眠れない夜
フィオナとルーカスがトラントゥール家で過ごすようになってから、三晩目を迎えた。前の二晩と同様に、彼女は柔らかな寝台の上で二度三度と寝返りを打つ。
今夜もフィオナには眠りの精が訪れてくれそうになく、窓に現れた月が再び見えなくなるのを見届けたところで、彼女は寝台から抜け出した。
窓際まで行き外を覗くと、綺麗な満月は夜空の真ん中から西へと、傾きつつある。
頭は何だかぼんやりするし、身体は怠くて仕方がない。
けれども、眠れない。目蓋を下ろしても絶えず様々な思いが飛来して、眠ろうとすればするほど、目は冴えてくる。
フィオナは窓硝子に指先を触れさせ、小さく吐息をこぼす。そして、肩越しに室内を振り返った。
白と水色で整えられた少女らしいこの部屋は、彼女が幼い頃からずっと過ごしてきた場所だという。外には出かけたがらない子どもだったから、ほとんど一日中、この中で本を読んだり縫い物をしたりしていたのだとか。
フィオナが、生まれてからの十四年間、その大半を過ごしてきた、部屋。
けれども、まったく彼女の記憶にかするものはないし、ぼんやりとした懐かしささえも抱けない。眠り慣れたはずの寝台では眠ろうとしても落ち着かず、この旅の中でルーカスと泊った宿の粗末な寝床の方が、よほど寛げたような気がする。
ここはフィオナが生まれ育った家で、ここに住む者は彼女と血のつながりを持つ者だ。彼らはこの世の誰よりも、彼女に近しい人たちのはず。
そのはず、なのに。
(わたくしの、家族)
胸の中で囁いてみた。
両親と、兄と、姉。
フィオナは一つに編んである黒髪をそっと持ち上げる。
この髪は、父親譲りかもしれない。
硝子に映る青い目を、見つめる。
この青い目は、母の青さとは違う。
両手で、顔に触れる。
家族の誰とも重なるところがないこの顔かたちは、いったい誰に似ているというのだろう。
(おじいさまや、おばあさま、とか……?)
トラントゥールの血筋を辿れば、この顔に似た人が誰か一人くらいはいたのだろうか。
応接間で三年半振りの再会を果たした時、母は目を潤ませて迎え入れてくれた。父も、「お前はいったい何者だ」と問いかけてくることはしなかった。だから、フィオナはこの家の娘なのだと思う。父と母だという人たちが、そう言うのだから。
(でも……)
フィオナは、また一つ、息をついた。
確かに一度は歓迎の言葉をもらったけれども、ここは、まったく自分の家、自分の家族という気がしない。ウィリスサイドの警邏隊詰所の方が、遥かにそう感じられた。
兄のセルジュと姉のコンスタンスには、フィオナが行方不明になったことは教えていなかったのだという。夕食の席で顔を合わせる前に母に呼び留められて、「あなたは急な流行り病に罹って田舎で療養していることになっていたから」と言われた。下手に心配させたくなかったのだ、と。兄も姉も、三年半振りにフィオナを見て、ただ、「帰ってきたのか」と言っただけだった。
応接間で最初に母と顔を合わせた時、もしかしたら、自分の帰還は望まれていなかったのかもしれないと、そんな考えが頭の片隅をよぎった。まさか、そんなはずはないと、あの時はすぐにそれを打ち消したけれども。
あれから三日間この屋敷で過ごして、今、その疑いはほとんど確信に変わっている。
自分は、家族から嫌われているという、確信に。もしかすると、嫌われているというのは言い過ぎになるかもしれない。でも、少なくとも、彼らに受け入れられているという安心感を抱くことはできていなかった。
(でも、何故?)
どうして、自分は疎まれているのだろう。
(以前のわたくしに、至らないところがあったの?)
フィオナは硬く目を閉じる。
判らない。
かつて自分がどういう人間だったのか、この屋敷でどう過ごしていたのか。
知りたくて、でも、知るのが怖かった。
不安で、心細くて、フィオナはルーカスと話をしたいと思った。微笑みかけて、「大丈夫だ」と言って欲しかった。
けれど、昼の彼はずっとコンスタンスと一緒にいる。意を決して声をかけようとしても、彼女から一瞥を投げかけられると、どうしてか喉が詰まってしまうのだ。それに何より、ルーカスは、コンスタンスに向けてずっと微笑んでいる。きっと、綺麗で華やかな彼女といると楽しいのだろう。そんな二人の邪魔は、できない。
(夜は……)
フィオナはキュッと唇を噛み締めた。
ここに着いた日の夜、不安でたまらなくて落ち着かなくて、礼儀に反することは判っていたけれど、どうにも我慢できなくてルーカスが泊まる部屋を訪れた。何か一言もらえれば、気持ちが安らいで眠れるような気がしたから。
でも、あの晩、ルーカスはそこにいなかった。少しの間待ってみたけれど、結局帰ってこなくて。
どこに行っていたのか、あの後も彼には訊ねていない。
ただ、真面目なルーカスがフィオナのことを放り出してどこかに行ってしまうことはないはずだから、トラントゥールの屋敷内にはいたはずだ。
だから、もしかして、と思った。
もしかして、姉と一緒にいたのだろうか、と。
ルーカスは最初に顔を合わせた瞬間からコンスタンスに好意を抱いたようだったし、それは姉の方も同じに見えた。実際、この三日間の二人の様子からして、それはあながち間違ってはいないと思う。
(お姉さまはお美しいし、お話をしていても楽しそうだもの)
何かを問われてもろくに返事もできないような自分とは違う。
コンスタンスは明るくて才気煥発だ。ケイティの明るさとは何かが違うけれど、きっと、フィオナといるよりは楽しいはず。
食事中、しょっちゅう朗らかに響く彼女の笑い声が、そしてそれに返すルーカスの低い笑い声が耳に蘇り、フィオナは思わず両手で耳を塞いだ――そんなことをしても消えやしないことは、判っていても。
今夜もやっぱり眠れそうになくて、フィオナは肩掛けを手に取り、羽織った。この部屋にいるのも気詰まりだし、少し外を歩いてくれば気がまぎれるかもしれない。
フィオナの部屋は屋敷の裏にある中庭に面していて、直接出ることができる。
両開きの扉を押し開くと、ヒヤリとした空気が頬を撫でた。
植木の間の小道を歩くうち、やがて小さな噴水に辿り着く。その縁に腰を下ろして、フィオナは夜空を見上げた。
眩しいほどの満月のせいで、星はあまり見えない。
でも、あの月明かりはここと同じようにウィリスサイドも明るく照らしているはずだ。
ジワリと、フィオナの視界が滲んだ。
ケイティ。
彼女の弾むような笑い声が恋しい。
無性に、ケイティに逢いたかった。彼女に、「お帰り」と言って欲しかった。
フィオナは瞬きをして涙を払い、身を捻って噴水の水に指を差し入れる。
その冷たさを実感しながら、小さく歌を口ずさむ。
その歌は、過去を持たない彼女の中に唯一残っていたものだ。
歌詞はない。ただ、曲の旋律だけ、それもせいぜい三小節ほどだけが、頭の奥底に残っている。ふと寂しくなった時、その歌を口ずさむと、フィオナは不思議なほどに気分が落ち着いた。
彼女は覚えているその短い節を、繰り返し奏でる。
と、その時、不意に。
「フィオナ?」
低い声が、彼女の名を呼んだ。




