紡がれる楽曲に想いを隠す
楽しんでいただければと思います。
「それじゃあお先に失礼するよ」
「おつかれさまでした」
時刻は昼を過ぎたあたり。
早朝からの護衛任務が終わった私は午後から護衛にあたる若手の騎士とともに昼食をとり終え、席を立った。
今までならば昼食をとらずに王宮を出ることが多かったのだけれど、最近はよくこうやって王宮内の食堂で摂ることが増えた。
理由は簡単である。
昼を過ぎた時間は高確率で彼女が練習をしているから。
昼食をとっていけばゆっくりと音を堪能してから帰られるのだ。
彼女のヴァイオリンは初めて聞いた頃よりもさらに美しく磨かれていた。
それに焦がれて聴きに行く私は、まるで甘い花の蜜を求めて飛び回る蜜蜂のようだった。
さて今日はどんな曲を弾いているのか。
穏やかな曲、激しい曲、楽しい曲、悲しい曲。
様々な楽曲があるけれど、中でも彼女は明るい曲が似合っていた。
「――これで少しは大人しくなるだろ」
ふと嘲笑が耳に入り足を止める。
視線を巡らせれば、そこには宮廷楽師を示す身分証を首から下げた三人の男性が居た。
「平民のくせに生意気な」
「まだ新調できないだろうし、無様なヴァイオリンに逆戻りだ」
出で立ちはいいけれども、その三人の纏う雰囲気は限りなく暗く不快なものだった。
平民、ヴァイオリン。その二つの言葉にすっと目を細める。
嫌な予感しか沸いてこない。
私は三人には気づかれぬようにその場を離れ――二階へは向かわず、直接あの狭い空間の芝生へと足を運んだ。
「これは……」
そこで目にした光景は、なんとも惨いものだった。
ばらばらに壊されたヴァイオリンの欠片、乱れた金の髪。涙の伝う頬は赤く腫れ、女性は一際大きく残ったヴァイオリンの一部を大切に抱きかかえてて嗚咽を滲ませていた。
おそらくはあの三人の仕業だろう。
貴族というだけで驕り、敵わぬ技量に抱いた嫉妬をただの暴力で晴らしたとしか言いようがなかった。
「失礼するよ」
俯く彼女の前に膝をつき、そっと顔を仰向かせる。
頬は少しだけ腫れているけれども口は切れていないようだった。
怪我の具合を確かめ、突然現れた私に驚くペリドットの瞳からそっと涙を拭う。
「随分な乱暴者が出た様だね」
労わるように告げると、再び彼女の目から涙が浮かぶ。
「場所を移動しようか」
彼女にハンカチを握らせると私は上着を脱いで芝生に広げた。
できうる限りの欠片を上着に乗せて包み、「おいで」と彼女の手をとる。
彼女は戸惑っているようにも見えたけれど、私が騎士だと見て判断したのか大人しく同行してくれた。
できるだけ人目を避けて騎士団の詰所へと足を踏み入れる。
「あれ、忘れも……何があったんですか?」
先ほど共に昼食を摂っていた彼が目を丸くして、それから後ろに続く彼女の姿に表情を変えた。
「悪漢が出たようだ」
「兵にこのことは?」
「賊ではないないんじゃないかな。恐らくは……同僚の嫌がらせ、だろう?」
ちらりと視線を向けると、彼女は小さく頷いた。
「わかりました。タオルを冷やしてきます」
若手騎士が奥の控え室へ向かう中で時間を確認すれば、まだ彼の任務時間まで余裕があるようで甘んじて受けることにする。
私は反対側の続き間へと彼女を連れて行くとソファに座らせた。
「どうぞ」
若手騎士が冷やしたタオルをすぐに持ってきてくれて、それを彼女の頰に押し当てる。
「全く、女性に手をあげるなんて」
とんでもないことである。
彼女はありがとうございます、と震える声で言い、タオルを自ら当て直した。
「今日はこれから何か予定はあったかな?」
「三時から次回の楽曲の音合わせが、あります」
あまり時間もない。
私はやや下がったところで心配そうに控える若手騎士に顔を上げた。
「申し訳ないのだけど、お使いを頼めるかな?」
「もちろんです」
「楽師長に彼女が体調を崩したから帰らせたと伝えてほしい。君、名前は?」
名を聞かないまま数ヶ月経っていた私は、そこで初めて彼女の名を問うた。
「エリサ・ペルトマーと申します」
「了解しました。馬車の用意は?」
気の利いた若手騎士に私は微笑んだ。
「ああ。私の名で呼んでおいてもらえると助かるよ」
「それでは僕はこのまま馬車の手配をした後に楽師長の元へ向かって、その足で任務にあたることにします」
「ありがとう。頼んだよ」
「では」
若手騎士が踵を返し、部屋には私と彼女二人が残る。
彼女は静かにタオルを頰に当て、俯きながら口を開けた。
「申し訳ございません。二度も、助けていただいて」
声は暗く、いまにも消えてしまいそうなほどに小さい。
無理もない。楽師として大切なものを壊されたのだから。
「たまたま居合わせただけなのだから気にすることはないさ」
言いながらそっと頰を腫れを確認すると赤みが少しずつひいていた。それほど強くは殴られなかったのだろう。
そのことに安堵しながら、私は続いてヴァイオリンが包まれた上着を開き、大きめの布を敷いて、そこにヴァイオリンの欠片を移し替える。
何もかもがばらばらにされていた。竿は折れ、表板は割れ、弦は切れている。
「っ……」
無惨なその楽器の姿に彼女は再び涙が流れ落ちた。
対する私はふつふつと怒りがこみ上げていた。
楽器を壊すなど、楽師ではない。そんなことを仕出かす者が楽師を名乗り、それも王宮に出入りするなどとんでもないことだった。
「ごめんね」
怒りに頭が沸く傍らで、ふと彼女の声が聞こえた。
見ればソファからずれて床に膝立ちしたまま、そっと壊れたヴァイオリンに手を伸ばしていた。
「守れなくて、ごめんなさい」
壊れたヴァイオリンに触れて、瞬きする瞳から大粒の涙が零れる。
楽師にとって、楽器はかけがえのないパートナー。それを守れなかったと、彼女はしゃくりあげながらも謝罪していた。
それを見た私は一度静かに瞼を閉じ、ゆっくりと怒りを鎮める。
今は怒りに焼かれている場合ではない。
そうしてもう一度ヴァイオリンをみるけれども、とても修理できるような具合ではない。
「ペルトマーさん」
私はそんな彼女に声をかけた。
彼女は少しだけ驚いて、けれども涙にぬれた顔を上げた。
「はい」
「君は新しい楽器を用意する資金はあるかな?」
すると目が床を向き、やがて唇をかんだ。
「いいえ」
「ということは、ここに来た時に持っていたヴァイオリンしかないということかな?」
「……はい」
宮廷楽師は高待遇のはずではあるものの、まだ駆け出しの彼女にはその資金は調達できないようであった。
力ある貴族に気に入られれば上質の楽器を賜る事もあるけれど、まだ目をかけてくれる貴族もいないのだろう。
それを確認した私はヴァイオリンを布に包むと立ち上がった。
「ついておいで」
上着を一度払うと、きょとんとする彼女の頭にふわりとそれを掛ける。
泣き顔を晒すのは誰だって嫌なものである。それが女性なら尚のこと。
ヴァイオリンの包みを片手に、もう片方の手を彼女に差し出す。
彼女は暫く私の顔と手を視線で行き来させた後、おずおずとその手を伸ばした。
柔らかくその手を握りこみ、私は詰所を後にした。
恐らく先ほどの彼が手配した馬車が到着している頃だろう。
私は彼女の手を引いて王宮内の通用門から馬車に乗り込んだ。
「あの、どこへ?」
目を赤く腫らせた彼女はやや不安げに馬車内と窓の外を見つめている。
私はそれを見て心配いらないと首を振った。
「なに、楽器の調達にね」
不用意に彼女に近づいてはいけない。
わかっている。けれども楽器を与えるだけなら。
私は窓の外を眺めながら、静かに自分に言い聞かせるのだった。
そうして着いたのは我が家。
それほど大きな屋敷ではないけれども、家を取り仕切る家令とその妻であるメイド。そしてその孫娘が共に住んでいる。
「おかえりなさいませ」
迎え出た家令、サカリは女性を連れ帰った私に瞠目したものの、上着を被っている状態にすぐに表情を引き締めた。
「これをダンの工房に届けてほしい」
「かしこまりました」
ヴァイオリンの包みをサカリに渡すと、彼女は私を見上げた。
「修理、できるんですか?」
それは期待を込めたものではなく、純粋に驚きからくるもののようだった。
「いや、無理だろうね。だけど君にとってこのヴァイオリンは宮廷楽師として大切なものだろう?」
「はい」
「だから、せめて見た目だけでもよくしようと思ってね。私に任せてくれないかな?」
無残な姿のままよりも、少しでも綺麗な姿で残してあげたかった。
付き合いのある職人なら、ある程度はなんとかしてくれるだろうと踏んでいる。
ほとんど話したこともない私の申し出を受けるかは分からなかったけれど、彼女はそれほど間をおかずに頷いた。
「お願いします」
殆ど即決とも言える返答に少々驚きながらも、今度は彼女をある一室へと案内した。
広く、ほとんど物のないその部屋には、ソファとサイドテーブル、そして幾つかのヴァイオリンが棚に並べられている。
それらを眺め、やがて一つを手にとると彼女へと手渡す。
「弾いてみてくれないかな」
言われた彼女は今の状況がうまく飲み込めない様子だけれども、それでもなんとか私の言葉に反応した。
呼吸するかのようにごく自然にヴァイオリンを構え、弓をひく。
そこから紡がれる音を確認し、別のヴァイオリンと取り替える。
いくらかそれを繰り返し、ふむ、と小さく唸る。
音は深みがあって上質なのだけれども、どこか彼女には似合わない。決定打に欠ける。
もう少し純粋で透明感があるものはないものか。
「ああ、あれがあるか」
目を瞑り考えていたところにふともう一つのヴァイオリンの存在を思い出す。
目を開けた先に怪訝そうにする彼女がいて「少し待っていてほしい」と述べて部屋を出る。
私室に入り、クローゼットから一つのケースを取り出し中を開ける。
使われている素材はどれも最高級品で、使わないけれども定期的に手入れは行なっている。
――私がまだ楽師を夢見ていた時に使っていた逸品である。
「待たせたね」
元の部屋へ戻れば、彼女は棚に並べられていたヴァイオリンを見つめていた。
「これを弾いてごらん」
振り向く彼女にヴァイオリンを差し出す。
何度か同じやり取りをしていた彼女は静かにヴァイオリンを構え――
「これだね」
響いた音色に私は満足げに頷いた。
当の彼女は驚き固まっているけれど、私は気にせず告げた。
「それを君にあげよう」
「え……?」
ぽかんと口を開ける彼女はなんともあどけない。
ぱちぱちと瞬きを繰り返し、自らの手にあるヴァイオリンを見つめる。
「い、いただけませんっ、こんな高価なもの!」
それは悲鳴にも近い声だった。
「なに、クローゼットに眠っているだけのものだったのだから気にする必要はない。弾いてもらうことに価値があるのだから、君が使った方がヴァイオリンもさぞ嬉しいだろうさ」
言いながら私は取っ替え引っ替えしていた他のヴァイオリンを棚へと戻す。
「あの、貴方はいったい……?」
そんな私を上から下まで目で追って、彼女ら恐る恐る尋ねてきた。
「ああ、名乗るのが遅れて申し訳ないね。私は見ての通りの騎士で、名をアントン・ハーヴィストという」
「ハーヴィスト、って」
楽師の頂点を目指すならば、宮廷かハーヴィスト楽団に入れ。とまで言われているほど、楽師なら誰もが知っている名前である。
「ハーヴィスト子爵の実兄だよ」
片目をつぶって見せれば、彼女は今度こそ言葉を失った。
そんな彼女の様子が面白くて笑っていると、小さなノックの音が聞こえた。
「どなたかな」
ドアを開けてみれば、そこには七歳の小さなメイドさんが立っていた。
ティーセットの乗ったトレイを手に、遠慮がちな視線で私を見上げている。
「あの、お婆ちゃんがお買い物に行ってて。お邪魔かなとも思ったんですが……」
どうやら気を効かせてくれたらしい。
片手でトレイを受け取り、残りの手で少女、キーアの頭を撫でる。
「用意してくれてありがとう。とても嬉しいよ」
すると安心したようにキーアは息をついた。
「ハーヴィスト家の方なら、なおの事いただけませんっ」
そこでようやく頭が動いてきたらしい彼女が首を振った。
「わたしは宮廷楽師ですし、ハーヴィスト楽団には……」
「ああ。それなら問題ないよ。楽団を抱えているのはあくまで後を継いだ弟であって、私はただの騎士だからね。そのヴァイオリンは私が子供の頃に弾いていたものだし、所属ということに関していうなら全く無関係さ」
「ですが……お代を支払う事も、できませんし」
と、そこで彼女が俯いた。小さく震える手は、悔しさか、それとも悲しみか。
そんな彼女に苦笑して、私は立ち去るべきか悩んでいたキーアに声をかけた。
「このお姉さんはとてもヴァイオリンが上手なんだよ」
「楽師さんですか?」
「そう。それも宮廷楽師だ。聴いてみたいと思わない?」
「聴きたいです!」
時たま王都の劇団や楽団に連れて行っている為か、キーアは楽器に興味があるようだった。
ぎゅっと両手を握りしめて、わくわくした表情である。
「という事で、弾いてくれないかな?ヴァイオリンはそのお代ということでどうだい?」
「そんな、まだ駆け出しなのに演奏で対価をいただくなんて」
「駆け出しでも君はプロなんだよ。胸を張りなさい。君はいずれ宮廷楽師の中でも一、二を争う奏者になる」
そんな奏者に楽器を贈る名誉を私にくれないかい?
真っ直ぐに瞳を見据えれば、彼女の揺れていた瞳はやがてはっきりとした決意を示した。
「ありがとうございます。ですが今回だけではやっぱりお代は到底足りるものではありません。――聴きたい時にお呼びください。心を込めて演奏させていただきます」
「ではそうさせてもらおうかな?」
実際に彼女をもう一度家にあげるかはともかく――この場を治めるには頷くことが一番だった。
そうして話がまとまった所で提案をする。
「では早速、と言いたいところだけど、今日は天気がいいからね。庭でティータイムを楽しみながらといこうじゃないか」
「賛成です!」
キーアが元気に手を上げた。
「もう一セットお茶の用意を頼めるかな?」
「はいっ」
「好きなお菓子も持っておいで」
「きゃ〜っ」
歓声を上げて走るキーアの背を見ていると、後ろから控えめに笑う声が聞こえた。
「かわいいだろう?」
「はい。娘さんですか?」
問われて虚を突かれる。
少し年齢は低い気がするものの、末っ子としてなら何ら不自然さはない。事実、同じ年齢の友人の末娘は五歳である。
むしろ騎士の中ではこの年齢で子供はおろか伴侶すらいないという方が珍しいかもしれない。
「あいにく私は独身でね。ここで一緒に暮らしているから娘みたいなものと言えばそうなのだけど、彼女は住み込みの使用人達の孫娘なんだ。時折ああやって率先して世話をしてくれる」
「それは、失礼しました」
「いや、いいんだよ。この年で独身というのもなかなかいないからね」
そうして庭先へと案内をする。
ガーデン用のテーブルセットに腰をおろし、キーアから受け取ったまま持ってきたトレイをそこに下ろす。
「少し冷めてしまったけれど、どうぞ」
「す、すみませんっ」
自らがサーブすれば、彼女は身体を縮こまらせた。
こういった場には慣れていないのだろう。けれどもその初々しさが可愛らしい。
「お待たせしました」
程なくしてキーアが自分の分を手にやってきた。
見ればお気に入りのジャム入りクッキーをたんまりと乗せている。
「み、みんなの分ですっ」
私の視線に気づいたキーアが少しだけ顔を赤くして言い訳をすれば、思わず彼女と視線を合わせて笑みを浮かべる。
「どうぞっ」
そんな私にキーアは皿ごとずいと勧めてきて、私はひとつ口に運んだ。
するとキーアは次に彼女へと同じように皿を押し出した。
「あ、えっと」
彼女は膝の上のヴァイオリンと皿を見比べ逡巡する。
食べてほしいキーアと、これから演奏をするのに手を汚せない彼女。
キーアは手を伸ばしてくれないことに少しだけ悲しそうな表情になり、彼女が慌てる。
見かねた私は手を伸ばしてクッキーを摘まんだ。
「お姉さんはこれから演奏で手を汚せないからね――こうするといい」
そう説明をして、それからクッキーを彼女の口元へと寄せる。
「あっ、そっか」
キーアは安心して笑顔を取り戻し、私と同じように彼女にクッキーをもつ手を伸ばした。
ペリドットの瞳が二つのクッキーを交互に見やって、最後にこちらを見たところで私は目くばせしながら自らの手を引いた。
「いただきます」
察した彼女は一言添えてキーアのクッキーを咥えた。次いで手で口元を隠し、咀嚼する。
「おいしい?おいしい?」
「ええ、とっても」
「大好きなの、これ!」
無邪気なキーアをみて、私は手にしたままのクッキーを口に収めた。
彼女は味わいながらそれを食し、やがて一口、二口と紅茶で喉を潤し立ち上がった。
「どんな曲を弾きましょうか?」
数歩離れたところで彼女は私たちに向き直った。
「キーアはどんなのがいい?」
「えっとね、楽しい曲!」
「いいね。楽しいのは一番だ」
目を輝かせて両手を合わせるキーアに応えリクエストすれば、彼女はすっとヴァイオリンを構えた。
その表情は明るく、活き活きとして見える。
音が跳ねまわり、弾けて輝くような曲調にやがてキーアが合わせて体を動かせ始める。
午後の昼下がり。天気も良く涼しげな風が通り抜ける庭での演奏会は、とても素晴らしいものであった。
「たくさん、ありがとうお姉ちゃん」
「いいえ、わたしも楽しかったわ」
彼女の帰り時、キーアと彼女は両手を繋いでいた。
「また来てくれる?」
演奏だけでなく、話をしてはお茶をとるうちにキーアと彼女はすっかり仲が良くなっていた。
キーアの傍らでは買い物から帰ったメイド、マイラが優しく見守っている。
「ええ、と」
キーアの問いにちらりと彼女が私に視線を向けた。
いつでも演奏するとは言ったけれど、邪魔ではないだろうか。そういったところだろうか。
私はゆっくりと頷いた。
「君の演奏は素晴らしいからね。定期的に来てくれると嬉しいよ。キーアもこの通り、すっかり君に懐いているしね」
「定期的になど言わず、いつでもお越しください。アントン様が居ずとも歓迎いたします故」
そう声をかけたのはキーアの祖父であるサカリだ。
言われた彼女は少しだけ戸惑っているようだったけれど、私も後押しするように口を開いた。
「みんな君のことが気に入ったようだね。何より私が君の演奏を聴きたいのだから遠慮することはないよ」
軽やかな演奏、美しく響く技巧、周りが笑顔になれるような素晴らしい彼女の演奏は、間近で聴いてみれば病み付きにならずには居られなかった。
本当は今日限りで接触しないようにするのが正しいのだけれども、どうにもそれは惜しくてたまらなかった。
もう少し。もう少しだけそばにいても。
私は決して触れることのない距離を保ちながらも、僅かに手を伸ばすのだった。
+ + +
それから幾度となく彼女は我が家へやってきた。
キーアもサカリもマイラも、みなが笑顔で彼女を迎え入れた。
もちろん、私もである。
揺れ動く金の髪。ペリドットの瞳。
純粋で素直。子供にも優しく、よく笑う彼女は当初見た時よりもずっと魅力的な女性だった。
彼女の音を聴くたび、顔を見るたび、私の想いは強くなっていく。
もっと近づきたい。彼女に触れたい。
本当に年甲斐もないほどに胸が騒ぎ、思わず苦笑する。
「自分の気持ちに素直になってみてはいかがですか?」
サカリは長年の付き合いで私の胸中など初めから知っているとばかりに唆してくるし、
「おばあちゃんが言ってたの!エリサお姉ちゃんがアントン様のお嫁さんに来てくれたらいいのにって。キーアもエリサお姉ちゃんが結婚してくれたら嬉しい」
これまた長年の付き合いのマイラは孫娘を使いつつも直接的に攻めてくる。
この老夫婦は私が騎士として独立した時に子爵家から離れてやって来てくれた人物であり、年上ということもあって頭が上がらないこともしばしばある。
なんとか躱してはいるけれど、二人の甘美な囁きに時折心が揺れ動く。
その上――
「こんにちは、アントン様」
いつしか彼女の瞳の中に恋心を見つけてしまった。
まさかこんな年の離れた中年にそんなものを浮かべるとは思っても見ず、私はそれに気づかぬふりをした。
彼女が浮かべるのは尊敬や憧憬といった感情なのだとすり替えた。
そうでなければ、彼女との間に保った距離を自ら踏み縮めてしまいかねない。
心がぐらつく時はそっと目を閉じ、自らの境遇を思い起こしては言い聞かせた。
伴侶に歓びを与えず、絶望をさせるのか、と。
そうして目を開けることで、心を落ち着かせる。
耳に響く彼女の音に心を乱されながらも、自らを律して凪いだ心を取り戻す日々だった。
ちなみにあれから彼女は同僚たちの嫌がらせを受けていないようだった。
というのも当然だろう。
宮廷楽師として与えられた楽器よりも遥かに質のよい――最上級ともいえるヴァイオリンを手にした彼女は、それだけのものを簡単に用意できる力の強い貴族が背後にいる事を示している。
下手に手を出せば、自分が引き摺り下ろされるのは目に見えた話であった。
――もちろん私にはそんな力はないのだけど、ヴァイオリンを誰から譲り受けたのかわからない者達にとっては脅威でしかないのだった。
読んでいただきありがとうございます。




