フィオナの思い
フィオナは、苦しんでいる。
だが、彼女はそれを呑み込み口をつぐんでしまった。
そんなフィオナが、ルーカスはもどかしくてならない。
「何か言いたいことがあるなら、ちゃんと口にするんだ。望みも、不快も、言葉にしないと誰にも伝わらない」
フィオナの小さな顔を両手で包み込み、そこに煌く青い目を覗き込んで、ルーカスは説いた。
彼女が吐き出してくれるなら、どんな言葉でも、どれほど汚く浅ましい罵りや恨みつらみでも受け止める。
むしろ、そうして欲しいくらいだ。他の者には見せない彼女を、自分の前でだけは曝け出して欲しい。
彼の前では、何一つ装う必要などないのだと、思って欲しいから。
そんな思いを込めて、ルーカスはフィオナを見つめた。
彼女はほんの一瞬、蝶の羽ばたきのように震わせた唇を、開く。
「でも――」
出てきたのは、それだけだった。
フィオナはその一言で舌を止め、柔らかな唇を噛み締めてしまう。
(私からも、本心を隠すのか)
その時ルーカスが覚えたのは、苛立ちに近いものだったかもしれない。
彼はフィオナの特別な存在でいたかった。何かの折に彼女が一番に頭の中に思い浮かべるのはルーカスで、すがりたいときに手を伸ばすのはルーカスで、泣きたいときに温もりを求めるのはルーカスであって欲しかった。
そうなるべく、フィオナの前では極力自分の本心――無私とは遠くかけ離れた想いを押し隠し、優しく穏やかなルーカス・アシュクロフトでいたというのに。
彼女を自分に依存させてもいいと思ったこともある。彼自身の為だけであれば、その方がいいとすら、思った。そうさせることも、たやすかった。
だが、その関係はフィオナの自尊心を潰してしまう。
自尊心が潰れれば彼女は独りで立つことができなくなり、独りで立つことができない人間は、いずれ自分自身を憎むようになる。
――それが判っていたから、彼女にはそうなって欲しくなかったから、しなかっただけだ。
フィオナには、フィオナ自身が誇れる彼女であって欲しい。
翳りのない、明るい笑顔を浮かべられる彼女であって欲しい。
そう思って諸々を我慢してきたというのに、ようやく、三年をかけてそんなフィオナになったというのに、ここへ来た途端に、まるでこの三年間が消え失せてしまったようではないか。
それもこれもトラントゥール家の面々のせいではあるが、あんな身のない連中にルーカスたちの三年間が負けてしまうことが腹立たしい。
だが、記憶にないとはいえ、ここでの十四年間はフィオナを形成する時間の大部分を占めるのだ。
仕方がないと言えば、仕方がない。
(だからと言って、放り投げるつもりは更々ないがな)
ルーカスの視線を避けるようにフィオナがけぶるような睫毛で碧眼を隠してしまってからも、彼は彼女を見つめ続けた。フィオナと二人きりになれる状況など、ここではそう作れるものではないのだ。とにかく、今この場で靄は吹き飛ばしておかないと。
「フィオナ、何でもいいんだ。とにかく、君の中にあるものを言葉にしてごらん。断片的でも支離滅裂でもいいよ。何も教えてもらえないよりは、遥かにマシだ」
ふわりと彼女の睫毛が上がり、青い目が再びルーカスを見る。それは心許なく揺れていて、あまりに儚げな風情に、彼は危うく細い身体に両腕を回してしまいそうになった。
その衝動を押さえ付け、ルーカスは続ける。
「昼間はあまり傍にいられないけれど、どんな時でも私が一番に考えているのは君のことだからね。君が思い悩んでいるのを見ているのは、私もつらいんだ。何も教えてもらえない方が、苦しいよ」
そう言って、微笑んで見せた。
フィオナは唇を開き、噛み、そしてまた、開く。
その小さな仕草が表す逡巡に、思いを吐露することへの不安が見て取れたが、ルーカスはそれ以上の言葉で促すことはせず、辛抱強く待った。
やがてフィオナが、胸の奥から絞り出すような声で、囁く。
「わたくしは、嫌われるのが怖いのです」
彼女のその台詞に、ルーカスは一度だけ瞬きをした。
それは、大多数の者が抱くであろう、ごく当然な感情だ。何も深刻な罪の告白でもするかのように口にする内容ではないだろうに。
当然ルーカスの頭は解せない思いで満たされたが、顔には出さずに軽く首をかしげる。
「それは当たり前だろう。真っ当な感覚を持っているなら、人に嫌われたいと思う者などいないよ」
別に、恥ずべき欲求でも何でもない。
ルーカスの返しに、しかし、フィオナは顔を伏せてしまった。月の光で天使の輪ができている丸い頭を見下ろし、彼は思案する。
どうやら、他にもまだ掘り出すべきものがあるらしい。
「フィオナ、君がそう考えるのは、全然おかしくないことだ。私だって、人からは……好かれたいと思っているよ?」
若干言葉を置き換えて、ルーカスはフィオナに重ねて告げた。
まあ、ルーカス自身は、興味がない人間から好かれようが嫌われようが別にどうとも思わないが、好かれていると利点が多く、嫌われると面倒なことが増えるのは事実だ。フィオナの『嫌われたくない』とは、根底にあるものが少し、いや、だいぶ、違っているのだろうが、それでも、一般的に言って、彼女の望みは多くの者に共通する至極当然のものであることには違いがない。
ルーカスは励ますように微笑んで、フィオナの顔を覗き込んだ。が、やはり彼女の顔色は優れない。
どうしたものかと次の言葉を探すルーカスの耳に、風の音にすら掻き消されそうな声が届く。
「わたくしは……以前にそうだったから、なおさら、怖く思うのではないかと……」
「え?」
フィオナの台詞の意味が掴めず、ルーカスは眉根を寄せた。と、彼女はより一層深く顔を伏せ、か細い声で続ける。
「わたくしは、記憶を無くす前も嫌われていたから、そうであった自分を知っているから、余計に人に嫌われるのを怖いと思ってしまうのではないでしょうか」
「そんな馬鹿な!」
フィオナの口から飛び出した突拍子もない思い違いに、思わず、ルーカスは声を上げていた。その勢いに、フィオナが怯んだように身じろぎをする。
(くそ、彼女を怯えさせてどうする)
彼は小さく咳払いをして己を戒め、努めて穏やかに、説く。
「君が人から嫌われていたなど、有り得ないよ」
パッと、フィオナが顔を上げた。
「でも――!」
言いかけ、口をつぐむ。
フィオナが言いたいことは容易に察せられて、ルーカスはまた彼女が顔を伏せてしまう前に華奢な顎に手を添えた。それを軽く持ち上げ、彼女と目を合わせる。




