レポート:中南米に見る日本の問題
1.テーマを選んだ理由
新自由主義はレーガン、サッチャー、もしくは中曽根の政策に代表される、市場原理主義への回帰と、小さな政府、そして強力な国家を目指す施策であった。しかしながら、度々、左派リベラル的視点から、格差の助長、貧困層の切り捨てと非難されてきたのも確かであった。
現在日本の国力は確実に衰退している。人口減少、政治のゆがみ、資源の欠乏等といった沢山の要因が複雑に重なり合った現状において中々解決の糸口は望めない。
こういった現状の中で、強いアメリカの時代や、サッチャー政権から、少なくとも国力が十分にあったころの新自由主義から学ぼうとしてもそれがさほど役立つとは思われない。
小泉政権が実施した新自由主義政策ののち、我々は様々な問題を、国力を意識したうえで考え直さねばならないであろう。そのための一視点として、新自由主義の功罪と我々が如何にあるべきか、すでにそれを経験したラテンアメリカと比較したうえで考えていきたいと私は思うのである。
2.新自由主義とペルー
ペルーにおいて我々が最も参考とすべき点は、如何にして新自由主義が取り入れられ、そして如何様な弊害が新自由主義によってもたらされたかであろうと私は考える。
ペルーにおいて、新自由主義はフジモリ大統領によってもたらされた。その背景には、ハイパーインフレによる極度の経済的不安定と、反政府集団による社会的不安定にあった。
確かに強力な国家によって、社会的には安定したし、ハイパーインフレも乗り切ったのは事実である。そして、ネオリベラリズムは経済的にマクロ経済における成長を生み出した。それは、戦後高度経済成長の日本同様、輸出ブームにあった。また、それはいつかの日本よりもより必要なものであった。鉱物である。絶対不可欠な鉱物資源は、アメリカのサブプライムローンによって発生した世界金融危機の中でさえ、さしたる打撃を受けることがなかったのである。
国内的なマクロ経済政策も大いに経済発展に寄与した。民間投資は、フリードマンたち、マネタリストの理論に基づくならば、経済を成長させる手段であった。そして、それは事実、正しかったのである。
しかしながら、ペルーの最大の不運は、すでに経済成長のための国民の犠牲を、国際的な価値観は認めていなかったことであろう。
ネオリベラリズムが想定する富むものが富めば、社会的に恵まれないものもその恩恵にあずかることができると主張する「滴り落ち」理論は、現在の日本と同様に、失敗したのである。
かつての世界ならば、一時、国益のために、もしくは国家の成長のために国民が犠牲になることはやむを得ないことであった。しかし、現在のトレンドは、格差の是正にあり、ペルーにもそのトレンドは、政権への鉾として機能したといえるであろう。
3.水道民営化とウルグアイ
ウルグアイの例は現在の日本にとって非常にタイムリーで面白い話といえるだろう。2018年7月5日、6月27日に審議入りした水道民営化を含む水道法改正案が衆議院で可決された。市町村などの水道事業者は赤字体質であり、水道管が老朽化していることが露呈し、さらに6月18日の大阪北部地震によりその問題が改めて見直されたことにあるという。実際に実施された国もある。しかしながら、今のところいずれも失敗に終わっているというのが現状である。それを踏まえたうえで、ウルグアイではどうであったかを少しばかり紹介させていただきたい。
そもそも、ウルグアイにおける水道民営化の話はネオリベラリズムによるものであった。市場原理主義、つまり自由市場における競争の原理はより良いものをより安くするものであるとの想定にあった。
ウルグアイにおいての水道事業は、これまで、国家公衆衛生事業と県庁が担当してきた。公衆衛生事業は、全国の上水道管理を統合し、内陸部に下水道を普及させる役割を持った。首都の下水道は県庁が供給してきた。
特に、ウルグアイでも際立った特徴は、収益性の高い地域の利益を、小規模な居住地域や遠隔地でのサービスに充ててきた点、つまり価値の権威的配分が効率的に行われてきた点であるといえるであろう。
そのなかで、投資自由化と民営化が行われた。外資参入も容易になってしまったのである。
これに対し、住民組織や水道会社の労働組合、エコロジスト団体たちが抵抗した。彼らの最大の主張は「水へのアクセスを保障することは基本的人権」というものであった。つまり、水へのアクセスは、いくら水道料金を払っていなかったとしてもそれは生存権にかかわるものであり、国家によって保障されなければならない、と主張したのである。
そして、それは改憲運動にまでつながった。非常にユニークである。各地で「水へのアクセス権」を求めるキャンペーンが実施され、国民投票がなされた。
改憲は64パーセントの支持を獲得し、憲法47条に「上下水へのアクセスの権利は基本的人権である」こと、「上下水道サービスについての措置では経済的理由より社会的理由が優先されねばならない」、「上下水道のサービスには国家が直接かつ排他的に責任を負う」ことが盛り込まれた。
このような状況がそのまま日本に適応されるかにはかなり疑問がある。しかしながら、私が思うに、「水へのアクセス権は」国内において真剣に議論されてしかるべきではないだろうか。
4.チリと政治的無関心
チリにおいては、ネオリベラリズムを指導した軍事政権への反発から、中道及び中道左派諸党が連合して政権に就いた。マクロ経済においては市場原理を尊重して国家経済を回復させた軍事政権の路線を支持しながらも、軍事政権期では行われてこなかった社会政策と貧困対策を行った。
しかしながら、チリ独特の「二名制」という選挙制度は、与野党が慎重に合意形成を重ねるスタイルである「コンセンサス政治」を形作った。
それに伴った政党間調整や、談合、駆け引きは、選挙者の政治的関心を失わせるに至ったのである。
これに関していうなれば、我々は今の日本においても大いに考えさせられる点があるであろう。
現在の日本においても、先の選挙で見られた通り、政党と候補者のすみわけが見られた。その結果、様々な選挙区で、特に大阪3区においては無効票が大量に発生した。
確かに、「二名制」と「すみ分け」の二つは形も背景も異なるものではあるだろう。しかしながら、どちらも、有権者による政治的関心を薄れさせてしまうことにつながりやすい。
何故か。二つともに共通するのは、空虚なイデオロギーと、政策論争の衰退があるからである。故に、政治的無関心が蔓延してしまうのである。
しかしながら、チリにおいて、政治が改善されない見込みがないわけではない。現在のチリでは、市民による抗議活動が活発化してきている。2006年にはチリ史上最大といわれる学生運動が発生した。2008年にもストライキが広まった。2011年にも全国でもが発生している。少なくとも日本の学生運動よりも長く続いているだろう。これをうまく活用していけば、チリはただ与えられるばかりの存在から、自らの国の政治を考える政治的動物としての人間が形成されるのではないだろうかと私は期待している。
5.ウルグアイとネオリベラリズム
再度ウルグアイに立ち戻らしてほしい。ネオリベラリズム登場までのウルグアイは、比較的中間層が厚く格差も小さいといわれてきた。しかしながら、ネオリベラリズム導入後、国内における格差は拡大したといわれている。
その要因をブチェリとフルタードは、貿易自由化政策が熟練労働者のニーズを拡大し、高学歴の人ほど高給を得られるようになった一方、低賃金の層にとって恩恵が大きかった「賃金交渉委員会」から国が離脱し、労使間交渉が企業別になったこと、及び公共部門の労働者の賃金が改善された一方で、最低賃金が下がったことが格差を拡大させた、と指摘した。
さらに、現役労働者、中等教育未修了者、若者が最も大きな打撃を受けたとされている。
また、ネオリベラリズムのもとにおいては、セグリゲーションが発生した。セグリゲーションとは、所得階層の違いで居住地域が分かれてしまう現象である。スラムの形成などにおいてよく見られる過程といえるだろう。
セグリゲーションにおいては、人的資源の育成にも悪影響を与えるとされている。セグリゲーションは働いて貧困から抜け出そうとするロールモデルが見つからないため、教育によって貧困から抜け出そうという見通しが持ちにくく、貧困から脱却しようとする意欲をそいでしまうのである。
また、そのため、社会階層は世代的に再生産されやすい。逆に、住民の改装構成が多様な地域社会で労働者や貧困家庭の子供たちが新中間層の進学意欲が高い子供たちと机を並べて学ぶようになれば、進学実績が向上し教育機会の格差も縮小される可能性が高いといわれている。
現在の日本においても学歴格差は如実に発生し、それは世代的に受け継がれていると言わざるを得ない状況になりつつあるのではないか。現在の東大生の6割の親は年収一千万以上であるといわれているのである。これも、教育にいくら親が投資してやれるかでかなりの下げ出てきてしまっている現状であるといえよう。また、特にシングルマザーの過程においては、シングルマザーの子は学業において投資を受けにくく、子供も将来的に貧困に直面しなければならず、女子であれば、またシングルマザーになるという負の連鎖が発生している。これについても我々は教育の力によって是正しなければならないのではなかろうかと私は考えるのである。
6.考察
これから日本は確実に衰退していくことが予想される。それも小泉政権後のポスト新自由主義の下であることを我々は意識せねばならない。
現在の日本においても所得格差は拡大し、若年層の貧困はますます増大している傾向にあるのである。故に、我々は再度、改めて、小さな国家としての道を、少なくとも財政的に破綻してもおかしくはない赤字財政の中で、とるべきであるのか、それとも、昔のように社会民主主義としての高福祉国家の道を選ぶのかについて考えなければならない。
私見を述べさせていただくのならば、私個人としては、第一に児童の教育制度の充実、主に、教育の無償かと、これまで顧みられてこなかった教育学部に入学する学生の資質を向上しなければならない。そのためには教師の地位を上げ、それを与えられるにふさわしい能力を持つ人間がつく職業にせねばならないだろう。私が思うに、我々に必要なのは、格差を是正することではない。今年のフィンランドのベーシックインカム失敗は如実にそれを物語っているのである。格差の直接的是正ではなく、機会を均等に与えてやるべきなのである。
しかしながら、一度機会均等を与えて以後の、格差の是正は、私は必要ないと考える。そういった意味においては、私はネオリベラリズムを全面的に支持する。機会均等の上での格差は、本人の能力に見合ったものであり、至極当然のものと考えるのである。
子供は社会を背負っていく存在であり、そして、社会において責任を負うことのできない、運と周囲に影響されやすい存在である。しかしながら、いったん社会において責任を負ったのちは、それは自己原則の責任が付きまとうのである。
また、新自由主義が肯定されるべき理由は、新自由主義が作り出す本質的構造にもあるように考える。先ほど述べた通り、ベーシックインカムは失敗した。一方で、与えられなくなったウルグアイの民は自らで権力を縛り、権利を主張し、守り通したわけである。故に我々は次のことが言えるように考えねばならない。チリを見ればよく分かるように人民は安定した状況になると自己のための闘争を辞めてしまう。何らと言って自らのために立ち上がらなくなるのである。しかし、チリは自らの権利を勝ち取った。奪われるものと貸せば、人民は自らのために戦うのである。それは是正されるべきことであろう。しかしながら、満足な豚にならない、権利を意識する政治的な人間であるための唯一の方法であり、悲しいことにパラドキシカルロジックが成立してしまうのである。
これは、新自由主義の中枢、経済政策にも当てはまる。我々は、様々な対立を新自由主義の中に抱えている。しかしながら、どうであろうか。我々の中に格差が存在するからこそ、社会的正義、つまり格差の是正を主張するようになりうるのである。もしも格差がなくなれば、我々は新しく発生する問題や、諸所の問題に無関心になるだろう。
故に、私自身としては新自由主義には罪もあるが、その罪こそが最大の功績につながるのだと主張するのである。そのうえで、新自由主義後においても、最低限社会に必要なものが国から投資されるだけであり、基本的な政策を変える必要はないと考えるのである。




