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騎士団は恋が好き  作者: 葵翠
【不憫】クルト
42/79

庶民のその男

 視点が変わります。

 楽しんでいただければと思います。

 (※2019.1.19誤字修正しました)


 付き合っていた男と別れた。

 あの男は王宮勤めの高官だった。自分の有能さに一般人を鼻で笑うような部分が見え隠れはしていたけど、それでも私には優しかった。

 もっと好きになってもらいたくて、言葉の端々から好みを読み取ってちょっと露出の高い服を着てみたりもした。

 その結果――問答無用とばかりに外で押し倒されそうになって口論になって、喧嘩別れした。


 どうやらその男は巨乳と呼ばれる部類の女が好きらしい。

 そして身体目当てに近づいたのだとか。それなのにいざ押し倒そうとした時に私が抵抗したもんだから本性を露わしたと。

 随分と大きな猫をかぶった男のようだった。

 悔しくて悲しくて、思いっきり平手打ちしてやった。

 そうして傷心の私が一人夜の街から帰路に着こうとした時、酔っ払いに絡まれた。


「一緒に楽しいことしようぜ」


 何が楽しいことだ。胸ばっかり見て気持ち悪い。

 夜に一人で出歩くことのない私は内心舌打ちした。


「他をあたって」


 にこやかに笑ってかわすことなんて今の私には到底できなかった。

 仏頂面を隠すことなく言い放って無理やり脇を通り抜けようとしたら、腕を掴まれた。


「放して!」


「別に悪いことなんかしねぇよ。ちょっと一緒に飲もうって言ってるだけなんだからよぉ」


「けっこうです」


 しばらく言葉で拒絶を露わしていたけど、どうにも埒が明かない。

 面倒臭い。兄ちゃん伝授のひざ蹴りで逃げよう。

 そう思って息を吸い込む。――いざ。


「いい加減にして!」


「ぐっ」


 腕をつかむ男の急所を思いっきり蹴り上げる。

 ぱっと手が緩んだ隙に駆け出そうとして、駆け出せずによろめいた。今日はヒールの高い靴を履いていたことを忘れていた。


「何しやがるこのアマ!」


 気付いた時には別の男に捕まってしまった。――相手は三人いたのだ。

 一人は悶絶しているけど、残りの二人は憤慨した様子で私を睨みつけている。

 さっと状況の悪さに血の気が引いていく。感情に任せて何も見えていなかったけど、今の状況は最悪の一言だった。


「いい度胸してんじゃねぇか」


 怒りを露わにする男を睨み返す。そうでもしなきゃ恐怖で負けそうだった。

 何とかしなければと自分を叱咤して必死にあちこちに視線を走らせる。

 もう膝蹴りは効かない。だけど、じゃあ自分には何ができるのか。

 大声で叫んだとして、人が来るまでにどれくらいの時間がかかるか。そもそも誰か来てくれるのか。

 激昂する男を目の前に瞳が揺れそうになる。

 そんな時、


「大丈夫ですか!?」


 男達の後方から一人の男が駆け寄ってきた。

 助かっただろうか。

 それでも気を緩めずに視線をやると、駆け寄ってきているのは細身の男一人だった。

 目の前の二人はいかにもガタイのいい男達で、とうてい駆けつけた男に何とかできるようなものではなさそうだ。

 男達もそう思ったのだろう、一瞬で焦った顔を元に戻した。

 だけど細身の男はそんなことは何も考えていないのか、迷うことなく目の前までやってきた。そして、


「具合悪いんですか!?」


 なぜか悶絶している男の元へとしゃがみ込んだ。

 え?


「ひょっとして飲み過ぎちゃいました?」


 助けに来てくれたのではないのだろうか。

 思わず瞬きをする中で、細身の男は悶絶している男の背をさすった。


「えーっと、この方のお知り合いですか?」


「あ……ああ」


 驚いたのは私だけではなかったのだろう。

 二人の男もやや呆然としながら頷いた。


「よかった。じゃあ家まで付き添ってあげられますね。それなら安心です。彼のことよろしくお願いしますね」


 細身の男は明らかに安心したように息をつくとにっこりと笑って立ち上がった。

 そしてさり気なく私の肩へと手を伸ばす。


「僕はこちらの女性を送り届けますので。この時間に一人は危険ですしね」


「え、っと」


 思いがけない展開に困惑してしまうけど、細身の男は乱暴にならない程度に強く肩を押してきた。


「大丈夫ですよ。僕が信用ならないなら、さっきすぐ近くに騎士さんがいたので彼に頼みましょう」


 随分とはっきりとしたその声に、即座に二人の男が身を硬くさせたのがわかった。

 騎士。その単語が何を意味しているかわからないわけではない。


「ほら、行きましょう」


 後押しするように言われて、とりあえず従う。

 この細身の男がこの後どうするかは分からないけど、現状あの男どもに囲まれるよりはましなはずである。

 そうして裏通りから表通りへと出て。


「危なかったですね」


 明かりと人通りのあるそこへ来て、細身の男は息をついた。

 オレンジともピンクともつかない不思議な色合いの目は明らかに安心しているようで――自分なりの方法で、私を助けてくれたのだろう。

 とっさにありがとうと言おうと口を開いたところで、一歩先に細身の男が言った。


「こう言ってはなんだけど、君みたいな子がこんな時間に一人でいたら危険だよ。連れの人はいないの?」


 連れ。

 その単語に忘れかけていた惨状が蘇る。

 一気に悔しさと悲しさがこみ上げてきて、なにも知らない目の前の男についきつい口調で返す。


「いたけど別れたのよ」


「え?」


 細身の男は何を言われたのかわからないような表情でしばらく私を見つめてきて、更に苛立ちに声を荒くさせる。


「フラれたのよ!」


「っごめん」


 細身の男はやや首をすくませて反射的にそう謝った。

 これじゃあやつあたりである。

 一度声を荒げたことで多少落ち着いたらしい私は、だけど素直に謝ることも出来ずに居心地悪く話を変えた。


「ねえ、さっきこの辺りに騎士がいるって言ってたけど」


 たしかそんなことを言っていた。

 自分が送るのに不安があるなら騎士に頼もうとかなんとか。

 もし騎士に今回のことがバレてしまえば、いつ同僚の兄ちゃんの耳に入ってしまうかわからない。余計な心配なんて絶対にさせたくない。

 密かに心配していると細身の男は力なく微笑んだ。


「あ、ごめん。それ嘘なんだ」


 嘘。騎士はいない。

 随分あっさりとした回答だった。あのセリフも私を助けるためのものだったのだ。


「そう。それならいいわ。あんまり迷惑かけたくないからね」


 安心して肩から力を抜く。これなら兄ちゃんの耳には入らずに済む。

 ならもうあとは人通りの多い道を足早に進んで家に帰るまでだ。


「じゃ、ありがと」


 これ以上この人と居ればもっとやつあたりのようなことをしてしまうかもしれない。

 そう思った私はそんな無様な真似ができるかと足早に帰路に着こうとした。


「待った。一人は危ないって」


 なのに男は慌てたように私の手をつかんだ。

 さっきの酔っ払いのような強い力ではなくて、あくまで押しのけられる程度に加減された力に、軽く男を見上げる。


「だいじょ――」


「絡まれてたのに大丈夫なわけないじゃないか」


 私の言葉にかぶさるようにして、男は首を振った。

 まさか強く否定されるなんて思ってもみなくて、我慢していた思いが溢れていく。


「しょうがないじゃない、知り合いなんていないんだから!」


 怒りと悲しみで細身の男の手を振り払う。

 好きだった。だけどあの男は身体しか価値がないって言って。

 そして絡まれた酔っ払いに怒りに任せて現状を把握せずに暴力を振るって、逃走に失敗して、助けられて、やつあたりまでして。

 惨めな気持ちでいっぱいになった。

 それでも泣くもんかと口を引き結んで細身の男を見上げると、その男は頼りなげな笑みを浮かべた。


「送ってくって言ったでしょう?僕が信用できないってのもわからないでもないけど、家まで送らせて?」


 それはゆっくりとした優しい言葉だった。

 こんな私にそれでも親切にしてくれることに居心地の悪さを感じて視線を外す。


「……か、勝手にすればいいでしょ」


 そうしてゆっくりと歩き出す。

 どうしても素直にお願いだなんていう気持ちにはなれなかった。


「ありがとう。女性がこんな時間に一人だなんて、心が落ち着かなくって」


 あくまで優しい声音はささくれだった心をそっと撫でてくれているようで、見る間に視界が涙で濡れた。

 小さく息を震わせた瞬間――温かい何かが頭を覆った。


「これも僕が勝手にしてることだから、気にしないで」


 それは男の上着だった。

 内側にはいくつも継ぎの入っているそれは、だけど男のように優しい温もりで私の顔を隠してくれた。

 次いでぽんぽんと軽く背中を叩かれて心が揺れる。

 上着で隠れているんだから少しだけ泣いても、いいよね……?


 こうして私は辛うじて声を押し殺しながらも、細身の男に連れ添われて家へと帰るのだった。


 + + +


 数日後。

 私は勤め先で弁当のおかずを作っていた。

 働いている先はちょっとお高い弁当屋。王宮勤めや大商会の上層部向けに作られていて金額はおよそ相場の四割増し。だけど冷めても大変美味しい。食材にも調理法にもこだわっているから顧客は多く安定した収入を得ている店だ。

 ちなみに私はそこで店頭に立ちつつ裏方の手伝いをこなしている。


「そろそろ交代してもらうか」


「はい」


 裏の手伝いを済ませていると店頭の女将さんと変わるように店主の指示が入って店に顔を出す。

 するとそこに――残念そうな表情をしたあの時の細身の男がいた。

 煉瓦色の髪は珍しくもないけど、その目の色だけは間違いようもない。


「やぁ」


 目があうと男も覚えていたのだろう、片手を上げて微笑んだ。


「知り合いかい?」


 男の対応をしていたらしい女将さんが振り返り、小さく頷く。

 あの時家まで送り届けてくれた男。そんな男に私は碌にお礼も言わずに上着を突っ返したのだ。

 男はそんな私の背に気を害した様子もなく「おやすみ」と声をかけてくれたのだけど、傷心だったとはいえ本当にあり得ない態度だった。


 私は一つ呼吸して男の前に立った。


「この前はありがとうございました」


 深く頭を下げる。

 今会えたのなら、お礼と謝罪をきちんとしなければ。


「あの時はちゃんとお礼も言えず、すみませんでした」


 そのまましばらく頭を下げていると、男は慌てて動き出したようだった。


「いいよ。僕が好きでやってたことだしさ。それに辛い時にまで礼儀正しくなんてできないものだよ」


 気遣ってくれる言葉はあの時と同じもので、そこに何の怒りも不快感もないことがよくわかった。


「本当にありがとうございました」


 もう一度お礼の言葉を口にして顔を上げると、男は明らかにほっとしたようだった。


「なんかあったのかい?」


 と、それまで様子を見守っていた女将さんが訝しげに聞いてくる。

 女将さんには別れた時のことは伝えているから、すぐ分かるだろう。


「この前酔っ払いから助けてくれた人です」


「ああ、あの話の」


 思った通り女将さんはすぐに察して、それから一つ手を叩いた。


「それじゃあ無碍にもできないね。お兄さんちょっと待っててくれる?一つならすぐ仕上げられるから」


「えっ、いいんですか?」


 という二人のやりとりにさっきの男の表情が浮かぶ。

 初めて買いに来て、時間外だって断られてたんだろう。一見さんにはよくある話だった。


「うちの看板娘を救ってくれた人なら当たり前じゃないか」


「ありがとうございます!これ、お願いします」


 男は途端に嬉しそうに鞄を漁り空の弁当箱を女将さんへ手渡した。

 弁当屋というのは基本的に各自弁当箱をもってきてもらって詰める形が多い。うちは大口の常連さんのところはこっちで用意している容器に詰めるけど、そのかわりに返却してもらって洗浄代をかけている。小口のお客さんもだいたいの場合――客層が富裕層向けだからか――容器ごとのお買い上げになる。だから男が弁当箱を出したのは、この店ではちょっと珍しい光景だった。


「すぐ持ってくるよ。スティーナお会計お願い」


「はーい」


 そうして弁当箱の大きさから判断して金額を伝える。


「やっぱり高いんだねー」


 なんて言いながら、だけど男は満面の笑みで支払いを済ませた。

 じっと見ているとそれはもうご機嫌といった様子で、自然と言葉が漏れた。


「……そんなに嬉しいの?」


 確かにうちの弁当は評判がいい。

 だけどじゃあそこまで喜べるかと言えば、いまいちな気もする。


「もちろん」


 だけど目の前のこの男は心底嬉しいらしい。

 眩しいくらいの笑顔はまるで子供のようで、何度か瞬きをした後つられるように笑ってしまった。


「冷めても美味しいって聞いてね。僕、昼は外には出ないからほんっとうに楽しみなんだ」


「そっか、お昼用なのね」


 王宮勤めばかりが常連客のここは遅い朝食として買い求める人も少なくない。

 だけどこの男は昼用だということで。

 それなら――

 私はふと思いついて店の奥へと引っ込んだ。

 今弁当を詰めるのは女将さんの善意。なら私からも。


「店主、この肉ちょっと貰います。あとで払うので」


 弁当用の切り分けわれた肉を串に刺して、今日のメニューにはないけども定番として根強い人気のある味付けでさっと肉を焼いていく。


「何かあったのかい?」


「あの人お昼用らしいのでお礼にと」


 私の肩越しに肉を覗き見する女将さんに答えれば、聞いていた店主が驚いたようだった。


「守銭奴のスティーナが礼に自腹だと!?」


 見ればもう一人いる調理担当の従業員ですらも手を止めてこっちを見ていた。


「……まあ、そんなこともありますよ」


 確かに言われる通りだな、と思いつつ適当に返す。

 でもあんなに喜ぶ顔を見るとあったかいおかずも食べてみてほしいと、思う。思った。


「だって見るからに平均収入の兄ちゃんっぽいんだろ?」


 女将さんから事情を聞いたらしい店主がさらに聞いてきた。

 着ている服は仕立て自体は悪くないけど高級と呼ばれるものではなく、手にしている鞄も古びていた。弁当箱持参な部分からしても高収入ではなさそうなことは窺える。


「そう思います」


「打算なしでって、こりゃああれか?惚れたのか?」


 なんて肘でつつかれてやや顔を顰める。

 言わんとすることはよくわかる。なにせ私がこの店で働いているのは高収入の男を捕まえるためであり、その相手に何かをこちらから差し出すことはしないのだ。

 とはいえ、惚れた?そんなわけはない。


「どうでもいいですけど、遊んでないで早く仕事してください」


 とりあえず矛先を変えておく。

 高収入も標的相手じゃなければ基本的に私はばっさりとしているのだ。

 そうしているうちに肉もいい具合に焼きあがり、中身の詰めこまれた弁当と共に男へともって行く。


「まずこれが弁当」


「あ、うん」


 先に重みのある弁当箱を手渡し、しっかりと鞄に収めるのを見届けてから肉の刺さった串も差し出す。


「これもあげる」


「えっ、なんで?」


 男は純粋に驚いたようで目が丸くなった。


「お昼に食べるなら冷めてるでしょ。うちの弁当は冷めてももちろん美味しいけど、あったかいともっと美味しいから。お礼みたいなものよ」


 そう言ってさらにぐいと串を押しつければ、男はそれはもう目を輝かせて喜んだ。


「うっわ!嬉しすぎる。本当にいいの!?」


「特別よ」


 あまりにも真っ直ぐすぎるその言動につい笑ってしまう。

 やっぱり子供みたいな男だ。見たところ私よりも何歳か年上だろうに、純粋というかなんというか。


「ありがとう。いただきます」


 男は串を受け取ると匂いからして堪らないだろう肉にかぶりついた。

 焼きたてだけあって少し熱かったみたいだけど、ひと口目を飲み込んだあたりで目の色が変わった。二口、三口と次々に口に放り込まれてあっという間に完食した。


「どうしよう、涙が出そうなくらいだよ」


「大げさよ」


 あまりの感想に呆れながら、その手から串を取り上げ肩を竦める。


「いやいや、こんな美味しいの久しぶりに食べたよ!ごちそうさまでした」


 カウンターの奥のゴミ箱に串を捨てて振り向けば、本気でやや涙ぐむ男の姿があった。

 え、本気で?


「そこまで喜んでくれるとこっちも渡した甲斐があったってもんさ。ところでお兄さん、仕事はいいのかい?」


 いつの間にかに来ていたのか、腰に手を当ててまんざらでもなく女将さんが言った。

 その言葉に男ははっとして時計を取り出して、声を上げた。


「うわぁ、拙い!また買いに来ます!」


「あいよ。気をつけるんだよー」


「はーい!」


 そうしてその男は慌てて店を出ていった。


「随分素直なお兄さんだねぇ」


「子供っぽいっていうんじゃないですか、あれは?」


「久々に真正面から美味しいって思いを受け取った気がするよ」


 ふふ、と笑って女将さんは腕まくりをした。


「さぁて、今日もがんばるよ!」


「はい」


 気合十分の女将さんに、私は大きく頷くのだった。


 + + +


 それからどれくらいが経ったか。

 すっかりとあの男――クルトはうちの弁当の虜になったようで、あれ以来欠かさず毎日やってきている。

 初回はお礼ということで特別に朝渡したけど、通常はもっと遅い時間からしかやっていない。その為クルトは朝は会計と弁当箱の受け渡しをして、昼になると走ってやってきて弁当を受け取って職場へと帰っていくようになった。

 昼は普段出歩かないからと言っていたから、無理をしてるんじゃないかと思う。


「配達もやってるわよ。別料金だけど」


 昼のあまりにも急ぐ様子に、比較的時間に余裕のあるらしい朝の時間に教えてみたけど、クルトはそれには首を振った。


「いや、頑張って毎日通うよ」


 即座に返されてそれもそうかと思い直す。

 相場の四割増しの弁当を毎日となると今までと比べてかなりの出費だろう。そこにわざわざ配達料もとなれば、それこそ高収入じゃなきゃやってられない。


「そっか。まあ急ぎすぎて人にぶつかったりしないようにね」


 どう見てもやっぱり平均的な収入しか得ていないだろうクルトには難しそうである。

 それ以上のことは言わず、私はおつりを手渡した。


「もっちろん。じゃあ行ってきます」


「行ってらっしゃい」


 毎朝のんびりと会話をして、そうしてクルトは職場へと向かう。

 この店にやって来る客としてはクルトはやっぱり珍しい存在だった。

 高収入を鼻にかけ、美味しい物を口にするのは当然と思っている人ばかりの中で気安く話しかけられる分すっかり友達のようになっていた。


 そうして弁当の受け渡し開始時間になってやってくる人の波を捌けば、あっという間に昼になる。

 ちらりと時計を確認して、私は人が途切れたのをいいことに店の奥へと向かう。

 どこから来るのか知らないけど、クルトはだいたい昼の波が落ち着いた頃にやってくるのだ。となればそろそろだろう。

 予め脇によけていたおかずを軽く温め直して、空のままとっておいたクルトの弁当箱に詰め込む。

 あそこまで毎回毎回美味しいと賞賛してくれるのだから、より美味しい物を食べてもらいたいと思うのは自然なことである。

 友達だし、ちょうど手が開く時間だしね。


「おつかれさまです」


 聞きなれた声を耳に手早く作業を終わらせて店頭に出れば、いつものにこにこ顔のクルトがいた。


「はい」


「ありがとう」


 クルトが大事そうに弁当を受け取ったところで、一人の客が入ってきた。


「いらっしゃ――」


 顔を上げたところで飛び込んできた人物に言葉が途切れる。

 そこにいたのは変態だった。


「…………いらっしゃいませ」


 自然と目が据わり、声が低くなる。

 この男は元恋人と付き合う前にも私の周りをうろついていた。好きだ、付き合ってほしいと散々アプローチをしていたけど、元恋人と付き合い始めたら「俺は待ってるから!」とかなんとか言っていた。

 しばらくして姿を現さなくなったからすっかり諦めたものかと思っていたのに、どこからか別れたという話を聞きつけたらしく戻ってきてしまったのだ。


「スティーナ、話があるんだ」


「御注文でなければお帰り下さい」


 素気無く返すもの、この変態は縋り付くような目で訴えてくる。


「弁当も頼むけど、話があるんだ」


「畏まりました」


 容器込みの中でも一番時間の置かれた冷めた作り置き弁当を選んでやる。


「今日の夕方迎えに行く。一緒に食事でもしよう」


「お断りします」


 ちなみにこの男もなかなかの高収入である。大商会の上層部に組みしているわけだけど、その性癖がよろしくない。

 いわゆるマゾヒストなのだ。

 以前私が悪漢に絡まれている女の子を助けたのを目撃していたらしく、それ以来蹴ってほしいだの踏んでほしいだの、気持ちの悪いことを言いながら迫ってくるのだ。

 淡々と会計を済ませておつりを渡そうと手を伸ばしたところで――その手を握られた。


「何す――」


「やっぱり君が一番なんだ。あれから試しに何度か別の人に蹴ってもらったけど、やっぱり君のような綺麗な蹴りは見られない。あんなにキレのいい膝蹴りは君じゃないと出来ないんだ」


 気持ち悪い。

 顔をひきつらせるも気づいた様子のない男は恍惚の眼差しを浮かべていた。

 追い返そうと蹴れば絶対に喜ぶ。冷たくあしらっても聞く耳を持たず、一体こいつはどうやったら諦めてくれると言うのだろうか。

 内心深いため息をついていると、急にぐいと引っ張られた。


「っわ」


 思い悩んでいたところへの不意打ちに対応しきれず、そのまま変態の胸へと飛び込んでしまった。


「スティーナ。ああ、スティーナっ」


「なにす――」


「恥ずかしがらなくていいよ。わかってるから」


 何を分かってると、いやちょっと待った。

 顔、近い!近いから!


「ちょっと、やめ……っ」


 さすがに悲鳴交じりに声を上げると、突然ぐいと反対側に引き寄せられた。

 わけもわからないままでいる私の背にとんと何かがぶつかって、頭上から声がした。


「僕の恋人に迫らないでください」


 その硬質な声はよく聞きなじんだもののはずなのに、今まで聞いたこともないような印象で理解が遅れる。


「ちょっと我慢してね」


 と、すぐいつもの優しそうな声でごく小さく囁かれて、それがクルトだと気づく。

 僅かに顔を上げれば触れるような位置にクルトがいた。というか、背中が密着している。

 さらにゆっくりと腰に手をまわされて、後ろから抱きしめられた。


「僕の恋人に付き纏わないでくださいませんか?」


 再びクルトは硬く冷たい声で変態に言い放った。

 我慢というのはこういうことか、と思考を巡らせていると鏡越しに女将さんと目があった。

 ウインクをひとつ送られたことで確信して流れに身をまかせると、変態は明らかに凍りついた。


「う、嘘だ。……そんな、スティーナが……」


 いい感じに動揺している変態は瞬間的な衝撃に弱いようだった。

 これは絶好のチャンスである。


「いい加減にして。アンタのことなんてどうとも思ってないから」


 クルトの腕から出て、会計の済んだ弁当を押しつける。そのまま更に店の外まで押し出して勢いよくドアを閉める。


「二度と来んな変態」


 ともすれば舌打ちしたい気分だけども、さすがにそれはよろしくない。

 深くため息をつくと私のコメントに苦笑するクルトが目に入った。


「ごめん、女将さんからなんか聞いたんでしょ」


「あー、うん。困ってるみたいだったからつい。余計なことだったらごめんね」


 なんてあくまで下手なクルトに首を振る。


「助かったわ。あいつにはうんざりしてたのよ」


「よかった。これで一件落着かな?」


 そう言われて何とも言えない表情になる。

 今までを考えると多分懲りずにまた来るだろう。


「……スティーナがよければ、次の恋人が見つかるまで演じようか?」


 徐々に渋くなる私の表情に察したんだろう。クルトは小さく首を傾げた。

 さすがにそこまではしてもらえない。クルトには二度も助けてもらったことになるのだから。


「でもクルトにだって恋人とか、好きな人とか」


「恋人はいないし、今現在好きな女性もいないしね。今は僕の休みも安息日と一緒だからデートのフリもできるだろうし」


 特に何の気負いもないその様子だけど、そんなことを頼んでもいいんだろうか。


「友達が困ってるのに手を貸さないわけはないよ。それに僕は僕に出来ることを言ってるだけなんだし」


「けど」


 私にとってその申し出は非常にありがたい。だけど恋人のフリをしたところでクルトにとっては何の利点もないわけで。


「クルト君に恋人役を頼む代わりに、朝から弁当を詰めて持たせる。もしくは無料で弁当を配達するってのはどうだい?」


 心配だからあたしからも頼みたいし、と見かねたらしいおかみさんが口を出した。

 その手間を私自身が請け負えばいいのだと。


「それ、僕も嬉しいかも。配達してもらうのはなんだか申し訳ないけど、朝渡してもらえるとすっごく助かる」


 女将さんの言葉を受けてクルトはそう言った。

 それは渋っている私にとって、とても頼みやすくなるような言葉だった。


「どうかな?」


 あくまでも伺いをたてるように聞かれて、私はクルトの好意に甘えることに決めた。


「ありがとうクルト。お願いしてもいい?」


「もちろんだよ、よろしくね」


 そうして私とクルトは偽恋人を演じることが決まった。

読んでいただきありがとうございます。

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