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騎士団は恋が好き  作者: 葵翠
【諦観】アントン
28/79

流れる旋律に心惹かれ

柔和騎士アントン編になります。

楽しんでいただければと思います。

(2018.3.31誤字修正済み)

 執務室に響くノックの音に、陛下が顔を上げられた。

 控えていた侍従が誰何を尋ねれば、聞き馴染みのある同僚の声がした。


 ――交代の時間か。


 ちらりと時計を見やれば午後のティータイム時に差し掛かっていた。


「お疲れ様です」


「おつかれさま」


 やがて入って来た同僚と視線を交わし手早く引き継ぎを済ませれば、ふと陛下が手を止められた。


「おつかれさま、アントン。今日もありがとう」


 陛下は私達騎士や、侍従など身の回りにいる人々に必ず感謝の意を伝えてくださる。

 数年前に戴冠した今代の陛下は非常に優しい方だった。

 柔らかな表情や細やかな周りへの気配り。とても大国を統べる王とは思えない陛下は、けれども同時に大胆に、冷酷に物事を推し進めていく存在でもあった。


「もったいないお言葉です」


 胸に手をあて一礼。そうして私は退出の言葉を述べて執務室を後にした。

 今日はこれで全ての職務が終了した。

 いつもならすぐに王宮内の詰所に戻ってから訓練場で自己鍛錬に励むなり、友人達と出掛けたりするのだけど、今日はなんの予定も入っていなかった。


 久しぶりにのんびり王宮内でも散策しようか。確か南西の庭の花々が見頃を迎えているはず。


 広大な敷地を誇る王宮は美しく、中でもとりわけ人気なのが季節ごとに分けられた庭の数々だった。

 私はまっすぐには詰所に戻らず、ゆっくりと歩みを進めていった。

 メイド、警備兵、貴族達。通り過ぎる人々に時に会釈を、時に手を振れば、大概の相手が笑顔を返してくれる。

 長年慣れ親しんだ王宮は私にとってはそれ自体が家族のようなものだった。


「ああ、いい風だ」


 渡り廊下に出れば、暖かな空気を纏った風が花の香りを届けてくれる。

 寒い冬の渡り廊下も趣はあるけれども、やはり春が一番好みである。

 足を止めて風を感じていると、ふと微かな音に気づく。


「これはヴァイオリンかな」


 この辺りで音を聞くのは珍しい。いったい誰が?

 花を愛でるのもいいけれど、音の主も気になるところである。

 しばし悩んだ私はヴァイオリン奏者を探すことに決めた。

 音の方角に当たりをつけて進めば、少しずつ音が大きくなっていくのがわかった。

 途切れる事なく流れる旋律からするに、かなりの技量の持ち主なのだろう。幼い頃に聞いた楽団の音が蘇るようで自然と笑みが浮かぶ。


 ――私は芸術をこよなく愛する水の都に居を構え、宮廷楽師達に負けず劣らず、あるいはそれ以上と言わしめる楽団を抱える子爵家の長男だった。

 幼い頃から音楽に触れ、自分も楽師になるのだと夢見た時期さえあったものだ。

 あれから三十年。

 すっかり楽器を握ることもなくなった私だけれども、音楽を愛することには変わりがなかった。


 やがて行き着いた廊下の窓から外を見下ろすと、小さな庭とも呼べない狭い芝生の上にヴァイオリン奏者の姿を見つけた。

 白いブラウスに黒いスカート。

 一見して全く飾り気のない装いはあまりにも質素なものけれども、見事に輝く金の髪を際立たせているようにも見える。

 ピンと伸びた背に、纏められた髪の毛先が揺れる。

 後ろ姿しか見えないけれども、その姿は凛として美しく、思わず感嘆の息が漏れた。


 惜しむらくは、その手にしているヴァイオリンの質だろうか。

 その音は響きが良くなく、子供の手遊びに使うような品質のものであった。


 いや――


 その品質のヴァイオリンでここまでの音が出せるというのも、素晴らしい。

 これは惜しむよりも、賞賛すべきことかもしれない。

 主張しすぎない、けれども確固とした力を感じさせる、しなやかな音。

 目を瞑り音を堪能すれば、音に含まれる奏者の心が感じられるようだった。


 彼女が一級品を奏でたら、どれほど素敵な音が紡がれることか。私はこの十数年感じたことのない高揚感を覚えるのだった。

 最後まで聴いていたい。

 窓枠に手を置いた私は柄にもなくその手に力が入っているようだった。


 そうして曲は佳境に入り、激しくも繊細な旋律が響き――突然に終わりを告げた。


 ヴァイオリン奏者はぴたりとその手を止めて、一方に体ごと向き直った。

 その方向から視界に入ってきたのは、二人の男性だった。

 二人の首から下がっている橙の紐と先に結ばれた身分証の形から、宮廷楽師見習いだと知れる。よく見れば彼女の首元にも橙が見え隠れしている。

 なるほど。宮廷楽師ならばそれなりの楽器を用意できるはずだけれども、見習いとなると全くその待遇は違う。貴族であればある程度のものが揃えられるけれども、おそらく彼女は平民の出なのだろう。

 やがて三人は会話を続けるとともに小さな芝生の上から姿を消した。


「最後まで聴いてみたかったものだね」


 残念だと思わずにはいられず、嘆息した。

 曲を弾ききった彼女に心からの拍手を送りたかった。

 けれども、と思い直して首を振る。


 あの演奏を聴くに、おそらく彼女はすぐにでも正式な宮廷楽師になるだろう。

 それならば、舞踏会や夜会ですぐに聴けるようになるはずである。


 もう一度彼女のいなくなった芝生を一瞥し、その時を楽しみに、私は詰所へと戻るのだった。


 + + +


 それからしばらく、彼女はあの狭い空間を個人の練習場と定めたらしい。

 時折近くを通り掛かればヴァイオリンの音が聞こえるようになった。

 私も早い時間に仕事から上がる時は必ず立ち寄り、そっと二階から聴き入る。

 一曲を丸ごと聴くことはなかなかないけれども、それが聴けたなら幸福感に満たされた。


「アントン、最近何かいいことでもあったかい?」


 移動に付き添う傍、陛下がふとお聞きになられた。

 素晴らしいヴァイオリン奏者の存在に、年甲斐もなく浮ついていただろうかと危惧する。


「申し訳ありません。以後気をつけます」


 すると陛下は私の思考を否定された。


「いや、訓練や勤務に対しては気が緩んでる訳でも無ければ怠っている様子もないと聞き及んでいるから問題はないんじゃないかな。より一層表情が柔らかくなっただけ、といった風だしね」


 あまり自覚はしていなかったけれど、そんな変化があったとは。


「最近は柔和で穏やか、落ち着いた物腰に余裕たっぷりの大人の魅力を醸し出す騎士様がより素敵になったと城の若い女性達に人気が上がっているようだよ」


「ご冗談を」


 四十を過ぎたばかりの私をそのように思う人がいったいどれほどいるというのか。


「聞いたところによると中でも掃除婦や洗濯婦に人気があるとか」


 それはまた随分と細かい。一国の王が知るような情報ではないはずだけれども。

 ちらりと拝見すれば、陛下は含み笑いを浮かべられていた。


「相変わらずですか」


「そう言ってくれるな。あれも息抜きが必要なんだ」


 大目に見てやってくれ、と陛下。

 王妃殿下は昔からお転婆な方のようだった。もともと行儀見習いとしてではなく、確固とした職として侍女を勤めていた男爵令嬢のノア様は突然転がり込んできた王妃という大役に息が詰まることも多いのだという。

 そして――時たま様々な職種の使用人に変装して紛れこむことで羽を伸ばしていらっしゃるのだ。


「それで、どんないいことがあったのかな?」


 歩みを進める中で再度お尋ねになられ、一瞬返答に悩んだものの私は素直に申し上げた。


「今年入った楽師見習いに有望な奏者を見つけたもので」


「さすがハーヴィスト家。もう今年の見習い楽師を確認済みか」


「いえ、偶然見かけたのですよ。他の楽師の演奏は聴いたことがありません」


 爵位を継いだ弟ならまだしも、楽団を抱えているわけではない私は人員の確認はしていなかった。

 すると陛下は面白くなさそうに息をつかれた。


「てっきり素敵な女性と出逢ったのかと思っていたのだけど」


 思わぬ台詞に、しばし言葉を失う。


「お戯れを」


「戯れじゃないさ。色気を増して、幸せそうにしていればとうとう春が来たのかと思うのは当然だろう?」


 確かに言われてみればそうかもしれない。

 少なくとも一般的にはそう思われてもなんら不思議はない。


「誰かいないのかい?この人は、と強く思わなくとも気になるような女性は」


 私の目論見を知っている陛下は、少しだけ希望を掛けられているようだった。


「お気になさらず。私はこれで結構この人生に満足しているのですから」


 すると陛下は少しだけ寂しげに笑われた。


「より一層の幸福を手にして貰いたいと思っているんだけれどね」


「今年の見習い楽師が与えてくれております。今の私は、あの奏者の虜ですので」


「ふむ。アントンがそこまで言うのなら、相当な腕なのだろうね。二ヶ月後の楽師披露会を楽しみにしておこう」


 見習いの中でも抜擢された人員で演奏が行われる披露会。そこで腕を買われると、正式な宮廷楽師となることができる。

 彼女はその披露会にでて、すぐに宮廷楽師となるのは必至とも言えた。


 ――それなのに。


 披露会に彼女の音色が響くことはなかった。

 抜擢された見習いの中に金髪の女性ヴァイオリン奏者はいなかったのだ。

 別の楽器であれば数名のびのびとした良い音を出す者もいたけれど、ヴァイオリン奏者に至ってはまだまだ拙いものであった。

 私は目を細め、陛下の傍らで披露会を見つめるだけだった。


「おつかれさま、アントン」


 勤務終了後いつもの様に陛下にお声をかけていただき、退出の意を述べると私は足早にあの空間へと向かった。

 昨日もあの場で彼女は演奏をしていたはずだった。

 あの時はとても楽しげな様子で、美しいまっすぐな音色を奏でていたのだけど。

 焦燥感を募らせた私はいつもの様に二階へは行かず、そのままあの空間へと足を踏み入れ――そしてそこで止まった。


「……っ」


 彼女が、泣いていた。

 壁に背を預け、抱えた膝に顔を埋め小刻みに震えている。

 彼女の傍らではヴァイオリンが寂しく転がっていた。

 それだけでおおよそのことは理解ができた。

 別の見習いがコネを利用したか、彼女に嫉妬した何者かによって貶められたか。

 そのどちらも悲しいことかな、楽師のみならず王宮に勤める様々な職で当然のように行われているものだった。

 すべては技量で決まることであり、その他の力関係ほど無粋なものはないのに。

 常に公正さを保つ騎士としても、一人の音楽を愛する者としても非常に遺憾なことだった。


 私はゆっくりと彼女へと歩み寄った。


「失礼、お嬢さん」


 驚かせない様にと穏やかに声をかけ彼女の前に片膝をつくと、私はハンカチを差し出した。

 すると彼女は何度もしゃくりあげながら、そっと顔を上げ――そこで初めて彼女の瞳の色を知った。

 大粒のペリドット。そう見紛うほどの美しい瞳が涙に濡れていた。

 大きく鼓動が鳴り響く。


 ああ、これはまずい。


 表には出さずに私は警戒した。

 年甲斐もなく早鐘を打つ鼓動に、彼女には必要以上に近づいてはいけないと頭が告げる。

 距離ではない。心を近づけてはいけない、と。


「あっ……ありがとう、ござい、ます」


 そんな私の胸中を知らず、彼女は素直に受け取るとそのままハンカチに顔を埋めた。

 何を言うでもなく、ただ嗚咽が響く。

 私はただそばに寄り添い、彼女が落ち着くのを待った。


「あっ、あのっ……」


 彼女が落ち着きを取り戻したのは、どれくらい経った後か。おずおずと顔を上げた目が真っ赤になっていた。


「お、お目汚しを、申し訳ありません」


 恥ずかしそうに、少し困ったようにする彼女は若くて、まだあどけなさが残っていた。

 年の頃では二十歳になるかならないかといったところか。


「なに、気にすることはありません」


 隣に腰を下ろしていた私はいつもの笑みを浮かべて応えた。

 泣いている女性を一人にするなど言語道断である。それが私の心を震わせるような奏者ともなればなおさらに。


「すみません、お仕事のお邪魔を」


「本日の職務は終わっていますから、問題ありませんよ」


 見知らぬ異性に泣いている現場を見られては落ち着きがなくなるのは当たり前のこと。

 目を忙しなく動かす彼女を見て立ち上がる。この辺りが引き際だろう。

 けれども、立ち上がった私を見上げた彼女が小さく声を発し、慌てたように私の足に手を伸ばした。


「ごめんなさい、服が汚れて」


 ぱたぱたと膝のあたりを払われて視線を落とせば、白い騎士服が土に汚れていた。

 いつもであったら紺の騎士服なのだけれども、今日は披露会の席での護衛として礼服を着用していたのだ。


「大丈夫ですよ。お気になさらずに」


「でも、こんなに白くて綺麗な服が」


「うちには優秀な使用人がいますから」


 だから心配はいらないと伝え、更には彼女の反対の手に握られているハンカチをそっと取り上げる。


「こちらも、もう必要なさそうですね」


「汚したままじゃ返せません!ちゃんと洗ってお返ししますので」


 慌てて取り返そうとする彼女から逃れ、私は首を振る。


「お気持ちだけで結構ですよ、お嬢さん。私達は同僚宛の物をその家族以外の者から預かることはできない決まりになっています。直接手渡しならば受け取れるのですが、次にいつ会えるかはわからないでしょうからね」


 本当のことではあるけれど、前もって騎士本人が連絡している分にはその限りではなかった。

 にも関わらず私が断るのは彼女の瞳を見た瞬間に浮かんだ警戒心からによるものだった。

 彼女とは必要以上に近づいてはいけない。できるなら名前も名乗りあわずに別れたいところである。

 けれども彼女の瞳はまだ何かを言いたそうにしているのがわかり、僅かに身をかがめて囁いた。


「誠意を素直に受け取れぬ我儘をお許しください」


 あえて吐息が混ざるように発すれば見る間に彼女の顔が赤面していった。

 滅多に使うことはないけれども、だいたいは効果がある。

 急ぐ様子をおくびにも見せず、けれども素早く身を離して数歩下がれば、あとは手を振るだけである。


「それでは、これで失礼します」


 幼い頃から繰り返し行われてきた流れるような一礼をして、背を向ける。

 彼女が何かを言う前に立ち去らなければ。

 ああ、だけど。

 数歩歩んだ足をふと止めて、私は振り返らずに口を開けた。


「次の披露会を楽しみにしていますよ」


 がんばってください。

 そう言い残して、私は完全にその場から立ち去るのだった。


 + + +


 それからの日々は特に何もない毎日を過ごしていた。

 彼女は以前よりも一層練習に励み、私はあいも変わらず二階からひっそりとそれを聴いている。

 ――彼女とは関わらないほうがいいのはわかっている。けれども、せめて音色だけでも聴いていたい。それだけならば、まだ問題ないはずだと自分に言い聞かせながら。


 そうして月日が過ぎ――


 草木の緑が色味を増し、強い色調の花々が主張する。

 虫や鳥が力強く鳴き囀り、陽の強さがじりじりと肌を焼く。


 季節は夏。


 王宮では二回目の楽師披露会が開催された。

 今回は見習いが全員参加ということもあり、あのヴァイオリン奏者の姿を見つけることができた。

 黒い質素なワンピースに、うっすらと施された化粧。

 金の髪は初めて見た時と変わらずに煌めき、正式な披露会とあってか少し興奮しているようで頬が赤い。


「今日の披露会はどうなんだろうね」


 隣に腰を下ろすのは、弟であるハーヴィスト子爵。

 宮廷楽師に負けず劣らずの楽団を抱える弟はやはり今年の新人達の力量が気になるところのようだった。


「春の披露会は目ぼしい奏者は居なかったんだろう?」


「一人二人は正式な宮廷楽師にとりあげられたようだよ」


 弟の質問に事実のみを返しながらも、私は遠目から彼女を見つめ続けていた。

 楽師見習いは各自の位置へ移動すると、そこで全員一礼をした。

 緊張する楽師見習いの中で、彼女だけはペリドットの瞳を輝かせていた。


「兄さんとしてはどうだったんだい?春の披露会ももちろん聴いていたんだろう?」


「春はちょうど陛下の護衛だったからね。そこまで聴き入ってはいなかったさ」


 ちなみに今日は護衛役として陛下の傍にいるわけでなく、毎年夏の披露会には必ず王都にやって来る弟と共に一貴族として足を運んでいる。

 弟との会話をしながら彼女を見つめていると、やがて見習い楽師達の演奏が始まった。

 初めは荘厳に、やがて緩やかになりながらも合わせられた音は、見習いといえども宮廷に出入りするだけのことはある。


「ふむ」


 時折弟は顎に手をやり真剣な表情で様々な奏者を観察している。

 技量を見極め、あるいはその技術を学ぶ姿勢はハーヴィスト家ならではのものと言える。

 さらに言うなら、弟は今後の伸び代のありそうな者へと声掛けを始める算段をつけているに違いない。


 やがて曲は各奏者への独奏へと転じる。

 見習い達は見せ場と勢いづき、時に力強く、時に堅く奏者の心を映し出していた。

 彼女の番はいつだろうかと期待に胸を膨らませることしばし――待ちに待った彼女の独奏が会場に響き渡った。


 ああ、これだ。


 私は待ち望んだその音に激しく高揚した。

 高く遠く、舞い上がるような軽やかな音色はいつにも増して美しく、嬉しい、楽しいといった奏者の心がより音に翼を与えているようだった。

 他の観客達の中には楽器の音の悪さに顔を顰める者もいたけれど、そんなものは私には全く関係がなかった。


「あのヴァイオリニストは弾くことが楽しくて仕方がないのだろうね」


 披露会が終わった後、弟は彼女のことをそう評した。


「楽器の質が悪いけれども、技量はおそらくうちの楽師達にも劣らない。上質のヴァイオリンを渡せばいいだけのものを、春の披露会でなぜ取り立てられなかったのか理解に苦しむね」


「それは私も同感だよ」


 これで取り立てられなかったら、弟は容赦なく引き抜くだろう。

 そうなると王宮で聴くことは叶わなくなる為、残念である。

 今回の披露会で正式に取り上げられることを密かに願っていると、弟がかすかに笑った気がした。


「最近兄さんは色気が増しているって聞いていたんだけど」


「色気?」


「そう。王宮ではちょっと有名だって聞いたよ。あのアントン騎士が更に色っぽくて格好良くなったってね」


 冗談交じりの弟の言葉に、私は数ヶ月前の陛下を思い出した。

 そういえば似たような事を仰っていた。


「先日も王都住まいの友人に聞かれたよ。アントン騎士はあんなに魅力たっぷりなのにどうして誰とも結婚しないのか、とね」


 理由なんて一つである。伴侶を一人、遺しては逝きたくない。

 けれどもそれは誰にも告げてはならない。心配をさせたくはない。

 故にいつもの返答を口に出す。


「運命の音が見つからなくてね」


 身を焼くほど焦がれ、全力で添い遂げる相手。何にも変えがたい、愛しい存在をハーヴィスト家ではそう呼んでいた。

 夢を追い求めて跡を継がずに騎士となり、理想を求めて恋を待つ。

 私はロマンチストとして振る舞うことで全てをやんわりと受け流していた。


「出逢いばかりは私にもどうすることもできない」


 大げさにため息をついてみせれば、弟は片眉を上げた。


「へぇ?既に会っているのに気付かないということもあるのでは?」


「私は鈍感なつもりはないのだがね」


 おどけてみせれば、弟はやや考える素振りを見せた。


「ともあれ、素敵な女性を見つけたら何が何でも手に入れてほしいよ。こちらには事後でも何でも構わないから、逃げられないように捕まえて、真っ先に婚姻を結んで覆い囲ってしまって?」


「まるで誘拐の後に監禁しろと言っているようだけど?」


 物騒な言い回しをして揶揄してみせれば、弟は肩をすくめた。


「とにかく頼むよ。いつまで経っても兄さんが一人身なんて、心配でしょうがないんだ」


「運命の音に出逢えれば考えるさ」


 まずは出逢わないことにはね、と流せば弟も頷いた。

 そうして披露会場を出て子爵家の馬車を見つける。


「さて、今年はもう収穫がなさそうだから早々に帰るとするよ」


 馬車を背に弟ははっきりとそう宣言した。

 いつもであればしばらくは王都に滞在し、見込みのありそうな見習いの行く末を確認、時には引き抜いて水の都へと帰るのだけれども。


「誰も眼鏡には適わなかったかな?」


 あのヴァイオリン奏者は弟も技量を認めていた。だというのに、収穫がないとは意外な言葉だった。

 すると弟は意味ありげに笑った。どこかいたずらを仕掛ける時のような表情である。


「別の意味での収穫はありそうだからね。楽しみにとっておくことにするよ。それじゃ、また」


「ああ。王都に来る時は声をかけておくれ」


 一体何の収穫か、気にはなったけれどもこういう時の弟は絶対に口を割らない。

 私は諦めて弟を見送るのだった。


 そんな夏の披露会。

 そこでどうやら彼女は正式に宮廷楽師としてとりたてられたようだった。

 やはり彼女の腕を見込んだ者は少なくなく、音楽愛好家達の強い要望が出たのだろう。

 早い時間に仕事が上がれば必ずあの空間に足を運ぶ私は、それを楽器が変わったことで察した。

 宮廷楽師として取り上げられると初めの一度だけ宮廷楽師の証を刻まれた上質な楽器を与えられる。

 今までの練習用のヴァイオリンを下げ、新しい相棒となったヴァイオリンを弾く彼女はその調べに喜びの感情を乗せていた。

 純粋で真っ直ぐなその感情は若く、眩しいほどの光を湛えているようでもあった。

読んでいただきありがとうございます。

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