為さねばならぬ
フィオナの傍を離れたルーカスは、給仕に彼女のことを気にかけてもらうように頼んでから足早に談話室を出た。背中にフィオナの視線は感じていたが、それを振り切るようにして足を繰り出す。
そのまま真っ直ぐ甲板に出た彼は、潮風で頭を冷やされようやく一息つけるようになった。
危ないところだった。
危うく、彼女に触れてしまうところだった。
ルーカスは欄干に両肘を置き、クシャリと前髪を掴む。
この旅路は二人きりなのだ。油断をすれば、ルーカスの欲求はどこまでも転がり落ちていくだろう。どんな時でも常に自分の欲に掛けた手綱を引き締めていなければ。一瞬たりとも、それを緩めてはいけない。
フィオナに付き添うと決めた時、そう、きつく自分自身を戒めたはずだった。
(だが、アレはムリだ)
あの、笑顔。
フィオナがあんなふうに蕾が綻ぶような笑みを彼に向けてくれたのは、およそ一年と三ヶ月ぶりだ。一年と三ヶ月の間、彼女はどこか一歩引いたような笑顔しか見せてくれていなかった。
彼女の笑顔は、ルーカスが常に求めてやまないものだった。求めて、得られていなかったもの。
つまり、長々、彼は欲求不満の状態にあったわけで。
その状況下での、あの不意打ち。
「まあ、私が悪いのだけどな」
嗤い、ルーカスはぼやいた。
フィオナが屈託のない笑みをルーカスに見せなくなったのは、彼が彼女と距離を置くようになったからだ。
別に、ルーカスとてやりたくてそうしていた訳ではない。
非常に不本意ながら彼がそんな態度を取るようになったきっかけは、ケイティが決めたフィオナの仮の誕生日での出来事だった。
救出されてからひと月近くは部屋から出てくることも難しかったフィオナだったが、次第に言葉を発するようになり、おずおずとながら隊員たちの輪の中に入るようになっていた。しかし、笑顔は、なかなか見せてくれなかったのだ。
そんな折、愛情に溢れた家庭で育てられたケイティは、少なくともそこで寝起きをしている隊員の誕生日には、ちょっとした祝いをしたいと言い出したのだ。
もちろんフィオナは自分が生まれた日など覚えていなかったから、春先の一日を彼女の誕生日だと宣言した。
そして、その日が訪れた時。
それまでも、アレンやケイティの話に微かに唇を綻ばせる程度は、あった。だが、まるで自分自身に笑顔を禁じているかのように、すぐにそれを掻き消してしまう。
繊細な彼女が恐ろしい目に遭ったのだから仕方がない。そう思っても、ルーカスは歯がゆくてならなかった。もっと心の底からの笑顔を見せて欲しいと、心の底から願った。
その望みが叶ったのは、ケイティがフィオナの誕生日と定めた日、彼女がこの世に生まれたことを祝うための席でのことだったのだ。
それを引き出したのは、ケイティが発した、何気ない言葉だったと思う。多分、生まれたことを祝福するような。
彼女が何を言ったのかはルーカスの記憶には残っていない。だが、彼が忘れてしまうような些細な言葉に、フィオナは、驚いたように束の間目を見開き、そしてふわりと笑ったのだ。この上なく嬉しそうに――幸せそうに。
まさに、硬く閉じていた薔薇の蕾が綻ぶようにという表現がぴったりで。
それは、ルーカスが二度目に彼女への恋に墜ちた瞬間だった。
出会った時から、彼女のことが愛おしかった。だが、あの時から、彼の想いが変わってしまった。ただ傍にいるだけでは満足できない、より貪欲な何かを孕んだ想いへと。
(彼女は、私のものだ)
確信とも欲求ともつかない、その思念。
だが、あの時はまだ、それはルーカスの願望でしかなかった。
だから彼は、真の意味で、そして完全にその願望を現実のものとするために、フィオナの記憶が戻るまで距離を置こうと決めたのだ。
そんなルーカスの態度がフィオナを悲しませているということは、彼にも判っている。もしかしたら、自分は彼に疎まれているのではないかと思い始めていることも。
フィオナが迷いを含んだような笑顔を浮かべるたび、ルーカスは戒めなどどこかに放り出してしまいたくなった。だが、その都度、己を叱咤し、より一層手綱を引き締めた。
そんなふうに意識して壁を築いていたから、ルーカスがこのフランジナへの旅に付き添うと申し出た時、彼女は心底驚いたのだろう。
あの時の彼女の面食らった顔は、実に可愛かった。
思わず、抱き締めてしまいそうになったほど。
ほんの少しでも気が緩めばついついフィオナに触れそうになるルーカスが彼女と二人きりになるというのは、正直、無謀だ。
だが、彼女を一人で行かせるわけにはいかず、他の男に任せることもできないのだから、仕方がなかった。
他の者に任せられないというのは、別に、隊員の中に信頼できる者がいないということではない。いつでも誰にでも自分の背中を預けられるほど、皆、能力的には信頼に足る者ばかりだ。
しかし。
「他の者では、彼女がフランジナに残りたいと言えば置いていきかねないからな」
ルーカスは穏やかな海面に向けて呟いた。
彼がフィオナに同伴したのは安全面の問題だけでなく、もしもフィオナがフランジナに残りたいと言った時には全力で説得する必要があったからだ。
その為に、敢えて、ルーカスがついてきた。
けっして、フィオナとひと時たりとも離れていられないかという訳ではなく、他の者が彼女と二人きりで過ごすということが我慢ならなかったという訳でもなく――それだけの理由ではなく。
フィオナを確実に連れ戻せるのは自分だけだと思ったからだ。
だから、この旅が終わるまでは。
(彼女には、触れない)
この旅が終わるまでは、耐えてみせよう。
自分の欲で目が眩み、フィオナの身に危険が及ぶことのないように。しっかりと全方位に眼を配っていなければ。
デリック・スパークへの尋問で、ある貴族の依頼でフィオナを誘拐したが、その代金よりも彼女自身の商品価値の方が高いと思いグランスに連れてきたのだというところまでは吐き出させた。
だが、そこまでで、情報の出し惜しみなのか、それとも多少なりともその貴族に対して義理を感じているのか、どこの誰に頼まれたのかまでは白状しなかった。
つまり、その正体が不明のまま、フィオナを狙う者がいる場所へ舞い戻るということだ。
(彼女から、常に離れないようにしなければ)
家族の顔を見た瞬間に記憶が戻るという奇跡でも起きない限り、これから向かうところでは、フィオナにとってルーカスが一番親しい者になる。そう意識せぬまま、彼女は彼に寄り添ってくるだろうし、ルーカスとしても不安な彼女を放ってはおけない。
そんな状況で常に彼女の傍にいるということはかなりの苦行にはなるが、必ずやり通してみせる。
そして、最後にはフィオナの全てを手に入れるのだ。
ルーカスは欄干をきつく握り締め、そして、放す。
一つ大きく息をついてから、彼は踵を返して食堂に向かい、フィオナのもとを離れる言い訳に使った『昼食の手配』を済ませて談話室に戻る。
ルーカスの言いつけ通り、フィオナは椅子から腰を上げずにいたようだ。そして、給仕もしっかり彼女を守っていてくれていたと見える。目立たないようにと隅に確保した席には、フィオナ一人の姿があった。
ルーカスは談話室の戸口で立ち止まり、しばし彼女の横顔を眺めた。綺麗に背筋を伸ばしたその佇まいは、さながら可憐な一輪の花だ。と、何度も繰り返したような仕草で、フィオナが振り返る。
心許なげだったフィオナの顔が、談話室の入り口に立つルーカスを目にした瞬間、ホッと安堵の色を浮かべた。
今までのルーカスの態度はフィオナに不安を抱かせているだろうに、それでも、彼女はこうやって彼に全幅の信頼を寄せてくれている。
無垢なひな鳥のようなその様に、ルーカスの胸は甘く疼いた。
早く、彼女が欲しい。
腹の中で暴れるその欲を押さえ付け、フィオナの元へと向かうべく、ルーカスは穏やかな微笑みを浮かべて足を踏み出した。




