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第二章 ―奇病―
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――西暦2051年2月12日(日)03:44 【チベット・ラサ】
2040年代半ばに始まった、チベット独立戦争によりラサは内戦の中心都市となった。
中国経済の凋落と連動するかのように、チベット、ウイグル、台湾、香港などが次々と独立を宣言し、互いに協力体制を築いていったのだ。思惑の一致するインド、モンゴル、ベトナム、アメリカ、日本なども陰ながら支援していた。ロシアは、表向きは不介入だったが、中露国境付近に軍を展開するなど、隙あらば、国境線を広げようと画策していた。
――西暦2051年2月12日(日)の未明、チベットの中心都市ラサの路地裏で突如、光が膨れあがった。
――ゴォオオオオオーッ!
光の中から突風が吹き出している。
――ドサッ、ドサッ、ドサッ
路地裏にボロボロの服を着た3人の人間が地面に落ちた。
突風と光は数分で消え去った。
静寂を取り戻した路地裏に虚ろな目をした3人が、ゆっくりと起きあがった――。
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――西暦2051年2月13日(月)09:55 【東京都千代田区永田町・内閣府庁舎内】
「武田君、南部課長が呼んでたわよ?」
秀雄がトイレの帰りに廊下を歩いていたら、上田恭子に声を掛けられた。
『前にもこんなことがあったな……』
「……ありがとうございます」
土曜日、秀雄は一睡も出来なかった。
日曜に約束していた涼子とのデートも体調不良を理由に断った。
昼前に心配した涼子が秀雄のワンルームマンションに来てくれた。涼子に癒され、秀雄は少し元気を取り戻すことができたのだ。
秀雄は、ブラックホールの件を考えないことにした。考えても仕方がないことだと割り切ることにしたのだった。
「失礼します」
秀雄は南部課長の部屋に入った。
「おう、武田。おまえ、先週の土曜は何をしていた?」
「千代田区にある喫茶店で野辺史郎と会っていました」
「なんでそんな勝手なことをしたんだ!!」
南部が大声で怒鳴る。
「…………」
しかし、秀雄は冷めた表情で南部を見つめ返した。
以前の秀雄だったら、縮み上がっていたところだが、そう遠くない未来に地球が滅亡するかもしれないのだ、全く恐いとは思わなかった。
実際、南部と格闘戦になっても秀雄が軽く勝利できるだろう。以前ならば、モラルや将来を気にしてそんなことは絶対に考えなかったが、今の秀雄は南部を殴ってやりたい気分だった。
「何か言いたそうだな?」
「何故、騙したのです? 組織なんて最初っから存在しなかった!」
「知らない方が幸せだったろう?」
確かにそうだ。知らなければ、のほほんと生活できただろう。
しかし、それでいいのだろうか? 野辺の話では、接近してくれば肉眼でも観測できるということだ。いずれ自分を含め全世界の人間がこの事実を知ることになっただろう。
「この事実を隠し通すことはできません」
「どうしてそう思う?」
秀雄は野辺から聞いた話を伝えた。
「なるほどなぁ……で、お前はどうすればいいと思うんだ?」
「生き残る方法を考えるべきです」
「それは政府の上層部でも考えている」
「もっと世界中の知識を結集しないと駄目でしょう?」
「いいや、逆だ。仮に助かる方法があったとしても助ける人間を選別しないといけなくなる。世界中の人間を救うことなどできるはずもない」
「じゃあ、日本国民だけでも……」
「それも無理だ」
人口が減ったとはいえ、日本にはまだ1億人以上の人間が住んでいる。普通の船ならばともかく、宇宙船で避難するのはどう考えても不可能だ。
「地下都市を建設するというのはどうでしょう?」
ブラックホールの影響をあまり受けなかった場合でも、地球の公転軌道は大きく歪み、遠日点が火星や木星の公転軌道と同じくらいの距離になってしまうかもしれない。
そうなったら、地表は極低温の環境になってしまうだろう。
「その案は既に計画が進められている」
秀雄が考えつくようなものは、当然のことながら既に誰かが考えていた。
「では、その計画により生き残ることができるという希望を国民に与えればパニックは避けられるのではないでしょうか?」
秀雄自身もその話を聞いて希望が湧いてきた。
「だが、現実問題として、地下都市の計画は難しい問題がいくつもあるんだ」
「どういうことでしょうか?」
「日本は、地震国だ。地下に建物を造った場合、地震の影響を免れない。だから、海上にメガフロートを建設する計画が持ち上がったのだが、海水が凍った時に水の膨張でメガフロートが破壊されると推測されている」
「…………」
「例えその問題をクリアしたとしても、施設のメンテナンスをどうするかなど問題は山積している」
そして、南部は秀雄の希望を消すかの如く畳みかけた。
「そもそも、地球がブラックホールの潮汐力で破壊されてしまったら、元も子もないからな」
「……それでもパニックを避けるためには、希望が必要だと思います」
「確かにな……」
南部は一呼吸置いてから話を続けた。
「その話とは関係ないんだが、どうやら中国で原因不明の感染症が大流行しているらしい」
日本と中国は、東シナ海の領有権問題を巡って度々衝突していたが、チベットなどの独立問題でアメリカと共に独立派を支援したことで、断交同然の状態になっていた。
予想されていた軍事衝突は起きなかったものの、それは中国が事実上の内戦状態となった為だと言われている。
現在、日本から中国へは渡航禁止となっている。旧日本国憲法では、こういったケースでも渡航を禁止することができなかったが、紛争地帯へ赴き死亡するジャーナリストなどが増えたため、新憲法では紛争地域への渡航を禁止することができるようになったのだ。
「原因不明の感染症ですか?」
「そうだ。アメリカからの情報では、CDC――Centers for Disease Control and Prevention:アメリカ疾病予防管理センター――の派遣を打診したそうだが、中国政府は拒んだようだ。未確認の情報だが、チベットのラサで発生したとの説もあるので、生物兵器によるバイオハザードの可能性が指摘されている」
チベットなどとの内戦に痺れを切らした中国政府が開発したばかりの生物兵器を実戦投入したものの、失敗してバイオハザードが起きたということだろうか?
「どれくらいの規模なのでしょう?」
「現在、重慶・西安・上海・北京の空港が閉鎖されていることは分かっているが、それ以上の詳しい情報は入ってきていない」
中国は、ここ数年で他国との通信を事実上遮断した。
インターネットは接続しているものの、通信の監視・遮断を行っており、事実上のローカルネットとなっていた。中国国内からのパケットがこちらに届くことは滅多にない。あっても、それは政府関係の機関のものだけだった。それも主にサイバー軍によるハッキングだ。そのため、日本を含む先進国では、中国からのパケットを基本的に遮断していた。しかし、インターネットでは、他の国を経由してハッキングを行うことも可能なので、ロシアなどを経由した攻撃を受けることがしばしばあった。
だが、半世紀前ならいざしらず、現在ではサイバー攻撃に対する防御が確立されているので、単なる嫌がらせにしかならなかった。そのため、大手のコミュニティサイトから情報を収集したり、世論誘導などの工作を行うのが関の山だ。
掲示板やSNSに外国から大量の書き込みがある場合には、運営会社から連絡が来るような仕組みが作られていた。昔は、情報という形がないものに価値を見いだせていなかったようだが、インターネットが普及して半世紀以上が経過した現在では、政府機関もその価値が分かるようになっていた。
「我が国への影響は?」
「中国と断交状態なのが幸いしたな。中国政府の対応を見ると極めて危険なもののようだ。そのため、中国からの船舶・航空機は、全て入港禁止となる手筈だ」
「在中邦人への対応は?」
「それが難しいんだよなぁ……」
現在、中国には日本の大使館や領事館が存在しない。内戦を理由に5年前に全て撤収したのだ。
企業などは、中国経済の凋落と共に撤退していったが、中国人と婚姻関係にある日本人などで、現在も中国に住む在中邦人は少なからず存在した。
「まぁ、中国政府の指示に従って事態が終息するまでじっとしていてもらうしかないだろう。安否確認もできないのは問題だがな」
「そうですね」
秀雄は南部の意見に同意した。
「この感染症が日本国内に入って来ないか監視してくれ」
そう言われても、秀雄は感染症対策の専門家ではない。
「しかし、私は医療の専門家ではありません」
「ああ、だからインターネットなどで、この感染症についての情報を集めるんだ。意外と一般人の目撃情報などのほうが情報が早いこともあるからな」
「どういった症状が起きるのでしょうか?」
「それが……まだよく分かっていない。おそらく、発熱などの症状はあるだろう」
「中国に関係した人物が発熱などの症状を訴えているケースを調べればいいのでしょうか?」
「とりあえずはそれでいいだろう。終末伝説について調べるついでに気に掛けておいてくれ」
「まだ、終末伝説について調べるのでしょうか? ブラックホールについての情報の隠蔽工作ですよね?」
「まぁ、そうだな。先日の報告を見た限りでは、隠蔽工作は必要なさそうだから、基本的には情報の監視だな」
秀雄は、野辺から聞いた話を思い出し、そのことを質問してみた。
「なぜ、野辺氏を監視しているのですか?」
「パニックを引き起こすような情報を拡散されないためだ」
秀雄が見たところ、野辺はそのような軽率な人物ではないように見えたが、匿名掲示板に書き込んでいた件で監視対象となってしまったのだろう。
「分かりました」
「では頼んだぞ」
「はっ、失礼します」
秀雄は、南部課長の部屋から退出した――。
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