物扱いされるのはいまに始まったことじゃない
「彼女のね、元気なところが好きだったんだ。私にはない要素だからね」
なぜか俺の髪を梳かしながら、王子サマはそんなことを言った。
カレンが初めてこの部屋――王子サマの自室だ――を訪れてから、数日が経っていた。つまり、王子サマの失恋からってことだ。
「嘘だー、あんたじゅうぶん元気じゃん。俺かなりふりまわされてる気がする」
ベッドの端に腰かけて、後ろの王子サマに抗議する。
「そうかな?」
「そうだよ! んで?」
のけぞるようにして振り返ると、王子サマは櫛を持つ手を止める。
「うん。馬に乗ってるところや、活気に溢れたところや、強いところかな……惹かれたのは」
「まるで男じゃん、それ」
げえ、と顔をしかめて、カレンに失礼だぞ、と注意をする。
「うんそうだね。でも一番の理由は、女であるということのハンデを乗り越えて、自分の望みの職についてしっかり生きてるってことかな。それはすごく素晴らしいことだ」
穏やかな笑みが、王子サマの口元に浮かんでいる。
「確かにかっこいいよな」
それには俺も同意する。すると王子サマはまるで自分のことのように嬉しそうにふふ、と笑った。
「私の宝物……あと少しだけ、私のそばにいておくれね」
王子サマが再び髪を梳かしはじめながら、そんなことを言った。
「へえー少しでいいんだ?」
それに対して俺は軽口をたたきながら、頭をもとの正面向きに戻した。
その視線の先で、扉が開く。
入ってきたのはいつもの如く、エルランド書記官様だった。
「まーた王子サマに用事? 午前中にもきたじゃんか」
この人に敬語を使わなくなったのはいつからだっけ?
そんなことを頭の端で思いながら、俺は声をかけた。
「君には関係ないことでしょう。……とはいえ、今回はそうでもないですね。王子にではありません。君にお話があります」
俺の軽口にもたいして反応せず、エルランドは冷静な口調でそう告げた。
俺と王子サマは予想しなかった答えに顔を見あわせた。
俺に用って……書記官様が? 珍しい。
「わたしの部屋の方でお話します。王子はそろそろ薬のお時間ですので」
それだけ言うと、くるりと向きを変えて部屋を出て行った。と同時に、外で控えていたのか侍女がワゴンに薬と軽い菓子類を載せて入ってくる。
冬に入ってから王子サマは薬を飲みはじめた。昔からそうだったらしい。「苦いから好きではない」と愚痴をよくこぼしていた。
振り返るとやはり、むすっとした顔をしていたので俺はふきだしてしまった。
「なんだい?」
そんな俺を怪訝に見つめ返す王子サマに、俺は彼がいつもそうするように、相手の頭に手を置いてぽんぽんと軽く叩いてやった。
「ちゃんと薬飲めよ。苦くても」
くくっと笑って、それから俺は部屋を出た。
後ろでゼランダが驚いた顔で頭に手をやるのは、侍女だけが見ることとなった。
++ ++ ++ ++ ++ ++
「ヘイラー家の家令から君に帰って来て欲しいとの願い出を受けました。どうやら外遊中だった後見人が戻ったようです」
エルランドの自室で俺は淡々と語る彼の話を聞いていた。
「後見人?」
初めて聞く内容に俺は少しとまどいながら、聞き返した。
「ええ。君はまだ弱冠十二ですから、当然といえば当然でしょう。これはヘイラー卿……君の祖父のロゼフ様がお決めになったことです。お亡くなりになるとき彼が外遊していたので、戻るまでの間、君を城へ仕えに出したんです」
そんなことは聞いてない。初耳だ。
困惑したために黙りこんでいる俺を、彼は何を勘違いしたのか余計な補足をしてくれた。
「ああ、財産目当てとかそういった野心の持ち主ではないことは保証します。彼も以前は城へ仕えていた者ですからよく知っています。出来た方ですよ。安心なさい」
そんな、財産目当てに後見人になる奴がいるほどうちは潤ってないっての。
やっぱりこれは嫌味なんだ、きっと。くそっ。
「………それはいいとして、そしたら王子サマの相手はどうするんだ?」
俺が気になっているのはそこなのだ。
その問いに対して、エルランドは用意していたような答えを返してきた。
「それは心配要りません。もともと君が来る前から世話役はいましたし、君がいなくなったからといって大して困ることもありませんから」
さらっとムカつくことを平然と言ってくれた。
あーそうですかっ! どうせ俺は何の役にも立ってませんよ! 出来ることといったらあんたを怒らすことぐらいだったしな!
心中で思いっきり悪態をついてから、俺はようやく口を開いた。
「んで、このことは王子サマも知ってるんだろ?」
単なる疑問系ではなく、肯定疑問で問いかけると、エルランドがほんの少し目を瞠った。
「そうですが……」
何でわかったんだ? という顔をしていたので俺は説明してやった。
腑に落ちない点があるので少しだけ唇がとんがる。
「だってあんたが俺を呼びに来たとき、王子サマが何にも訊かなかったから」
「それだけですか?」
「決め手はあれだな。王子サマの部屋じゃなくて、ここで話をするって言ったのに、あいつが異議を唱えなかったこと」
王子サマを「あいつ」呼ばわりしたときに目の前のエルランドのこめかみがぴくっと動いた。
「いっつもひっついてくる王子サマが全く反応しないからさ、なんかあると思ったわけ」
ため息と共にそう締めくくる。
すると前方からふむ、とエルランドが頷くのが聞こえた。
「王子の言うとおり、確かに勘は冴ているようですね。これはやっかいだ」
たぶん絶対褒めてない呟きに、俺はむかっときて顔をあげた。
「ところで話は以上です。こちらは君がヘイラー家に戻ることに何の異存もありません。君の用意が出来次第、戻って結構です。王子も承諾済みですから」
口を開こうとする前に、すらすらと彼が話を終わらせてしまった。
だが、最後の一言に俺の我慢の限界がきた。
「なんなの、それ、承諾済みって! 俺の知らないとこで、二人してさっさと決めちゃったんだ? 勝手に人を自分の小間使いにさせといて、解雇するときはそんなにあっさり捨てるわけ、あの能天気サマは!?」
「ちょっ……能天気サマとは何事です!? なんなんです、その失礼な呼称は! 無礼にも程がありますよ!」
俺の爆発にエルランドもキレる。
「無礼はそっちだろ!? 何の通告もなく、いきなり解雇でもうこなくていいってことだろ? 散々ふりまわしといてっ……!」
そこまで言って、悲しくなった。
王子サマが納得済みってことが、すんごく痛い。
あれだけ人のこと宝物とかなんとか言って引っ張りまわしたんだぞ? 少しでも離れてると、おろおろして城中探し回る勢いだったのに、こんなにあっさりとなんで承諾しちゃうわけ?
それっぽっちの存在だったの? 俺って。
なんだかんだ文句言いながら、でも俺は王子サマのこと嫌いじゃなかったのに。王子サマは違ったってことかよ。やっぱりからかわれてただけなのかよ。
「ひっでえ……人を物みたいに……!」
キリキリしはじめた胸を片手でつかみながら、そう言ったとき、俺はようやく自分の本心に気がついた。
俺はきっと、寂しいのだ。王子サマと離れるのが。
ひっついてくるあいつをひっぺがしながら、でも一緒にいるのが楽しかった。あいつの笑ってるところを見るのが嬉しかった。
俺はまだ、あの寂しがり屋と一緒にいたいのだ。
「物扱いされるのはいまに始まったことじゃないでしょう?」
呆れたような声音が、そっと降ってくる。
衣擦れの音がして、エルランドが俺の前に膝をついたのがわかる。
ちょうど視線があうくらいになって、よく見ると相手は困ったような表情をしていた。さっきの言葉も失礼な内容とは裏腹に、ひどく優しい声だった気がする。
「王子は別に、君が嫌いなわけではないよ。彼もわたしが報告したときつらそうな顔をしていた」
穏やかな物言いに驚く。
この人ってこんな喋り方したっけ……?
「君はヘイラー家の立派な当主なんだ。いつまでも城で働いているわけにはいかない。わかるだろう? 君の家では君を必要としている人たちがたくさんいるんだ」
俺はハッとした。
この数ヶ月で忘れかけていたけど、俺はヘイラー家の跡取りで、いつかは家へ戻るんだ。
ずっと城にいるわけにはいかなかったのだ。最初から。
なぜか王子サマといるうちに、このまま城で働いていられたらいいと思っていた。
初めは面倒くさいと思っていたけど、いろんなことを知って、いろんな人と出会って、毎日が楽しかった。王子サマがいたから。
祖父の死の悲しみも、たぶん王子サマが始終ちょっかいを出すお陰で日々薄らいでいったんだ。
こんなにも、助けられていた。
でも、戻らなきゃならないんだ……。
「……わかったよ。年内には家へ戻ることにする」
たしかに、俺の実家では、俺を必要としてくれる人がここよりはたくさんいるのだ。
俺の返答にエルランドは少しだけすまなそうな顔をして、あの人みたく俺の頭に手を載せた。ぽん、と一回だけ。
俺ってやっぱり、まだまだ子供なんだ。
その実感が痛くて痛くて、俺は涙が相手に見えないようにうつむいた。
しばらくそのままでいたけど、エルランドは何も言わずにいてくれた。