疑わしきは
フィオナの父親の友人だというアランブール伯爵家で開かれた舞踏会から戻った、その晩。
ルーカスは彼にあてがわれたトラントゥール家の自室で、クライブと会っていた。
もっとも、彼との会合は何もこの夜だけのものではない。アシュレイ・バートンの元で顔を合わせて以来、ほぼ毎晩、行われていることだ。
クライブは常にこの屋敷のどこかにおり、フィオナの安全に目を配ってくれているらしい。確実にフィオナが一人で自室にいる時間を除き、彼はほぼ完全に彼女の動向を把握していた。それに加えてアシュレイからの使者と会い、情報の遣り取りをしている。
だが、クライブは常に屋敷内にいるはずであるにも拘らず、こうやって会う時間以外に、ルーカスが彼の姿を目にしたことはない。確かに彼は記憶に残らない容姿をしているが、それ以前に、存在している気配すら感じ取らせなかった。
実に、不思議な男だ。
「それで、あなたから見て、疑わしい人物はいましたか」
低くかすれた声で、前置きなしでクライブが問うてくる。彼が言うのは、もちろん今日の舞踏会でのことだ。
ルーカスは腕を組んで答える。
「フィオナに対して個人的な興味を示したのはオーギュスト・アランブールとエミール・ラクロワ、かな」
会の間中、フィオナには両手両足の指を使っても数えきれないほどの老若男女が声をかけてきたが、彼らの動機のほとんどは、四年間彼女が姿を見せなかったことに対する好奇心――野次馬根性だ。不快ではあるが、害はない。
多少距離を取っていたのでルーカスも彼らの声聞き取ることは難しかったが、代わりに唇を読んで発言の内容はおおよそ把握している。それと彼らの表情から察するに、病気で療養していたというフィオナに対する気遣いを見せた者は、ほぼ、皆無と言っていい状態だったようだ。
グランスの社交界もさして『上品』とは言えないが、フランジナの下世話な雰囲気はだいぶグランスを上回る。女性は意味ありげな視線で扇の陰で囁き合っているし、男はフィオナを前にすると涎を垂らさんばかりだった。
コンスタンスやアデライドが不快なだけかと思ったが、どうやらフランジナの貴族階級はアシュレイが言っていたように全体的に程度が低いらしい。グランスも似たり寄ったりとは言え、もう少し、取り繕おうとはするはずだ。
できれば、あんな連中の中にフィオナを置いておきたくはなかった。あるいは、少なくとも、触れられる距離にはいてやりたかったのだが。
くだらない連中にも健気に微笑みを返していた彼女の姿には、胸が痛んだ。
と、ルーカスが苦々しい思いで彼らの中にいたフィオナの姿を思い出していると、彼が挙げた名前に対して、クライブが頷く。
「自分もその二人が気になりました」
「君もあの場にいたのか」
思わず言ってしまってから、当然そうだろうとルーカスは苦笑する。トラントゥールの屋敷でもフィオナに付きっ切りでいてくれるのだ。どんな危険があるか判らない場で、彼女から離れるわけがない。
クライブは、納得済みのルーカスの台詞に律義に答えてくれる。
「給仕に扮していました」
「給仕……全然気がつかなかったよ」
給仕に扮し、当然、フィオナの近くにいたはずだから、必ず幾度かはルーカスの視界にも入っていたに違いない。だが、しげしげと目の前の男を眺めても、その地味な茶色の髪と茶色の目をした姿は記憶に上がってこなかった。それほど、その場に溶け込んでいたということなのだろう。
流石に、二国を股にかける実業家、アシュレイ・バートンが推すだけのことはある。
改めて彼の有能さを実感したところで、ルーカスは話を本筋に戻す。
「で、君の方は他に何か気付いたかい?」
「……フィオナ嬢の不在についての噂を、いくつか」
「噂、ね。どんなやつ?」
何気なく続きを促すと、クライブは感情を映さぬ茶色の瞳を一瞬揺らした。
「――彼女の不在は、本当に病気によるものだったのか。実は子を孕みどこかに隠されたのではないか。好きな男ができて出奔したのではないか。不埒な輩にかどわかされたのではないか。……どこかに売り飛ばされたのではないか」
「売り飛ばされた?」
ルーカスはクライブの口から出たその台詞を繰り返した。
先の三つは妙齢の女性の行方が知れないとなればいかにも湧きそうな話だが、最後のそれは、そうそう出てこないだろう。
ルーカスは顎に拳を置いてしばし考え、クライブに目を向ける。
「アシュレイに、四年以上前にトラントゥール家で働いていた者を見つけ出すよう頼んでもらえるか?」
今のトラントゥール家に、フィオナが誘拐される以前からいた使用人はいない。意図的に解雇したのか、あるいは単に使用人が居つかないだけなのかは判らないが、ルーカスが当時のことを訊こうとしたら、軒並み、その頃にはいなかったとかぶりを振られたのだ。絡んでくるコンスタンスをいなしながらで充分な訊き込みはできていないが、その「売り飛ばされた」という噂を鑑みると、もう少し家の中に目を向けた方が良さそうだ。
ルーカスの頼みに、クライブは顎を引くように頷いた。
かなり気にはなるが、家庭内の違和感――疑惑については、アシュレイからの報告を待つしかない。少なくとも、ルーカスがいる前で再びフィオナに何かしようという気にはならないだろう。
「屋敷内で、引き続き彼女に目を配っていてやってくれ」
フィオナのことを他人に頼むのは気に入らないが、何よりも重視すべきなのは彼女の身の安全だ。
「で、オーギュスト・アランブールとエミール・ラクロワについては、君は何か知っているかい?」
差し当たって謎の男の正体を探るべく、ルーカスは目下の登場人物について尋ねた。
クライブは淡々と口を開く。
「アランブール伯爵家は血筋は由緒正しいですが、今の妻を迎えるまでは経済的に困窮していました」
「奥方の持参金で救われたということかい?」
「はい。彼女はフランジナでも有数の富豪の娘で、今現在も伯爵家の財源は彼女の実家に頼るところが大きいようです」
それは、グランスでも良く耳にする話だ。
貴族は基本領地からの税収で暮らしているが、昨今はそれだけでは苦しい家も多い。先見の明がある者は、役に立たない自尊心など捨てて投資に力を注いでいる。
ルーカスは軽く首をかしげて呟く。
「金で首根っこを押さえられて細君に頭が上がらないというところか。彼自身の人柄は?」
「控えめで温厚です。使用人からも悪い話は聞きません。良い話も特に出ては来ませんが」
妻の実家から受け取る金は、どのくらいオーギュスト・アランブールの自由になるのだろう。金はあるとして、貴族の娘を誘拐するなど、大それたことができるような人物だろうか。
(微妙、だな)
ある意味、アランブールが家の為に身売りしたようなものだ。そんな状況であれば、さぞかし鬱憤もたまっているだろう。
ルーカスは、頭の中で彼のことを『保留』の籠に入れた。もう少し情報を集めないことにはどうとも言えない。
「もう一人の、エミール・ラクロワについては?」
「彼は侯爵家の次男でそこそこ評判はいい人物です。女性との浮名は派手ですが、こじれるような別れ方はしていません。ラクロワ家はフランジナでもかなりの権力を持つ家です。その次男となれば、しようと思えば何でもできますが……望めば、およそ叶えられないことはないでしょう」
「つまり、誘拐なんて回りくどいことをしなくてもいいだろう、ということか?」
クライブは無言だ。ルーカスはそこに肯定の意を読み取った。
確かに、いかにも権力に弱そうなトラントゥール家の面々だ。侯爵家の者から娘をよこせと言われたら、二つ返事でくれてやりそうだ。ただ、当時のフィオナはまだ十三歳だ。流石に、そんな少女を欲しがるのは外聞が悪いから、表立っては求められなかっただろう。
コンスタンスにダンスをねだられおざなりに振り回しているさ中、露台へと姿を消していくフィオナには肝を冷やした。曲が終わると同時に他の男にコンスタンスを押し付けフィオナを追ったが、そこで耳にしたのは男の声での暗い庭の奥にある四阿へのお誘いだ。
フィオナはエミールを擁護していたが、そんなところに連れ込もうとする男に邪まな下心がないはずがない。
その上、彼は以前のフィオナを知っているらしい。
「君は、私が着く前の二人の遣り取りを耳にしていたのだろう?」
「はい」
「どんな様子だった?」
「フィオナ嬢を気遣っていました」
「怪しいところはなかったか?」
「いいえ」
クライブの返事は淡々としているが、どうやらエミール・ラクロワに積極的に疑いを抱くようなところはないらしい。
妙に彼のことが気に食わないのは、個人的な感情から来るものなのか。
ルーカスは数時間前の光景を頭に思い起こす。
エミール・ラクロワは、彼の目の前で、フィオナの手に口付けた。
あの時、もしも手元に剣があれば彼の腕か首を切り落としていただろう。
そんな不穏なことを考えていた時、ルーカスは何やら視線を感じて目を上げた。そこにジッと彼のことを見つめてくるクライブがいて、眉をひそめる。




