愛されない方法
「上手に人を愛せないの」
彼女はそう言って、僕にキスをした。身体に痺れが走るほど、卓越したキスだった。
雨が降っている。淡々と途切れの無い長雨。こういう日は昼間でも町が静かだ。車の通り過ぎる音、子供の騒ぎ声、犬の鳴き声。人の営みによる音が、全部雨に吸い取られていくような気がする。だから僕の住むアパートの真下で行われている、彼女と誰かのやりとりも、無声映画のように現実味がなかった。
時間にして十五分ほど。誰かは彼女に一方的に言い募っている。何が悪かったんだ。大切にしたじゃないか。俺達上手くいってたじゃないか。というような内容を言い方を変え、あるいは全く同じ言い回しで訴え続けていた。
彼女は反対に時間を追うごとによろめく男へ一言、ごめんなさいと言ったっきり困ったように目の前の男を眺めていた。目は、男の様子よりも雨を追っていた。その様子に堪りかねた男が訳の分からないことを言いながら走り去った。彼女は小さくため息をつき、濡れた髪を掻きあげた。
「寒く、ありませんか?」
僕が上から声をかけると、少し驚いたようだが、すぐにこう言った。
「熱いコーヒーと、上質なタオルがあったら素敵ね」
身に着けている白いシャツが水に透け、唇が水滴で濡れていた。
僕は用意しておいた比較的さわり心地の良いタオルを彼女に手渡し、カセットコーヒーを丁寧にドリップした。淡いピンクのマグカップは、昨年のホワイトデーにあげたもの。
「どうぞ」
僕は机の上にコーヒーを置いて離れようとした。彼女は離れ行く僕の腕を絡めとって指先にキスをした。
(ありがとう)
声を出さずに唇でそう囁いた彼女を、僕は少し疎ましく思った。まつげにまだ雨が残っていて、ひどく潤んで見える。
「今度の彼は何が気に入らなかったんですか?」
文句なしの上目使いを無視されたのがつまらないのか、ちょっと唇を尖らせて言った。
「いい人だった。何が良いってタイミングが絶妙なの。いつもより少し早めに帰れて、逆に手持ち無沙汰なときとかに電話すると必ず来てくれたり。しかも甘い目の飲み物もちゃんと準備して」
僕は無言で戸棚から砂糖とチョコレートを取り出した。あら、催促するつもりじゃなかったのに。と言いながら彼女はクスクス笑った。
「連れて行ってくれるレストランも、私好み。小さいけれどちゃんと丁寧に作った料理を出してくれるフレンチだったり、高級なホテルのお得なランチだったり」
あそこのワインがまた、格別なの。真昼に飲む赤ワインは、透き通ってすごく綺麗。そう言いながら、彼女はコーヒーを飲んでいるはずなのに、頬をかすかに赤らめた。
「外見も、あなた好みだったじゃないですか。背が高くて、育ちがよさそうで」
僕は何が気に入らなかったのかを聞いたはずなんだけどな、と思いながら相槌を打った。
「そうなの、結構良い男だった。鼻がすっと高くって、笑うとくしゃって目尻にしわが寄るの。それにね、指が長くって。いいんだなぁ、これが」
ふふふ、と意味ありげに笑って、持っていたタオルをくるくる巻いた。それをまた広げて、その中に顔をうずめた。
「大事にしてくれた。それに私をすごーく好きだったみたい」
そりゃそうだろう。大の男が雨の中泣きながら女にすがるには、強い思いがないわけが無い。もてるだろうに、いつもは自信に満ちた背中であろう彼の、しょぼくれた後ろ姿。つい先ほどまで繰り広げられていた無声映画を思い出しながら、僕は窓の外を眺めた。雨の匂いが鼻先をくすぐる。静寂を守るような雨音の合間に、彼女のすすり泣く声が混ざった。
「また、手を離しちゃった。大好きだったのに、本当は」
涙声でそういう彼女に見えないように、僕は密かに口を歪めた。自分でも、人の悪い顔で笑ったんだろうなというのが分かった。
馬鹿なヤツ。この女に好かれる努力をしたって無駄なのに。どんな気遣いも、優しさにも不安を感じる繊細な女。奔放さを必死で繕っている。そのことに気付かなかった時点で、お前の負けは決まってたんだ。
「シュウは、私を好き?」
後ろから抱きつきながら、彼女は聞いた。
「僕はあなたにハマるような、馬鹿な真似はしない」
ことさら冷たい声音を作ってそう言うと、彼女は安心したようにさらにキツく抱き着いてきた。僕はこみ上げる充足感を悟られないように努力しながら、心の中でこう付け足した。
それを隠せないような弱い思いで、あなたのそばに居るわけじゃない。僕はあなたに愛されないために、出来る努力を惜しまない。
僕は彼女の、寂しさを紛らわすためのキスを待った。ぐっと歯を食いしばって。強烈な執着を飲み込んで、待った。




