せているけれど、自分という存在を確かなものにするためには過去が必要だとは、思っていた。


 けれど。


 そう、『必要』なのだ。


 フィオナは、唇を噛む。

(わたくしは、もしかしたら、記憶を取り戻したいとは思っていないのかもしれない)

 あるいは、記憶を取り戻すことを恐れているのかも。


 フィオナの中にあるはずの過去への扉は、まるで内側から誰かが押さえつけているかのように頑強に閉ざされている。十年以上を過ごしたこの場所に戻っても、隙間すら見せてくれないほどに、頑強に。


 その『誰か』とは、彼女自身なのではないだろうか。

 必要だとは思いつつも望んではいないから、一向に思い出せないのではないだろうか。

 フィオナの中には、そんな疑念が湧く。


 ここで再会した人々は、口を揃えてかつてのフィオナは人形のようだったと言う。

 そんな――人形のようなベアトリス・トラントゥールに戻ってしまうことを、フィオナは心の底で拒んでしまっているのかもしれなかった。

 もしもそうならば、ここに居る限り記憶は戻らないような気がする。


(だったら、わたくしは……)


 グランスに、帰るべきだ。


 この地にフィオナを引き留める者はいない。ここに残っていなければならない理由は、ない。

 何なら、今すぐに、明日にでも、グランスへと帰ったらいい。

 そう思っているのに立ち上がれない理由を、フィオナは解っていた。


 血のつながった存在に望まれていないということは確かにチクリと痛みを覚えるけれど、不思議なほどにストンと腑に落ちた。

 フィオナの胸を締め付けるのは――この地を離れたくないと思う理由は、ただ一つ。


 ここを去るならば、ルーカスの手を放さなければならない。

 ――それだけが、つらい。


 ついさっき彼の口から出た言葉で、フィオナは彼が何を望んでいるのかをはっきりと知ってしまった。

 ルーカスは、ここに残りたいのだ。コンスタンスの為に。

 それは、身を切られるように、つらい。


『ルーカスさまはいくらでもここにいらして?』

 そう言ったコンスタンスに。

『そうですね。もうじきそうなると思いますよ』

 ルーカスは、そう答えた。


 ここに来てからのコンスタンスへのルーカスの態度でそうなのだろうと思ってはいたけれど、それが、あの言葉で固まってしまった。


 叶うことなら時計の針を戻してグランスを旅立つ日に戻り、ルーカスがともにこの地に来ることを阻止したい。

 けれどそれは不可能なことで、ルーカスはここに来て、そして、コンスタンスに出逢ってしまった。彼女と、惹かれ合ってしまった。


 フィオナがここを発たなければと思う理由は、ここに居たくない、その必要が感じられないというだけではない。彼の為でもあるのだ。

 フィオナが傍にいる限り、責任感が強いルーカスは彼女の面倒を見ざるを得ないだろう。フィオナが去らなければ、彼はコンスタンスとの幸せな生活に気持ちを向けることができないのだ。


 ルーカスの幸福を願うならば。


(わたくしは……)

 フィオナは膝の上で両手を握り締める。


 その時、前触れもなく部屋の扉が開け放たれた。


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