恋をしました
引き続きカティヤ視点です。
楽しんでいただけると嬉しいです。
(※2018.12.3 誤字訂正済みです)
こうして私達は朝食をとって家を出た。
フェリクス君は基本的になんでもできると言ってたけど、家事は出来るどころかむしろ手際が良すぎるくらいだった。
朝食の準備も洗い物も完璧。
強くて優しくて、しかも家事万能とかまさに騎士様そのものじゃないかって思ってしまう。
「マリカのところだよね。えっと、いきなり行って大丈夫かな。予定があったりとか」
歩きながらフェリクス君が確認して、私は頷いた。
「大丈夫よ。最近マリカは予定がなければ一日中自警団にいるから」
親友だけあってだいたいのマリカの行動は把握している。
学校卒業から入団までは自己鍛錬で自警団にいて、午前はほとんどが剣の稽古にあてられている。午後もそのまま自警団の手伝いをしていて、たまに他のボランティアもしているけど、その時は私にも声がかかるから今日は一日中自警団にいるはず。
「へぇ、やっぱり騎士団に入る人ってそんなものなのかな。俺も故郷では自警団に通ってたよ」
「そうなのね」
「ここ数日は移動ばっかできちんと鍛錬してなかったから、あとで身体動かさないとだ」
そう言うフェリクス君は戦闘職特有の鋭さがなくてやっぱり接しやすい。
うーん、と伸びをするフェリクス君に小さく笑ったところで、自警団の訓練所が見えてきた。
塀の向こうには屈強な人たちがたくさんいるのかと思うとちょっとだけ体が強張る。
剣を持つ人はどうしても怖い。マリカは幼馴染で、女の子っていうのもあるからか平気なんだけど、それ以外の人はどうしても身構えてしまう。騎士様なら大丈夫な人もいるけど、怖いと感じる人も少なくない。
大丈夫、と密かに深呼吸するとフェリクス君はすぐに気づいてしまった。
「どうかしたの?」
「えっ、あ、ううん、なんでもないわ」
慌てて首を振るものの、じっと橙の目に見つめられて視線をそらす。
「カティ?」
威圧感はないものの、なんだか居心地が悪い。
「その、戦う人がちょっと苦手で……」
目を泳がせてしどろもどろになって小さく答えると、途端にフェリクス君は目を大きくさせた。
「えっ、じゃあもしかして俺、カティに無理させてた!?」
意味を測りかねて瞬きをすると、フェリクス君は私の両肩に手を置こうとして、そしてはっとして手を引っ込めた。
「ごめん。だったら俺もだよね。それなのに泊めてくれたりして、落ち着かなかったよね」
という言葉に手を引っ込めた意味を悟る。怖がらせないようにって気を使ってくれたのね。
「ううん、フェリクス君は大丈夫なの。全然怖くないよ」
しっかりと目を見て否定する。
「すごく優しいし自分のことより人のことを優先してて、すごいなって思うけど怖いなんて思ったことないよ」
すると明らかにほっとした顔をして、それがまた私の中で大きな存在になっていく。
「それならよかっ――あ、だめだ。自警団なんてまさに怖い場所だよね。ええと、場所はわかったから、ここからは一人で行くよ。本当にありがとうカティ」
なんて頭を下げるフェリクス君。
でも私はこれから先どうなるのか気になるし、なによりフェリクス君ともう少し一緒にいたいと思った。
「大丈夫。私が勝手に身構えちゃうだけだし、それにマリカもいるし、フェリクス君もいるしね」
申し出に首を振る私に少しだけ悩んだみたいだけど、やがてフェリクス君は私の手を取った。
「はい」
「え?」
繋がれた、ところどころ硬い手のひらを感じて首を傾げる。
「手、握ってたら少しは怖くないでしょ?」
言われて半歩先を行くフェリクス君の背を見つめる。
私よりももっともっと大きな背。金と茶の斑らの髪は柔らかに揺れていて。
とくん、と鼓動がなった。
やっぱり私はフェリクス君のことが好き。
すごく、すごく好きだなと思わずにはいられなかった。
「ひょっとして子供扱いされた気になって嫌だった?一人じゃないって思うと心強いかなって思ったんだけど」
突然足を止めた私に、少し頼りない表情でフェリクス君が振り返った。
離れそうになった手を慌てて握り返す。
「ううん、ありがとう、フェリクス君」
心遣いが嬉しくて、そして同時に気恥ずかしくなるのを抑えて笑みを浮かべる。
握られた手が何だかんだこそばゆい。
「っ、ううん、どういたしまして」
と、今度はフェリクス君が視線を外し、勢いよく前に向き直った。
明らかに不自然なその行動に疑問を浮かべるものの、私の胸の鼓動も早くてそれどころではなかった。
「すみませーん!」
フェリクス君はすぐに気持ちを切り替えたのか、門をまたぐと大きな声で人を呼んだ。
すぐに入り口に控えていた自警団員さんがやってきて、フェリクス君と私を見る。
「どうかしたか」
「お仕事中にすみません。マリカに会わせていただきたいんですが」
と、率先してフェリクス君が話してくれる。
すると自警団員さんは顎をさすって難しい顔をした。
「悪いなぁ。今日は団員が少なくて、マリカには見回りに出てもらってるんだ。そろそろ戻る頃だとは思うが」
「じゃあ見回りが終わったらまた別の仕事があったりしますか?」
「いんや、マリカはあくまで手伝いだからな。用事があるならそっちを優先してもらって構わないぞ」
「すみません、ありがとうございます」
フェリクス君はすごく堂々としている。
その横顔にちょっと見惚れていると、自警団員さんはドアを大きく開けてくれた。
+ + +
程なくしてマリカが帰ってきた。
「どうしたの、カティ……って、貴方、フェリクスじゃない!」
休憩室にいた私達にマリカは目を丸くさせた。
「え、なに、どういうこと」
というマリカにフェリクス君が一通りの説明を始めた。
ところどころ私が補足を入れて話し終えれば、マリカは驚愕の眼差しをフェリクス君に向けた。
「嘘でしょ!?そんな、こんな能天気な人が騎士見習いって」
「えぇー……」
まじまじと見つめてくるマリカに、フェリクス君は口を尖らせ非難の目を向けた。
「だってねぇ」
というマリカに、私は慌てて口を挟んだ。
「許可書も見せてもらったのよ。それにほら、フェリクス君は強かったんでしょう?自分よりも他の人のことを先に心配するところこかも騎士様に通ずるところはあるし」
「それは認めるけど、でも入寮日の調整を忘れて早く来すぎたとか、荷物を盗まれたとか、果てはお兄さんに騙されてたとか、ちょっと……ねぇ?」
というマリカにフェリクス君の肩が落ちるのを見て、身を乗り出して否定する。
「でもでも、フェリクス君はすごいんだよ。男の人なのに家事が一通りできるのよ。それにマヌとヨニも懐いてるし」
一生懸命に訴えると、マリカは一瞬顔をしかめて腕を掴んで私を引き寄せた。
「ひょっとしてフェリクスのこと好きなの?」
声を潜めて言われたそれにふわぁっと顔が熱を帯びて、胸が締めつけられる。
「あの、その……っ、ぅ、うん」
否定をしようとして、でも手をもじもじさせながら出たのは正直な心だった。
「カティがねぇ」
マリカはしみじみというと、ふと思い出したように眉間にしわを寄せた。
「剣、大丈夫なの?」
「たぶん大丈夫だと思う。何でかわからないけど、そんな気がするの」
ふわっとした私の答えにマリカは暫く考えていた。
確かに散々怖がっていたのに、という気はする。だけどうまく言い表せないけど、フェリクス君は何か全然違う感じがするの。
「そう?」
「うん」
「わかったわ」
そうして話に一区切りつけると、マリカは私から視線をフェリクス君へと移した。
フェリクス君は今のやりとりが聞こえなかったみたいで、ただ待っていてくれた。
マリカは一つ息をつくと、そんなフェリクス君に向き直った。
「それで荷物を取り返したいってことね」
「うん」
いきなり矛先が向いたフェリクス君は私とマリカを交互に見やった。
何となく私の様子が気になっているようだけど、話を聞かれると答えにくい。
どうしようかな、と考えているとマリカが一歩踏み出して話を進めてくれた。
「取り返せるかどうかは分からないわよ。今時期、王都は人がいっぱい流れてくるから犯罪も多いし、協力してくれる人なんていないかもしれないし」
「うん、もちろんだよ。なにか手掛かりになるような事があれば教えてもらうだけでも」
そういうフェリクス君の目は真剣だった。
そんなフェリクス君を見ることしばし、マリカは嘆息した。
「わかったわ。協力してあげる」
「ありがとう!」
「ただし」
と、喜ぶフェリクス君にマリカは人差し指を立てた。
ちらりと私を見て、マリカは続ける。
「見習い騎士だって言うなら私と手合わせしなさい」
マリカの視線はさっきのように少しだけ心配そうなものだった。
対するフェリクス君はちょっと戸惑っている。
「俺はいいけど、でもカティが」
フェリクスも私を振り返って、その目が不安そうにしている。
「カティ、いいでしょう?フェリクスの強さ、一度は見ておきたいでしょう?」
マリカの言葉に含まれる意図に気づいて、私は静かに息を飲んだ。
あくまでも私を心配してくれているマリカは早々に試した方がいいと言っているようだった。
じっとマリカを見つめて、それから私はフェリクス君も見て、息を吸った。
「そうね。フェリクス君、私も見てみたい」
「……本当?」
「うん。いいかな?」
剣をもつ人が怖いと言ったばかりだからフェリクス君は訝しんでいたけど、私ははっきりとお願いした。
橙の目をしっかりと見つめれば、私の意志を感じ取ったのかフェリクス君は決意してくれたようだった。
「じゃあ、手合わせしようか。えっと勝敗は決めた方がいいの?それとも稽古みたいな感じ?」
「勝敗は決めなくていいわ。かわりに時間を決めましょう。砂時計、持ってくわ」
そうしてマリカは訓練場に案内してくれた。
さっき団員さんが少ないって聞いたけど、少ないどころか全然いないみたいで訓練場には誰もいなかった。
マリカは用意してきた砂時計を壁際にある小さな机の上に置いた。
「始めたらこれひっくり返して。終わったらこの旗を振ってもらえればいいわ」
「うん」
そう指示されて小さな旗を受け取る。
いよいよ始まるのかと少しだけ緊張しているとマリカはほんの少しだけ肩を落として小さく囁いた。
「ごめんねカティ。念の為に確認したくて」
マリカはいつも私のことを心配してくれる。大事にしてくれる。
そんなのよく分かっているから。
「ううん、いつもありがとう」
「どういたしまして」
私の言葉にどこかほっとした顔のマリカは木剣を二振り手にした。
そのうちの一つをフェリクス君に手渡し、少し離れた位置へと移動した。
「じゃあ、よろしく」
「うん。よろしくね」
そわそわする視線の先で、二人は挨拶を交わすと剣を構えた。
少しだけ二人の雰囲気が変わったのを感じて、胸の前で手を組む。
どきどきとする胸の音を感じていると――マリカが大きく足を踏み出し切りこんだ。
フェリクス君は慌てることなくマリカを見据えて、それを受け止めた。
しばらく木剣のぶつかる音が続く。
こういうのは殆ど見たことがないけど、男の人と比べて当然小柄なマリカは体格差を利用して小回りの効いた動きをするらしいっていうのは聞いたことがある。
それに対するフェリクス君は、たぶん真正面から全部受け止めてるんだと思う。
思うっていうのは、早くてよく分からないから。
ただ確実にわかることは、戦うフェリクス君は怖くない、ということ。
それどころか真剣な表情のフェリクス君に鼓動が加速する。
そうしてどれくらいが経ったのか、二人を見入っていると訓練場に厳つい団員さんがやってきた。最初に対応してくれた団員さんだ。
「マリカ、急ぎの用だ!悪いが手伝ってくれ!」
訓練場に響き渡るほどの大きな声に思わずびくりと体を震わせる。
視線の先でマリカとフェリクス君がすぐに離れて剣を収めた。
「はい!」
マリカはそのまますぐに団員さんの元へと駆け寄って、フェリクス君はそれらの様子を見ながら私の元へと戻ってきた。
「大丈夫?」
「うん。びっくりしただけだから」
不安そうに顔を覗きこまれて素直に答える。
フェリクス君は安心したように小さく息をついて、それからマリカ達を眺めた。
「どうしたんだろうね?」
急ぎの用っていってたし、今日は人が少ないともいってたから、マリカも駆り出されるのかもしれない。
そう思っているとマリカはふとこっちを見て手招きをした。
「どうかしたの?」
すぐに向かって聞いてみると、マリカはフェリクス君を見た。
「騎士団から応援要請があったみたいなんだけど、ものすごい急ぎらしくて人を集める時間もなさそうなの。簡単な張り込み役らしいんだけど――フェリクス、手伝ってもらえる?」
「マリカから今年入団の騎士見習いだと聞いた。すまないが手を貸してくれないか?」
と、団員さんも難しい顔をしながらフェリクス君に尋ねた。
でもそうするとフェリクス君は自分の用事を済ませられないんじゃあ……。
ちらりと見上げるとフェリクス君は即座に頷いた。
「もちろんですよ。俺に手伝えることならいくらでも」
騎士団からの要請だったら尚更に、と言ったフェリクス君には一切の迷いがなかった。
それは、私がひったくりに会った時と同じ、自分よりも周りを優先させるもので。
フェリクス君はすごいと思う。だけど、それじゃあフェリクス君自身はどうなるの?
「っそれじゃあフェリクス君の荷物は」
きゅうっと胸がしめつけられて、心配になった私は部外者が口を出してはいけないと分かっていても、それでも言わずにはいられなかった。
「それよりも騎士団の要請で急ぎってことはかなり重要なことだろうし、そっちの方が大事だよ」
フェリクス君はそう言って笑って見せた。でもその笑顔さえも心配で。
「フェリクス君はいつもまわりのことばかり優先してない?そうやってれば自分の事が後回しになって、やりたいこともできなくなっちゃうよ」
必死に見上げれば、フェリクス君はうーんと上を仰いで頰をかいた。
「でも、俺もやりたいことを優先させてこうなってるわけだし。大丈夫だよ」
全く私の心配に気づいていないかのようなフェリクス君に、むっとした。
「フェリクス君が自分の心配をしないから、私が心配するの。フェリクス君だから心配なの!」
声を荒げることのほとんどない私のそれに、マリカはびっくりして目を丸くさせていた。
だけどそんなこと気にならない。
よく分からないけど、面白くなくて、悔しくて、心配で。いろんな感情がごちゃ混ぜになって、口元が震える。目頭が熱い。
「カティ……ごめん」
マリカはそんな私にすまなさそうな顔をして肩を落とした。
「ま、マリカは、悪くないわ。本当は、大事なことって、分かってるから。だけど……あまりにもフェリクス君が自分を顧みないからっ」
と、私はフェリクス君を睨もうとして――そして口元を覆って視線を逸らす姿にいきあたった。
なにかをぶつぶつと呟いているみたいだけど、その目元が赤くて、初めて見るその様子に怒りが霧散する。
えっと?
「恋ってこんなに人を変えるものなのね」
「青春だなー」
きょとんとする私と目元を赤く染めるフェリクス君。
そんな私達を見てか、マリカはしみじみと呟き、団員さんはなにやらにやにやとしていた。
二人ともどうしたのかしら。
「まぁ無理強いはしない。何か予定があるなら優先してくれ」
戸惑っていると団員さんがそう仕切り直してくれて、フェリクス君は少しだけ悩んだ末に私の頭を撫でた。
「ありがとカティ。でも大丈夫だよ。入団まではまだ少し時間もあるしさ。なんとかなる。それにほら、ここで手伝っておけば、きっと自警団もあとで俺に力を貸してくれるだろうし」
ね、とフェリクス君が団員さんに視線を向ける。
「ん?詳しくは知らないが、できることがあるなら協力するぞ?」
「ほらね」
肯定する団員さんを確認してフェリクス君はさらに私の頭を撫でた。
「だから最終的にはこの手伝いは俺の為にもなるんだよ」
優しく諭すように言われては、引き下がるしかできなかった。
「フェリクス君がそれでいいなら」
悔しい。面白くない。でもフェリクス君が選んだなら。
「ありがとうカティ」
ほんの一瞬、橙の目が至近距離で合ってこつん、と額と額が触れ合う。
「――っ」
フェリクス君が離れた途端、私は湯気が出るくらいに真っ赤になっておでこを抑えた。
いまっ、今、ものすごい近かったっ。
恥ずかしさに顔を上げられないでいると、マリカとフェリクス君が何やら言葉を交わしていた。
「盛り上がってるとこ悪いんだが、話がまとまったところで動いてもいいか?いかんせん急ぎだからな」
という団員さんの言葉に、それぞれがはっとする。
「そうでした、すみません」
「じゃあ二人とも頼むな」
「はいっ」
そうしてマリカは私を見た。
「ごめんね、カティは気をつけて帰ってね」
「うん。二人とも頑張ってね」
そうして慌ただしくなるまわりを見て最後にフェリクス君に声をかける。
「終わったらうちによってね。絶対よ」
「うん。終わったらマリカに案内してもらうよ」
「ちゃんと連れてくわ」
そうして私は邪魔にならないようにと自警団の訓練所を後にした。
後にしたものの、どうにもフェリクス君の事が頭から離れない。
人を好きになるって初めてだけど、切なくて、嬉しい気持ちになるのね。
改めて一人になって、自分の気持ちを再確認する。
明るくて素直で優しい。そのうえ強くて、何でもできて。唯一の欠点といえば、自分を顧みないことだけど、きっとそれも好きの一つで。
「――うん、そうしよう」
フェリクス君が騎士団のお手伝いで動けないなら、せめて聞きこみだけでもしてみよう。それだったら私だってできるはず。
大丈夫と笑ったフェリクス君の顔を思い出して、私はよし、と意気込みフェリクス君が入った王都の門へと向かうのだった。
+ + +
「いっ……」
ふと痛みで私は顔を顰めた。
身体のあちこちが強張っているように痛んだ。
でもどうしてそんなことが?
フェリクス君の鞄を探していたのに。
「いたっ」
ずきりとした痛みが頭に走って、手でさすろうとして動かない体に目を瞬かせる。
わけがわからなくてゆっくりと自分の状態を確認して、そして一気に血の気が引いた。
――私は両腕を後ろ手に縛られ、床に転がっていた。
全身が痛いのは床に転がっていたせいで、頭が痛くて縛られてるのは。
『おい嬢ちゃん。一体何をかぎまわってる?』
そうよ。目撃情報のあったあたりをうろうろとしながら聞きこみをしていた私に、突然背後から低い声がかけられたのよ。
それからすぐに頭に衝撃が走って。
フェリクス君を見ていた時とは全く違う意味で心臓がばくばくといっていて、呼吸が上手くできない。
これからどうなるのかもわからない恐怖に身体ががたがたと震えはじめる。
怖い。助けて。
こんなことになるなんて考えもしなかった。
ただ、フェリクス君の鞄を探していただけなのに。
どうして、なんで。
これまで体験したこともない恐ろしい状況に、私の目はあちこちを彷徨った。
古びて欠けている机。
端に置かれた表面の裂けたソファ。
人は、この部屋にはいなくて、窓ガラスが割れている。
棚やチェストもあって、あちこちに蜘蛛の巣が張られていて――
「こんにちは、お嬢さん」
「ひ――むぐっ」
突然真後ろから声をかけられて、口を覆われた。
殺される。
そう思った瞬間、私は唯一動く足をばたつかせた。
「驚かせてごめんね。君、人質として捕まったのかい?」
謎の人物はこの状況にもかかわらず、どこかのんびりとしたものだった。
足を動かしても口は完全に塞がれていて、だけど穏やかな声とその内容に少しだけ心が落ち着く。
とはいえ警戒を解いたわけでも恐怖がなくなったわけでもなく、ただどうしていいかわからずに固まる。
「まぁ、人質としてじゃなくても、捕まったってことには変わりないか」
と、謎の人物は一人ごちて、まだ横たわったままだった私を丁寧な動作で座らせてくれた。
「僕、内密にこの家に侵入したのだけど、君には絶対に危害を加えないと誓うよ。だから安心して、騒がないでくれるかな」
そう言ってそっと手を放すと、その人物は私が暴れないのを確認して目の前に回り込んで来た。
濃藍の長髪に、片膝をついていてもよくわかる長身。
表情はまるで緊迫したものはなくて、どれどころか音楽を聞いてリラックスしているかのようにも見える。
この人を、私は知っていた。
「ライノ・メリカントさん……?」
「おや、こんなに素敵なお嬢さんに知ってもらえていたなんて、光栄だね」
その人は名前を呼ばれると片目を閉じて見せた。
この場にそぐわないほどの余裕を醸し出すその人は、とても有名な人だった。
いろいろと噂はあるけど、大商会の会頭の長男さんで、多数の騎士様との交流がある人だ。
マリカなんかはよく「あんなのただのヒモよ。ダリア様はあの人のどこがいいんだか」と言っている、定職に就かずに各地を渡り歩く、だけど品の良さが滲み出る不思議な人。
「ゆっくりと説明をしてあげたいところだけれど、すまないね。今は時間がなくてね。作業をしながらで許してくれるかい?」
言いながら私を拘束していた縄を外套の袖口から取り出したナイフで切り落とすと、ライノさんは机の引き出しを開け始めた。
その動きは凄く手慣れているようで、そして物音一つさせていない。
「僕は騎士団からの連絡を受けてここに来ている。あるものを確保するためにね」
いくつかの引き出しを開け閉めして、そうしてライノさんは数枚の紙を手に微笑んだ。
「見つけた。これさえ押さえておけばあとは問題ないね」
騎士団からの連絡を受けて、ということはさっきのマリカやフェリクス君と同じということかしら。
それにしてもベテランの泥棒のような身のこなしな気がするし、重要な仕事のようだけど。
「じきに騎士がこの建物に押し入る。ここをアジトにしている者たちとの戦闘が始まるだろう。本来であれば僕は戦闘が始まる前に撤退する予定だったのだけど――」
と、そこで凝視している私にライノさんが視線を合わせた。
「このまま君を置いてはいけないね。当初からその予定だったのか、違うのかは分からないけれども、戦闘になれば君は間違いなく巻き込まれて人質にされるだろうからね」
戦闘、人質。
不穏な言葉ばかりのそれに思わず顔を歪ませる。
「とはいえ君を連れて内密に脱出はできないだろうし、ここで待機していた方がよさそうかな。大丈夫だよ。君には指一本触れさせない。君のことは僕がちゃんと守ってあげるからね」
私に言い聞かせるように言うと、ライノさんは安心してとでもいうようににっこりと微笑んで、胸元から取り出した音のない笛をそっと吹いた。
読んでいただきありがとうございます。




