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定期対策A  作者: 馬の頭
講義集
9/18

戦後日本外交論単語帳

・終戦に至るまで(教科書、序章と1章)


アルフレッド・T・マハン

 1890年、海上権力史論を著す。大艦隊、巨大な大砲により敵の主戦力を破壊するという大艦巨砲主義に立ち、後のドイツ皇帝ウィルヘレム2世や日本に大きな影響を及ぼした。


「無条件降伏」の声明

 ルーズベルト大統領が、二度と世界平和を乱させぬためには、侵略国を軍事的に破壊するのみならず、敵国内の誤れる思想を改め、勝者の手で想いのままに作り変える自由を得なければならない、と考え出した声明。

→知日派の対日占領政策案に甘さを見出したことがこの声明を発する遠因であった。


鈴木貫太郎 

 第42代内閣総理大臣。沖縄戦開始による小磯内閣退陣後、昭和天皇の命により「1日も早い終戦」を目標に就任。天皇の「聖断」を希求することによって、陸軍の反対を押し切り終戦へ導いた。


ポツダム宣言

 1945年7月26日、米大統領、英首相、中華民国首席の名において日本に対して発された全13条の宣言。これにより、対日占領政策としての直接軍政方針から離脱し、無条件降伏からも離脱した。

バーンズ修正→草案から「現皇室下の立憲君主制」を許容する記述を削除したこと。


三 われらは最高度の軍事力を行使することを議決しているから、日本国軍隊が完全に壊滅することは不可避であり、かつ、当然に日本国本土は完全に破壊されうるということは理解できるようになるであろう。

六 われらは、無責任な軍国主義が世界より駆逐されるのでなければ、平和、安全及び司法の新秩序が生じ得ないことを主張しているから、日本国国民を欺瞞して道を誤らせ、世界征服に乗り出させた者の権力及び勢力は、完全に除去されなければならない。

 十 われらは日本人民族を奴隷化したり、国家を滅亡させる意図は有さないが、われらの俘虜を虐待する者を含む一切の戦争犯罪人は、厳格な司法手続に附されなければならない。日本国政府は、日本国国民の間における民主主義指向の再生及び強化に対する一切の障害を除去しなければならない。言論、宗教及び思想の自由、並びに基本的人権の尊重は確立されなければならない。

 十二 これらの目的が達成され、かつ、日本国国民の自由意思に基づき、平和指向を持ち、かつ責任ある政府が樹立された場合は、連合国の占領軍は、直ちに日本国から撤収しなければならない。

 十三 われらは、日本国政府に対し、直ちに全日本国軍隊の無条件降伏を宣言し、かつ、この行動における同政府の信頼性に関し、適切かつ充分な保障を提供するよう要求する。日本国に採りうる対策は、これ以外の場合には、迅速かつ完全な破壊となる。


三、十二  核開発の成功の示唆

六、十   戦争犯罪人の処罰

十、十二、十三 戦後日本政府存続の容認  が見て取れる。


ジルー

開戦前は駐日大使であった。戦時は国務次官を務めた。知日派の1人である。原爆投下とソ連参戦の前に日本を降伏に導くことをのぞみ、天皇制存続を含んだ穏当な条件での対日声明を発することを提案した。


スチムソン

 元国務長官。戦時は陸軍長官。知日派の1人。原爆開発を命じるも、終戦後の対日関係を見据え、日本社会の完全破壊を避けるため、高い文化的価値を誇る京都への原爆投下を禁じた。

スチムソン路線→原爆投下と対日声明の併用


詔勅

 大日本帝国憲法の定めにより、開戦、終戦時に出される天皇命令。

副署とのセットにより初めて効力を持つ


副署

 詔勅とともに必要とされる陸軍大臣、陸軍参謀総長、海軍大臣、海軍軍令部長の署名。


・占領期(東久邇宮~吉田)


東久邇宮稔彦

 鈴木内閣退陣後、すなわち終戦後初の内閣総理大臣。8月17日に就任。

歴史上唯一の皇族天皇。日本軍の速やかな武装解除、進駐軍の平和的受け入れなど、平和的終戦の実現のため就任。


三布告

①占領軍が英語を公用語として統治を行う

②「占領裁判所」を開く

③軍票を発行してこれをも日本の通貨にする


マッカーサー声明

 1945年9月17日、米国の了承も得ずに日本占領の成果を声明。「20万の兵力で十分」と言い放った。これを受けトルーマン政権は激怒。


~幣原~


不戦条約(ケロッグ・ブリアン平和条約or戦争放棄に関する条約)

 米国務長官ケロッグと仏外相ブリアンの提唱により1928年に結ばれた。侵略戦争放棄の考え方を盛り込む。


「マッカーサー三原則」

①天皇制の存続

②戦争放棄

③封建制の廃止  の三方針


芦田修正

 芦田均による憲法への文言追加

9条2項「前項の目的を達成するため」

66条2項「内閣総理大臣その他の国務大臣は文民でなければならない」


芦田イニシアティブ

 米ソ関係が悪化し、国連による日本の安全保障が期待し難い場合には、日米間の特別協定により「日本の防衛を米国に委ねる」方策を提示したもの。


「天皇メッセージ」

 米国に沖縄の軍事占領を25-50年の長期に渡って継続して良いとするもの。同時に、米国が沖縄に対する領土権を奪うのではなく、日米二国間における長期租借という措置を取ることを求めた。


~吉田~


ジョージ・F・ケナン

 米政策企画局長。ソ連問題の専門家であった。1948年に来日。早期講話にストップを掛けた。

「NSC13/2」→ケナンが来日による現地調査をもとに作成した新方針。日本占領を継続しつつも、とりあえず占領管理の緩和と経済復興を方向づけるもの。


アチソンライン

 アチソン国務長官が発した米国がアジアについて確実に死守するラインのこと。アリューシャンから日本、沖縄を経て、フィリピンに至る線


ジョン・F・ダレス

 共和党所属の前上院議員。トルーマンが国務省顧問に任命(1950年4月)。対日講和を超党派で進めるというトルーマンの狙いのためその任務についた。


ヴァンデンバーグ決議

 アメリカは「継続的で効果的な自助および相互援助」をアメリカに与える国とのみ集団的な安全保障を取り結ぶことができるという決議。


吉田書簡

 1951年12月24日、吉田首相がダレスに送った書簡。日本が台湾の国民政府(中華民国政府)との間に正常な関係を再開すると表明したもの。翌52年には日華平和条約調印。


池田=ロバートソン会談

 1953年、自由党政調会長池田勇人とロバートソン国務次官補との間で行われた防衛問題に関する会談。日本の防衛力増強へ歩み寄ったが、その規模とペースについての合意を得るには至らず、具体的な取り決めはできなかった。


第五福竜丸事件

 1954年3月1日、焼津港のマグロ漁船第五福竜丸がマーシャル諸島付近で操業中、ビキニ環礁でのアメリカの水爆実験によって被爆した事件。


「ニュールック」戦略

 アイゼンハワー政権下での「大量報復戦略」に適応するための軍備の整備方針。隔壁の仕様を含む大量報復の脅しによって、敵の侵略を抑止しようとした戦略


・独立後


~鳩山~


鳩山一郎

 吉田内閣退陣後、1954年12月に政権につく。公職追放前は自由党を率いていたが、公職追放解除後、民主党を結党した。


日ソ交渉

 55年6月よりロンドンで始まる。全県代表として日本側は民主党代議士松本俊一(全駐英大使)、ソ連側はマリク駐英大使を立てた。残留日本人の送還問題、日米安保の評価、日本の国連加盟問題、領土問題が議題にあげられた。

交渉難航の原因

①ソ連側が千島・南樺太の帰属について譲らず

②保守陣営がソ連との国交正常化に対して積極論、消極論に分かれて対立していたという国内事情  という二点が挙げられる。

→その後北洋漁業の制限措置を打ち出されるが、交渉推進派の河野一郎農相により決着された。


日ソ共同宣言

 1956年10月19日調印。日ソ間の戦争状態を終わらせ、ソ連は抑留者の釈放と送還、日本の国連加盟支持、そしてその平和条約締結の後に歯舞・色丹を引き渡すことを約束。一旦領土問題を棚上げして国境線を確定せず、国交正常化をする方針をとった。


55年体制

 二派分裂していた社会党の日本社会党への統一、保守派の自由党と民主党の合併による自由民主党の結党によりできた体制。双方の獲得議席数から、憲法改正は不可能であるが政権は自民が保持するという体制であった。


重光・ダレス会談

 1955年8月に訪米した重光葵外相がダレス国務長官に安保改定を申し入れた。しかし、ダレスの反発によって引き下がらざるを得ず、具体的な交渉へとは発展しなかった。

石橋湛山

 大戦期には小日本主義を唱え、植民地を捨て自由貿易を推し進めていくべきとした。1956年12月に首相に就任するも病気のため2ヶ月で辞任。短命政権となった。


~岸~


岸信介

 A級戦犯容疑で逮捕されるが、釈放後は保守合同を成し遂げる。首相就任後には60年に安保改定を成し遂げた。


「国防の基本方針」(1957閣議決定)

①国連活動支持、国際協調図る

②民生の安定を図る(政治、経済)

③自衛のため必要な限度で効率的な防衛力を整備する

④外部からの侵略に対しては、アメリカとの安全保障体制を基本にして対応する


「東南アジア開発基金構想」

 アメリカが資金を拠出し、日本が技術とノウハウを出して東南アジアの労働力と資源を利用する、という岸の構想。1957年訪米の際に打ち出した。


大陸反攻

 1949年に台湾に移転した国民党政権の対大陸政策。57年に岸が台湾を訪問しこれに同情する発言をすると中国政府(中華人民共和国)は岸に対し激しい非難を浴びせる。

この発言が第四次日中民間貿易協定交渉を困難にし、日中関係の断絶に至る。


政治三原則

 中国政府が政経分離論を認めない姿勢を示し、日中関係再開の前提条件として示したもの。

①中国敵視政策をやめること

②二つの中国を作る陰謀に加わらないこと

③日中両国の正常関係の回復を妨げないこと


日米新時代

 1957年に岸が訪米するにあたってのスローガン。日本とアメリカはもはや戦勝国と敗戦国の関係にはなく、対等であるという旨を示す。


ジラード事件

 1957年1月、群馬県相馬ヶ原演習場で米軍兵士ジラードが薬莢拾いの農婦を射殺した事件。


日本とアメリカ合衆国との間の相互協力および安全保障条約

 いわゆる60年安保。岸内閣とアイゼンハワー大統領政権によって締結。日米の集団的自衛を定める。

 ポイント:内乱条項の削除、5条(日本有事)、6条(極東有事)、期限は10年

5条:対象地域は日本国の施政の下における領域のみ、沖縄は含まず

6条:米軍日本在留の目的

①日本の安全に寄与

②極東における国際の平和および安全に寄与

以上の目的のために在日米軍基地を米軍は使用する。


「ヒト」と「モノ」との協力→米は在日米軍という「ヒト」を、日本は基地施設という「モノ」を提供することによる協力。60年安保の「相互性」のからくりである。


事前協議制

 米軍の基地使用に関して、核兵器の持ち込みと極東有事の際の作戦行動、装備・配置の重大な変更については事前に協議することを示した制度。予め必要な協議を行うことで実際有事が発生した場合の即時出動を可能にする。核兵器搭載艦船の寄港に対する日米の見解の相違や朝鮮半島有事の際の在日米軍出動問題など様々な問題が生じている。


交換公文

広義の条約の一種。書簡の交換によって国家間の合意を表わす。交換された公文そのものをいう場合もあるし,また方式をいう場合もある。迅速性を必要とするもので,主として国家間の技術的性質をもつ事項の合意について用いられ,通常批准を必要としない。


~池田~


宏池会

 池田隼人を総理大臣にするためにできた自民党内の派閥。日米関係重視、軽武装、経済発展重視という保守本流の立場を取る。


池田勇人

 60年7月、岸の後を受け首相就任。派閥:宏池会

「寛容と忍耐」の政治姿勢を打ち出し、経済成長を政策の重点においた。「所得倍増計画」はその現れである。外交面ではOECD(経済協力開発機構)に加盟。


「寛容と忍耐」

 経済を第一の課題としてあげ、野党や国民に対して「低姿勢」すなわち協調的な政治運営を行ったこと。


所得倍増計画

 61-70年度にかけてGNPを2倍にすることを目標とした計画。具体的には、10年間でのGNPの伸び率を平均7%にすることによって達成する。実際67年度には達成し、71年には2.3倍にまで成長した。


ソーシャル・ダンピング

 低賃金で生産した製品を海外へ不当に安く輸出すること。


ケネディ・ラウンド

 ケネディ大統領のときに成立した法律を背景に、1960年からGATTのもとで行われた関税一括引き上げ交渉のこと。


エドウィン・ライシャワー

ケネディ政権下の駐日大使。日本生まれな上、日本人の妻を持つ。日米の対話を促し、日米関係の修復に尽力した。


日米イーコール・パートナーシップ

 池田在任期に日米関係のキャッチフレーズとして用いられたもの。「勝者」と「敗者」、「占領者」と「被占領者」の日米関係から、円満な2つの独立国の外交関係に日米関係を発展させようというアメリカ側のビジョンの表れであった。


防衛力整備計画

国防の基本方針を受けて岸内閣で閣議決定されたものが第一次であるが以降第四次まで作られた。目標は「通常兵器による局地戦以下の侵攻」に対処すること。規模はコンパクトに、装備の近代化を進めた。特に第二次以降は日本の経済成長を前提に防衛費を増大させていく計画であった。


~佐藤栄作~


佐藤栄作

 最長の内閣を形成した総理大臣。吉田路線の継承者であり、日韓関係正常化に着手した。外交:日韓基本条約(1965)調印、首相として初の沖縄訪問(1965,8月)沖縄返還協定(1971)。

内政:公害対策基本法(1967,社会開発理念が背景)

退陣後、74年にはノーベル平和賞も受賞した。


李承晩

1948年、大韓民国初代大統領に就任。徹底した反日、反共主義を掲げ、朝鮮戦争休戦に反対した。「李承晩ライン」を一方的に公海上に設定した。


「李承晩ライン」

 李承晩が一方的に設定した日本海・東シナ海の軍事境界線。日本海船を捕らえ貨物を押収するなど、強い反日意識を押し出した政策の1つ。


朴正煕

 韓国大統領。韓国の国益、特に経済発展のために日米関係の改善が必要との認識のもと、日韓関係改善の機運を韓国国内で高めた。


椎名悦三郎

 日韓交渉に向け佐藤栄作が外相に起用。1965年2月に戦後日本外相として初韓国訪問。「両国間の長い歴史の中に不幸な期間があったことは誠に遺憾な次第でありまして、深く反省するものであります。」と発言し韓国側の心理をなごませることに成功した。このコメントには主語がなく、帰国後批判を受けた椎名は個人的な発言であるとした。(村田談)


日韓基本条約

 1965年調印。両国の原則論が衝突する管轄権問題や旧条約の合法性の問題について、一般的な韓国における心理の改善を背景に、両国がそれぞれ解釈の余地のある玉虫色の条文を作ることで巧みな政治的妥協に達した。


非核三原則

 1968年1月27日の施政方針演説で佐藤が明言したもの。内容は、核を「持たず、作らず、持ち込ませず」とするものであった。



「核抜き本土並み」

 非核三原則に基づいて佐藤が提唱した日本側の沖縄返還における目標。返還時には沖縄の米軍基地から核を撤去させ、本土の米軍基地と同様の法的制約下に置き、事前協議の対象とするという条件のことである。69年11月のニクソン大統領との会談で72年の沖縄施政権返還の約束とともに合意したが、緊急時の核持ち込みを密約によって事実上認めるものだった。


若泉敬

 佐藤の密使としてニクソンの密使であるキッシンジャーと交渉を進めた。『他策ナカリシヲ信ゼムトス』において密約などの存在について証言している。なお、キッシンジャーは認めておらず。


糸と縄の交換

対米交渉において、沖縄の施政権返還を引き換えに、対米繊維輸出を制限すると約束したこと。ニクソンが南部票を獲得すること、そして、沖縄で祖国回帰の機運が高まったことが背景に挙げられる。約束したものの佐藤政権が取り組まなかったため、電撃訪中というニクソン・ショックを引き起こすこととなった。


韓国条項

朝鮮半島の緊張状態により韓国の安全が脅かされることは,日本自身の安全にとっても重大事である旨を,日本政府の意思として日米・日韓首脳会談の共同声明で確認してきたこと。佐藤=ニクソン会談で言及された。


宮沢喜一

 宏池会に所属する官僚派。アメリカとの繊維輸出に関する経済摩擦が生じた際、佐藤が通産大臣に起用したが国内の業界の調整に手間取る。後に総理大臣に就任する。


デタント

対立するものの緊張緩和のこと。ここでは冷戦期における米ソに緊張緩和を指す。


ニクソン・ショック

①1971年7月15日にワシントンで発表されたニクソン大統領の72年中の訪中の意向。キッシンジャー国家安全保障問題担当補佐官が準備のために訪中しているとも公表された。日本側、とくに佐藤首相ですら知ったのは発表の数分前であった。

②同年8月15日、ニクソンが発表した賃金物価の凍結、一律10%の輸入課徴金、ドル防衛のための金とドルの一時的交換停止を骨子とした新経済政策。別名ドル・ショック。国際通貨制度に大きな影響を及ぼした。


朝海大使の悪夢

 元駐英大使の朝海浩一郎が考える日本外交における最大の悪夢。「目を覚ますと中国と米国の間に橋がかかっていた」状態、すなわち、日本の知らないうちに米中国交が正常化すること。


~田中~


田中角栄

 党人派。三角大福中の1人。佐藤退陣前には通産大臣として日米の繊維製品の対米輸出規制問題について政府補償(補助金)を業界に提供することにより業界を説得し輸出規制の日米合意を取り付けた。

 佐藤退陣後、福田との総裁選で勝利、政権につく。「日本列島改造論」と「日中国交正常化」を内閣の課題にあげ、72年の9月には中国を訪問。日中共同声明を発表。73年の石油危機と狂乱物価で民心の離反。金脈問題の告発により退陣。ロッキード事件で逮捕される。


「日中復交三原則」

中国側(中華人民共和国)が日本側に提示した国交正常化の条件。

①中華人民共和国を唯一合法とする1つの中国の原則を認めること。

②台湾(中華民国)は、中華人民共和国の1省であり、台湾問題は中国の内政問題であること

③「日華平和条約」の無効化(破棄ではなく、なかったことにする、ということ)


~三木武夫~


三木武夫

 党人派、三角大福中の1人。物価鎮静、公害問題に対処。「防衛計画の大綱」をまとめる。ロッキード事件の徹底解明をめぐり、党内主流派と対立、総選挙で敗北。「三木おろし」にあう。


「防衛計画の大綱」

 従来の防衛力整備計画に代わる防衛政策の基本文書。1976年10月29日に閣議決定。防衛力整備の目標を「限定的小規模な武力侵攻に対しては独力で対処できるだけの防衛力を持つこと」とした。

これに加え「当面、各年度の防衛関係経費の総額が当該年度の国民総生産の百分の一の相当する額を超えないことをめど」とすることも閣議決定された。

→80年代、防衛費の対GNP比1%枠問題として議論を呼ぶ。


~福田赳夫~

福田ドクトリン

デタント器の対東南アジア政策。1977年8月、ASEAN諸国歴訪中の福田がマニラで行った政策演説で、東南アジア外交三原則とも言われる。

①日本は軍事大国とならない

②東南アジア諸国との関係では、政治・経済のみならず、社会・文化を含めた「心と心の触れ合う相互信頼関係」を築く

③日本は対等の協力者として、ASEAN諸国の連帯と強靭性強化の自主的努力に積極的に協力し、インドシナ諸国との間に相互理解に基づく関係を醸成して、東南アジア全域の平和と反映に寄与する。


アメリカが東南アジアから撤退するため、アメリカが軍事力で支えた東南アジアを日本の経済力で支える事による日本の補完外交の姿勢の表明であった。


日米防衛協力のための指針ガイドライン

 78年、日米で合意、11月に閣議決定。「防衛計画の大綱」とセットとされる。

①侵略を未然に防ぐための方針→アメリカの核抑止力の維持と有事来援を定める。

②5条事態(日本有事)

日本:「防衛計画の大綱」に基づく防勢作戦

米国:自衛隊の行えない機能を補完、より攻撃的な作戦の実施

③6条事態(極東有事)

「日本以外の極東における事態で日本の安全に重要な影響を与える場合の日米の協力」というテーマで研究する


~大平正芳~


大平正芳

 宏池会、三角大福中の1人。総裁選予備選において福田が二番手となり本選を辞退。政権についた。

政権末期の80年、米、メキシコ、カナダ、ユーゴスラヴィア(チトーの葬儀)の歴訪後帰国すると、野党提案の内閣不信任案が可決、衆院解散の道を選び衆参ダブル選挙の最中なくなった。大平三原則を主張。後に40日間抗争で死去。

1、軍事協力は行わない。

2、アジアとのバランスに配慮

3、欧米諸国との協調


環太平洋連帯構想

 米、中、東南アジア、豪、ニュージーランド、南米などが該当地域。対アジア、太平洋外交の一環。大平がその構想を表明した。89年11月のAPEC(アジア太平洋経済協力会議)の開催につながった。直接の目的は、ECや北米の閉鎖市場化の抑止であった。


総合安全保障

 発展途上国への戦略的経済援助(=ODA)、教育などに取り組んでいくという大平の政策。「安全保障」自体が大きな概念であるからして、「総合」の文言までつけるとさらなる抽象化になりかねないという批判もあった。


イランアメリカ大使館人質事件

 1979年11月4日、米大使館が占拠され62人が人質となった。占拠は444日に及び、この事件への対応をめぐり、米カーター大統領は信頼を失うこととなる。


モスクワオリンピック

 1980年開催。79年12月27日のソ連のアフガニスタン侵攻を契機に米ソデタントが崩壊したことにより、米国並びに西側陣営諸国がボイコットを表明した。日本もこの動きに乗じボイコット。英国は式典のボイコットにとどまった。


~鈴木善幸~


日米共同声明

 1981年5月の鈴木とレーガンによる日米首脳会談後に発表。

「日米両国間の同盟関係は、民主主義及び自由という両国が共有する価値の上に築かれている」と、共同声明としては初めて「同盟」という表現が登場。「軍事同盟色強まる」と各紙が報道するが、首相は「軍事的意味合いはない」と発言。

さらに「適切な役割の分担」について「周辺海域数百カイリの範囲内と、航路帯シーレーン一千カイリ」の防衛に具体的に言及。米側に公約と受け取られてしまう。


教科書問題

 1982年6月、文部省が歴史教科書検定過程で、日本のアジア「侵略」の表現を「進出」に改めさせたと、日本国内で報道。中国・韓国両政府の批判、抗議にさらされることとなる。松野幸泰国土庁長官の「内政干渉」発言がさらに問題を紛糾させた。


~中曽根康弘~


中曽根康弘

 少数派閥の領袖として、最大派閥・田中派の支援によって政権につく。三角大福中の一人。外交分野ではパフォーマンスを重視し日米同盟関係の前進に力を注いだ。ウィリアムズバーグ・サミットに参加し、1985年には靖国神社に公式参拝。


「手作り外交」

 1983年1月11日、日本首相として戦後初の韓国公式訪問でみせたように韓国語で挨拶したり、歌うなどのようなパフォーマンスを重視した外交手法。この韓国訪問では7年間総額40億ドルの借款で決着。「日韓新時代」を中曽根=全両首脳が表明。


「不沈空母」発言

 『ワシントン・ポスト』紙との会見での中曽根の発言。有事において「全日本列島を不沈空母のように、、、」と発言。通訳の意訳であるが、パフォーマンス外交の現れであるともとれる。


ウィリアムズバーグ・サミット

 83年5月に開催。「インフレなき持続的成長」や「通過安定の多角的監視体制」など、経済政策のさらなる強調が歌われた。共同声明における「安全保障は不可分」という文言を盛り込むことに中曽根は熱心であった。


プラザ合意

 85年9月末プラザ・ホテルで開かれた日、米、西独、英、仏の先進5カ国蔵相・中央銀行総裁会議〈G5〉での合意。貿易不均衡を助長しているドル高を是正し、アメリカ議会の保護主義貿易を牽制するために協調介入を決めた。アメリカが為替レートの放任主義をようやく放棄した。為替市場への協調介入により円高ドル安に誘導し、マクロ経済における政策協調を意図したものであったが、財政政策の相互調整はうまく行かず、難題のアメリカの財政赤字削減は確約されず終わった。


「ロン=ヤス時代」

 互いに弱い前任者を持つ中曽根、レーガンが強い指導者として日米関係改善を図ることによって生まれた日米の緊密な関係を、中曽根とレーガンが互いにファーストネームで呼びあったことになぞらえた表現。


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