訪問者
「お嬢様、お客様がいらっしゃいました」
図書館で読むともなしに本を広げていたフィオナは、メイドからそう告げられた。
トラントゥール家の本棚の中身はあまり豊富ではないけれど、庭に次いで家人があまり足を踏み入れない場所だ。記憶を想起させるべく、普段はフィオナもできるだけ家族に声をかけたり家の中を見て回ったりしているけれど、どうにも疲れてしまった時には庭か図書室かで気持ちを仕切り直している。
今日も今日とて、母に声をかけ、木で鼻を括るような言葉を返され、姉に声をかけ、うんざりしたような嗤いを返され、父に声をかけ、気のない頷きを返され、少し前にこの図書室に辿り着いたところだ。ちなみに、兄は昨晩帰りが遅かったとのことで、昼を過ぎた今でもまだ顔すら見ていない。
「お客さま……?」
誰だろう。
この国に、個人的な知り合いはいないはずなのに。
本を膝の上に開いたまま戸惑いの眼差しを向けたフィオナに、メイドは続ける。
「エミール・ラクロワ様です」
名前を聞いてもまだ心当たりがなく、フィオナは眉根を寄せる。と、思い出した。二日前の舞踏会で言葉を交わした人だ。帰りの馬車の中で彼と話したことを母に告げたら侯爵家の人だと教えられ、何か粗相をしなかったかときつく問い詰められたことの方が、記憶に濃い。
ほんの束の間、会話を交わしただけの人だ。暗がりだったから、はっきりと顔も覚えていない。
そのエミール・ラクロワが、いったい何の用だろう。
「その、ご用件は、何て……?」
「存じ上げません」
メイドの返事はつれないものだったけれども、考えてみれば当然か。
トラントゥール家の者は、使用人に余計な口を利くことを許さない。主が何か言えば、ただただそれに従うだけ、理由や意図を問うことなどもっての外だ。
ましてや、侯爵家の人だというエミール・ラクロワに対して使用人の方から用向きを確認することなどするはずがないし、彼の方から男爵家の使用人に細かく説明などするはずがないだろう。
あの晩、何か無礼でも働いてしまったのかと不安に駆られつつ、フィオナは本を閉じて立ち上がる。
「どちらでお待ちいただいているのですか?」
「応接間です」
「ありがとう」
微笑んで礼を言うと、メイドの眉がピクリと動いた。
本当は、使用人に命令以外の声をかけるなど、貴族としてするべきではないらしい。アデライドには眉を逆立てられ、コンスタンスには鼻で嗤われた。けれど、フィオナは何かをしてもらったら必ず礼の言葉を口にするようにしている。そうする方が人として正しいことだと思うし、フィオナ自身、ケイティや隊員たちがくれる『ありがとう』がとても嬉しかったから。
図書室を出て、先に立って案内をしてくれるメイドについて歩いていると、廊下の向こうからルーカスが現れた。彼はフィオナに気付いて足早に近寄ってくる。
彼女の前に立ったルーカスは、一人だった。傍にコンスタンスの姿がないのは珍しい。
無意識のうちに周囲に目を走らせてしまったフィオナに、ルーカスがクスリと笑う。
「彼女ならいないよ。で、フィオナ、君にお客さんが来たって?」
フィオナはパッとルーカスを見上げ、頷いた。エミールは良い人そうだったけれども、二人きりで会うのは不安だった。もしも彼が同席してくれるなら、心強い。
「はい。舞踏会でお会いした方で……」
「ラクロワ侯爵の次男、だよね?」
フィオナを促し再び歩き出したルーカスが確認するように問いかけてきた。
「はい」
何となく彼らしくない乱暴な言い方だったけれど、確かにその通りなのでフィオナはまた首肯する。
「何の用か、聞いた?」
「いいえ」
「そう」
短く答えたルーカスは、妙に渋い顔をしていた。
「どうかしましたか?」
「え? ああ、いや、何をしに来たんだろうな、と」
そう言って、彼は取り繕うような笑顔になる。が、やはり疑問以外の何かがありそうだった。
ルーカスは何を気にかけているのだろうと思いつつ、それを確認できないうちにフィオナたちは応接間に着いてしまった。
中に足を踏み入れると、窓際で外を眺めていた豪奢な金髪の男性がクルリと振り返る。
「やあ、フィオナ。今日も綺麗だね。ああ、フィオナ、で、いいよね?」
大股なのに優雅な足取りでフィオナの前にやってくると、エミールが首をかしげてそう訊ねてきた。
「……はい」
呼んだ後に問われても、同意以外の返事はできないと思うのだけれども。
フィオナはそう思いつつ、頷いた。と、エミールがパッと満面の笑みになる。
「良かった。堅苦しいのは嫌いなんだ。私のこともエミールと呼んで欲しいな」
フィオナに微笑みかけながら彼女の手を取ったかと思うと、エミールは流れるような所作でその指の背に口付けた。挨拶ならばすぐに放してくれると思ったのに、彼はそうするどころか逆にしっかりと彼女の指を握り込んでしまった。そうして、目の高さが同じになるくらいで腰を屈めて、真っ直ぐにフィオナを見つめてくる。
萌え始めた若葉のような瞳の色は、やはりケイティと良く似ている。けれど、彼女の眼差しは朗らかで包み込むようだけれども、彼のそれは、何というか、もっと圧のようなものを感じさせた。
「あ、の」
その視線の強さに戸惑い思わずフィオナが声を漏らすと、不意に彼はにこりと笑った。途端に雰囲気が一変する。そこで、この場にいるもう一人が声を上げた。
「それで、ご用件は何でしょうか?」
まだフィオナの手を取ったまま、エミールが視線を横に滑らせる。その先にいるのは、もちろんルーカスだ。
「ああ、えっと、君は……誰だったかな?」
確か二日前にもあいさつを交わしていたと思うけれども、エミールはまるでルーカスとは初めて会うような顔をしていた。そんな彼に、ルーカスは笑顔で名乗る。
「ルーカス・アシュクロフトと申します。フィオナの親しい友人です」
「へぇ、友人、ね」
「はい」
二人とも笑っているはずなのに、何だか空気が冷たい気がする。
フィオナは失礼にならないように心がけてエミールの手から自分の手を取り戻しつつ、問いかける。
「あの、ラク――」
エミールの眉が片方だけ持ち上がった。
「え、と、エミール、さま」
彼が満足そうに微笑む。
「何だい?」
「その……ご用件は、何でしょう」
先ほどルーカスが口にし、結局答えは与えてもらえていない問いを、フィオナは繰り返した。
「用? ああ、一緒に散歩にでも行かないかと思って。約束しただろう?」
(した、かしら……?)
提案はされたかもしれないけれど、同意は返していないような気がする。
フィオナがおずおずとエミールを見上げれば、当然のように笑顔が返ってきた。
ここで断るのは――やはり失礼になるのか。
追い詰められたネズミの気持ちでフィオナが横のルーカスに目を走らせると、彼は口元だけの笑みをエミールに向けた。
「申し訳ありませんが、先日お伝えした通り、彼女は病み上がりなので」
婉曲だけれども明らかな断りの返事に、しかし、エミールは平然と答える。
「ああ、だから馬車にしたよ。天気もいいしね、病み上がりならなおさら気分転換にいいじゃないか」
引く気配は微塵もない。もう、彼の中ではフィオナが行くことは決定事項になっているようだ。
今まで、フィオナの身の回りにこんなふうに強引にことを押し進めようという者はいなかった。警邏隊の人たちはいつだって彼女の意思を尊重してくれたし、そもそも拒むということをほとんどしたことがないから、拒み方が判らない。
けれど、このまま黙っていたら、抱え上げられて馬車に乗せられてしまいかねなかった。
馬車での散歩自体はともかくとして、ほとんど知らない人と二人きりで出掛けるなど、フィオナには無理だ。
(どうしよう)
途方に暮れかけた時、隣から小さなため息が届く。
「判りました。では、私も同伴させてください」
ルーカスの台詞に、エミールが眉をひそめる。
「え? 何で君が?」
「私は彼女の保護者でもありますから。供もなしに淑女を連れ回すなんて、紳士とは言えないでしょう?」
また、冷やかな笑みがルーカスの口元に刻まれた。フィオナはあまり見たことのない、笑みだ。
エミールはしばし渋い顔を続けていたけれど、やがて諦めたように肩をすくめる。
「まあ、いいか。フィオナが楽しんでくれるのが一番だからね。じゃあ、行こうか」
屈託のない笑顔と共に手を差し伸べられたら、もう、フィオナに拒否することはできなかった。
そっと横目でルーカスを窺うと、彼は「仕方がないね」と言わんばかりの苦笑を返してくる。
確かに、断る理由もないし、仕方がない。
フィオナは意を決し、すらりとしたエミールの手に指先をのせた。




