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悩める子爵と無垢な花  作者: トウリン


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人形じゃ、ない

 初めて耳にするルーカスの大声に、フィオナはヒクリと喉を鳴らす。

 ルーカスは横たわる大男を一跨ぎで越すと、彼の怒気に呑まれ、半身を起こしたところで固まっていたフィオナの前に立った。そうして、彼女の頭の天辺からつま先までジロリと視線を流してから、膝を突く。

 いつもは滑らかな眉間に深くしわを刻んで、ルーカスは右、左とフィオナの足首を持ち上げ、そっと動かす。次いで地面に突いたままの彼女の手を取った。ひっくり返し、手のひらを見たところで奥歯を噛み締める。


「まったく、こんなところまでケイティに倣わなくてもいいだろう!」

 歯を食いしばったまま軋むような声でそう言われても、フィオナには意味が良く解らない。

「え?」

 ケイティ?

 どうしてその名がここで出てくるのかと、フィオナは目をしばたたかせた。

(こんなところって、どんなところ?)

 フィオナの困惑など全く気付いたふうもなく、ルーカスは彼女のもう片方の手を取りしげしげと見つめる。それを手放すと最初に見た方の手に戻って、懐から取り出した手巾でサッと払った。チリッと痛みが走り、そうされて初めて、彼女はそこに擦り傷ができていたことに気付く。

「痛ッ」

 思わずフィオナは声を上げてしまったが、実際にはそれほどの痛みがあったわけではない。刺激で声が漏れただけだ。けれど、ルーカスは彼女のその一声に打たれたように、ピタリと手を止める。彼の顎にいっそう力がこもったことが見て取れた。


(あ、もしかして……)

 そこでようやく、フィオナは、彼女のその傷のことを彼が気にしているのだということに思い至った。先に足を動かしたあの謎の行動は、くじいていないか診ていたのかとも。

「あ、の、本当は、痛くないです」

 おずおずと言ってみたけれど、ルーカスは答えず、これでもかというほど慎重な手付きでフィオナの手のひらについた砂埃を払うと、そこに手巾を巻き付けた。

 手当てが終わってからも、ルーカスはすぐにはフィオナの手を放さなかった。手巾を巻いた彼女の手を両手で包み込み、何かをこらえるように押し黙っている。彼の表情を窺っても伏せられた睫毛に隠されていたから、フィオナも身じろぎ一つできなかった。


 やがて、彼が小さく息をつく。

 そして先に立ち上がり、フィオナの両手を取って立ち上がらせた。辺りに霜が降りそうなほど冷やかな怒気をみなぎらせているというのに、フィオナに触れる彼の手は驚くほどに優しい。

 フィオナが真っ直ぐに立つまで支えてくれていてからその手を放したルーカスを、彼女はためらいがちに見上げる。今度はしっかり眼が合って、刃のような銀灰色の瞳が睨み返してきた。


「君は、どうしてあんなことをしたんだ!?」

「あんな、こと……?」

「馬車から降りただろう。その上、体当たりまでするなんて、なんて無謀なんだ!」

「だって、彼がナイフを――」

 口ごもりながらフィオナがそう言ったとたん、キリリとルーカスの眉が吊り上がった。と思ったら、引き結ばれていた唇から滔々と言葉が溢れ出してくる。

「それならなおさら、動くべきじゃなかっただろう! 君が私を助けるなど、そんな必要はない! 確かにケイティはあの時デリック・スパークから隊長を守ったが、君が同じことをする必要などみじんもない! 彼女から色々なことを学ぶのは大いに結構だが、そういう、余計なところは吸収しなくていい。君は、黙っておとなしく守られていればいいんだ!」

 荒い声でそう言われた瞬間、フィオナは伏せていた顔をパッと上げる。


「いやです!」

 その一言は、とっさに出てしまっていた。その強い口調も、ルーカスに抗うような台詞も、フィオナが初めて発するものだった。

 まさか口答えされると思っていなかったのか、ルーカスが微かに目をみはっている。その態度が母や姉のものとどこか被り、フィオナの口から苦い気持ちとともに言葉が零れ落ちる。


「わたくしは……わたくしは、人形なんかじゃ、ありません」

 口にして、改めて、ひしひしと身に染みた。


(わたくしは、人形じゃない)


 かつての彼女はそうだったかもしれない。

 けれど、今は違う。

 自分で感じ、考え、動く。

 それができる、一人の人間だ。

 他の誰でもない、ルーカスには、それを認めて欲しかった。


 不意に、涙がひとしずく、フィオナの頬を転がり落ちた。

 悲しみや恐怖からではない。

 憤り、もどかしさ、悔しさ――そんなものが入り混じった、涙だった。


 ひとしずく、そして、もうひとしずく。

 それで止まった。

 けれど、フィオナの頬が濡れるのを見た瞬間、ルーカスがハッと息を呑む。憑き物が落ちたように、彼の内から怒りが引いていくのが見て取れた。


「フィオナ……すまない。そんな、つもりでは……」

 囁き声は、悔恨で掠れている。

 その指先に一瞬のためらいを見せた後、ルーカスはそっとフィオナを抱き寄せた。片手で彼女の頭を自分の肩に押し付け、もう片方の手で震える彼女の背を撫で下ろす。幾度も繰り返されるその動きは、穏やかで優しかった。


 フィオナは、いつかの夜を思い出す。

 かつて、怖い夢を見て目覚めると、必ずルーカスがいてくれた。今と同じように、震えが止まるまで抱き締めて、背を撫でてくれた。

 ここに来てから距離を感じていたけれど、ルーカスは、やっぱりルーカスだった。

 その安堵の念から、知らず、フィオナの身体から力が抜け、ルーカスの胸にもたれかかる。が、刹那、彼の腕が強張った。

 フィオナが顔を上げると同時に彼女の両肩に彼の手がのせられ、そっと引き離される。ルーカスはと言えば、さっきまでとは違う硬い顔をしていて、目が合うとサッと視線を逸らされた。周囲に目を遣ったふうでもあったけれども、フィオナには、視線を避けられたように感じられた。


 寂しさをこらえるフィオナに、ルーカスが淡々とした声で告げる。

「人も来たようだし、あとは彼らに任せて帰ろう。取り敢えず、君は馬車に。私は彼らに事情を説明してくるから」

 見れば、集まりつつある野次馬の中に、警官らしき者の姿もあった。

 ルーカスはフィオナの背に手を添え、馬車へと促す。同じように触れているはずなのに、その手は、どこかよそよそしい。


 けれど、ルーカスは、慰めてくれただけなのだ。

 彼の前で涙など流すから。

 それに甘えた、フィオナが悪い。

 彼女は頬の内側を噛み締めながら自分に言い聞かせ、従容としてルーカスに従った。


 ルーカスはフィオナを馬車に乗せると、彼女に一瞥すら寄越さず倒れ伏したままの襲撃者を覗き込んでいる警官の元へと小走りで駆け戻っていく。

 みるみる開いていく距離が空間的なこと以外のものも表しているような気がして、フィオナの胸がチクリと痛んだ。


 未練がましくルーカスを見つめていたフィオナに、隣から呑気な声がかけられる。

「君があんなに大きな声を出すなんてね」

「え?」

 ルーカスから引き剥がすようにしてエミールに目を移すと、彼は興味深そうな眼差しでフィオナを見ていた。

「いやです! って。ここまで聞こえたよ。彼もかなり怒っていたよね。さっき君をここに連れ戻してきた時、私をねじ切りそうな眼で見ていったよ。いったい、何を言われたんだい?」

 問われて、フィオナは視線を馬車の床に落とす。

「どうして、馬車を降りたのか、ただ守られていればいいのに、と……」

「それで、いやです、か」

 繰り返して、エミールがフッと笑う。


「まあ、それは私も同意見だけどね。女性はおとなしく守られることを甘受していればいい。というより、守られるしかできないものだ。さっきは正直驚いたよ。君があんなふうに動くとは。驚いて、固まってしまった。アシュクロフト君には、後で拳骨の一つや二つはもらうかもしれないな」

 冗談めかしてそうおどけた後彼は言葉を切り、しげしげとフィオナを見つめる。

「君はこんなに華奢でたおやかなのに、愛しい人の為なら身を投げ出すこともしてしまうのだね」

 呟くように言ったエミールはフィオナの手を――ルーカスが手当てをしてくれた方の手を取り、その甲に口付ける。

「うらやましいな」


 心底からそう思っているような彼の言葉に、フィオナは唇を噛んだ。

「でも、ルーカスさんは、あんなに怒って……」

「まあ、それはね。私も怒ると思うよ。大事な人が自分の為に傷ついていたかもしれないと思ったら、頭の血管の一本や二本は切れてしまうかな」

 そう言うとエミールはフィオナの手をひっくり返して今度は手のひらに唇を寄せた。温かな息は感じたけれども、触れてはいない。


 自身の唇とフィオナの手のひらとの間に紙一枚ほどの隙間を残したまま、エミールは目だけを上げてフィオナを見る。

「ますます、君に興味が湧いてきた。また逢いたいな――今度は二人きりで」

 彼はニコリと笑い、その視線をフィオナから馬車の前方へと移した。

「でも、無理かな」

 そう言った彼は、何か面白い物でも見つけたかのような顔をしている。


 釣られてフィオナもエミールが見ている方へと目を向けると、こちらに戻ってくるルーカスがいた。

 ――警官との遣り取りに何か問題でもあったのか、ひどく険しい顔をした、彼が。


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