2―7
2―7
――西暦2051年2月17日(木)11:05 【太平洋上空・コリアナ航空234便】
韓国の仁川発、ロサンゼルス行きコリアナ航空234便は、避難民が大量に乗り込んだため、ほぼ満席状態だった――。
300人以上を乗せたコリアナ航空234便は、アメリカの西海岸へ向け太平洋上を飛行している。
朝鮮半島付近の空域は、戦争状態に伴い飛行禁止区域が設定されたため、黄海の西を南下した後、太平洋を東へ向かう飛行航路となっている。
日本政府は、日本と韓国を結ぶ航空機や船舶の路線を一時的に全て閉鎖していた。
表向きは、戦争による飛行禁止区域の設定や海上封鎖のためとしていたが、本当の理由は、中国発の疫病が日本国内へ持ち込まれないようにするためだった。
――突如、コリアナ航空234便の最後尾の座席に座った男性乗客の頭が一瞬白い光に包まれた。
男性は、虚ろな表情でユラリと立ち上がる。
そして、隣に座る女性の前を横切った後、通路の左斜め前に座る女性めがけて走り寄り、女性の肩に噛みついた。
「痛いっ! 嫌っ! 放してっ!!」
「な、なんだ!?」
その男性は、女性に噛みついた後、身を乗り出して隣に座る男性の腕に噛みついた。
「痛っ!? こいつ噛みつきやがった! 殺してやる!」
腕に噛みつかれた男性が立ち上がり、拳を振り上げて噛みついた男性の顔を殴る。
――ゴキン!
「ぐあーっ!! い、痛ぇ!? なんて硬い頬骨してやがんだ!?」
「キャーッ!」
「喧嘩だ! 誰かCAを呼んで来い!」
噛みついた男性を殴った男性の拳が砕けて血まみれになっている。
すると、最初に発病した男性の前の席に座った男性の頭が一瞬白い光に包まれた。
男性がユラリと立ち上がり、前のシートに飛びついた。
――バキン!
大きな音がしてシートの背もたれが外れる。
「な、何だ!?」
「い、痛っ。何しやがる!?」
「キャーッ!」
その後、数十人の乗客たちが次々と発病して機内はパニックに陥った――。
◇ ◇ ◇
コリアナ航空234便のコクピット内で機長の李光男は寛いでいた。
機体は、ロサンゼルスへ向けオートパイロットで飛行している。
李がコーヒーでも飲もうかと考えていると、客室のほうから騒ぎ声が聞こえてきた。
「キャーッ!」
「逃げろー!」
「なんだ……、こいつらは!」
扉越しのため詳しくは聞き取れないが、多くの乗客が騒いでいるようだ。
次の瞬間――。
――ガクン!
機体が激しく揺れ、コリアナ航空234便の機首が急激に下がった。
「機長!?」
「何事だ!?」
「分かりません!」
「機首を引き上げろ!」
「了解!」
副操縦席に座る金がオートパイロットをオフにして操縦桿を引く。
「ぐっ、重い……。駄目です! 機首が上がりません!!」
「オレがやる! アイ・ハブ・コントロール」
李は、操縦システムを自分に切り替えて操縦桿を引いた。
コリアナ航空234便は、古い機体ではあったが、動翼はフライバイワイヤによる油圧で動作する。
しかし、操縦桿には抵抗があり尾翼のエレベータによる機首上げの効果が感じられない。
李は、2つのエンジンのスラストレバーを操作してエンジン出力を上げた。
それでも機首が上がる気配がない。
エンジン出力を上げたことで降下率が上がり、急激に高度が下がっていく。
「機長!」
「分かっている!」
――ドンドンドン!
コクピットのドアが激しく叩かれた。
CAが操縦室のドアを叩いているようだ。
インカムを使わずに直接ドアを叩いている辺りで緊急事態が発生したことが分かる。
「キャーッ!」
――ドン! バキッ!
「何だ!?」
振り向くとコクピットへ通じるドアが破壊されていた。
そこから、虚ろな目をした男が中へ入ってくる。
『ハイジャックか!?』
李は恐怖した。
「何者だ!?」
副操縦士の金が立ち上がり、男の前に立ちふさがる。
男は、無駄のない動作で金の肩に噛みついた。
「うわっ! 痛っ! 何をする!」
すぐに金を放した男は、操縦桿を握る李の肩にも噛みついた。
李の肩に痛みが走る――。
「痛っ! や、止めろ!?」
男は、噛みついた後、すぐに李から離れた。
そのまま、男はゆっくりと客室のほうへ歩いて行った。
「な、何だったんだ……?」
――ガクン!
急に舵が元に戻り機首が急激に上に向いた。
「キャーッ!」
「うわーっ!」
機体が大きく後ろへ傾いたため、乗客が悲鳴を上げた。
李は、慌てて操縦桿を奥へ押し込んだ。
――ガガガガガッ!
コリアナ航空234便の機体がガタガタと揺れた。
「エンジンが……」
エンジンに急激な負荷が掛かったため、トラブルが発生したようだ。
1番、2番エンジン共に異常を示すランプが点灯している。
「機長! 推力が低下しています!」
「分かっている! 近くの空港に緊急着陸する!」
「ここからですと、ハワイか日本の空港が近いですが……」
「羽田空港へ向かう」
「しかし、日本は現在、我が国からの航空機を受け入れていません。それに急激な旋回を行うと速度を失います。距離的にもホノルルのほうが近いので、ホノルルへ向かうことを提案します」
「以前、オレは、仁川と羽田の路線でパイロットをやっていた。これは、緊急着陸になる。慣れた羽田のほうが安全だ」
「しかし……。まずは、羽田空港に連絡して確認しましょう。旋回するのはそれからのほうがいいかと……」
金は、食い下がった。
燃料はたっぷりあるが、エンジンが完全に停止してグライダー状態になれば、飛行できる距離は限られてしまう。
太平洋上に墜落したら、まず助からないだろう。
現状、Uターンして日本に向かうのはリスクがあった。
金がヘッドセットを装着して通信機を操作する。
「メーデー! メーデー! メーデー! こちらは、コリアナ航空234便、コリアナ航空234便、コリアナ航空234便。メーデー! コリアナ航空234便。北緯36度42分、東経177度59分にてエンジントラブルが発生。羽田空港に緊急着陸したい。メーデー! コリアナ航空234便。オーバー」
「…………」
少し間を置いて、羽田空港の管制官が応答をしてくる。
「こちらは、東京国際空港。コリアナ航空234便、貴機の現在位置から最も近いダニエル・K・イノウエ国際空港へ向かってください。繰り返す、コリアナ航空234便、ダニエル・K・イノウエ国際空港へ向かわれたし。オーバー」
金が李を見た。
「機長、やはりホノルルへ向かえと指示されました」
「何だと!? 替われ!」
李は、ヘッドセットを装着した。
「こちらは、コリアナ航空234便。これから、旋回して羽田空港へ向かう! オーバー!」
「こちらは、東京国際空港。コリアナ航空234便、ダニエル・K・イノウエ国際空港へ向かってください。オーバー」
管制官が杓子定規な通信を返してきた。
この対応に李はブチ切れた。
『日本人の分際でぇ……』
韓国では、2050年代に入ってもまだ反日が至る所で行われていた。
元々は、国内政治への不満を誘導する目的もあったのだが、あまりに浸透しすぎてしまい、逆に反日を止められないというジレンマが韓国内の政治で起きていたのだ。
少しでも親日とレッテルを貼られてしまうと吊し上げられてしまう社会では、反日を党是としない政党では選挙で勝つことは不可能だった。
インターネットの発展により高度な情報化社会となった現代では、行き過ぎた反日政策は韓国経済へ悪影響も及ぼすため、韓国政府としては痛し痒しなのだが、表向きは反日をアピールする必要があった。
李の世代は、中国経済の急成長により、韓国が中国と日本という経済大国の狭間で経済的に翻弄された時代を長く体験したため、特に反日が多い世代だ。
その例に漏れず、李も強硬な反日主義者であった。
「これより旋回する!」
「機長! 許可を得てからにしたほうが!?」
李は、管制官と金の言葉を無視して機体を左にロールさせた。
機体が左に傾き、速度が落ちていく。
「こちらは、東京国際空港。コリアナ航空234便、ダニエル・K・イノウエ国際空港へ向かってください。オーバー」
管制官が同じ通信を繰り返した。
「駄目だ。もう旋回した。当機は、機内で暴動が発生しており、エンジンも2機とも出力が低下。危機的な状況だ。受け入れを願う」
「……しかし、現在、飛行禁止区域の設定により、韓国からの便は受け入れを停止しております。オーバー」
「緊急事態だ! 分かっているのか!? 国際問題になるぞ!!」
「私では判断できませんので、暫くお待ち下さい。オーバー」
羽田空港との通信が一旦切れた――。
◇ ◇ ◇
コリアナ航空234便は、針路を羽田空港へ取り、オートパイロットも設定し直された。
あれから20分が経過したが、羽田空港からの連絡はまだない。
――ザザッ……
インカムから雑音が聞こえ、羽田空港の管制官があまり発音の良くない英語で話し掛けてくる。
「こちらは、東京国際空港。コリアナ航空234便、日本政府に確認を取ったところ、貴機の要請は受け入れられない。繰り返す、貴機の要請は受け入れられない。オーバー」
「なんだと!? こっちは、旋回して羽田へ向かっているんだぞ!?」
「こちらは、東京国際空港。コリアナ航空234便、再度旋回してダニエル・K・イノウエ国際空港へ向かわれたし。オーバー」
「いまさら戻れるか!! いいか!? 絶対に国際問題にしてやるからな!! 覚悟しておけよ!!」
「こちらは、東京国際空港。コリアナ航空234便、貴機の現在位置からだと、まだダニエル・K・イノウエ国際空港のほうが近い。再度旋回してダニエル・K・イノウエ国際空港へ向かわれたし。オーバー」
「旋回したら、更に速度が低下する。その提案は、受け入れられない。オーバー」
「こちらは、東京国際空港。コリアナ航空234便、日本政府は貴機の要請を受け入れない決定をした。我が国に接近すると貴機は領空侵犯となる。オーバー」
『日本人めぇ……』
李の怒りは頂点に達した。
「民間機を撃墜できるものなら撃墜してみろ!!」
――バキン!
李は、ヘッドセットを頭から毟り取って、床にたたきつけた。
「機長!?」
金が心配そうに声を掛けた。
「日本政府は、当機の受け入れを拒否しやがった! あいつら、なめやがって……」
「やはり、ホノルルへ向かったほうがいいのでは?」
「これ以上、速力が低下するのは避けたい。この速度だとこのまま羽田へ向かえば4時間弱というところだが、旋回してホノルルへ向かうと、それ以上かかるだろう」
「それはそうですが……。領空侵犯で迎撃されるかもしれませんよ?」
「あいつらに民間機を撃墜する度胸があるものか!」
「確かに……」
金の返事を聞き流しながら、李は自分が英雄になる妄想をした。
羽田空港で緊急着陸をパーフェクトに行い、300名以上の乗客を救った英雄と祖国のマスメディアで賞賛され、尚かつ、日本政府から謝罪と莫大な慰謝料を受け取るのだ――。
―――――――――――――――――――――――――――――




